
1: ◆sRJYpneS5Y 2015/01/17(土)16:01:06 ID:???
「悲運」という言葉がこれほど似つかわしい大名はいない。長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)。
土佐22万石の跡目を継いだ翌年の慶長5(1600)年に起きた天下分け目の関ケ原の戦いで、
徳川家康率いる東軍にくみする方針を立てながら、手違いから西軍に回って敗軍となり、領国を没収され
〝牢人〟に。豊臣方についた慶長20年の大坂夏の陣で対峙(たいじ)したのは、旧家臣が多く召し抱えられた
藤堂高虎隊だった-。悲運の人生は斬首で幕を下ろすが、最期まで再起の夢を捨てない意地をみせた。(川西健士郎)
盛親は土佐を統一した長宗我部元親(もとちか)の四男。長男・信親(のぶちか)が戦死すると、
元親は次男・親和(ちかかず)、三男・親忠(ちかただ)を飛ばして、盛親を跡目に据える方針を決める。
慶長4(1599)年、元親の死とともに大名となった。
翌年の関ケ原の戦いでは当初、東軍に味方する方針だったが、家康に密書を届けることに失敗。西軍につかざるを得なくなり、
まともに戦わないまま敗軍に。さらに兄の親忠を自殺に追い込んだとして家康の怒りを買って領国を没収され、
「牢人大名」と呼ばれる身に転落した。
京都・相国寺の近くに閑居。牢人生活14年を経た慶長19年、徳川方と豊臣方が衝突した大坂冬の陣では、
豊臣秀頼から「大坂方の勝利の暁には土佐一国を拝領する」と打診を受け、集結した元家臣ら大軍を率いて大坂城に入った。
剛毅(ごうき)な牢人大名が真価を発揮したのは翌年の5月6日、夏の陣で屈指の激戦として知られる
八尾・若江の戦いだ。豊臣家重臣の木村重成とともに主力軍勢で徳川方の藤堂高虎隊と激突。高虎隊には皮肉にも
旧家臣や幼なじみらも参戦していたが、家老6人を倒すなど壊滅寸前に追い込んだ。
この戦いについて、八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「高虎隊に勝つことだけを目的とした戦い方ではなかった」と語る。
根拠は江戸時代の古地図を分析して見えてきた両軍の進軍経路だ。
「一帯は湿地帯だったため、両軍は馬1頭がやっと通れる道を進んだ。盛親隊は2手に分かれ、1手は高虎隊に、
主力は家康のいる北東方向に向かったと考えることができる」
家康に狙いを定めていた盛親。だが、徳川方の井伊直孝隊が援軍に駆けつけたため形勢逆転。重成も戦死して味方が敗走を始めた。
「なるほど存分に勝つことができたが、そのときすでに味方は総くずれになっていたとは、なんというおかしさだろう」。
司馬遼太郎の小説「戦雲の夢」の主人公、盛親は自嘲するように笑った。
翌日、大坂城が炎上すると京都へ逃走するも途中の八幡で捕らえられる。「出家するから」と命ごいまでしたとされるが、
京の六条河原で斬首された。
生に執着した真意は何だったのか。自害しなかったことを嘲(あざけ)る徳川方の将兵にこんな言葉を残した。
「命と右の手さえあれば、家康や秀忠を同じ目にあわせられた」「折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」…。
享年41。最期は死に臆することなく、立派な態度で処刑に臨んだという。
>>2へ
土佐22万石の跡目を継いだ翌年の慶長5(1600)年に起きた天下分け目の関ケ原の戦いで、
徳川家康率いる東軍にくみする方針を立てながら、手違いから西軍に回って敗軍となり、領国を没収され
〝牢人〟に。豊臣方についた慶長20年の大坂夏の陣で対峙(たいじ)したのは、旧家臣が多く召し抱えられた
藤堂高虎隊だった-。悲運の人生は斬首で幕を下ろすが、最期まで再起の夢を捨てない意地をみせた。(川西健士郎)
盛親は土佐を統一した長宗我部元親(もとちか)の四男。長男・信親(のぶちか)が戦死すると、
元親は次男・親和(ちかかず)、三男・親忠(ちかただ)を飛ばして、盛親を跡目に据える方針を決める。
慶長4(1599)年、元親の死とともに大名となった。
翌年の関ケ原の戦いでは当初、東軍に味方する方針だったが、家康に密書を届けることに失敗。西軍につかざるを得なくなり、
まともに戦わないまま敗軍に。さらに兄の親忠を自殺に追い込んだとして家康の怒りを買って領国を没収され、
「牢人大名」と呼ばれる身に転落した。
京都・相国寺の近くに閑居。牢人生活14年を経た慶長19年、徳川方と豊臣方が衝突した大坂冬の陣では、
豊臣秀頼から「大坂方の勝利の暁には土佐一国を拝領する」と打診を受け、集結した元家臣ら大軍を率いて大坂城に入った。
剛毅(ごうき)な牢人大名が真価を発揮したのは翌年の5月6日、夏の陣で屈指の激戦として知られる
八尾・若江の戦いだ。豊臣家重臣の木村重成とともに主力軍勢で徳川方の藤堂高虎隊と激突。高虎隊には皮肉にも
旧家臣や幼なじみらも参戦していたが、家老6人を倒すなど壊滅寸前に追い込んだ。
この戦いについて、八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「高虎隊に勝つことだけを目的とした戦い方ではなかった」と語る。
根拠は江戸時代の古地図を分析して見えてきた両軍の進軍経路だ。
「一帯は湿地帯だったため、両軍は馬1頭がやっと通れる道を進んだ。盛親隊は2手に分かれ、1手は高虎隊に、
主力は家康のいる北東方向に向かったと考えることができる」
家康に狙いを定めていた盛親。だが、徳川方の井伊直孝隊が援軍に駆けつけたため形勢逆転。重成も戦死して味方が敗走を始めた。
「なるほど存分に勝つことができたが、そのときすでに味方は総くずれになっていたとは、なんというおかしさだろう」。
司馬遼太郎の小説「戦雲の夢」の主人公、盛親は自嘲するように笑った。
翌日、大坂城が炎上すると京都へ逃走するも途中の八幡で捕らえられる。「出家するから」と命ごいまでしたとされるが、
京の六条河原で斬首された。
生に執着した真意は何だったのか。自害しなかったことを嘲(あざけ)る徳川方の将兵にこんな言葉を残した。
「命と右の手さえあれば、家康や秀忠を同じ目にあわせられた」「折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」…。
享年41。最期は死に臆することなく、立派な態度で処刑に臨んだという。
>>2へ
2: ◆sRJYpneS5Y 2015/01/17(土)16:01:09 ID:X96
>>1より
明治維新で家名復活
「長宗我部家にとっては大きな不幸をもたらした暗君」。一国の将としての盛親に厳しい評価を下すのは、長宗我部の名と
血筋を継ぐ友親(ともちか)氏(72)だ。
長宗我部の本流は盛親の死によって絶える。代わって故郷の土佐で家を継いだのは盛親の叔父、親房(ちかふさ)。
友親氏は親房から数えて17代目の子孫となる。
共同通信の元記者で経済部長なども務めた友親氏。退職後、先祖の歴史を掘り起こす調査を行い、
成果を著書『長宗我部』(文春文庫)にまとめた。
長宗我部家は秦の始皇帝を遠祖とし、聖徳太子の側近、秦河勝を祖先に持つ渡来系の名家。著書は2千年に
及ぶ歴史をたどる内容で、戦国時代の四国の覇者、元親の章に付けたタイトル「中興」に対し、盛親の章は「暗転」だ。
「盛親には一国の将としての覚悟と実行力が不足していた」と論じる。
友親氏によると、盛親によって先祖が背負うことになった辛苦は、親房の子、五郎左衛門に始まる。
盛親とともに大坂夏の陣の八尾・若江の戦いに参戦した後、山内氏が関ケ原の戦いの功で長宗我部氏に代わって治める土佐に帰国。
山内の家臣を上士、長宗我部の遺臣を下士とする徹底した身分差別の中、一族の誇りを失わず、
あえて長宗我部の血筋と名乗り出たため入獄させられる。
「『心庵宗無居士』という五郎左衛門の戒名を発見したとき、長宗我部の『宗』の字を中央に入れ、
心を無にして家名存続のためのみに生きた人生が迫ってきた」と友親氏。息を殺すような雌伏の時は11代にもわたった。
続き 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n1.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n4.html
明治維新で家名復活
「長宗我部家にとっては大きな不幸をもたらした暗君」。一国の将としての盛親に厳しい評価を下すのは、長宗我部の名と
血筋を継ぐ友親(ともちか)氏(72)だ。
長宗我部の本流は盛親の死によって絶える。代わって故郷の土佐で家を継いだのは盛親の叔父、親房(ちかふさ)。
友親氏は親房から数えて17代目の子孫となる。
共同通信の元記者で経済部長なども務めた友親氏。退職後、先祖の歴史を掘り起こす調査を行い、
成果を著書『長宗我部』(文春文庫)にまとめた。
長宗我部家は秦の始皇帝を遠祖とし、聖徳太子の側近、秦河勝を祖先に持つ渡来系の名家。著書は2千年に
及ぶ歴史をたどる内容で、戦国時代の四国の覇者、元親の章に付けたタイトル「中興」に対し、盛親の章は「暗転」だ。
「盛親には一国の将としての覚悟と実行力が不足していた」と論じる。
友親氏によると、盛親によって先祖が背負うことになった辛苦は、親房の子、五郎左衛門に始まる。
盛親とともに大坂夏の陣の八尾・若江の戦いに参戦した後、山内氏が関ケ原の戦いの功で長宗我部氏に代わって治める土佐に帰国。
山内の家臣を上士、長宗我部の遺臣を下士とする徹底した身分差別の中、一族の誇りを失わず、
あえて長宗我部の血筋と名乗り出たため入獄させられる。
「『心庵宗無居士』という五郎左衛門の戒名を発見したとき、長宗我部の『宗』の字を中央に入れ、
心を無にして家名存続のためのみに生きた人生が迫ってきた」と友親氏。息を殺すような雌伏の時は11代にもわたった。
続き 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n1.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170006-n4.html
3: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)16:06:18 ID:sJU
信長の野望ですぐ負ける人か
8: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)18:47:51 ID:luN
>>3
うちの先祖の河野でやると、最初の強敵
やっと倒したと思ったら、細川が...
うちの先祖の河野でやると、最初の強敵
やっと倒したと思ったら、細川が...
4: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)17:35:33 ID:hEJ
信長の野望で統一しましたがな
5: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)17:37:06 ID:kI8
長曾我部はいかん
6: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)17:51:35 ID:9fL
こういう家は多いよな
7: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)18:34:40 ID:asF
密書を届けるのを失敗するような情弱馬鹿の末路w
連絡に失敗したからって敵側に味方するか?
そんな日和見は、たとえ東軍だったとしても、福島正則や加藤嘉明みたいに改易されただろうね。
連絡に失敗したからって敵側に味方するか?
そんな日和見は、たとえ東軍だったとしても、福島正則や加藤嘉明みたいに改易されただろうね。
9: 名無しさん@おーぷん 2015/01/17(土)23:15:18 ID:1nl
やる気は人一倍あるけども空回りする人って喜劇だよねw
10: 名無しさん@おーぷん 2015/01/18(日)21:10:08 ID:Vgx
遠く離れた故郷の実家(自営業)に業務で来訪される営業マン、曽我部さんに対して毎回
「長宗我部さん」と呼びかけるうちのカーチャンは社会人としてだめだと思う
「長宗我部さん」と呼びかけるうちのカーチャンは社会人としてだめだと思う
11: 名無しさん@おーぷん 2015/01/18(日)22:06:51 ID:h6R
>先祖の歴史を掘り起こす調査を行い、成果を著書『長宗我部』(文春文庫)にまとめた。
先祖がこういう事するととんでも本が生まれる法則
先祖がこういう事するととんでも本が生まれる法則
引用元: ・【大坂の陣400年】 悲運の「牢人大名」長宗我部盛親 龍馬につながる〝執念〟 再起のためなら命も乞う [H27/1/17]
コメント一覧
兄を自殺に追い込んだってのは親直ってことになってるが実際はどうなんだろうね
まあどっちにしろ仙石が悪いってことでFA(思考放棄)
もうちょっとやり様があったんじゃまいかな面も
多々あるお人なんだよなあ
確かに長宗我部の不運は仙石が最初だったね
広家「家康に内通の話を通すのを忘れてました」
優秀だったって話だし
戸次川でも四国勢じゃなくて毛利勢が同じ状況になってたら別に大将格の討ち死にはなかったんじゃないかな
でも最近はどM武将にされているもよう
牢人集団をあそこまで指揮した八尾若江の奮戦は凄いと思う
①盛親だけが信親と母が一緒だった
②次男三男は他家に出ていたから
③信親の娘と釣り合いそうな若いのを選んだ
うーんこの無能仲間
と書けば、ある意味かなり恵まれているともいえる
九州に乗り込んで島津に勝てる大名なんてほぼいねーよ
突っ込むなって命令無視して手柄欲しさに突っ込んだ仙石が逃げる為に捨て駒にされてんだよ
宮部「一理無い」
家督継承の競争相手のお兄ちゃんがいたんだから盛親が西軍でお兄ちゃん地元で東軍活動とかいくらでも生き残りの手はあった。
もう少し長生きして関が原を迎えるか、いっその事太閤よりも早々に没して盛親にちゃんと諸大名との外交をさせるべきだった
書状が届かずにしぶしぶ西軍てのも泣ける
いずれにせよ関が原が始まる前から盛親の関与できない所で決着が付いてたってのがね
政治はまったく未知数だし
逸話やら最後やら、完全に後先考えないタイプの猪武者だぜ?
生きてても能力的には盛親と大差ねぇでしょ
戸次川って仙石が突撃したことになってるけど
実際は信親が突撃して孤立してんだよね
あんがい盛親のがましだったかもな
長曽我部盛親は大坂城入城に際し、細川家に身を寄せる秦刑部宛てたもので、「兼て孫親胤養育相成り候段御礼申入候」と孫養育の礼を述べ、「ついて此度ハ御勝敗如何と存じ候」とすでに豊家の命運つきたると洞察している。「さらに拝領ノ兼定をサシ違え候に付後來一見頼み上げ奉り候」と孫への形見を託している。(「」内の文書は京都連光寺に軸物としてある)
盛親は密かに血統を世に残し、長曽我部の名を後世に残す為、大坂城に入ったのではなかろうか。我が家の祖父は、長曽我部盛親後裔と兼定の刀を家伝に持つ、家からの養子と聞く。領地の安堵を計り徳川に味方しても、これほど語り継がれて居る者は少ない。