1: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:23:47 ID:s36Qn1c5j
しかも防御をガチガチに固めた敵に

勝頼 無能
no title
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(ユリウス暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000と武田勝頼軍15,000との間で勃発した戦い。敗北した武田軍は甚大な被害を受けた。 決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。 通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべもなく殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。


2: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:24:17 ID:irsbXq7E3
昔やし、敵の情報がなかったんやろ(適当

3: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:29:37 ID:wrM18ZXJe
えげつないほどの脳筋しかおらんのやろその時代

4: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:30:25 ID:xggkQK3uD
当時最強の騎馬隊を過信したんやろなぁ

5: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:31:26 ID:E6fAoy2hn
ヤクルトみたいに自爆すればなんとかなるみたいな

6: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:32:16 ID:trnj8GHkn
実際決定打が何か解らんからね
何とも言えん

7: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:34:28 ID:743ilXMkd
あれは突撃するしかない状況に武田を追い込んだ織田徳川陣営の作戦勝ちよ(適当)

26: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)01:13:34 ID:sbLm31rCq
>>7
最近の研究だと、これらしいで

8: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:35:09 ID:t45DcfUos
長篠?

9: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:36:14 ID:trnj8GHkn
現地見ると高台はほとんど武田の陣なんだよなぁ

10: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:37:38 ID:XAtx8kRCh
そりゃあ太平洋戦争開戦時の集団心理と同じよ

28: 名無しさん@おーぷん 2015/01/08(木)04:50:07 ID:lZD
>>10
あれは日本が色々な謀略に追い詰められた状態で
さらに日本のメディアが煽った結果
軍部もそこで国民がやる気になっているのならって
開戦に踏み切ったのだが。

11: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:40:49 ID:PF7VXvoYJ
武田勝頼って負けすぎだよな

12: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:43:01 ID:cJbXFGM1T
霧が悪いよ霧がー

13: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:43:57 ID:eMipJJ4jp
徳川はともかくあの時代の織田とガチで戦っても勝てるやつはいないな

14: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:46:19 ID:s36Qn1c5j
なぜか数が少ない方が奇襲されている謎
やられる前に奇襲せいや

15: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:46:27 ID:SVLryPQwA
国力の差が既に大きかったからな
あそこで退いても滅亡するのがちょっと伸びるぐらいだろ

16: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:47:39 ID:MesaEp8m3
そもそも武田は過大評価や

17: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)20:48:39 ID:s36Qn1c5j
重臣の戦死率が異常やわ
山県、馬場、内藤、真田 みんな死んでもうた

こんな酷いの誰とは言わんが肥前の豚ぐらいしか知らんわ

20: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:38:07 ID:0sPLebFiE
>>17
チームがバラバラで家臣が自殺していくのを見ると
統失キリシタンの方が近いな 耳川の戦いやったか
耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」ともいう。大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。

18: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:18:56 ID:Q0LNyQ89V
一発逆転狙いの翼包囲だったんだけど、さすがにカンネの戦いみたいにはね。

19: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)21:23:01 ID:743ilXMkd
信玄の代で結構無理をしてたから勝頼に残された選択肢はかなり少なかったんやで

21: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:03:03 ID:2TZ2FnwBw
奥平定能「僕自身武田家を出る喜びはあった」

22: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:11:46 ID:s36Qn1c5j
勝頼の過ち
①長篠で突撃
②金に目がくらんで景勝について北条を敵に回す

この2つは無能すぎる

23: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)22:14:06 ID:9Rnngv1sW
>>22
最後に真田昌幸を頼らずに小山田頼ったも追加で

25: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)00:37:00 ID:03vFTQkj7
>>23
真田もポーズだけやろ
北条に臣従しようとしてたらしいし

24: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)23:08:47 ID:0dOL2njqE
泗川の戦いみたいな兵力差で勝ったこともあるしわからんよ

島津の寡兵を以て大を討つ戦い方はえげつないものがあるとはいえ
泗川の戦い(しせんのたたかい)とは文禄・慶長の役における合戦の1つ。
日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

27: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)01:32:35 ID:QzFgiYrwO
せやけど、数百年後も自動小銃や戦車で武装した連中相手にバンザイ突撃してるんやで

28: 名無しさん@おーぷん 2015/01/08(木)04:50:07 ID:lZD
>>27
玉砕が戦闘の終結が目的だから、
戦術や米軍の装備とは関係ないのだが。



引用元: 織田徳川3万5千 武田12000 ←なぜ突撃したのか