1: 猪苗代新幹線 ★@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:21:09.22 ID:???0.net
関ヶ原の戦い(1600年)で、主家の毛利氏とともに西軍に属した吉川氏が徳川方に寝返った経緯や
背景を記した古文書が、岩国市横山の吉川史料館で開催中の「吉川氏の関ヶ原展」で展示されている。

徳川家康らの東軍と石田三成らの西軍が激突した関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将として
大坂城に入城。これに対し、吉川広家は毛利氏の領土安堵あんどと引き換えに参戦しないとした密約を
家康と交わし、東軍を勝利に導いた。

古文書は「吉川広家自筆覚書案」。翌年の1601年に広家が輝元に宛てて書いたとされる。この中で
広家は「日本中が二つに分かれて戦うのは無謀なこと」とし、当時の情勢について「有力大名は
ことごとく家康側に属している。万一、戦いに勝ったとしても、政治の実権は(石田三成ら)
奉行衆に握られる」などと説明している。

同館の原田史子学芸員は「家康の軍事、政治力の強さに加え、経済的に苦しく、まとまりを欠く毛利家の
内情など複数の要素を考え抜いた結果、広家は参戦しない道を選んだのではないか」と話している。
同展では、黒田官兵衛が広家に宛てた書状や、広家所用のかぶとや具足なども展示している。

9月15日まで。水曜休館。

ソース:読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140728-OYS1T50077.html
no title


2: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:22:46.55 ID:ZQppknmZ0.net
寝っ転がって転がる課程を記した暇人の話かと一瞬思ってしまった

8: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:29:07.42 ID:SH7FRg120.net
>>2
自分の赤ん坊の初めての寝返りは記録に残す人も少なからずいると聞く。

3: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:22:49.84 ID:uPgwoBG00.net
寝違えたのか

4: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:24:33.09 ID:m/A+9tTk0.net
寝返りの原因は暑くて寝不足だったんだろ

5: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:25:31.86 ID:m5KRXult0.net
毛利の空弁当…
不戦なら無罪、になるわけねーだろと徳川に領地削られることになって
寝返り先導者の吉川は戦後に土下座外交しまくったんだよな
宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける毛利氏の去就にまつわる故事。略して「空弁(からべん)」とも。
関ヶ原の戦いで、毛利軍は家康本陣の背後にある南宮山に布陣した。秀元は南宮山を降りて徳川軍の背後から攻撃するつもりであったが、先陣を務める広家が出撃に反対して道を空けないため動けずにいた。
毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今、兵に弁当を食べさせている」と答えた。そこから秀元の官位(参議。唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。

6: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:26:54.15 ID:F0GsYC/X0.net
お江です
58歳です
ドモホルンリンクルを使っています

7: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:28:15.38 ID:Elgg8Mozi.net
領土安堵あんど

9: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:29:52.73 ID:QMkHUMtz0.net
毛利 「だが、宇宙飛行士なら我らが先陣を切ったぞ。」

10: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:32:05.04 ID:XiJ6GBm60.net
結局はこの人の土下座のおかげで毛利家は何とか周防長門の2か国は安堵された。
しかし、これらの行動に影響された長曾我部家などは取り潰しにあっているし毛利家の馬鹿の二大筆頭だろ
小早川秀秋とともに 秀秋はまだ他家からの養子だったとはいえ主家を裏切った人物として多分不遇な人生を歩んだろうな
良く知らないが

18: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 14:39:39.49 ID:te43Kkg40.net
>>10
頭おかしくなって早死にしたとか
岡山に移った秀秋は居城岡山城を改築するとともに、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めたという。 しかし、間もなく家老の稲葉正成が出奔し、同じく家老の杉原重政が村山越中守に斬殺されるなどの事件も起きている。そして、秀秋自身も関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)に早世した(享年21)。この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説がある。

11: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:39:11.14 ID:VX15rpc10.net
実は小早川よりもこいつの行動が一番に意味不明なんだよな
毛利の為にとやってるが領地減らされとるし

12: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:39:24.92 ID:njxxs83Z0.net
三成嫌われすぎワロタwww
本領安堵とかよりも、西軍勝ったらますます三成が増長するのが気に入らないって感じだな。

21: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 15:17:21.94 ID:Ez9rgMp80.net
>>12
潰れそうな国や会社でも派閥争いがおさまらないようなものだな

13: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:39:47.58 ID:5avTozCs0.net
元就があと30年くらい生きてたらどうなったんだろ

14: こんにちはネトウヨです@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:57:27.42 ID:LbCO+v4zi.net
>>13
輝元が鬱になって子孫残らずお家騒動。

15: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 13:58:45.28 ID:SqAnlv9X0.net
先代の三遊亭円楽は末裔なんだっけ?

17: こんにちはネトウヨです@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 14:02:26.88 ID:LbCO+v4zi.net
>>15
経家のね。毛利系じゃないはず。
吉川 経家(きっかわ つねいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。吉川経安の嫡男。本姓は藤原氏。石見吉川氏当主。

19: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 15:00:32.72 ID:n0ingqkj0.net
吉川には加封の行賞案があったのを、本家に義理立てて蹴ったんだよなー。
西軍の列候が主体的に戦わない姿勢を内側から見ているのだから、
判断としても結果論としても正しかったんじゃないの。

20: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 15:00:37.29 ID:VX15rpc10.net
狂死にとか嘘だから
小早川に限らずに徳川政権の初期は大名家当主がやたらの変死しまくってる

さて原因はなんだろね

23: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 20:52:21.80 ID:mDwXoo4q0.net
>>20
鯛の小骨

24: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 21:34:18.21 ID:98TMdtqC0.net
>>20
真っ先にぬっ殺されそうな仙台のお方が天寿を全うしてますが?

26: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 22:37:03.74 ID:v9V11CAm0.net
>>24
警戒心強すぎて、暗殺とか絶対無理そう・・・

22: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 20:42:12.05 ID:RES/GP+70.net
島津の戦後外交みたいにひたすら低姿勢で弁解・恭順しながらも
ちらりと開き直り焦土全面抗争をちらつかせて本領安堵を勝ち取る
ことができたろうに…
毛利がその姿勢を見せたら上杉・長宗我部・真田・立花らも真似る筈。

そのためには関ヶ原で島津ばりの勇猛ぶりをみせつけてく必要があるが、
そもそも毛利輝元は総大将なら大坂城に引きこもらず、八歳の秀頼を神輿として前線に
連れてゆくべきで、大坂城の留守は豊臣出身の小早川秀秋の方が適役だろ。

>万一、戦いに勝ったとしても、政治の実権は(石田三成ら)
奉行衆に握られる」などと説明している。

五大老の1人で三成の6倍の大大名がなんという敗北主義。

25: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/28(月) 22:05:51.48 ID:WlQezV+e0.net
徳川が約束を守らなかったから250年後に倍返しの復讐劇へ

27: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/07/29(火) 02:27:54.39 ID:edI6lVDM0.net
親父は秀吉嫌いだったよな
吉川元春
天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。

引用元: 【文化】寝返りの経緯を記した吉川広家の古文書展示[14/07/28]