1: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:23:47 ID:s36Qn1c5j
しかも防御をガチガチに固めた敵に
勝頼 無能
勝頼 無能
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(ユリウス暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000と武田勝頼軍15,000との間で勃発した戦い。敗北した武田軍は甚大な被害を受けた。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。
通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべもなく殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。
2: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:24:17 ID:irsbXq7E3
昔やし、敵の情報がなかったんやろ(適当
3: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:29:37 ID:wrM18ZXJe
えげつないほどの脳筋しかおらんのやろその時代
4: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:30:25 ID:xggkQK3uD
当時最強の騎馬隊を過信したんやろなぁ
5: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:31:26 ID:E6fAoy2hn
ヤクルトみたいに自爆すればなんとかなるみたいな
6: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:32:16 ID:trnj8GHkn
実際決定打が何か解らんからね
何とも言えん
何とも言えん
7: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:34:28 ID:743ilXMkd
あれは突撃するしかない状況に武田を追い込んだ織田徳川陣営の作戦勝ちよ(適当)
26: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)01:13:34 ID:sbLm31rCq
>>7
最近の研究だと、これらしいで
最近の研究だと、これらしいで
8: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:35:09 ID:t45DcfUos
長篠?
9: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:36:14 ID:trnj8GHkn
現地見ると高台はほとんど武田の陣なんだよなぁ
10: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:37:38 ID:XAtx8kRCh
そりゃあ太平洋戦争開戦時の集団心理と同じよ
28: 名無しさん@おーぷん 2015/01/08(木)04:50:07 ID:lZD
>>10
あれは日本が色々な謀略に追い詰められた状態で
さらに日本のメディアが煽った結果
軍部もそこで国民がやる気になっているのならって
開戦に踏み切ったのだが。
あれは日本が色々な謀略に追い詰められた状態で
さらに日本のメディアが煽った結果
軍部もそこで国民がやる気になっているのならって
開戦に踏み切ったのだが。
11: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:40:49 ID:PF7VXvoYJ
武田勝頼って負けすぎだよな
12: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:43:01 ID:cJbXFGM1T
霧が悪いよ霧がー
13: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:43:57 ID:eMipJJ4jp
徳川はともかくあの時代の織田とガチで戦っても勝てるやつはいないな
14: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:46:19 ID:s36Qn1c5j
なぜか数が少ない方が奇襲されている謎
やられる前に奇襲せいや
やられる前に奇襲せいや
15: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:46:27 ID:SVLryPQwA
国力の差が既に大きかったからな
あそこで退いても滅亡するのがちょっと伸びるぐらいだろ
あそこで退いても滅亡するのがちょっと伸びるぐらいだろ
16: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:47:39 ID:MesaEp8m3
そもそも武田は過大評価や
17: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:48:39 ID:s36Qn1c5j
重臣の戦死率が異常やわ
山県、馬場、内藤、真田 みんな死んでもうた
こんな酷いの誰とは言わんが肥前の豚ぐらいしか知らんわ
山県、馬場、内藤、真田 みんな死んでもうた
こんな酷いの誰とは言わんが肥前の豚ぐらいしか知らんわ
20: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:38:07 ID:0sPLebFiE
>>17
チームがバラバラで家臣が自殺していくのを見ると
統失キリシタンの方が近いな 耳川の戦いやったか
チームがバラバラで家臣が自殺していくのを見ると
統失キリシタンの方が近いな 耳川の戦いやったか
耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」ともいう。大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。
18: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:18:56 ID:Q0LNyQ89V
一発逆転狙いの翼包囲だったんだけど、さすがにカンネの戦いみたいにはね。
19: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:23:01 ID:743ilXMkd
信玄の代で結構無理をしてたから勝頼に残された選択肢はかなり少なかったんやで
21: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:03:03 ID:2TZ2FnwBw
奥平定能「僕自身武田家を出る喜びはあった」
22: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:11:46 ID:s36Qn1c5j
勝頼の過ち
①長篠で突撃
②金に目がくらんで景勝について北条を敵に回す
この2つは無能すぎる
①長篠で突撃
②金に目がくらんで景勝について北条を敵に回す
この2つは無能すぎる
23: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:14:06 ID:9Rnngv1sW
>>22
最後に真田昌幸を頼らずに小山田頼ったも追加で
最後に真田昌幸を頼らずに小山田頼ったも追加で
25: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)00:37:00 ID:03vFTQkj7
>>23
真田もポーズだけやろ
北条に臣従しようとしてたらしいし
真田もポーズだけやろ
北条に臣従しようとしてたらしいし
24: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)23:08:47 ID:0dOL2njqE
泗川の戦いみたいな兵力差で勝ったこともあるしわからんよ
島津の寡兵を以て大を討つ戦い方はえげつないものがあるとはいえ
島津の寡兵を以て大を討つ戦い方はえげつないものがあるとはいえ
泗川の戦い(しせんのたたかい)とは文禄・慶長の役における合戦の1つ。
日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。
27: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)01:32:35 ID:QzFgiYrwO
せやけど、数百年後も自動小銃や戦車で武装した連中相手にバンザイ突撃してるんやで
28: 名無しさん@おーぷん 2015/01/08(木)04:50:07 ID:lZD
>>27
玉砕が戦闘の終結が目的だから、
戦術や米軍の装備とは関係ないのだが。
玉砕が戦闘の終結が目的だから、
戦術や米軍の装備とは関係ないのだが。
コメント一覧
結果陣城に突撃して本隊を蹴散らすしか手段がなくなっていたんだよ。
センゴクでも言われてたけど、川を渡って死地に布陣したのだけが良く解らない。
鳶ヶ巣山砦が陥落した後でないとこの行動はちょっと理解出来ない。
武田騎馬軍団の強さが伺える
・巻き返すには戦場で信長を討ち取るくらいのドデカい一発が必要
・後方の砦を落とされて退路を絶たれる
勝頼「もう(選択の余地)ないじゃん…」
なんせ信玄公がお亡くなりになる直前に全方位に喧嘩売って逝ったからねぇ・・・
あの状態から北条と仲直りできただけで勝頼は外交力もそこそこあったと思うわ
御館の乱も片割れが北条の倅だったから包囲をさける為に景勝に与するしかなかったし
勝頼はとにかく選択肢が与えられなかったって印象
西上作戦前に北条・上杉とは和睦してるから
まーた出鱈目言ってんのかよー。
信玄が死亡する時点で、既に北条とは同盟(てか西上にも北条からの援軍2千が加わってる。)だし、
他にも北陸一向宗・畿内本願寺・長島本願寺・浅井・朝倉・三好・足利等々とも同盟、
当時の武田の同盟相手を地図で塗っていけば、武田が包囲されてるとか、
全方位が敵対とかまずあり得ない事が明白にわかるのに、お前さんはなんでそう捏造すんの?
ついでに、北条と仲直りとか言ってるけど、上記のように信玄時代から既に同盟状態。
勝頼がやったのは同盟の強化。
で。御館の時の時には景勝の条件提示に欲をかかれて、自分で強化した北条との同盟をフイにしてる、と。
御館の時は、景虎が北条の倅だったから、わざわざその援助に出撃して、
景勝側の城とかもいくつも攻略しておきながら、景勝側の条件提示に欲をかかれて
景勝に肩入れする事にしたのが実態だろ。
これで選択肢が与えられなかったとかありえないだろ。勝頼は自分で判断して決定してるよ。
>・日に日に開いていく織田との国力差
>・巻き返すには戦場で信長を討ち取るくらいのドデカい一発が必要
これはなんか一部の人が誤解してるイメージなんだよなあ。
信玄死亡時と比して朝倉浅井が滅ぼされてる事でそう言ってるのかもしれないけど、
実際には朝倉が滅亡した三か月後には織田の適当統治が原因で、
越前は大混乱に陥り、そこを北陸一向宗に美味しくいただかれて、
越前は一向宗の領国になってる。で、当然の事ながら、織田はそれに対して
抑えの兵力を割いてる。長篠の時はその北陸の抑えの兵力と武将まで動員して
三万もの兵力を作り上げたわけで、信玄西上の時に合計三万近い兵力が動いてる事を考慮しても、
長篠当時の武田と織田が戦場に集結できる最大兵力はぶっちゃけそう変わりない。
実際に武田側の長篠決戦前の決戦反対派の主張は
「今回は本国に兵力を一万以上残してきてて、1万5千しかいないじゃん。
相手の方が圧倒的に多いのに、なんでこんな不利な状況でわざわざ決戦すんの?」
ってなもんで、武田としては長篠の時は徳川相手が主だったので、織田との決戦を想定してはおらず、
兵力的に差があった。だから重臣たちも「こんな不利な状況で戦う必要ないじゃん。」と
反対したわけで。ぶっちゃけ、当時の状況からして、武田としては必死こいて決戦を求める理由は
戦略的には特にない。しいて言うなら、父信玄を超える事を目指した勝頼の名誉心とか功名心が
主な理由なんじゃないかと。それまで連戦連勝で驕りもあったろうしな。
>・後方の砦を落とされて退路を絶たれる
これは信長公記ですら、「勝頼がそのまま動かなければ織田徳川としてはどうしようもなかった。」と
記される程の地形的優位をわざわざ捨てて出てきて、後方がお留守になって、
そこに迂回軍を派遣されて背後を取られた形だから、勝頼自身の判断だろ。明確に。
上杉とも?そうだったっけか…
既に和睦している相手に上洛中背後を脅かされない為に一向一揆に攻撃頼んだりしないだろ
横レスではあるが、上杉とはしてない。
正確に言うと、当時は織田が武田と上杉の和睦を進めようとしており、
※7の人はそれを言ってるのだと思う。
ただ、結局これは信玄が織田との戦端を開いた事で無しになった。
それを抜きにしたって、信玄死亡当時で武田の同盟勢力は北条をはじめとして
北陸一向宗・畿内本願寺・長島本願寺・浅井・朝倉・三好・足利等々多数いるので、
別に全方位敵というわけでもない。
※7だが上杉和睦は思いっきり間違った
いえいえ。お気になさらず。※13にもあるように、まったく違うというわけでもないですし。
いえいえ。お気になさらず。※13にもあるように、まったく違うというわけでもないですし。
全く武田が孤立してなくて草生えるw
長篠で織田主力と当たるまでは連戦連勝だったもんなぁ
地方大会でブイブイいわせてたのが全国区と当たったら木っ端微塵みたいな感じか
数年後には織田と決定的な国力差がついて
勝頼は味方の後詰もできないくらい貧窮するけど、あくまで結果論だしな
当時は単純に「勝てるわwwwwwwwwww」思ってたのかもなぁ
いや、そうじゃなくてw
そういう織田が全国区で圧倒的、みたいな認識をまず改めた方がよいかとw
1575年の長篠に至るまで、織田と武田が交戦する機会は何度かあったけど、
いずれも織田は武田という強豪相手に十分と思える程の大戦力を集中させるのに苦労してるわけ。
で、長篠の時は越前を抑えてる北陸一揆衆への備えの武将や兵力まで動員し、
やっとのことで三万の兵力を揃えたわけ。
で、武田も信玄西上の時みたいに、戦力を集めれば三万余の兵力を集められるわけで、
その精強さもあって、当時の織田と武田が全力でぶつかった場合、
どちらも三万余の兵力を動員して戦う一大決戦となったわけで、
織田にとって武田は到底見くびれる相手じゃなかったし、
現に上杉謙信も「武田勝頼率いる武田勢は畿内の片手間で対処できる相手じゃない。
一旦畿内の備えより武田を優先して対処しないと大変な事になるだろう。」的に信長に忠告してるし、
信長もそれをもっともな事だ、と認めてる。
そして長篠では勝頼が徳川だけを相手にするつもりで一万5千の兵しか連れてこなかったのに対し、
織田は北陸の抑えまで動員して三万もの兵を集結させ防御陣地まで作って備えたわけで、
ここで勝頼がよせばいいのに、無理に決戦を挑んで大敗してしまった、ってわけ。
この長篠の大勝利は信長にとって本当にうれしかったらしく、あちこちにこの戦勝を報告し、
東における最大最強の脅威であった武田勢の鋭鋒が衰え、徳川だけで相手できるようになった事で
織田の活動はそれ以前より明らかに活発化し、天下制覇に向けて躍進していく事になった、
というわけで、それは逆説的に武田の勢力が、鋭鋒が、どれだけ織田の脅威であったか、というのを
如実に示してるわけなんですね。
織田と武田の国力差と兵力差をしきりに否定しているけど、
それだけ拮抗していたのなら何で一回の負けで武田の鋭鋒はそんなに衰えたの
信長も大概負け続けてるけど、その都度立て直してる
それは国力があったからで、武田にはそれがなかったわけでしょ
勝頼のひとつの判断ミスで傾いて取り戻せないなら、それこそ国力に差があった証拠なんじゃないの
横レスだが、長篠で死んだ幹部クラスの数を全部調べろ、それで全て解決
桶狭間や耳川がお遊びに見えるレベルでヤバい
レスサンクス
主要戦死者の豪華さは知ってる
ちょっとつっかかる書き方をして悪かった
19さん、気にせんといてや
書き込み色々勉強になったで
つっかかる言い方して悪かった。気にせんといてや
河窪信実→信玄の弟、河窪家当主
馬場信春→歴戦の譜代家老
山県昌景→赤備え保有、軍・政共に武田の中枢を担う
山県昌次→山県昌景の嫡男
内藤昌豊→西上野方面司令官
高坂昌澄→高坂昌信の嫡男
原昌胤→陣馬奉行、山県と共に国政にも関与
原盛胤→原虎胤の子、原家当主
横田康景→原虎胤の子、横田高松の養子で現当主
甘利信康→甘利虎泰の子、甘利家当主
土屋昌次→信玄の近習出身エリート、土屋家当主
三枝守友→信玄の近習出身エリート
真田信綱→信濃先方衆最有力の真田家次期当主
真田昌輝→信綱の弟、二番手の当主候補
米倉重継→甲斐源氏一族、甘利家配下
禰津元直→信濃三名族の1つ禰津家当主
望月信永→武田信繁の子、信濃三名族の1つ望月家当主
小幡憲重→最有力の上野先方衆、長篠で死亡には異説有りだが小幡勢の合戦参加は確実
安中景繁→上野先方衆?国人?
和田業繁→同上
山本勘蔵→山本勘助の子
↓詳細よく分からなかった
五味貞成
名和宗安
飯尾助友
土屋直規
以上、計25名の方が一度の合戦で黄泉の国へ旅立たれたようです。
織田徳川「武田潰す武田潰す武田潰す」
武田勝頼「老臣や七光たちが親方様(信玄)は〜 先代は〜 信玄公は〜と
国政に口出してきてうざい、せや五反田川を渡って逃げれん
様にしよ〜www」
お互いwin-winやん。
志賀の陣で信長の弟と森可成
伊勢長島で信長の兄弟×2と氏家卜全
本願寺戦で原田直政
自分は浅学寡聞なんでこれ位しか分からん。他に誰かいたっけ?
その老臣と対立云々が甲陽軍鑑以外に録な証拠がないから理由として弱い
浅井の援軍に行ったけど領内の一揆や雪の不安で撤退して
織田軍に追撃されそのまま一気に本拠地まで落とされて滅んだ朝倉みたいにならなかっただけまし
坂井さんとか和田さんとか?
どっちにせよ地味やな(確信)
ただ、死んでしまったから地味になったとも言えるし、包囲網の時期に多くの家臣団が死んだのは事実だろうね
越前のことしか言ってないけど
近江浅井、山城足利、伊勢長島、大和松永、河内三好を打ち果たして雪だるま式に大きくなってる。
敵が多い分、抑えの兵がたくさん必要で、招集出来る兵はあまり変わらないが国力は段違い。
元亀の時点でも、包囲網対象の最大勢力織田と、片田舎のワンオブゼムだったわけだし。
片田舎w本当に信長好きな人って、主張に特徴があって面白いですね。
まず、当時は東国世界と西国世界で別世界のように違いがあり、それぞれで秩序や権威が存在してたわけで、
信玄や上杉、北条などは単に東国世界の住人であっただけの話で、西国世界の畿内から片田舎、と
呼ばれる筋合いは本来ないわけです。で、畿内勢による信長包囲網がうまくいかず、
東国の雄として打倒織田の切り札として呼ばれたのが武田だったわけでして。
近江浅井は1573年の時点でそれ程大きな勢力ではなくなっていたし、
山城足利、大和松永って直前まで織田側だった勢力ですから、これを倒したからって
「大きくなった」というのはどうなんでしょうかね。
伊勢長島は騙し討ちして虐殺した結果、数万人もの住民を殺す羽目になってます。
むしろ民力下がってると思われますし、卑劣な騙し討ちをした結果、
長島近隣住民に恨まれまくり、織田勢は宿を借りるのも苦慮するようになってます。
河内三好に関しては、これと一応の決着をつけたのはもろに長篠合戦の直前でして、
長篠合戦において、その影響はまずでてないかと。
というか、結局のところ、これらの勢力を倒した、といっても上記の理由や、
1573年時点の浅井がそれ程大きくなくなってる事や、足利・松永・三好もそれほど大きくはなく、
伊勢長島関連では虐殺その他から逆に民力下がってるんじゃないか、って感じですし、
旧朝倉領丸ごと離反されて乗っ取られた越前一揆の影響力と比して、
「雪だるま式に大きくなった」と言えますものか疑問です。(続く)
で、結局のところ、
>敵が多い分、抑えの兵がたくさん必要で、招集出来る兵はあまり変わらない
という所がポイントになってくるわけです。あなたが「雪だるま式に大きくなった。」と主張している、
1573年~1575年あたりの織田家ですけど、織田勢は足利・松永・三好といった勢力的に格下の相手を
打倒する事はできても、武田勢という強豪勢力が大軍で東美濃や高天神に現れると、
それに対抗するに十分な兵力を集結させるのに苦労しています。畿内本願寺や北陸本願寺、そして武田、
等々の勢力に囲まれた織田家は、当時は武田相手に十分な決戦兵力を集結させるのにも苦労する状況であり、
長篠の時の三万も北陸の抑えまで動員して無理をして集めた兵力でした。
この状況は長篠で大勝して武田勢の鋭鋒が衰え、東からの脅威から解放されるまで続いた、という事を
理解してもらえると幸いですね。あまり変わらない、どころか、武田勢に対抗十分な兵力を集結させるのに
織田は苦労していた、という状況だったわけです。
正確には、織田勢がやってきた後でも、長篠城をがっちり包囲して、周囲の地形を利用して
迎撃態勢を取ればよかったのですけどね。
信長公記にすら、「もし勝頼がわざわざ出てこなければ、織田勢は手の出しようがなかった。」
的に書いてあり、武田勢がわざわざ設楽のほうまで出てきた事が謎とされてるわけでして。
長篠城さえ攻略してしまえば、織田勢も退かざるを得なかったでしょうしね。
信長が家督継承してから、本能寺までで死亡した織田の武将達は大身から小身まで
多数にのぼりますよ。織田家の敗北数はそれこそ数十におよびますからね。
ただ、長篠程の大敗北は喫してないのが信長にはよかった感じでしょうか。
(まあ、長篠の大敗北って戦国時代を通してみても、ほとんどない位の大敗北なのですが。)
伊勢長島関連は信長の一族が10人程死亡してますし、
信長の武将達も氏家、林、賀藤などなどが死亡してますね。
他にも信長包囲網との戦いやその他の戦いで死亡した武将達はまだまだいます。
※21の人も指摘してるように、長篠合戦の大敗は有力武将を数十人も失う羽目になり、
さらには武田勢の精鋭部隊を失う事になった、という点で普通の敗北とは一線を画した存在ですね。
ただ、その武田勢も御館以降に北条との戦いでは強さを見せているので、
時間をおいてある程度回復したようですけどね。
総合的な国力にある程度の差はあったでしょうけど、それは織田が圧倒的、と言える程ではなく、
織田は武田や畿内本願寺や北陸一向宗や伊勢長島やその他、といった連中に包囲され、
武田相手に十分な戦力を集結させるのに苦労するような状況が、
長篠後で武田勢の鋭鋒が衰えるまで続いた、という事を理解して頂ければ幸いです。
誰に対して何を言いたいのかを、※番号とかで示した方がわかりやすいと思いますよ。
足利や松永は1573年の時点で織田包囲網の一員。
山城20万石と大和半国20万石合わせて、信玄領土最大国の信濃まるまる一国と同規模。
伊勢長島で殺したのはもともと敵なんだから民力に対する影響はなく、数万の敵が消えたのは大きい。
河内三好に対する抑えの兵を置く必要がなくなった影響も大きい。武田本国の甲斐と同規模。
越前も二度の支配者変遷を経て混乱期にあり朝倉支配時代よりも脅威は小さい。
時間が経つほど足利松永三好長島の旧領支配がどんどん強まり、越前の再奪取も時間の問題。
どう考えても武田はここで無理する必要があった。
はっきり言って美濃尾張の国力だけで、甲斐信濃駿河と互角以上なんですよね。
そんな事を言われましても、としかw
短期で潰された足利や松永の領域がそこまで大きいのか、という点については
とりあずおいておきましょう。個人的にはそんなに大きいなら、信玄生存時の織田に対しての
勝利可能性がより高く上昇するのでOKですがwというか、
松永って信玄が死亡して不利になったとみるや、さっさと長期の抵抗もせずに降伏してますがw
伊勢長島で数万の敵を殺した、と言っても、その数万の民を殺した事で、
確実にその土地の人口は減少してますし、卑劣な騙し討ちで長島近隣住民にも織田勢は
嫌われたりしてるので、それほどいい事でもないと思いますが。
河内三好が敗れたのは、1575年の長篠直前の事でして、河内三好が敗れた事を
武田勢が知ってたかどうかも疑問でして、勝頼の決断にも、織田勢の勢力増加にも
色々と関係してないような気がするのですが。
っていうか、河内三好の三好康長の領域が河内一国丸々なのかどうかについても、
信玄生存IFの勝率がさらに上がってくれる事なので、あえて突っ込まないでおきましょうw
越前を領国化に成功してたなら、そんな事をいわずに戦力として使えたでしょうに残念ですね。
っていうか、けっきょく織田はその越前の抑えに兵や武将を割いてて、武田に対抗する兵力の捻出に苦労し、
というのが実情でして。(続く)
で、結局の所ですね、※40に示した貴方のご主張に対する突込みをあえてスルーして、
話を進めるとしても、実際の史実としては、1573年に足利や松永がやられてる現状でも、
1574年における東美濃攻防、高天神において武田勢相手に十分と言える程の兵力の
集結に苦労してるのが現状でして。
というか、武田勢を長篠で撃破して、東側の脅威が減少し、その勢いに乗って大兵を差し向けた、
とされる越前攻めにおいては、長篠と同じく織田の主要な武将オールスターだったのにも関わらず、
その兵力は三万余だったわけで。
貴方が「越前の再奪取も時間の問題!」と言われましても、武田勢が長篠で破られ、
織田勢が東からの脅威を大いに減少し、勢いに乗ってオールスターで越前に攻め込んでも三万なら、
武田勢の鋭鋒が健在な状況なら、越前にどれだけの兵力を差し向けられたものか、極めて疑問です。
武田勢の鋭鋒が健在なままなら、上記のような感じで
史実のような総力を挙げての殲滅戦を展開する事はできなかった、
という可能性が高いと思われるわけです。(続く)
正直、これらの事を考慮すれば、長篠当時の状況で本国に兵力を多大に残し、
総動員三万余のうちの半分にしか過ぎない1万5千しか率いてない状況の勝頼が、
越前の抑えの武将や兵まで動員して無理して三万もの兵を整えた信長に決戦を挑む必要性があったとは
到底思われないわけで。現に勝頼が長篠前に行ったとされる軍議においての反対派達は、
そろって「こんな敵が多くて味方が少ない状況で決戦挑む必要ねーじゃん。」的な論旨で
兵力過少な以上、長篠城を速攻で攻略した後で川を前にあてて防御の備えを取って織田勢を防ぎ
長期戦に持ち込む事で無理に大軍を率いてきた織田勢を撤退に持ち込ませる、とか
一旦退いて敵が追撃してきたら信濃の山岳地帯に引きずり込んで襲い掛かり、撃破する、とか、
一旦退いてまた秋にでも出撃して三河を蹂躙すれば、一年二年のうちに徳川を屈服させられるはずだ、とか
いずれも「兵力過少なんだから決戦を挑まずに撤退する、
あるいは信濃の山岳地帯に引きずり込んで有利な状況で戦う、
それをしないなら、守りを固めて長期戦に引きずり込んで織田を撤退に追い込む」という感じで
兵力の過少さを承知したうえで、撤退をしても、あるいは決戦をしなくても、
十分にその後の展望がある、という感じで主張されてるわけです。
少なくとも、貴方のいうような感じの論旨を当時の武田家武将達は主張してないわけで。
むしろ、「一旦退いてまた秋にでも出撃して三河を蹂躙すれば、一年二年のうちに徳川を屈服させられるはずだ」
的に言われてる事からして、貴方が越前再攻略は時間の問題、的に言われてますが、
それは※41に示した理由で難しそうに思われますのに対し、武田側からすれば徳川屈服は一年二年のうちに
済ませられる、と算段してる事になるわけです。(続く)
実際に長篠直前では徳川は「今度だめだったら織田やめて武田に寝返ろう!」とか言い出してる状況で、
さらに武田に内奥して三河の主城岡崎を明け渡そうとした大賀事件まで起きてる状況で、
織田に付き続けてもろくに助けてもらえず、三河遠江では武田勢が極めて優勢でもある事から
君臣に織田やめて武田に寝返った方がいいのでは、的な感じが漂ってる状況です。
このような感じでは、武田勢の鋭鋒が健在で、東から織田領や徳川領を蹂躙していった場合、
織田が越前を再攻略するのは難しいと思われるのと逆に、徳川が武田によって滅亡、もしくは寝返り従属に
追い込まれる可能性が高いと思われるわけです。
もし武田が徳川を滅亡、もしくは従属させる事に成功した場合、織田は東の防波堤を失う事になるばかりか、
武田は旧徳川領を併合、もしくは従属させてますます強勢になり、織田の東からの脅威はさらに増大して
いったと思われるわけです。これまでは徳川が代わりに武田の攻撃を受けてくれていましたが、
今度は徳川という防波堤抜きで直接織田の本領である尾張や美濃が脅威にさらされるわけで、
織田が受ける東からの戦略的拘束性は、それまで以上のものになったと思われるわけです。
となると、史実で織田が長篠で武田勢を撃破する事によって得た戦略的自由性とはあべこべに、
武田勢が長篠で織田との決戦を回避し、鋭鋒を維持したまま東から脅威を加えていった場合、
上記のような理由で史実のような織田の拡大性が大きく失われた可能性が高まると思われるわけです。
これらのような理由から、長篠において、兵力を本国に多大に残した武田勝頼が
無理して三万もの兵力を捻出して決戦を求めて出撃してきた織田信長に対し、
無理に決戦を挑む必要は、少なくとも戦略的には乏しかった、と思われるわけです。
武田の場合は、有力な東国勢力と同じく、
甲斐信濃駿河だけでなく、上野の西半分、とか三河の北部、とか
遠江の北部と東部、とか美濃の東部、とか飛騨、とか
そういった「一国じゃないけど支配してる地域」ってのが結構多いので、
甲斐駿河信濃だけで取りあげてもしょうがないとは思うのですがねw
とりあえず面白いリンクを紹介してくれてサンクス、ですが、
これを参考にした場合(色々と妙に思える所はあえてスルーして)、
摂津の石山本願寺の株が急上昇し、
さらには貴方のいう山城を一国支配していた足利や
大和半国を支配してた松永、というのの株が凄い事になりそうですねw
特に石山本願寺は摂津・和泉・紀伊に多大な信徒や共同勢力を持っていましたから、
このリンクを参考にしますと織田と単独でも十分対抗可能な巨大勢力になりますので、
信長もオチオチ西側を空けて東に主力を率いて進軍するなど、出来そうにありませんねw
いやー、やはり武田勝頼は長篠で決戦を挑むべきではなかったw
とりあえず、面白リンク(色々な意味で)を紹介してくれた事に重ねて感謝申し上げますw
色々な意味で眺めてて楽しい図式ですねw
高くはなりますけど、もともとがかなり低いとすると多少上がっても大したことはないんじゃないでしょうか?w
狭い範囲の住人に多少嫌われた程度より、数万の敵が消えた方が収支がはるかに大きい。
直前といっても一ヶ月あるので余裕で知ってるでしょう。というか、当主義継は1573年に敗死しているし。
ということで越前も大きな国ですが、他に得た領土も大きく大勢に影響はないと見るべきかと。
伊勢長島の数万の敵がいましたからねえ。
織田領国の中にあるその大敵を優先しただけでしょう。
鋭鋒っていうのは武田が徳川領に現れた時のことだと思うんですよね。
単に長篠から撤退して兵力が健在、ってだけのことでは脅威にならないのは、
信玄が死んで撤退した後に浅井朝倉を討ち果たした状況と変わりがないですから。
然し乍ら長篠から帰ってもう一回すぐに軍を起こせるほど武田には経済力はないでしょう。
もちろん長篠に常駐させることも武田には厳しい。
決戦しか選択肢がないということですね。
「一旦退いてまた秋にでも出撃して」も、また織田の援軍が来れば帰らなければならなくなるだけ。
畿内等の新領土への支配力はもっと強くなるので織田サイドの余裕はさらに大きくなってる。
あなたの主張では、「織田が援軍に来れば武田は尻尾を巻いて退散すべき」なわけですからそういうことには未来永劫なりません。
尾張美濃だけで100万石ぐらいある織田が山城河内大和など新領土への支配を強めれば、いずれ三万は「無理して捻出」というほどの兵力ではなくなりますので、決戦を遅らせれば遅らせるだけ武田は一層苦しくなるだけです。
このリンク先は豊臣政権後なので信長時代と比べて、大坂城のある摂津や聚楽第伏見桃山城のあった山城は多少大きくなりすぎているところはあります。
しかし、元亀以後に畿内諸国を次々併呑し織田が雪だるま式に大きくなってることに、きちんと焦ることが出来た勝頼はなかなか有能だということがわかります。
横レスだが、豊臣時代だから大坂あたりが高くなってるっていう理論が成り立つなら、甲州征伐や徳川・北条などが合戦を連発して荒らされまくった甲斐・信濃は、武田時代より下がってるって理論も成り立つんじゃないの?
信濃甲斐が特別多いとは思わん
合戦の数じゃなくて、時期の話をしてるんだけど?答えになってないよ
何を言いたいのかわからん
東北 大崎合戦 摺上原合戦 人取橋合戦 大崎葛西一揆 九戸政実の乱
関東 神流川合戦 小田原征伐 沼尻合戦
北陸 一乗谷城の戦い 七尾城の戦い 手取川合戦 魚津城の戦い 賤ヶ岳合戦 末森城の戦い 越中征伐
東海 高天神城の戦い 長島一向一揆 長篠合戦 小牧・長久手合戦
近畿 小谷城の戦い 石山合戦 紀州征伐 有岡城の戦い 三木合戦 山崎合戦 紀州征伐
めんどくさいからこんなもんで良いッスか?w
えーと、甲州征伐って一方的にやられまくりの戦じゃん?その後も、信長の残当狩りがあって、上杉が信濃に攻め入って、徳川・北条が甲斐と信濃で合戦して、真田もそこに加わって、みたいな甲斐・信濃が豊かになる要素が無い合戦が同国内で約8年続いてるでしょ?だから信玄の支配下で10年以上安定してた時代よりも人口的に落ちてるか、落ちた後に回復してる状況に1600年頃はなってるんじゃないのって言いたかったの。
元々の差もあるけど、畿内なんかは1582年以降大きな戦も無いしから同じ状況とは言えないと思うしさ。
これで分かって頂けましたでしょうか?
>甲州征伐って一方的にやられまくりの戦じゃん?
つまり激戦ではなく民の疲弊は少なかったってことでは。
>合戦が同国内で約8年続いてるでしょ?
え?甲州征伐~上田城の戦いまでだから長く見ても3年でしょ。
川中島で死傷者をたくさん出してた信玄時代のほうが疲弊は大きかった気が。
>つまり激戦ではなく民の疲弊は少なかったってことでは。
戦で軍が通過した時点で、略奪などの被害が無いとは思えません。
その後の残当狩りも農民に賞金を出して武田軍関係者を殺してたそうなので、半農半士の当時では下級階層への被害も免れないと思います。
>え?甲州征伐~上田城の戦いまでだから長く見ても3年でしょ。
断続的に小競り合いは続いたらしいんで8年にしときました。
>川中島で死傷者をたくさん出してた信玄時代のほうが疲弊は大きかった気が。
これは時期によっては一理ある気がしたwwww
はいはい。まずは横レスですけど、※58の人も言ってますけど、
信長は武田攻めで武田軍関係者を多数残党狩りによって殺してますし、
信濃では信玄時代にも勝頼時代にも起きなかった8千余もの大軍による一揆が勃発し、
それを織田が虐殺してます。っていうか、後世にも織田の暴政、語り継がれ、
本能寺後で甲斐信濃衆が一斉に蜂起して織田の武将を殺しにかかってる状況からも
甲斐信濃で行われた織田の統治ってろくなもんじゃないと思いますが。
>川中島で死傷者をたくさん出してた信玄時代のほうが疲弊は大きかった気が。
さすがにこれはないだろ。長篠でどんだけの武将や兵士が死亡したと思ってるのか。
さらには御館の外交失敗で数年にわたって多方面作戦繰り広げて
国内疲弊してるんだから、明らかに勝頼時代のが国内疲弊でかいでしょ。
いやいや、さすがにそれはないのでしょうかw
足利や松永の領域がそれだけ多くなるなら、いろいろと考慮の仕様があって
信玄生存IFの勝算がさらにあがってしまう事になりそうですw
いや、伊勢長島で数万の民を虐殺し、さらにその近隣住民にも宿を貸すの嫌がるくらいに嫌われたのだから、
収支的にはどうなんですかね。
知ってるんですかねえ?当時の情報伝達速度がどんなものかはっきりはわかりませんけど、
信長が三好との戦いを終了させて京都に戻ったのが4月21日。
長篠合戦が5月21日。これで戦地にいる勝頼にどれだけ畿内の情報が伝わってるものですかね。
正直、この状況では勝頼にとってもまだ情報の確定はできてないと思うのですけどねー。
いや、影響でまくりでしょw実際にその越前を北陸一向宗に抑えられた結果、
信長はそこに兵力や武将を割く事になり、武田との東美濃攻防や、高天神攻防で
武田と戦えるだけの十分な兵力を捻出するのに苦労してるんですから。
長篠はその北陸の抑えを割いてまで集結させて3万作った、という事をお忘れなく。
いやいや、それはあり得ないと思いますw
なにせ、信長は高天神救援に失敗した後、その軍勢を率いて伊勢長島の攻略に向かってるわけですから。
っていうか、結局、伊勢長島が滅んだ後で長篠の戦いが起きてますが、
重ね重ね申し上げますが、この時に信長は北陸の抑えまで動員して三万の兵を集結させたわけで、
信長は伊勢長島がいようといまいと、北陸の抑えまで動員しないと武田相手に三万もの兵を
集結させることは難しい、というのが現実なわけなのですが。
いや、後半は何を言ってるのかよくわからないのですが。
信玄が死亡した後は武田は勝頼を当主とした新体制を構築するのに躍起になり、
しばらくの間その活動が停滞してます。長篠の時とはまるで状況が異なるかと。
浅井朝倉は信玄西上に多大な期待を寄せており、信玄死亡で展望が潰えた感もありますし、
そもそも信長の越前一揆攻め自体が長篠から三か月近くたった後の事なので、
織田もそんなすぐに動けるわけじゃないですから、
三か月たったなら、長篠で大敗してない限りは普通に武田も次の行動起こせてるはずで、
信長もそこら辺は承知してるはずですが。
次に武田が長篠に兵力を置いて長期戦に持ち込めるかどうか、という事ですが、
これは少なくとも武田側からはできるとみられてます。
長篠決戦前の軍議では、宿老達からの意見の一つに
「長篠城をさっさと攻略して、川を前にして長期戦に持ち込めば、武田は信濃から補給がしやすいけど、
信長は畿内とかからも兵力を集結させてるから、長陣をするのは無理だろう。」的な事が
指摘されており、少なくとも織田のが長期戦は無理、と指摘されてます。
織田軍は軍規厳しいんじゃなかったっけ?
残党狩りの対象はやっぱりある程度上級階層だけだと思うけどな。
信長公記では「一門・親族・家老」「名ある程の者」とあるし。
>8千余もの大軍による一揆が勃発し、それを織田が虐殺してます。
それ元武田家臣で上杉配下の芋川親正と、信濃一向宗ねw
>本能寺後
信長が健在なときにやれよw
ただ単に「よっしゃワンチャンあんじゃね」的な思い上がりに過ぎない。
いや、だからそれはないでしょ。
今回織田が3万もの兵力を集結させたのは北陸方面の抑えまで動員しての結果だった、
という事は何度も書いてる事ですが。
信長にとってもこれは賭けのような決断だったはずで、これを何度もやれるとは
到底思えないわけでして。っていうか、その武田の提案では、「また秋にでも出撃して
あちこちに放火し、あるいは刈田などを行えば、三河は亡国となり、そうなれば一両年の間中に
宿願がかなうであろう。」ってなもんでして、信長がやってくるまでに三河が好き放題蹂躙され、
徳川領における徳川への信頼、さらには徳川からの織田への信頼が大きく打撃を受けるであろう事は
想像に難くないと思われるわけでして。
っていうか、1575年の長篠遠征において、武田勢は長篠を包囲するまでの一か月余で
三河の各地の城を攻略しまくっており、徳川単独では武田勢の鋭鋒を到底防ぎえない事が
示されてるわけでして。武田勢が織田との決戦回避をして徳川蹂躙を進めていくなら、
武田は織田が来るまでの間にそうやって城を攻略してったり、放火や刈田を繰り返し、
織田が来たら適当な地によって防衛体制を作って長陣に持ち込むなり、
迎撃に持ち込むなりすれば、長篠とはあべこべに織田が武田の防御体制に突っ込む事になり、
武田が有利になる事が十分予想できます。それしなくても、武田勢が決戦回避して
徳川蹂躙を進めていけば、徳川の領内統制能力や徳川の織田への同盟心が大きく揺らいで
いく事は想像に難くないと思われるわけでして。
武田重臣のいう「一両年中に宿願がかなう。」というのは可能性が大きく高い事だと思われます。
入京の際に厳しく禁じたのは知ってるけど、朝廷・幕府の権威を活用するため、理性的な協力者をアピろうとして、やったともとれるし、全部の場面で略奪が禁止されたとは思えないなぁ。
信濃一向宗だけじゃなくて、普通に反織田の地元勢も多数加わってると思われますが。
実際に信長公記では一向宗云々はなくて、普通に一揆と記されてますし。
っていうか、芋川は上杉と織田のどっちに従うか、という選択の果てに織田への抵抗を選んでおり、
嫌われてる様子が見受けられますが。
上記のような一揆も普通に起きてますし、さらには後世にまで織田の暴政として語り継がれてる事から、
普通に8千余もの一揆が失敗した事から仕方なく織田の統治に従ってみたものの、ろくなもんじゃなかった為、
信長が死亡して「今が好機!織田の手先どもを打倒せ!」となっただけと思われますが。
河尻なんかひどい殺され方してますしね。
信濃一向宗だけじゃなくて、普通に反織田の地元勢も多数加わってると思われますが。
実際に信長公記では一向宗云々はなくて、普通に一揆と記されてますし。
っていうか、芋川は上杉と織田のどっちに従うか、という選択の果てに織田への抵抗を選んでおり、
嫌われてる様子が見受けられますが。
上記のような一揆も普通に起きてますし、さらには後世にまで織田の暴政として語り継がれてる事から、
普通に8千余もの一揆が失敗した事から仕方なく織田の統治に従ってみたものの、ろくなもんじゃなかった為、
信長が死亡して「今が好機!織田の手先どもを打倒せ!」となっただけと思われますが。
河尻なんかひどい殺され方してますしね。
高くはなりますけど、もともとがかなり低いとすると多少上がっても大したことはないんじゃないでしょうか?w
数万の武装兵がいなくなる方がはるかに利は大きいでしょう。
西上軍が撤退し始めたのが4月初旬、信玄が死んだのが4月12日、河田長親が謙信に信玄絶対死んでるwって報告したのが4月29日。河内三好が滅んだことぐらい1月あれば余裕でわかるでしょ。
別に苦労はしてないですね。高天神攻防直後の長島攻めでは7万以上動員してますしw
※65の人も言ってますが、普通に織田も略奪や焼き討ちはしてます。
京都では略奪してないけど、京都周辺では普通に略奪や焼き討ちしてますし。
残党狩りの対象は「名ある程の者」つまり普通の武士までって事ですし、
わざわざ黄金まで出して残党狩りを奨励してますし、
その後の織田の統治自体が「織田の暴政」として後世に語り継がれてますので、
到底ろくなもんじゃないと思われますが。
実際に織田の暴政で不満続出だったから、本能寺後で織田家臣達を甲斐衆や
信濃衆が一斉蜂起して殺しにかかってるわけですし。
※65の人も言ってますが、普通に織田も略奪や焼き討ちはしてます。
京都では略奪してないけど、京都周辺では普通に略奪や焼き討ちしてますし。
残党狩りの対象は「名ある程の者」つまり普通の武士までって事ですし、
わざわざ黄金まで出して残党狩りを奨励してますし、
その後の織田の統治自体が「織田の暴政」として後世に語り継がれてますので、
到底ろくなもんじゃないと思われますが。
実際に織田の暴政で不満続出だったから、本能寺後で織田家臣達を甲斐衆や
信濃衆が一斉蜂起して殺しにかかってるわけですし。
理性的をアピるのに相手が京の朝廷も田舎の農民も関係ないと思うがなあ
まあ野心家があえて敵が多いほう、つまり勝った時利が大きいほうにつくのは
同じ北信濃の真田昌幸も天正壬午や関ヶ原でやってることでしてw
ちょっと根拠が薄いですね。後世の歴史編纂者である徳川が一枚かんでる時点で。
いや、そのコピペ丸出しみたいな事言われても困るのですがw
いやいや、さすがにそれはないのでしょうかw
足利や松永の領域がそれだけ多くなるなら、いろいろと考慮の仕様があって
信玄生存IFの勝算がさらにあがってしまう事になりそうですw
収支的にはどうなんですかね。結局、そこら辺から税を払ってくれる民が
大きく減少してしまってるわけで。残った民にも嫌われてるわけで。
いや、河田は、っていうか上杉と武田の距離は近いですけど
確定情報得るのに17日くらいかかってますし、
三河から河内までの距離ってかなりありますから一か月でどれだけ確定情報が
得られてるのでしょうかね。
いやいやwそんな夢みたいな数字を盲信されても困るのですがw信長公記では
第三次伊勢長島における織田勢の数字書いてないですしw
ぶっちゃけ、この第三次伊勢長島攻めの軍勢は高天神で武田と戦うのには不足で、
進むには進めなかった規模の軍勢をそのまま転用してると思われますし、
その動向からして学者さんとかに長篠合戦の時より下の戦力だったのだろう、
と推測されてるわけで。
横レスですけど、京都で朝廷や幕府や貴顕の心証を悪くしてまで略奪するのと、
それらと関係ない所で略奪するのとはまるで違うでしょ。
実際に信長も京都以外じゃ焼き討ちや略奪を普通にしてますし。
横レスですけど、京都で朝廷や幕府や貴顕の心証を悪くしてまで略奪するのと、
それらと関係ない所で略奪するのとはまるで違うでしょ。
実際に信長も京都以外じゃ焼き討ちや略奪を普通にしてますし。
京都在住の公家にとっては、京都以外は化外の地で妖怪やら蛮人やら悪魔がいる危険な場所であって、税金くれる他はどうでもいい土地なの。更に言えば京都の中であっても、左京がちゃんと守護された場所で、右京は郊外扱いなのよ。
だから田舎と京都で紳士に振る舞うことには明確な違いがあるよ。
いや、全然違うでしょw
8千余もの一揆が集結して織田への敵対を選んでる時点で
真田昌幸が関ヶ原の時に少数で敵対を選んだのとはまるで異なりますからw
ちなみに、真田昌幸は天正壬午では上杉→北条→徳川、と主を変えて
徳川から北条に沼田渡せ、と言われたから上杉に付き直す、って事やってて、
普通に自身の領土保全目的で動いてますからw
いやいや、薄くないでしょ。
信濃でも甲斐でも織田の暴政を唱えて蜂起がおこり、織田家臣を殺しにかかってますし、
実際に河尻とかひどい殺され方だったわけで。
普通に恨まれまくってるのに、必死で拒絶されてもこちらとしては困惑しか。
武田勢が決戦を回避して撤退すればせっかく奪った小城が取り返されるだけですよ?
なんせ石高的には尾張美濃伊勢っていう三河にごく近い国だけで武田領に匹敵する領土を持ってますからw
そういうことじゃなくて
京の公家であれ、田舎の農民であれ支持の必要性は変わらないってこと。
信濃の一向宗がほとんどでしょ
いやいやw誰もそんな事言ってないのですがw
※64にも書いた事ではありますが、長篠で織田勢が救援に来るまでの一か月余で
三河の徳川側の城が8城くらい攻略されており、徳川の威信はボロボロです。
長篠の時も重臣達の献策に「撤退しないならしないで、長篠城をさっさと攻略して
後は川を前にして防衛体制を取れば、織田勢は畿内からも兵を連れてきてるので、
信濃からの補給がたやすい武田勢と違って長陣は無理だろうから、
退かざるを得なくなるだろう。攻めてきたら迎撃すればよい。」というものがあるので、
この要領で救援目的の城を攻略して防衛体制をとって長陣に持ち込めば、
織田は退かざるを得なくなる、というのを繰り返すだけだと思われますがw
100万石ったって、東美濃には武田の領域がありますし、
実際に山城や大和半分(どちらも足利や松永がそれだけ持ってるかは突っ込まないでおきましょうw
信玄生存IFの勝算がさらに上がってくれるのでw)を征服した後の1574年に起きた
東美濃攻防や高天神で武田相手に十分な兵力捻出に苦労し、長篠では北陸の抑えまで動員して三万
ですからねえ。仮にやるとしても、わざわざ1万5千しか率いてない時でやるのは戦略的には
良手とは到底思われない事ですよ。
高くはなりますけど、もともとがかなり低いとすると多少上がっても大したことはないんじゃないでしょうか?w
数万の武装兵がいなくなる方がはるかに利は大きいでしょう。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
数万を皆殺しに出来るぐらいだから、7万ってのは妥当なところでしょう。
いや、変わるでしょ。京都での朝廷や幕府、さらには貴顕の悪評を買う事は、
日本中に悪評を買う事につながりかねない事ですが(木曽義仲とかいい事例)
他の地域の農民とかが相手ならそうはならないわけで。
というか、信長は京都の朝廷や将軍を権威として活用しようとしてたわけですから、
なおさら京都では慎む必要があったと思われますね。
※80
いや、そんな文字通り念仏みたいに唱えられましてもw
実際に反織田の一揆も多数参加してたと思われるわけで、
というか、信長公記では一向宗云々出てこないので、普通に反織田の一揆勢が
多数だったと思われるわけですけどね。
なんか論旨的に苦しくなってきたのか、念仏みたいに具体性や根拠の無い事を
連呼するようになってますが、それでは到底納得させられないですよw
ちゃんと答えてくださいねw
いや、そのコピペ丸出しみたいな事言われても困るのですがw
いやいや、さすがにそれはないのでしょうかw
足利や松永の領域がそれだけ多くなるなら、いろいろと考慮の仕様があって
信玄生存IFの勝算がさらにあがってしまう事になりそうですw
収支的にはどうなんですかね。結局、そこら辺から税を払ってくれる民が
大きく減少してしまってるわけで。残った民にも嫌われてるわけで。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いやいやwそんな夢みたいな数字を盲信されても困るのですがw信長公記では
第三次伊勢長島における織田勢の数字書いてないですしw
っていうか、そもそも信長公記の流れでいうなら、織田が長島を包囲し、
兵糧攻めで兵糧欠乏した一揆勢が降伏を申し入れ、武装解除して出てきた一揆勢を信長が騙し討ち、
さらに城に残ってたもはや体力のない一揆勢も焼き殺し、という感じですから、7万も兵がいなくても
十分可能な行動をとってるわけでして。
いやいや、取り返せてないですよ?w
東美濃攻防の時も武田に18も城を攻略されてるのに、全然取り返せてないですよね?w
っていうか、普通に決戦を回避して川を前にして長陣で織田に撤退を強いる、という手法もありますから、
そんな事を心配しなくても結構ですよw
美濃では東美濃に武田の領域ありますし、北伊勢は長島関連で数万の民を失い、
残った近隣住民にも嫌われてる状況ですけどねw
ってか、結局それでも長篠では北陸方面の抑えを動員しないと三万用意できないんじゃ、
三万余動員できる武田にえばれる事じゃ到底ないですよねw
言うほど信濃~長篠って補給たやすいか?あんな山ばっかりでクッソ遠いのに。
名古屋~長篠のほうが遥かに近くて便利で補給はたやすいと思われる。
長島に敵がいる(or不穏な)状況では、畿内あたりからも援軍が必要だけど
長島一向宗殲滅後はもうどんどん安定していって尾張近郊の兵だけでも武田なんか余裕で相手できるようになるだけだってのはわかりきってるわけで。
朝廷の権威が高かった木曽義仲の時代とは全然違いますよ。
群雄割拠の時代では各地の地元の指示が必要。
高くはなりますけど、もともとがかなり低いとすると多少上がっても大したことはないんじゃないでしょうか?w
数万の武装兵がいなくなる方がはるかに利は大きいでしょう。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
7万ぐらいいないと、討死だけで2万の兵を兵糧攻めには出来ないでしょう。
本気で言ってるんですかw
このリンク先でいうなら、私が※44に書いたように、
摂津和泉紀伊に多大な信徒や共同勢力を持つ石山本願寺が単独で織田に対抗できる巨大勢力となり、
こんな巨大勢力を後背に残した状況で織田がオチオチ東に向かう事ができるとは到底思えないですがw
っていうか、山城だけで美濃尾張と同等くらいの国力がある事になるのに、
貴方の中では山城一国を持ってるらしい足利が織田に瞬殺されてる時点で、
色々と戦力比較にはあてにならなそうだと思うのですがw
貴方のリンク先を参考にするんだったら、摂津和泉紀伊に多大な信徒や共同勢力を持つ石山本願寺が
単独で織田に対抗できる巨大勢力ですので、武田勝頼が長篠で無理して決戦を挑んだのは
相当おかしな決断だったという事になると思うのですがw
いや、戦国時代でも普通に朝廷の権威は重視されてますよ。
ってか、信長自身が朝廷やそれより下位の幕府の権威に必死こいて執着してたわけですから。
地元の支持ったって、当時は自力救済の時代ですからねえ。略奪された民が恨むのは主に
守ってくれなかった領主でして。むしろ、戦略的には略奪や焼き討ちする事で、
その地域の民に今の領主が自分達を守ってくれない、と思わせてこちらに寝返りやすくする、
という効果も見込まれてるわけでして。
戦略手段の一つでもあるわけですね。
>巨大勢力を後背に残した状況で織田がオチオチ東に向かう事ができるとは到底思えないですがw
そうですよ。
だから伊勢長島には7万、本願寺は10万(信長公記より)で攻めてますが、武田にはせいぜい3万ってところ。
摂津は当時もう少し小さかったので(大都市堺のある和泉と同じぐらい?)
まったくおかしくはない決断です。
そうやって、論破されたことを必死こいてコピペみたいに繰り返されても、
こちらとしては到底見逃してはあげられませんので、ちゃんと以下に答えてくださいねw
収支的にはどうなんですかね。結局、そこら辺から税を払ってくれる民が
大きく減少してしまってるわけで。残った民にも嫌われてるわけで。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
その討ち死に、っていうか焼き殺しされた2万って「男女」とあるように非戦闘員も含めての数でして。
重視されてないとはいってない。ただ木曽義仲の時代ほど絶対的ではない。
官位もらうのに地元の支持は関係ないでしょ。源平時代の方が権威があったってのも疑問、現に信長は朝廷の仲介で何回も和議むすんで急場を凌いでる、無いならこんなことにはならん。
大体、略奪やらを禁止しなけりゃ支持が得られないなら、日本全国の支配者に誰も従わない状況じゃないとおかしい。
惣村が独自に武力を持って自治を志している当時であれば、アメとムチの原理で時には略奪も支持を固めるやり方の一つと考えるべきだろ。
だけど、朝廷は別に自治も武力も関係無い、自分らの権威と穢れ無き生活領域が守られればそれでいいだけ。だからひと括りにするのはおかしい。
いや、ですからw
その伊勢長島7万ってのはそもそも信長公記に書いてないですし、
武田相手に戦力不十分で進むに進めなかった、おそらく長篠以下の戦力を転用してる事が明白なわけで、
到底7万もいないと思われますが。
その本願寺相手に10万ってのも眉唾もいい所だと思いますけどw
なにせ、長篠においては織田家の主要武将達が軒並み参陣してて、北陸方面の抑えの武将まで
動員してようやく三万動員できてるのに、これで本願寺相手にいきなり10万も動員できるわけないでしょうw
率いる武将もいないのに、残り7万もの兵をどこかにおいておく意味もないでしょうしw
普通に考えれば桶狭間の今川義元率いる4万5千余、というのと同じで信長公記特有の水増し数字か、
信長が誇大に宣伝した数字を太田がそのまま書き写したか、どちらかでしょうて。
いや、重視されてる事を認めるんだったら、信長が朝廷や幕府や貴顕のいる京都で
悪評を買うのを嫌がって略奪や焼き討ちを慎んだ、というのは極めて自然、
って事で議論終了かと思いますが。
一向衆がカネを納めるのは本願寺でしょ。痛くもかゆくもない。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
立て籠もったわけですから戦闘員がほとんどでしょ。
あ、なんか都合よくスルーされてるようですが、
>貴方のリンク先を参考にするんだったら、摂津和泉紀伊に多大な信徒や共同勢力を持つ石山本願寺が
>単独で織田に対抗できる巨大勢力ですので、武田勝頼が長篠で無理して決戦を挑んだのは
>相当おかしな決断だったという事になると思うのですがw
この部分にもちゃんと答えてほしいですw
田舎の農民「も」重視して悪評を買うことを嫌がることに否定にはならない
官位もらうのに地元の支持が必要なんて言ってない
支配下におけば普通に税支払ってくれてるんですけどねえ。朝倉とか武田とか上杉とかの領内の
一向宗は普通に税や役を収めてますし。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いや、ですから信長公記にしっかりと「男女2万ばかり」とか「妻子を引き連れ長島へ逃げいる」と
はっきり書いてあるので、非戦闘員も普通にたくさんいたと思われますが。
はい、※90の下段参照。ちゃんと書きましたよね。
当時は自力救済の時代だって。民が略奪されて恨むのは守ってくれなかった領主だって。
略奪する事で民に守ってくれない領主に対する従属意識を揺らがせ、
こちらに寝返りやすくする、という戦略手段の一環でもあるわけでして。
と普通に説明してるんですけど。なんか無理にループさせてません?
はい、※90の下段参照。ちゃんと書きましたよね。
当時は自力救済の時代だって。民が略奪されて恨むのは守ってくれなかった領主だって。
略奪する事で民に守ってくれない領主に対する従属意識を揺らがせ、
こちらに寝返りやすくする、という戦略手段の一環でもあるわけでして。
と普通に説明してるんですけど。なんか無理にループさせてません?
んじゃ、そこの一文はスルーして貰って構わない。
本願寺相手に10万ってのは信長公記に明記されてますがw
なら最低でも2万以上は立て籠もった伊勢長島相手に7万でも不思議はないですね。
主要武将が参陣してるからって彼らが全兵力を出陣させてるとは限りませんよねw
居城や前線に抑えの兵を置いていて、それらを指揮する将もいるのは当たり前ですよね。
対戦相手(今川)を多く書いて→それに勝った俺ら強えええ
ってのはわかりますが、自軍を過大に書く意味がわからないですw
支配下に入らないから立て籠もってるんですよ。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
「たくさん」の根拠が無い。
守ってくれなかった領主を恨む≠略奪相手を恨まない
いや、不思議でしょw
伊勢長島相手に7万なんて信長公記のどこにも書いてないですし、
文字通りの直前の高天神の武田相手に戦力不十分で進むに進めなかった軍勢を転用してるので、
到底7万もいるわけないじゃないですかw7万いたら長篠の倍以上なんですから、
さっさと高天神を救いにいけばよかったじゃないですかw
本願寺10万なんていうのは、当時の織田の国力からしたって到底あり得ませんし、
長篠では北陸の抑えまで動員してやっと三万、高天神では北陸の抑えとか動員できなかったのか、
それ以下の戦力だったと思われて救援に進むに進めない、っていうくらいに戦力捻出に苦労してるんですから、
どう考えても信長が畿内で自身の武威を示すために誇大に宣伝したのを太田がそのまま書き写したか、
提灯記事かのどっちかで確定でしょw
いや、普通は主力の兵力をつれてくるんじゃないでしょうかw
当時は伊勢とか近江とか尾張に所領をもってたと思われる織田主要武将達までが
兵力を抑えて連れてくる意味とかますますわけわからんですしw
でないと、北陸の抑えまで動員してやっと三万もの兵を集めてる信長が馬鹿みたいになりますしw
自軍の武威を示す為、でしょうて。
信玄西上の軍勢もフロイスの記述によりますと、6万以上となってますしw
あ、こちらを採用していただけるなら、武田の総動員兵力も倍以上に跳ね上がる事になりまして、
動員兵力の4分の1以下で決戦を挑んだ勝頼の決断がますますおかしな事になってしまうと
思うのですがw
支配下におけば払ってくれたでしょうにねえ。
現に信濃で一揆を織田勢が虐殺した後、織田勢は残った連中に「お前ら家に戻れー!」と
言って回ってるわけで。税収源がなくなるといやだったんでしょうね。
伊勢長島滅ぼした後も、騙し討ちで近隣住民から嫌われてるので、普通に統治が困難だったでしょうね。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いや、わざわざ「男女2万ばかり」と書いてあって「「妻子を引き連れ長島へ逃げいる」」
支配下におけば払ってくれたでしょうにねえ。
現に信濃で一揆を織田勢が虐殺した後、織田勢は残った連中に「お前ら家に戻れー!」と
言って回ってるわけで。税収源がなくなるといやだったんでしょうね。
伊勢長島滅ぼした後も、騙し討ちで近隣住民から嫌われてるので、普通に統治が困難だったでしょうね。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いや、わざわざ「男女2万ばかり」と書いてあって「妻子を引き連れ長島へ逃げいる」とかもあるんですから、
ちゃんとそれ相応にいたんでしょ。いない根拠がむしろないですけど。
で?パトロンが欲しいだけの朝廷と虎視眈々と独立自治を狙う村落を同列に優しく扱うのが最善手って理由は?
※107
いや、普通に生きるか死ぬかの瀬戸際で現在の領主が守ってくれない、
となったら、自力救済の当時は敵側の方に従おうとするもんなんですって。
実際に寝返りってそんな感じで、略奪や焼き討ちで武威を示す→それを基に勧誘、
といった手順の繰り返しで進められていくわけですし。
単なる戦略手段の一環ですね。
戦力不十分で進むに進めなかったとはなにを根拠にしてるんですか?
※39をみればありえないことではないですね。田舎と都会では国力が全然違いますw
伊勢長島や大坂に大敵がいるんだから抑えの兵が必要でしょ。
自軍の武威を示すなら武田征伐にも適当に7万だか10万だか動員したって書けばいいんじゃないんですか?
信濃一向宗はそれまで武田に従ってたわけだから御しやすいとみたんじゃないですかね。
長島一向宗は武士を追い出す強者だから殺すしかないとみたんでしょう。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
いないとは言ってませんよ。「たくさん」の根拠がないだろうと言ってるだけ。
虎視眈々と独立自治を狙うのは田舎の村落だけじゃなく、京周辺の村落も同じ
んん?それはですね、信長公記では誤記、あるいは意図的に隠されてると学者さんから指摘されてる事ですが、
信長は畿内の多門院日記などでは5月15日に京都で武田勢の高天神の攻撃を知り、
16日に出発して岐阜に数日で到着してるのですが、それから一か月近く岐阜で動かなくなってるんですよね。
この間、信長は越前方面の防備を厳戒にするよう指示を出しておりまして、長篠の時のように、
越前方面の抑えの武将や兵を動員できなかった事が伺えます。
そして信長は6月14日に岐阜から出撃しますが、3日かけて6月17日に三河の吉田に入り、
そこからさらに数日かけて遠江に入り、その間に高天神は降伏してしまいます。
信長はこの高天神の時に一か月近く停滞してるのは、戦力不十分で進むに進めなかったのだろう、と指摘されてますね。
だから※39,を根拠にするなら、貴方の中では山城一国もってるらしい足利が瞬殺されてる時点でおかしいでしょうw
っていうか、織田の主力領土である尾張美濃伊勢近江とかは武田領土とあんまり国力変わらない事になってしまいますしw
10万なんて到底無理無理ですw
伊勢長島がいるのに、本願寺相手に10万率いてると信長公記にあるのに、何をいってるんですか。
っていうか、長篠の時には伊勢長島いないじゃないですか。
しかも伊勢長島の時は高天神の時の長篠以下の戦力ですし。
武田攻めの時は
「兵糧心配なので人数調整してきてくだちゃい!」とわざわざ部下に通達してるくらいですから、
信長もそこまで恥知らずではなかった、という事じゃないですかね。
というか、当時畿内にいたフロイスの報告書によれば信玄西上軍は6万以上、となる事について
貴方の見解を是非とも提示してくださいw
勝頼の決断がますますおかしな事になりそうですねw
だから何度も言ってますけど、織田に抵抗した一揆勢が一向宗だなんて
信長側ですら書いてないんですけど。一向宗もいたかもしれないけど、主力がそうとは到底思えませんが。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いや、わざわざ「男女2万ばかり」と書いてあって「妻子を引き連れ長島へ逃げいる」とかもあるんですから、
ちゃんとそれ相応にいたんでしょ。いない根拠がむしろないですけど。
それ相応にいない、とするならその根拠を示してもらいませんと。
だから京都周辺では普通に略奪やってるし、
朝廷や幕府や貴顕の悪評買わない為に京都では慎んでる、って何度も指摘されてるでしょ。
本願寺相手に10万の時は伊勢長島いなかったですね。失敬。
だからといって、結局伊勢長島いない時に長篠で三万しか、しかも北陸の抑え動員してこの数字、
って事で色々とアレになりますが。
同じ多門院日記では1577年に15万人動員してるって書いてますね。
なら1573年で10万や7万動員するぐらい不思議でもなんでもない。
細川らが裏切ってるのでべつにおかしくないですね。
武田領とでは倍ぐらい違いますよw
何を言ってるのか意味不明。
高天神のときはまだ伊勢長島いますけど。
フロイスは武田の事を天台宗の偉い人的な感じで見てますからまさに敵。
敵を過大に見せて味方(つまり異教徒と戦う信長)の偉大さを示すためのネタフリの一環じゃないですかね。
普通の一揆だというほうが到底ありえないと思うわけですが。
信濃の一向宗は須田満親が親しかったのが有名。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
いないとは言ってませんよ。「たくさん」の根拠がないだろうと言ってるだけ。
ちなみに、森長可が信濃の「一揆」勢と対したときは戦闘員8千、女が1千人。
比率が同じだとすると男女2万のうち女は2千で男が1万8千ほど。
2万が1万8千になるだけのこと。こんなのどうでもいいんじゃないですかね。
いや、それって問題が土台異なる事だと思いますけど。
こちらが多門院日記の事を活用したのは、普通に信長が5月16日に京都を出発して
岐阜に向かってる、という事実についての提示であって、兵力云々の話ではないのですが。
で、その10万だか7万だかは当時の織田の国力からして到底無理ですねー。
ってか、畿内の誇張しまくりの宣伝兵力記述鵜呑みにするなら、
普通に武田勢6万以上もあり、って事でいいんですよね?
いや、山城の人口で強さが決まる、というなら、細川とかが裏切った所で、
足利はそれこそ武田や上杉以上の抵抗を織田に示せないとおかしいのですが。
いや、どうして都合悪い所スルーすんですかねー。
長篠の時には伊勢長島いないけど、三万の兵力を北陸から抑えまで動員して
やっと動員してると述べてるのですけどー。
高天神の時も北陸勢の抑えを動員できなくて、
武田勢相手に十分な兵力を備える事に苦労してる感じですので、
伊勢長島とくに関係ないと思いますが。
そんな無駄な事しないと思いますけどねー。だってフロイス自身も信長がキリスト教徒に
なってくれてない事は書いてますしー。
ってか、結局は畿内に届く誇大な兵力報告を鵜呑みにして、しかも2次資料の信長公記で
10万とか喚くなら、フロイス報告は一次ですから、普通に信玄西上軍6万以上でOKですね。
いやー、総兵力の4分の1以下で決戦を求めるなんて勝頼はなんて不思議な決断をしたのでしょうねー。
いや、ありえない根拠が特にないのですけど。
実際に信長側の信長公記でも普通に、一向宗とは書かれてないですしー。
これで一向宗がほとんどというなら、資料や根拠を基にして論証してもらいたいですなー。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
こっちは「それ相応」と言ってますけど。
なんで伊勢長島は地元住民が生活しながら立てこもってる所なのに、
急遽編成された信濃一揆と男女比率が同じだと思うのか謎杉ですけど。
普通に伊勢長島の中で生活しつつ立てこもっていた連中が
妻子と一緒に長島本城に逃げ込んだ、とか並列して「男女2万」とか書いてあるのですから、
そんな極端な比率になるとは考えにくいと思いますが。
やお糞
都合のいいときだけ多門院日記を信頼して、都合悪くなったら多門院日記は無視ってこと??それは通用しないんじゃないですかねえ。
おかしくないよ。豊臣政権後だから、信長時代に比べて周辺から山城摂津に人を移動させてる。
長篠の時の「やっと」という根拠は?
高天神の時の「苦労してる」根拠は多門院日記だよね?だったら多門院日記に書いてる畿内の戦で15万人も認めてもらわないと。となると3万なんて朝飯前ってことになっちゃいますがw
異教徒と戦う≠キリスト教徒になる
だから関係ないです。
フロイスの信玄西上軍6万がOKなら、石高から見て信長は15万以上になりますので大歓迎ですよw
フロイスは長篠の兵力を、「6万の4分の1」つまり2万ちょっとだと明記してるんですかね?そうじゃなければ「フロイス的長篠兵力」は6万近くになるんじゃないでしょうか?
多門院日記を引用して、勝頼侵攻(5月)の情報が京の信長に伝わった(5月16日)のは
2週間以下だと主張してるくせに都合よすぎるんじゃないですかねえ。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
芋川は上杉配下になった。上杉配下には信濃一向宗を指導した須田満親がいる。
甲斐本国ではそんな一揆は起こってない。どうみても一向一揆です。
急遽だろうがなんだろうが、立て籠もるということは即ち生活してるってことです。
※127
いや、「信長が京都を5月16日に出発して美濃についた」という「事象」と
信長がどれだけの兵を率いれたか、という「兵数」の問題はまるで異なる問題ですよ。
例えば、貴方の大好きな信長公記では、桶狭間で今川義元が4万5千とかいう阿呆な数字になってますが、
こんな数字は到底無理だって事でまともに信用してる学者さんはまずいないです。
でも今川義元がそれ相応の大軍を率いて尾張に侵攻し、桶狭間近辺で織田と戦った、という「事象」に
ついては誰も特に否定してないわけです。誇張の聞く「兵数」と、事柄が起こったという「事象」に関しては
まるで異なる問題なのですが。むしろ、貴方の言ってるような、みょうちきりんな解釈をする人の方が
普通にいないですし、通用しないのではないかと。
いや、おかしいでしょ。ってか、結局の所、貴方は山城の人数とやらが信長時代と比してあてにならない、
とおっしゃるわけで?
だったら、貴方が言い出してる「山城を得たから織田の国力激増!」なんてなんの根拠もない事になるじゃ
ありませんか。
(続く)
だからどうして、そういうおかしな話になるんですか?「苦労してる」根拠は多門院日記だけ、ってどうやったら
解釈できるんですか?※116の内容から見れば、どう考えたってそんな風にならないでしょ。
※116にもあるように、多門院日記でわかるのは、信長が5月16日に京都を出発した、って事です。
その後で信長は美濃に一か月近く滞在しており、それは多門院日記だけでなく、他の書状からもわかり、
そのうちの一つで信長は越前方面の抑えを厳戒とするように通達しており、北陸の抑えを動員できなかった事が
明白にわかるわけですね。で、長篠の時はその北陸の抑えまで動員して、やっと三万だったわけです。
朝飯前とかいうなら、わざわざ北陸方面の武将や兵を動員する必要はなかったはずですから。
そもそもその15万だかなんだかって、長篠より数年後の話だったと思いますし、この時期に持ってくるのは
明らかに不適当と思いますが。っていうか、そもそもその時期ですら、15万動員できる国力は織田にないですから、
明らかに水増し数字とわかりますし、武威を示すための誇張水増し数字でオーケーなら、
武田信玄の西上軍は当時畿内にいて、その誇張水増し数字の風聞を書き記したフロイスの記述からも
6万以上、って事になるわけなんですが。長篠で勝頼は総動員の4分の1以下の兵力で突撃した事になり、
ますますおかしな判断、って事になってしまいますね。
貴方風の言い方でいうなら、多門院日記や信長公記にあるような、明らかな畿内に流された誇張水増し数字を
採用して織田勢10万以上といいつつ、武田西上軍の6万以上は都合悪いから断固拒否、って事??
それは全く通用しない理屈ですよね、って事になるわけですが。
いや、関係ありまくりでしょ。信長だって別にキリスト教崇めてないですし。異教徒が異教徒と戦ってるだけですし。
いや、武田の侵攻情報は徳川からの連絡で織田領に報告され、
さらにはそこから早馬で直接信長に到達するでしょうけど、
戦地にいる武田勝頼に三好が「俺たち信長に降伏しちゃいました!」なんて報告しには
行かないんじゃないですかね。風聞くらいは届いてたかもしれないですけど、
当時は風聞はいくらも飛び交うものなので、距離から考えても確定情報として精査され、
判断されるのはもう少し後になりそうですけど。
むしろこれだけ条件違うのに、同じとか言い出してる方が都合よすぎなんじゃないですかね。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。
いや、芋川が織田に負けて当時の武田の同盟国だった上杉の領土に逃げ延びて
その配下になったから、といって、なんでそんな理屈になるのか謎ですが。
須田が信濃一向宗を指導、って何の事例に基づいてらっしゃるわけで?
信濃の一向宗と親しかったとは聞いた事ありますけど、別に指導はしてないんじゃ。
現に武田信玄・勝頼の時代に須田が信濃一向宗を指導して武田に背かせたような事例は皆無と思いますし。
っていうか、当時の須田って普通に北陸で織田と戦ってて、わざわざ信濃まで工作しに来る余裕なんて
なかったと思うのですが。
結局の所、甲斐本国では残党狩りが悲惨すぎる事になってましたし、それで押さえつけられてた甲斐衆は
信長死亡後にすぐさま蜂起して河尻とかの織田家臣に襲い掛かってます。
信長公記にも信濃の一揆は一向宗なんて特に書いてないですし、一向宗も参加したのかもしれないですけど、
主力がそうだとは思えないのですが。貴方が「どう見ても」とか言い出すような根拠は特にないと思います。
そんなめちゃくちゃな理屈ないでしょ。ろくに拠点もなくて、わざわざ古城を修築して入ってる一揆達と
東海道地方における本願寺の主要拠点として伝統と格式を誇る伊勢長島に、何年も何年も立てこもって
生活してる人々が同じなわけないでしょ。
何がどう異なるのかさっぱりわからない。『これだけの「兵数」を率いた』っていうのも「事象」のひとつなんだから。
山城を得たから、ではなくて山城近郊の諸国を手に入れたから、です。当時は1600年よりも山城や摂津に集中せず近郊たとえば近江や伊勢や和泉などにばらけていたと考えられるからです。
※130
全然苦労してるって根拠になってないですけどw
北陸情勢に余裕が出たから北陸兵を呼べるようになっただけでしょ。んで、その分強大な国力をもつ畿内の敵に当てただけ。
15万動員できる国力が無いという根拠は?
6万でも構いませんよ。基準を合わせれば文句はない。フロイス基準なら全部それに基準を合わせればいいだけだから。でも、あんたの場合は武田にとって都合のいい基準をつまみ食いしてるから駄目なの。それただのダブスタ(トリスタ、クワスタ)。
キリスト教を弾圧するならともかくそれをしてないのだから、敵の敵は味方ということで、フロイスにとっては関係ありません。
※131
武田家の畿内調査班がちゃんと報告してるでしょ当然。
信玄死亡は極秘事項だけど、河内三好滅亡は公然のことだからね。
※132
残党狩りは侍だけですから普通の領民にとっては別に悲惨でもなんでもない。「どう見ても」領民一揆だという根拠がないでしょ。
これから何年も立て籠もるつもりなわけだから、同じなわけがないという根拠は全くないですね。
いや、普通はわかるでしょ。貴方がわかりたくないと必死で理解拒絶してるだけの話、ですよ。
上でもあげましたけど、貴方が今やってるようなみょうちきりんな資料精査のやり方ですと、
信長公記で桶狭間で今川義元が4万5千、というのを全部鵜呑みにしておかしい所を疑っては
ならない、とかいう変な話になりますけど、実際に普通の研究者さんとかライターさんとかも、
桶狭間で今川が4万5千、なんてまともに取り合ってる人なんかまずいないです。
今川4万5千、なんていう「兵数」は明らかに誇張だろう、って事で判断されてますし、
でも今川義元が国力的に問題ない位のそれなりの大軍で桶狭間に侵攻した、という「事象」は
史実として研究されてる、っていう至極当たり前の事でして、
信長の10万だのなんだのも、普通にその類の誇張兵数の類として扱われるものだってだけです。
っていうか、畿内に流される誇張兵数をそのまま真に受けてたら、普通に武田西上軍は6万以上になる、
って事を普通に理解してほしいですなあ。貴方は都合が悪いですから、必死で理解拒絶なさってるようですが。
え、それって貴方の妄想ですよね。とりあえず、それを資料とか根拠に基づいて論証してほしいですね。
てか、その理屈で言いますと、1573年の足利や松永を滅ぼした時点で織田の国力って
そんなに増えてないって事になりそうですが。
なんていうか、もうなんとかして都合悪い所を必死で理解拒絶して粘る方向にもっていきたがってるようですが、
こちらとしてはそんなのにのってあげるつもりはないですねー。(続く)
いや、十分なってるでしょ。
長篠当時はまだ越前一揆が制圧されておらず、余裕なんて特にないですよ。
にも関わらず、北陸の抑えまで動員して長篠に連れてきて3万の兵を備えたわけです。
この決断は信長にとっても一つの賭けだったようで、この何とかして3万もの兵を集結させた機会に、
なんとかして武田相手に大きな勝利を得たいと、桶狭間にならって熱田神宮で戦勝祈願してますねー。
ついでに、その畿内に備えたどうたら言ってますけど、長篠に参戦した織田家武将達は
織田の主要武将達ばっかりですし、これで畿内に7万くらい兵力残してるとかありえないですから。
この事は上にも書きましたけどね。さらにこれも上にも書いた事ですけど、
織田信長がこの長篠合戦に大勝した後で、武田勢による東からの鋭鋒が衰えた事により、
勢いにのってこれまた主要武将達をオールスターで連れて行って越前一揆攻めをした時の兵数も三万なわけで、
普通にこの時期に織田が全力で一方向に遠征軍として集結させえる軍勢が三万前後だった、
といういい事例にしかならないと思いますが。
国力的にも、当時の各地に派遣されてる織田勢の配置から類推しても、一方向に15万なんて到底無理と
思われるからです。逆にどうやったら、15万を当時の織田の国力や、各地に派遣してる兵力などの整合から
一方向に調達できると思ってらっしゃるのか、ぜひとも論証してもらえませんかね?
貴方ってこっちにばっか求めてばかりで、ご自身でまともな論証全然やってませんので、
まともな資料や根拠に基づいて論証してもらえませんかね。
ってか何度も言うように、織田10万どうたらと喚くなら武田信玄の西上軍が6万以上になるのに、
それは都合悪いから必死こいて理解拒絶されたって、こちとら白けるだけですねー。
(続く)
発狂しながらめちゃくちゃな事を言われたってこちとら白けるだけですけどー。
>フロイス基準なら全部それに基準を合わせればいいだけだから。
一つの資料で一つの史実と認められる事があったら、その資料における全ての記述を盲信しないといけない、
なんて滅茶苦茶な事を言ってるのは、地球上探しても貴方くらいだと思うのですけどねえ。
私としちゃ、信玄西上軍で当時の武田の国力などから6万なんてありえないと思ってますし、
それと同様の理由で信長軍10万なんてありえない、と言ってるだけで、完全に同一の基準なんですけどねえ。
ダブスタとかなんとか言って喚いてますけど、ぶっちゃけ、貴方が貴方の論旨がもう収拾つかなくなって、
なんとかしてそれを認めたくなくて、信長が絶対的優位だと主張したくて、資料精査を全部否定して
発狂しながら喚いてるだけ、としか思えないわけで。
まあ、いいでしょう。なら貴方の資料精査基準、すなわち一つの資料において史実と認められる所があったら、
その資料の全て盲信し、全てを疑っても精査してもならない、逆に一つおかしな所があるといった資料は
一切それ以外の部分を使ってはならない、とかいうおかしな基準を貴方がどこまで貫徹できるか、
ちと尋ねてみたいのですが、貴方が信長10万の根拠として挙げている資料は信長公記ですが、
この信長公記では桶狭間の戦いは1552年にあったと記され、今川勢も4万5千、という事になってます。
この二つの史実との相違について、普通の研究者さんはまず間違いだろうと判定し、まともにとりあいません。
ですが、貴方の基準ですと、貴方が信長公記にある事を根拠として、信長10万を使うためには、
この桶狭間における史実との相違点もどうにかして肯定しないとならなくなりますが、
ちとまともな資料なり論拠なりに基づいて論証してもらえませんかね?まあ、無理とは思いますが。
(続く)
×一切それ以外の部分を使ってはならない
○一切それ以外の部分をも使ってはならない
ですね、失敬。
それから、6万でも構いません、といったからには信玄西上軍が6万以上という事になり、
武田勝頼が兵力4分の1以下で長篠決戦を挑んだ事になりますので、
勝頼の判断は普通に間違いだった、という事でFAになりそうですが。
いや、関係あるでしょ。実際にフロイスも後で信長の事をネブカドネザルの狂気と傲慢云々いってくさしてますし。
フロイスにとっては信長はそんなに無理してまで持ち上げる対象じゃないですよ。
ってか、6万でいいって言ったんじゃなかったんですか。こちらとしては失笑ものではありますが、
貴方が武田の総兵力が6万以上でいい、とおっしゃるなら、武田勝頼は総兵力の4分の1以下しか
連れてきてないのに、無理して不利な状況で織田に挑んだおかしな決断をした人だった、という事で
FAでちゃいますよね。(続く)
畿内調査班って何よ、という気もしますが、本能寺の変において、長篠当時の武田よりもよっぽど圧迫されて
滅亡するかしないかの瀬戸際ともいえる状態にいた毛利家ですが、彼らは当時備中において羽柴勢と対峙しており、
本能寺までの距離は、長篠の武田勢における河内と比しても近距離にあります。その彼らですら、信長が倒された、
という事を6日くらいたった後で、「なんか信長父子が死亡したとかいう噂がある。」と述べてますし、
彼らに庇護されていた足利義昭が「信長が死亡したのは確定情報だ!今こそ上洛の時だ!」という事を
6月9日に毛利家に言ってますが、それでも毛利は慎重に情報の収拾と精査を進めています。
そして6月15日に「播磨からたった今入った情報だけど」として本能寺に関する情報を述べてますが、
その中には二条御所で死亡した福富が明智と一緒に謀反を起こしたとか、変な情報も入ってるわけで。
このように、長篠における武田勢より事態の現場に近距離で、遥かに切迫し、
いち早く足利将軍からも事実だと知らされてる毛利家ですら、確実な情報の収拾と精査、
そして判断に関しては時間を擁してるわけでして。果たして長篠の時の武田勢が河内三好の降伏を
そんなに早く確定情報として判断し、しかもそれを自身の決戦における判断材料にする、などという事が
あったのかどうか疑問ですね。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。(続く)
畿内調査班って何よ、という気もしますが、本能寺の変において、長篠当時の武田よりもよっぽど圧迫されて
滅亡するかしないかの瀬戸際ともいえる状態にいた毛利家ですが、彼らは当時備中において羽柴勢と対峙しており、
本能寺までの距離は、長篠の武田勢における河内と比しても近距離にあります。その彼らですら、信長が倒された、
という事を6日くらいたった後で、「なんか信長父子が死亡したとかいう噂がある。」と述べてますし、
彼らに庇護されていた足利義昭が「信長が死亡したのは確定情報だ!今こそ上洛の時だ!」という事を
6月9日に毛利家に言ってますが、それでも毛利は慎重に情報の収拾と精査を進めています。
そして6月15日に「播磨からたった今入った情報だけど」として本能寺に関する情報を述べてますが、
その中には二条御所で死亡した福富が明智と一緒に謀反を起こしたとか、変な情報も入ってるわけで。
このように、長篠における武田勢より事態の現場に近距離で、遥かに切迫し、
いち早く足利将軍からも事実だと知らされてる毛利家ですら、確実な情報の収拾と精査、
そして判断に関しては時間を擁してるわけでして。果たして長篠の時の武田勢が河内三好の降伏を
そんなに早く確定情報として判断し、しかもそれを自身の決戦における判断材料にする、などという事が
あったのかどうか疑問ですね。
上杉領と武田領なら凄く近いので、いろいろと調査もしやすいでしょうけど、
三河と河内の距離を考えれば、武田勝頼が戦地にいる事もあって、
まだ風聞の領域かと思われますが。(続く)
いや、実際に敵対した側である信長公記ですら、一向宗だなんて書いてないわけで。
第一、貴方が※128で言い出した一向宗の根拠である、
須田が上杉家臣だからとか、一向宗を指導した、なんて
ろくに根拠がない事だって説明されてるじゃないですか。これでいったい何を主張したいんですか。
織田の暴政、と後世に語り継がれるくらいに恨まれて、本能寺の変の後ですぐさま襲い掛かられてるのに、
織田の甲斐統治がまともなもんだと主張されるのは、「どう見ても」おかしいのではないですかね。
いやいや、急だったから拠点もろくになくて、古城を修築して籠ってる、という状況なのに、
それまでずっと東海道地方における本願寺の主要拠点の一つで、伝統と格式をも持つ伊勢長島と
同じだなんてどう考えたって無理ですって。同じというなら、少しは論証してもらえませんかね。
長篠まで、いろいろな謀略やりまくってそうだわ。
勝頼DQNで
わかりませんよ。お前のアクロバティック武田擁護理論はお前にしか理解不能。
はいはい。資料出したって武田にとって都合が悪ければ「鵜呑みにするな!」なんでしょどうせw
※135
越前一揆は制圧されてはいないけど、内紛で外に向ける体力ないですから。
大きな勝利は得たかったでしょうね。大軍過ぎると勝頼は逃げてしまうだろうからちょうどいい兵力で進軍してるし。
このことは上にも書きましたけど主要武将がいるからって全力だとは限らない。よって何の説得力もない。
国力的に無理だっていう根拠は?多門院という資料を提示してる。それは誇張だと言ったのはお前だろさっさと言えよ。
※136
信長10万や15万は「一つの資料」ではない。多門院日記と信長公記両方に書いてある。
フロイスだけの武田軍6万とは雲泥の差。はい論破。
※138
フロイスは勝頼軍を2万などとは言っていない。
信長が狂気と傲慢に陥ったとくさされたのは総見寺を建てた頃。つまりもっと後。
※139
本能寺の報は秀吉はじめ織田勢力にとって重要機密事項ですが、河内三好の動向なんて公然のことですからね。一週間で余裕で伝達するでしょ。当主義継なんて1573年に死んでるし。
※141
残党狩りは侍だけですから普通の領民にとっては別に悲惨でもなんでもない。「どう見ても」領民一揆だという根拠がないでしょ。
これから何年も立て籠もるつもりなわけだから、同じなわけがないという根拠は全くないですね。
完全にいつも通りの行動で予想通りですー。
※144
いや、普通はわかるでしょ。現状では、貴方が認めたくなくて、必死こいて論理性抜きで
理解拒絶して喚いてるだけ、としかなってませんけど。
アクロバティックも何も、普通に桶狭間が1552年で今川が4万5千、
なんて鵜呑みにしてる学者さんはいないわけで、
貴方のいう、一つの資料を基にして、それで一つあってる所があったら他の全てを盲信しなくてはならず、
反対に一つでもおかしなところがあったら、その資料は他の全てを利用してはいけない、
というみょうちきりん論旨によれば、普通に信長公記は貴方の基準点において採用不可の資料となります。
となれば、貴方が必死こいて固執してる、信長公記にあるから10万なんだ、という論旨は、
貴方の基準点において信長公記が採用不可の資料となる以上、使えなくなるわけです。
どうでもいいですので、貴方が織田10万と言いたいなら言いたいで、さっさと信長公記の矛盾点を
論証して肯定させる事から初めてもらいたいですなあ。
でないと、貴方の基準点においては、信長公記使えない事になってしまいますしー。
ご自身で言い出した事なんですから、さっさとやってくださいねー。
っていうか、明らかに畿内において宣伝された誇張数字でいいなら、武田の西上軍は6万以上になると、
何度も書いていますけど、そっちには一切お答えないのはなんでなんでしょうね?
さっさと論証よろしくですねー。(続く)
>はいはい。資料出したって武田にとって都合が悪ければ「鵜呑みにするな!」なんでしょどうせw
そんな事一言も言ってませんけど?とりあえず貴方の論証の内容次第ですねー。
どうでもいいですので、さっさとやってくださいねー。相手にばっか要求して、一切まともな資料や根拠を用いた
論証を行っておられないようですのでー。
相手がいなくなってる事を期待して数日間あけるような姑息な事をするくらいでしたら、
論証をさっさと書き上げるようにしてくださいねー。
そんな事をいう割には、高天神の時は越前方面の警戒を厳戒にするように通達しておりまして、
到底そんな事にはなってないようですが。結局、わざわざ越前方面の兵力を引き抜いてるのに、
余裕だなんていう事の理由には一切なってないようですが。
大軍すぎるも何も、高天神の時は越前方面軍を動員できなくて、長篠以下の兵力だったろう、と
推測され、武田勢2万5千相手に進むに進めない状態だったのに、何を言ってるんでしょうかね。
武田勢1万5千相手に越前方面軍まで動員して、いそいそと3万でやってきた所からも、
普通に兵力優位を確保したかっただけだと思われますが。
全力だとは限らない、と言ってますけど、逆に全力でない根拠がどこにもないですけど。
主要武将がこれだけ参戦して、越前攻めでも長篠でも三万余、どっちも信長がオールスターを動員して
一挙に大きな勝利を求めたという所も同じ、これで全力でない、というなら、
それをまともな資料や論拠に基づいて論証してもらわないとどうにもなりませんなあ。
さっさとしてくださいねー。説得力って、ぶっちゃけ貴方が納得したくないと喚いてるだけにしか思えませんので。
(続く)
だから、畿内の誇張宣伝ありでいいなら、武田の西上軍は6万以上になると何度も言ってるのですが、
そこについては一切ノーコメントなのはどういう事なんですかねー?
さっさと答えてもらせませんー?
やれやれですねえ。普通はそっちが可能だと思うなら、論証して示すべきだと思いますが、
仕方ないのでこちらが先に矛盾点を指摘してあげましょうか。サービスですね。
まず、多門院日記の1577年2月13日の出陣における織田勢15万、ですが、
兼見卿記では10万となってるわけで。
同日の出陣の事を書いてるのに、この時点で数字が食い違ってるのですけどw
次に、この時点での織田の領国はせいぜい400万石もまずいかねーだろう、という感じでして
1万石250人換算で、総動員したって、15万どころか、10万の軍勢を集めるのすらまず不可能なわけです。
しかも、各地に各方面の相手の抑えの兵とかも残っており、15万どころか、その半分だっていけるかどうか
疑問な感じです。何度も言いますが、武田西上軍を6万以上としている、畿内への誇張風聞で
10万とか15万とか6万以上だとか言い出したってしょうがないわけで。
こんな状況でどうやって15万動員できるというのか、
ぜひともまともな資料や論拠に基づいて論証してくださいねー。(続く)
いや、全然論破されてないでしょ。っていうか、無理に曲解してるんですかあ?
信長10万は信長公記ですし、信長15万は多門院日記、でそれぞれ一つずつの資料、でしょ?
何を曲解してるんですかあ?
ついでにどっちも畿内の誇大宣伝兵力を、それぞれの筆者が書き写しただけっぽいのも同様ですし、
同じく畿内に流れていたであろう誇大宣伝兵力を書き写したっぽい、フロイスの記述と
何から何まで一緒なのですけど。なので、信長10万を使いたいなら、
武田西上軍6万以上がありになる、と。
必死で曲解しようとしたのに、あっさり論破されちゃって、残念でしたね。
よって、信長10万を貴方のみょうちきりんな基準点に基づいて使いたいなら、
貴方は以下の問いに答える必要があるわけでして。
貴方の資料精査基準、すなわち一つの資料において史実と認められる所があったら、
その資料の全て盲信し、全てを疑っても精査してもならない、逆に一つおかしな所があるといった資料は
一切それ以外の部分を使ってはならない、とかいうおかしな基準を貴方がどこまで貫徹できるか、
ちと尋ねてみたいのですが、貴方が信長10万の根拠として挙げている資料は信長公記ですが、
この信長公記では桶狭間の戦いは1552年にあったと記され、今川勢も4万5千、という事になってます。
この二つの史実との相違について、普通の研究者さんはまず間違いだろうと判定し、まともにとりあいません。
ですが、貴方の基準ですと、貴方が信長公記にある事を根拠として、信長10万を使うためには、
この桶狭間における史実との相違点もどうにかして肯定しないとならなくなりますが、
ちとまともな資料なり論拠なりに基づいて論証してもらえませんかね?まあ、無理とは思いますが。
この件を都合よくスルーしようとしたってそうはいきませんよw早く論証してくださいねー。(続く)
いや、フロイスが勝頼軍を2万と言ってないから、って何なんですか。
論理的なつがなりが全くないと思われますが。
ってか、なんで2万なんです?6万以上の4分の1以下ですから、1万5千くらいでしょ?
現に信長公記では長篠で勝頼1万5千ですし。
ひょっとして割り算でも間違えたんですか?とりあえず、どうして2万で、
それがこの話題にどう結び付くのか、さっさと示してもらえませんかね。
だから、結局、フロイスにとっては別に信長を無理して持ち上げる必要なんかどこにもないんですよ。
おかしな事してりゃおかしな事してると書くし、別に信長を本国への報告書で持ち上げる必要は
特にないわけで。まして貴方のアクロバティックでみょうちきりんな理由で
武田西上軍の数をどうこうする理由なんか欠片もないわけで。
で、どうでもいいですけど、
6万でも構いません、といったからには信玄西上軍が6万以上という事になり、
武田勝頼が兵力4分の1以下で長篠決戦を挑んだ事になりますので、
勝頼の判断は普通に間違いだった、という事でFAになりそうですが、という件について
さっさと答えてもらえませんかねー。(続く)
いや、フロイスが勝頼軍を2万と言ってないから、って何なんですか。
論理的なつがなりが全くないと思われますが。
ってか、なんで2万なんです?6万以上の4分の1以下ですから、1万5千くらいでしょ?
現に信長公記では長篠で勝頼1万5千ですし。
ひょっとして割り算でも間違えたんですか?とりあえず、どうして2万で、
それがこの話題にどう結び付くのか、さっさと示してもらえませんかね。
だから、結局、フロイスにとっては別に信長を無理して持ち上げる必要なんかどこにもないんですよ。
おかしな事してりゃおかしな事してると書くし、別に信長を本国への報告書で持ち上げる必要は
特にないわけで。まして貴方のアクロバティックでみょうちきりんな理由で
武田西上軍の数をどうこうする理由なんか欠片もないわけで。
で、どうでもいいですけど、
6万でも構いません、といったからには信玄西上軍が6万以上という事になり、
武田勝頼が兵力4分の1以下で長篠決戦を挑んだ事になりますので、
勝頼の判断は普通に間違いだった、という事でFAになりそうですが、という件について
さっさと答えてもらえませんかねー。(続く)
いや、義継が死亡したのが1573年だからって、なんで三河で戦地にいる武田と
河内の距離が縮まるのか謎なのですが。一週間で伝わるという根拠は?資料は?
さっさと論証してくださいねー。適当な事ばっか言ってないで。
っていうか、重要機密事項とか言ってますけど、誰が機密にするんですか。
当時は信長が殺され、畿内は光秀が抑えようとしてる状況で、
光秀はむしろ積極的にこの事実を広めようとしてる状況なわけで。
しかも毛利の庇護下にいる足利義昭がこの情報を掴み、それを確定情報だとして毛利に伝え、
今こそ上洛の時だ、とたきつけているにも関わらず、毛利は慎重に情報の収拾と精査に
力を注いでるわけでして。それで結構な時間を要してるわけで。
貴方のいう、一週間どうたら、余裕どうたら、というのを、まともな資料や根拠に基づいて
論証してくださいねー。ちゃんとね。(続く)
なんでこっちにとっくに否定された事を全く同じようにリピートしてるんですか?
ひょっとして、ここだけろくな無理矢理弁明も思いつけなかった、って感じですか?
とりあえず、まったく根拠になってませんので、以下についてちゃんと答えてくださいねー。
実際に敵対した側である信長公記ですら、一向宗だなんて書いてないわけで。
第一、貴方が※128で言い出した一向宗の根拠である、
須田が上杉家臣だからとか、一向宗を指導した、なんて
ろくに根拠がない事だって説明されてるじゃないですか。これでいったい何を主張したいんですか。
織田の暴政、と後世に語り継がれるくらいに恨まれて、本能寺の変の後ですぐさま襲い掛かられてるのに、
織田の甲斐統治がまともなもんだと主張されるのは、「どう見ても」おかしいのではないですかね。
ついでに、織田の暴政、と後世に語り継がれたのは、残党狩り以降の、河尻が甲斐統治を始めて以降の
統治内容についてなのですが。
上記と同じく、まったく同じような妄言をはかれても困ります。
そこに何年も立てこもるつもりだったかも微妙なわけで。
急だったから拠点もろくになくて、古城を修築して籠ってる、という状況なのに、
それまでずっと東海道地方における本願寺の主要拠点の一つで、伝統と格式をも持つ伊勢長島と
同じだなんてどう考えたって無理ですって。同じというなら、少しは論証してもらえませんかね。
尊敬に値するわw
「貴方」が「見てない」と言えるのは「貴方」の主観だけであって、
ただ一人の人間でしかない貴方が、ネットの不特定多数の人間が読んだかどうかを
代弁することなどできませんよ?それともご自身が成りすましとかを多用なされすぎて、
そんな事もご理解されなくなってしまいましたか?
まあ、普通に読めば私の論旨が正しい事が明白にわかると思いますので、
貴方的にはそういいたくて仕方ないのかもしれませんが。
まあ、私としては、さっさと貴方に、貴方が要求されている論証とかをさっさとやってほしい、
という事ですので、さっさとやってくださいねー。
歴史学界の頂点取れるのは君しかいないよ!
相変わらず、苦しくなったら都合悪い事をいう相手に菅沼認定しか芸の無い、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さん乙です。
※145
お前みたいなキチガイしかわからん。
※146
「鵜呑み」でこのページ検索してみ。おまえ、思いっきり言ってるからw
厳重にしろということは、逆に言うと緩みがちになるようなことが起こったということ。
※147
食い違ってると言っても比率にすると3:2で大差はない。米しかないようなド田舎ならそうだろうけど※39みたいなのが実態なんですよ。真栄平房昭氏によれば何にも耕さなくても貿易船1艘出しただけで5万石の領土と同じ収入を得ていたわけだから。そんなこんなで10万以上はいくでしょうね。
※148
曲解してるのはお前。
2つの資料に10万以上とあるのに、お前は頑として認めようとしてない。都合よすぎるんだよお前は。
※150
西上6万とかいうフロイス基準を根拠にするなら、勝頼軍もフロイス基準で見ないと意味ないだろ。フロイスが2万以下だと言って初めて4分の1だと言えるわけ。信長公記を基準に2万だと言うなら、信長公記に書いてる信長軍10万も受け入れろよ。お前は都合よくころころ基準変え過ぎ。
四捨五入して2万。弱小大名武田にとっては大きな差なのかもしれないがw2万も1万5千も大して変わらんだろ下らんことでガタガタ抜かすな。
フロイスが持ち上げなくなったのは総見寺を作ったあたりから。信玄西上のころは関係ない。
※152
縮まるなどとは言ってない。河内三好はほぼ終わりだねってことは1573年にはだいたいわかってたってこと。さすがアスペルガー菅沼w
織田勢力にとって重要機密事項、って書いてるだろちゃんと読めよアスペ。
※153
おまえの言い分はとっくに否定されているにもかかわらずそれを繰り返すことしかできないからもはやコピペで充分。
いや、毎日暇なのは明らかに貴女でしょw苦しくなったら菅沼認定連呼しか芸がない、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんw
いつもいつも平日も土日も朝も昼前も昼以後も夕方も夜も深夜も、
色々な時間にあちこち書き込んでらっしゃるのに、いったい何を言ってらっしゃるのかとw
いやー、やっぱり今回も数日あけて、相手がいなくなってくれてたらいいなー、とか思いながら
書き込んできたのが丸わかりですねー。
とりあえず、次レスから貴女の妄言に対して反論していきますね。(続く)
いや、普通に論理的に理解する意欲さえお持ちなら、十分に理解できる事かと。
ただ単に貴女が都合悪くて、それにこたえられないから、必死こいて理解を拒絶されてるだけですので、
どうでもいいですので、さっさと以下に答えてもらえませんかねー?
普通に桶狭間が1552年で今川が4万5千、
なんて鵜呑みにしてる学者さんはいないわけで、
貴方のいう、一つの資料を基にして、それで一つあってる所があったら他の全てを盲信しなくてはならず、
反対に一つでもおかしなところがあったら、その資料は他の全てを利用してはいけない、
というみょうちきりん論旨によれば、普通に信長公記は貴方の基準点において採用不可の資料となります。
となれば、貴方が必死こいて固執してる、信長公記にあるから10万なんだ、という論旨は、
貴方の基準点において信長公記が採用不可の資料となる以上、使えなくなるわけです。
どうでもいいですので、貴方が織田10万と言いたいなら言いたいで、さっさと信長公記の矛盾点を
論証して肯定させる事から初めてもらいたいですなあ。
でないと、貴方の基準点においては、信長公記使えない事になってしまいますしー。
ご自身で言い出した事なんですから、さっさとやってくださいねー。
っていうか、明らかに畿内において宣伝された誇張数字でいいなら、武田の西上軍は6万以上になると、
何度も書いていますけど、そっちには一切お答えないのはなんでなんでしょうね?
さっさと論証よろしくですねー。(続く)
さて、どこの事だろう、と思いましたが、ひょっとして※145の事ですか?
これって信長公記の桶狭間が1552年で、今川勢が4万5千、って事になってる事について、
まともな学者さんはまず鵜呑みにしてない、ってな事で、普通に史実的に見ても
無理がある事だから、普通に年代は信長公記の間違いであり、兵数は誇張、って事に
なってるだけの話ですけど。
いや、貴女がこれを史実だとして主張なさるなら、ちゃんと論証さえしてくれれば、
それでいいんですよ?まともな学者さんでさえ、これらを肯定するのはまず無理ですから、
非常に難しいと思いますけど、貴女がたびたび主張されている、※145でも紹介されている、
「一つの資料を基にして、それで一つあってる所があったら他の全てを盲信しなくてはならず、
反対に一つでもおかしなところがあったら、その資料は他の全てを利用してはいけない、」
というみょうちきりん基準点に基づけば、貴女が信長公記を活用して織田勢10万を主張していく為には、
何としてもこの桶狭間が信長公記では1552年で、今川勢4万5千、というのを論証せざるを
えないですので、さっさとやってほしいのですけど。
全然そんな内容じゃないんですけど。どうでもいいですので、さっさとまともな資料を基にして論証して
くださいねー。いつも通り、貴女は妄想願望しか書き殴ってないようですのでー。(続く)
いや、三分の一も違ったら、普通は大違いでしょ。軍隊でも三割戦えなくなったら全滅判定ですよ。
またそのみょうちきりんな基準を持ちだすんですか?超巨大な山城を持ってる足利義昭が信長に瞬殺されてる
時点で全然あてにならない、って貴女自身が認めてるようなもんじゃないですか。
「そんなこんなで」って全然根拠になってないじゃないですかw結局、どれだけの収入が信長にあり、
信長がそれに基づいてどれだけの兵を召集していたか、というのを論証して提示して見せない事には
貴女の言ってる事はただの妄想願望です。まあ、いつもの事ではありますが。
まあ、どうでもいいですので、貴女がその10万だかなんだかを使う前に、
とりあえず信長公記の桶狭間の矛盾点を論証したりしてくださいねー。
でないと、貴女のみょうちきりんな基準点では信長公記が使用不可になっちゃいますよー。(続く)
ああ、※162に追記として、そんなこといったら、武田も商業経済をいろいろ発展させてますから、
武田も副収入ありとかいう話になるのでは?
いや、だからその二つの資料って、どっちも別々の時期の別々の事を言ってるだけじゃないですか。
そんなんでいいなら、武田西上軍も6万以上になる、畿内に当時いたフロイスの記述でしっかりと
そう書いてある、と示すと、貴女は貴女の発狂妄想願望に都合悪い事だから、
必死こいて拒絶してる。都合よすぎとしかいえないですねー。
どうでもいいですので、さっさと※148にもあるように、貴女が貴女のみょうちきりんな基準点、
すなわち「一つの資料において史実と認められる所があったら、
その資料の全て盲信し、全てを疑っても精査してもならない、逆に一つおかしな所があるといった資料は
一切それ以外の部分を使ってはならない」というみょうちきりんな基準点によりますれば、
貴女はさっさと信長公記において、桶狭間が1552年で、今川勢が4万5千となってる事を
資料を基にして論証し、肯定しなければいけないわけで。
それをしないと貴女の上記のみょうちきりんな基準点では、信長公記が活用不可になるわけで、
そんなに信長公記を使いたいなら、貴女の基準点に基づいてさっさと論証してくださいねー。
いや、それは無理無理でしょ。その理屈でいうなら、貴女が必死こいて固執してる雑賀攻めの兵力なんて
信長公記にはどこにも書いてないので、信長15万の兵力根拠なんて消滅ですね。
もともと畿内の誇張兵数で、同日に書かれた二つの書物でも兵数が三分の一も食い違ってるような
話ですからもともと無意味といえばそうですけどw
っていうか、何度も言ってますけど、信長公記に基づけば長篠は武田勢1万5千なんですけどw
四捨五入にしてはずいぶん大きな差だと思いますがwひょっとして、本当に割り算間違えたっぽいですねw
基準ころころじゃなくて、現実的にありえる兵数を採用しているだけの話ですけどねえ。
貴女は資料精査一切しないで、一つの資料で史実と認められるところがあったら発狂しながら
それに飛びついてのたうち回り、その資料の全ての記述を盲信なさるようですが、
貴女がそんな感じで信長公記を使いたい、と喚くなら、貴女は貴女のみょうちきりんな基準点、
すなわち「一つの資料において史実と認められる所があったら、
その資料の全て盲信し、全てを疑っても精査してもならない、逆に一つおかしな所があるといった資料は
一切それ以外の部分を使ってはならない」に基づき、信長公記において桶狭間が1552年の出来事で、
今川勢が4万5千、というのをさっさと資料を基にして論証して肯定しないといけないわけで。
さっさとしてくださいねー。でないと、貴女の基準だと信長公記使えなくなっちゃいますよー。
別に総見寺作る前からも無理して持ち上げるような事はしてないと思うのですが。
すくなくとも貴女のみょうちきりんな理屈で武田西上軍を誇張する必要なんかどこにもないと思いますしー。
どうでもいいですので、さっさと論証してくださいねー。(続く)
いや、それって貴女の妄想でしょ。現にそれから二年近くにわたって健在だったわけで。
貴女の発狂妄想願望に賛同しなけりゃアスぺなんたらなら、日本にいるまともな学者さんや
まともな論証ができる人の大半はアスぺなんたらと貴女に認定されそうですが、
それって客観的に見れば貴女が発狂妄想願望でのたうちまわってるだけ、って事にしか
ならないと思われますが。
ですから、当時は畿内を明智が抑えようとしてる状況で、織田勢力が機密にしようとしまいと、
その敵側になってる明智が宣伝しようとするわけです。
現に足利義昭とかが信長が殺されたのを真実だとして、毛利に決起を求めてますし。
それでも毛利は慎重に情報の精査と分析を要したわけでして、
武田勢と河内の距離よりも近く、状況的にも切迫していた毛利ですらこんな感じなので、
貴女の妄想願望が適合してるかはとっても疑問なわけでして。
そうやって論旨的に答えられなくなったら、発狂しながら相手をアスぺ認定したって、
こちらからすれば、論旨的に答えられないから、必死こいてアスぺと喚いて
相手に無理矢理認めさせようとしてるだけにしか思えないわけでして。
どうでもいいですので、さっさと論証してくださいねー。(続く)
いや、それって貴女の妄想願望発狂世界だけでの話でしょう?
現実的には、まったく根拠になってませんので、以下についてちゃんと答えてくださいねー。
実際に敵対した側である信長公記ですら、一向宗だなんて書いてないわけで。
第一、貴方が※128で言い出した一向宗の根拠である、
須田が上杉家臣だからとか、一向宗を指導した、なんて
ろくに根拠がない事だって説明されてるじゃないですか。これでいったい何を主張したいんですか。
織田の暴政、と後世に語り継がれるくらいに恨まれて、本能寺の変の後ですぐさま襲い掛かられてるのに、
織田の甲斐統治がまともなもんだと主張されるのは、「どう見ても」おかしいのではないですかね。
ついでに、織田の暴政、と後世に語り継がれたのは、残党狩り以降の、河尻が甲斐統治を始めて以降の
統治内容についてなのですが。
上記と同じく、まったく同じような妄言をはかれても困ります。
そこに何年も立てこもるつもりだったかも微妙なわけで。
急だったから拠点もろくになくて、古城を修築して籠ってる、という状況なのに、
それまでずっと東海道地方における本願寺の主要拠点の一つで、伝統と格式をも持つ伊勢長島と
同じだなんてどう考えたって無理ですって。同じというなら、少しは論証してもらえませんかね。
ネット廃人カス子さんの妄言論破完了ですね。
しかし、本当にこのおばさまは毎日毎日お暇のようですのに、
論証を一切なさらないのはどうしてなのでしょうねー。
とっても疑問ですー。
信玄と菅沼が組めば武田は労せず天下をとれた
と、いつも通り都合悪い事をいう相手には菅沼連呼認定しか芸の無い、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんでした。
壺事件でオダチュウガーと息巻いていたのはどこの誰かなー
また菅沼認定ですか。本当に芸がないですねー。
こっちはぶっちゃけ、菅沼なんたらとは一切関係ないので、
貴女の妄想とは別に壺事件とか全然知らないですし、興味もないです。
どうでもいいですので、さっさと貴女はこの掲示板で貴女に要求されてる論証とか
さっさとやってください。腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さーん。
他の記事はガン無視なのに
>真田信綱→信濃先方衆最有力の真田家次期当主
1574年に幸隆父さん亡くなっているから真田家当主です。
他のスレでも長文どうたらで喚いてたけど、相手にくだらないレッテル貼りとかする事に固執するくらいなら、
さっさと求められている論証出したらいかがですかねー?
逆に言うと、武田関連の事では必ずと言っていいほど、滅茶苦茶な武田叩きと史実とかけ離れた信長持ち上げを
行おうとし、それを論破されると盛大に発狂してレッテル貼りを行う事に固執されようとする、
非常に特徴的な方がわきますけど、これってすごいわかりやすいですよね。
もう菅沼認定したところでどうせ「腐女系おばちゃま独身ニート織田厨のネット廃人カス子さんは何でも菅沼認定しかでかないんですね乙」とか叩かれるだけだから放っておけよ
もう既に※177の人が言っている事ではありますが、改めて。
腐女系おばちゃま独身ニート織田厨のネット廃人カス子さんは何でも菅沼認定しかできないんですね、
ああ、ついでに元々の呼び名である、オリジナル・subちゃん、とも呼んであげますね。
※173に書かれてる所業はどっからどう見ても、貴女のご所業だとしか思えないのですがー。
どうでもいいですので、さっさと貴女に要求されている論証とかはさっさとやってくださいねー。
×※173に書かれてる所業は
○※175に書かれてる所業は
菅沼遼太さんはここのスレ主であるニッコリンさんをtwitterでフォローしている模様
いつも通り、都合悪い事をいう相手を菅沼認定する事に躍起で、
いつも通り、相手がいなくなったと思った頃に発狂しながらの認定を行おうとしてる、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんこと、オリジナルsubちゃーん、
正直な話、貴女が何を言ってるのか、こっちには支離滅裂でわけワカメなのですが。
なんでそんな事言い出したのか、根拠を示してもらえませんかね。
いつも通り、都合悪い事をいう相手を菅沼認定する事に躍起で、
いつも通り、相手がいなくなったと思った頃に発狂しながらの認定を行おうとしてる、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんこと、オリジナルsubちゃーん、
正直な話、貴女が何を言ってるのか、こっちには支離滅裂でわけワカメなのですが。
なんでそんな事言い出したのか、根拠を示してもらえませんかね。
俺はお前が菅沼遼太だなんて一言も言ってないんだけどwwwwwwwwwwwwww
何でもネット廃人認定する菅沼遼太さん乙wwwwwwww君に反論した位で織田厨と一緒にすんな
唐突に菅沼なんたらと喚きだしておいて、しかも文体もリアクションもいつも通りなのに
他人設定とかいつも通り無理ありすぎなんですけどww
さすがに腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんは芸風が少ないですねw
で、結局最後はやっぱり菅沼認定する事に固執してる、とwわかりやすすぎて滑稽なのですけどww
で、結局の所、菅沼なんたらの人がツイッターどうたら、って何が根拠なのかとか
貴女に要求されている論証やら資料提示やらはいったいいつになったら示してくれるのか、とか
色々答えてもらえませんかねー。さっさと。
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんこと、オリジナル・subちゃんが
ニコニコ掲示板とかで複アカ自演工作に発狂しながら邁進し、盛大に対処されて火だるまになり、
爆笑されてる所業を見れば、彼女の所業が一体何の意味を持つのか意味不明杉ではありますが、
とりあえずカス子さんにはさっさと要求されてる論証や資料提示とかをして欲しいですなー。
えっと・・・菅沼遼太がここのスレ主をtwitterでフォローしてる証拠って事?
このスレの一番上の真ん中に「twitter」って書いてあるだろ?
そこクリックすればスレ主のtwitter入れるから
followerに「菅沼遼太」っていう人が三人もフォローしてるのが分かるから
あとお前貴女貴女って俺男なんで
へー、そうなんですか。でも私ってツウィッターやってないですので、
フォロワーの人を確認できないみたいですねー。ま、それほど興味もないですしー。
で、この時点で私がその菅沼なんたらの人とは無関係である事は明白ですが、
その「菅沼なんたら」なる名前が三人も存在し、フォローしてる時点で、明らかにその菅沼なんたらの
なりすましなり、面白がってつけた名前、的なものである事が明白と思いますが。
ネット慣れしてない振りなんて今更しなくていいからwww
いや、なんでも菅沼認定くらいしか芸の無い、2ch貼りつき16年になる腐女系おばちゃま独身ニート信長厨の
ネット廃人カス子こと、オリジナル・subちゃんとは違って、私って実際にツウィッターやってないですしねえ。
興味もないですしー。どうでもいいですから、さっさと論証でもなさったらどうですか?
じゃあもうお前は「菅沼遼太」じゃなく、「アスペルガーだが」って呼ぶよ。
いやー、だがって菅沼以外にいたんだなあww
なんで一々ID、って昨日は特にID変わってないですよね?言ってる事がよくわからないのですが。
っていうか、結局の所、貴女自身が菅沼なんたら、について少なくとも三人の人間を同一視して
レッテル貼りしてるだけの、レッテル貼りの為に作られた虚妄人物だって、オープンの方の2chで
ゲロってますのに、今更同じように複数人を同一認定する事を、初めてやるように言い出す事に
何の意味があるのか謎杉ですが。
っていうか、結局の所、そうやって自分にとって気に入らないレスをする複数人を
必死こいて同一認定してる事を自分で自白してる事に気が付かないあたり、
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さんこと、オリジナルsubちゃんって
本当に失笑ものだとは思うのですが、とりあえず、貴女に要求されている論証はさっさとしてくださいねー。
※186に言われた通りスレ主のtwitter入ったら「菅沼遼太」っていう名前の人が確かに三人フォローしてたよ。
全員信玄公のプロフィール画像でね。しかも三人共ツイートしてる話題と言えば織田厨とアスペルガーだが事件の話ばっかww
これでもこの三人は同一人物ではないと思うかね?だが君?
はあ?普通に考えれば、それが同一人物ではあっても、菅沼なんたら、と名乗ってるだけの愉快犯、
もしくはそう名乗ってるだけの信長厨ネット廃人おばちゃま独身ニートの可能性を
まず疑うんじゃないですかね。ぶっちゃけた話、菅沼なんたら、という名前の人が仮に存在したとしても、
そんな流出してしまった自分の名前を、そんな貴女ことネット廃人カス子さんが望んで妄想するような形で
3つもおんなじ名前でアカウント作る理由がどこにあるんですかね。
しかも、アスぺなんたら事件とか、ってどうせ貴女がいつも必死こいて固執して発狂してる、
捏造曲解wikiの中にある貴女の捏造曲解事項でしょ?あの捏造曲解wikiの内容なんて、
過去ログを普通に検証してみれば、貴女が必死こいて議論的敗退したり、大恥かいて発狂逃亡したのを、
必死こいて捏造曲解してるだけの事だとわかるのに、貴女以外の誰がそんなもんに固執するんですかね。
てか、だが、とかってのも結局複数人を同一認定してるだけ、って貴女本人がゲロってるのに、
今更何を言ってるのか謎杉なんですけど。(続く)
これらの事から考慮してみれば、オープンの方の2chで貴女自身が菅沼なんたらが、
貴女に都合悪いレスをする人間をレッテル貼りするために作り上げた虚妄人物だとゲロってるのも合わせて
貴女が発狂しながらなんとかして自分に都合悪い事をいう人間をレッテル貼りする為に、
馬鹿丸出しで行ってるなりすまし行動、あるいは単なる愉快犯のなりすまし、
とした方が色々とわかりやすそうなのですが。
とりあえず、菅沼なんたら、の名前でツウィッターのアカウントをググってみたら、
普通に、どう考えても、上記のような理由でネット廃人カス子さんがなりすましをやってるとしか思えない、
みょうちきりんなのが出てきましたけど、マジでこれを貴女、他人が真実だと思い込むとか
本気で思ってるんですか?ちょっと聞かせてもらえませんかね。
過去ログ見る限り、2chで手取川関連で阿呆な発狂狂態を晒して
sub(オリジナル)と呼ばれてた時代に必死こいて発狂して
その呼び名を他人になすりつけようと発狂して躍起になってた時といい、
本当に貴女の姑息な本質的な行動パターンって変わらないのですなあ。
貴女に要求されてる論証や資料提示もさっさとして欲しいのですけど。
ああ…織田厨の手取川関連のスレでの捏造連呼は笑えるよなww
俺はただ長文垂れ流しの菅沼遼太が嫌いなだけだからww別に織田厨だからお前のコメントに返信してるわけじゃない
あんなゴミニートと一緒にしないでほしい
そうですか。ただ、ぶっちゃけ、菅沼なんたら、ってもはや腐女系おばちゃま独身ニート信長厨の
ネット廃人カス子さんが色々虚妄を広げまくってて、やたらと複数人を同一認定もしてて、
どっからどこまでが真なのか、ようわからんです、ってのが個人的感想です、はい。
そうですか。ただ、ぶっちゃけ、菅沼なんたら、ってもはや腐女系おばちゃま独身ニート信長厨の
ネット廃人カス子さんが色々虚妄を広げまくってて、やたらと複数人を同一認定もしてて、
どっからどこまでが真なのか、ようわからんです、ってのが個人的感想です、はい。
それこそろくに歴史に興味がなくて、名前くらいしか知らない人じゃなきゃそんな事いわないんじゃね。
軍鑑においても勝頼は「強すぎる大将」と評されていて、その勇敢さと武勇は認められてる。
で、「強すぎるので、部下の諌めとかあんまり聞かないで、強引に攻めすぎる傾向がある。」
とされていて、長篠ではその傾向がもろに出た感じ。
そうだよなぁ…だがは一向に勝頼=無能の考えを改めないけどな…
腐女系おばちゃま独身ニート信長厨のネット廃人カス子さん乙でーす。
※200は貴女が数多くだが認定してる人の一人である私なんですけど。
ちなみにいつもいつも私は勝頼が無能か否かについては
「強すぎる大将と言われていて無能とは言われてない」的な事を
述べたりしてますけどね。
そうやって都合悪い事をいう相手のいう事を必死こいて発狂しながら捻じ曲げようとする
更年期おばちゃま独身ニート信長厨丸出しの行動パターンはいい加減失笑しかわかないのですが。
勝頼は無能じゃない、っていのうは、よーするに長篠の敗北も、御館での外交失敗により、
三方向を敵に回して数年間多方面作戦をして国内疲弊を招いたのも勝頼時代の事なのに、
それら全部をスルーして、勝頼は悪くない、信玄が悪い、と責任転嫁するのを認めてくれなきゃ、
勝頼は無能と言われてる、とカス子さんの中では判定される、
という阿呆丸出しの発狂妄想願望論旨の事でしょうし、ぶっちゃけ、
そういった勝頼の無理矢理擁護論は既に学者さん達からも「贔屓の引き倒しになってる」と
指摘されてますし、ぶっちゃけ、過大評価もすぎる程になってるんでしょうけど、
カス子さんは信玄叩きに持ち込みたいだけですから、そんなのどうでもいいですしょうね、実際。
ホントだwwwww
何これクッソワロタwwwwwwww
これって別スレで、他人のなりすまし、って事を指摘されて腐女系おばちゃま独身ニート信長厨の
ネット廃人カス子さんが盛大に発狂してましたけど。
そもそも菅沼なんたら自体が彼女の願望妄想に都合悪い歴史を指摘する複数人を同一認定して
作った虚妄人物ですし。
それが明らかに事実と違う、ネット廃人カス子さんの捏造曲解まとめwikiにしか存在しない捏造事項を
そのままなぞってるのは、明らかにおかしい、って事で指摘されてましたね。
普通に考えればカス子さんご当人のなりすましか、あるいは愉快犯のなりすましと思うのが妥当かと。
現在も、おーぷん2cn、ニコニコ掲示板、ここを含む各まとめサイトを荒らして、
自作自演、一次資料の捏造を繰り返している菅沼遼太さん。
こんな姑息なことしてまで、自己の主張を押し通すって・・・
恥ずかしくないの? 自分には理解できない。