1: トラネコ◆EDwr815iMY 2015/02/24(火)14:58:11 ID:Wp4
教科書は間違い!? 「革命家」ではなかった織田信長の真の姿とは
2015/2/24(火)12:00 Excite Bit コネタ
信長の外交
「恐れる敵は誰もいない」という"魔王"的イメージを持つ信長だが、実際には諸勢力に対してどのように振舞っていたのだろうか。
1.敵大名との関係
信長は戦国時代で初めて天下統一を目指した人物として知られる。そのため、武田や上杉、毛利など数々の大大名と戦った。また、当時は小大名であった信長が1560年の桶狭間の戦いで大大名今川家を破ったことを考えると、どんな強大な敵にも恐れず歯向かう印象も受ける。
だが、実際の信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。
例えば、上杉謙信へ信長が直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしているし、武田信玄に対してはかなり立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していたことが伺える。
だが、織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに彼の合理的考えが現れている。
2.将軍との関係
教科書などでは、信長は15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせた人物と書かれている。
これだけ見ると信長が将軍に対して強硬な姿勢で敵対し、追放まで行ったように映るが実情はそうではない。
むしろ信長は生ぬるい姿勢を崩さず、それが原因でかなり将軍に舐められていた。
当初、信長は将軍のために新御所を建てるなど関係良好だったが、次第に将軍の勝手な行動が目に付くようになり激しく批判した。
とはいえ、信長には排除する意思はなく、懸命に将軍を説得している。ある手紙では「将軍もこちらの考えを分かって下さるだろうか」と弱気な気持ちを明かしたほどだ。
その一方、将軍の足利義昭は信長の弱い姿勢につけ込み最後まで抵抗した。信長が最終手段ともいえる天皇を動かして将軍と和睦したにもかかわらず、数カ月後には再び挙兵したほどだ。
ここまで舐められながら、殺さずに追放のみで済ませた信長はやはり将軍に対して相当に甘い姿勢で接し続けたといえる。
このように信長が将軍に対して強硬な姿勢をとらなかった理由を筆者は、世間からの評判(世論)を気にしたからではないかと述べている。従来の信長像から考えると世間からの評判を気にするという姿は意外ではないだろうか。
3.天皇との関係
そんな世間からの評判を気にする信長は皇室を保護する姿勢をとっている。例えば、皇居の修理を行なう、皇太子の元服のための費用を献上したことなどだ。
また、公家に対しても徳政令を出すなど経済的な救済を行なっている。
信長は権威を気にせず天皇を軽んじたという説も見られるが、これらはかなり無理筋であり、実際のところは敬う姿勢を見せていたと言えるだろう。
4.宗教との関係
信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。確かに宗教勢力に対して相当に無慈悲な焼き討ちも行なったことは事実だ。
だが、実際の信長は神に祈願することはあったし、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護をする一面もある。
では、なぜ信長は比叡山延暦寺などに対して無慈悲な焼き討ちを行なったのだろうか。
これは単純に宗教勢力が「敵対したから」だ。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲等で武装して諸勢力に歯向かうことも珍しくなかった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復しただけである。
信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名も行なっていた常識的行動をとったに過ぎない。
これらから見るに、信長は敵大名には力関係を見極め合つつ振舞い、将軍や天皇といった大きな権力には評判を気にして下手に、そして宗教勢力に対しても敵対さえしなければ保護もするという「革命家」とはかけ離れた常識的な姿が浮かび上がる。
(以下略)
詳細のソース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1464204
2015/2/24(火)12:00 Excite Bit コネタ
信長の外交
「恐れる敵は誰もいない」という"魔王"的イメージを持つ信長だが、実際には諸勢力に対してどのように振舞っていたのだろうか。
1.敵大名との関係
信長は戦国時代で初めて天下統一を目指した人物として知られる。そのため、武田や上杉、毛利など数々の大大名と戦った。また、当時は小大名であった信長が1560年の桶狭間の戦いで大大名今川家を破ったことを考えると、どんな強大な敵にも恐れず歯向かう印象も受ける。
だが、実際の信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。
例えば、上杉謙信へ信長が直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしているし、武田信玄に対してはかなり立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していたことが伺える。
だが、織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに彼の合理的考えが現れている。
2.将軍との関係
教科書などでは、信長は15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせた人物と書かれている。
これだけ見ると信長が将軍に対して強硬な姿勢で敵対し、追放まで行ったように映るが実情はそうではない。
むしろ信長は生ぬるい姿勢を崩さず、それが原因でかなり将軍に舐められていた。
当初、信長は将軍のために新御所を建てるなど関係良好だったが、次第に将軍の勝手な行動が目に付くようになり激しく批判した。
とはいえ、信長には排除する意思はなく、懸命に将軍を説得している。ある手紙では「将軍もこちらの考えを分かって下さるだろうか」と弱気な気持ちを明かしたほどだ。
その一方、将軍の足利義昭は信長の弱い姿勢につけ込み最後まで抵抗した。信長が最終手段ともいえる天皇を動かして将軍と和睦したにもかかわらず、数カ月後には再び挙兵したほどだ。
ここまで舐められながら、殺さずに追放のみで済ませた信長はやはり将軍に対して相当に甘い姿勢で接し続けたといえる。
このように信長が将軍に対して強硬な姿勢をとらなかった理由を筆者は、世間からの評判(世論)を気にしたからではないかと述べている。従来の信長像から考えると世間からの評判を気にするという姿は意外ではないだろうか。
3.天皇との関係
そんな世間からの評判を気にする信長は皇室を保護する姿勢をとっている。例えば、皇居の修理を行なう、皇太子の元服のための費用を献上したことなどだ。
また、公家に対しても徳政令を出すなど経済的な救済を行なっている。
信長は権威を気にせず天皇を軽んじたという説も見られるが、これらはかなり無理筋であり、実際のところは敬う姿勢を見せていたと言えるだろう。
4.宗教との関係
信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。確かに宗教勢力に対して相当に無慈悲な焼き討ちも行なったことは事実だ。
だが、実際の信長は神に祈願することはあったし、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護をする一面もある。
では、なぜ信長は比叡山延暦寺などに対して無慈悲な焼き討ちを行なったのだろうか。
これは単純に宗教勢力が「敵対したから」だ。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲等で武装して諸勢力に歯向かうことも珍しくなかった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復しただけである。
信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名も行なっていた常識的行動をとったに過ぎない。
これらから見るに、信長は敵大名には力関係を見極め合つつ振舞い、将軍や天皇といった大きな権力には評判を気にして下手に、そして宗教勢力に対しても敵対さえしなければ保護もするという「革命家」とはかけ離れた常識的な姿が浮かび上がる。
(以下略)
詳細のソース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1464204
3: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)15:06:21 ID:HFb
革命家って印象はないけどなぁ
合理化とかのイメージはあるけど
合理化とかのイメージはあるけど
4: なななな、な梨 2015/02/24(火)15:23:48 ID:4Kd
無駄に敵を作るのは、愚か者のする事だろ?
大きく成れば、自然に敵も味方も増える。バカなの?
大きく成れば、自然に敵も味方も増える。バカなの?
9: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:14:40 ID:u8C
なんだかなあ
手紙の文面とか将軍の処遇とか
そんなん色々な事情があるんだから人物像を図れないだろと思う
手紙の文面とか将軍の処遇とか
そんなん色々な事情があるんだから人物像を図れないだろと思う
18: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:38:38 ID:y2N
>>9
根拠となる史料のない革命者イメージよりはよっぽどマシですけど
根拠となる史料のない革命者イメージよりはよっぽどマシですけど
10: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:17:13 ID:e27
やっぱ信長もおうだったかw
そうじゃないかと思ってたんだが確信した
そうじゃないかと思ってたんだが確信した
11: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:17:36 ID:xDB
現代の人情話(まあ平和ボケの特徴ですが)で考えると信長の行動は理不尽
かもしれないが、信長の方法は戦国大名の一つのタイプに過ぎない。ただし、
そのスタイルは斎藤道三から受け継いだ民を重視する考え方であって、奴隷
を使って勢力を拡大するという考え方ではない。
信長は民衆の力を非常に重視しており、それは収支徹底していた。楽市楽座
を始めたのも商人の財力を利用しようと考えていた。
この民衆重視の姿勢が敵の領民虐殺につながったというのも想像に固くない。
民衆が国の礎ならば、敵国の領民を殺してしまえばそのパワーも削げる。
まだ戦国時代の下克上の時代であったため、敵を寝返らせるより殺してしまう
方が重要だったと思われる。
かもしれないが、信長の方法は戦国大名の一つのタイプに過ぎない。ただし、
そのスタイルは斎藤道三から受け継いだ民を重視する考え方であって、奴隷
を使って勢力を拡大するという考え方ではない。
信長は民衆の力を非常に重視しており、それは収支徹底していた。楽市楽座
を始めたのも商人の財力を利用しようと考えていた。
この民衆重視の姿勢が敵の領民虐殺につながったというのも想像に固くない。
民衆が国の礎ならば、敵国の領民を殺してしまえばそのパワーも削げる。
まだ戦国時代の下克上の時代であったため、敵を寝返らせるより殺してしまう
方が重要だったと思われる。
12: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:22:22 ID:0ZH
源平思想(源氏と平家が交互に統治する)を踏襲してて
一時期「平」姓を名乗ってるんだよな
昔からのしきたりを大事にする人
一時期「平」姓を名乗ってるんだよな
昔からのしきたりを大事にする人
13: リコ◆mKB71pjnaE 2015/02/24(火)16:24:17 ID:vds
信長の注目する根本政策は楽市楽座。
その行政実施の為、簡単に謀反が成功した。
悲しい出来事である。
その行政実施の為、簡単に謀反が成功した。
悲しい出来事である。
14: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:26:46 ID:elF
戦国時代の出来事に関しては
天下泰平の江戸期に創作された話が史実のように通用してきたという長い歴史があるからな
天下泰平の江戸期に創作された話が史実のように通用してきたという長い歴史があるからな
15: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:31:48 ID:yqP
>>14
戦国時代の話じゃないが忠臣蔵は酷いと思う
そーいえば秀長が陰に隠れてたのってなんでだろ
戦国時代の話じゃないが忠臣蔵は酷いと思う
そーいえば秀長が陰に隠れてたのってなんでだろ
19: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:44:41 ID:1wV
革命家ってイメージと魔王ってイメージって特に近年
創作物の影響で強くなっただけな気がするが
まともに調べると信長ほど常識あって寛大で気さく
しかも洒落好きな領主も珍しいぞただ癇癪持ちではあるがw
創作物の影響で強くなっただけな気がするが
まともに調べると信長ほど常識あって寛大で気さく
しかも洒落好きな領主も珍しいぞただ癇癪持ちではあるがw
22: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:48:19 ID:yqP
>>19
人がいなかったとはいえ裏切っても許してくれるしな
弟には二度目はなかったが
人がいなかったとはいえ裏切っても許してくれるしな
弟には二度目はなかったが
23: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:52:26 ID:1wV
>>22
そうなんだよな
だから去年の大河とかでも荒木一党に容赦無い魔王みたいになってたけど
本当はいつもの信長が裏切りや反抗に甘々だったから
荒木村重なんかも比較的軽い気持ちであんなことしたって下りが抜けてるんだよな
大体あの秀吉でさえ出撃命令に逆らうレベルだもんなw
そうなんだよな
だから去年の大河とかでも荒木一党に容赦無い魔王みたいになってたけど
本当はいつもの信長が裏切りや反抗に甘々だったから
荒木村重なんかも比較的軽い気持ちであんなことしたって下りが抜けてるんだよな
大体あの秀吉でさえ出撃命令に逆らうレベルだもんなw
25: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:00:16 ID:yqP
>>23
松永ボンバー久秀とか二度目の裏切りも茶器で許そうとしたからなぁ
その代り有能じゃないのには厳しいけどね・・・
林とか林とか林とか
松永ボンバー久秀とか二度目の裏切りも茶器で許そうとしたからなぁ
その代り有能じゃないのには厳しいけどね・・・
林とか林とか林とか
26: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:06:54 ID:1wV
>>25
だなーw
あと佐久間とかもなw
ただあの両氏は信長古参だから
信長の目指す君臣関係ではないから排除されたってのもあるのかも
だなーw
あと佐久間とかもなw
ただあの両氏は信長古参だから
信長の目指す君臣関係ではないから排除されたってのもあるのかも
28: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:10:56 ID:yqP
>>26
最大閥だったろうから目障りだって言うのもあったかもね
最大閥だったろうから目障りだって言うのもあったかもね
29: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:12:52 ID:1wV
>>28
ただそのオチが
佐久間が排除されたせいで
畿内の兵の差配が一気に明智が一手に引き受けることに・・・
歴史って面白いよなw
ただそのオチが
佐久間が排除されたせいで
畿内の兵の差配が一気に明智が一手に引き受けることに・・・
歴史って面白いよなw
20: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)16:46:57 ID:DEG
髑髏の杯で乾杯しよう
21: クロッチマン◆IkYAMCSlYo 2015/02/24(火)16:47:42 ID:OZ7
普段は人当たり良いがするべき事は断としてする
スケールが大きくなっても変わらないとか
有能の鏡やんけ
スケールが大きくなっても変わらないとか
有能の鏡やんけ
35: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)21:44:44 ID:B7c
>>21
戦国の武将は基本的に有能だ。
何故ならば戦乱が続いていて勝ち残るということが武将としての条件だったから。
無能なら親に殺されることもあった。
信長の場合、幼い頃から平民と親しく、また平民の女と遊んだりしていた。
その影響もあって、「民」というものをよく知っていた。それと商人出身の
道三と親しかったことも影響している。
結果的にはそれが木下藤吉郎を抜擢し、結果的に秀吉から家康まで
平民の力を借りて国を発展させるというスタイルが生まれた。この信長
以降の貴族から民への流れが江戸時代以降も続き、日本の発展に大きく
左右した。それ故、大陸とは異なりこの時期の日本は西洋と同じく「近世」と
分類される。
一方、中国、朝鮮は完全な中世スタイルの体制で、特に朝鮮は統治すら
上手く行かず、生活水準は原始時代に逆戻りしてしまった。
戦国の武将は基本的に有能だ。
何故ならば戦乱が続いていて勝ち残るということが武将としての条件だったから。
無能なら親に殺されることもあった。
信長の場合、幼い頃から平民と親しく、また平民の女と遊んだりしていた。
その影響もあって、「民」というものをよく知っていた。それと商人出身の
道三と親しかったことも影響している。
結果的にはそれが木下藤吉郎を抜擢し、結果的に秀吉から家康まで
平民の力を借りて国を発展させるというスタイルが生まれた。この信長
以降の貴族から民への流れが江戸時代以降も続き、日本の発展に大きく
左右した。それ故、大陸とは異なりこの時期の日本は西洋と同じく「近世」と
分類される。
一方、中国、朝鮮は完全な中世スタイルの体制で、特に朝鮮は統治すら
上手く行かず、生活水準は原始時代に逆戻りしてしまった。
36: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)21:46:39 ID:0ZH
>>35
そっちの話に繋げんでもええで?
そっちの話に繋げんでもええで?
53: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)23:43:59 ID:elF
>>36
そうかな
近代民主主義国家の成立までの世界史を見ると日欧と米国とそれ以外って考えざるを得ない問題だぜ
そうかな
近代民主主義国家の成立までの世界史を見ると日欧と米国とそれ以外って考えざるを得ない問題だぜ
52: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)23:40:14 ID:KNJ
>>35の意見はそう的はずれでもないぞ?
李氏朝鮮は中世はおろか古代三韓の時代より文化的に酷い時代を20世紀まで続いてしまった。中国も同じだろ。
李氏朝鮮は中世はおろか古代三韓の時代より文化的に酷い時代を20世紀まで続いてしまった。中国も同じだろ。
27: リコ◆mKB71pjnaE 2015/02/24(火)17:07:10 ID:vds
滝川一益の不運に同情する。
30: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:14:09 ID:Tr1
そんな中国共産党みたいに世界同時武力革命!みたいなイメージされても信長が困ります
31: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)17:20:08 ID:WRa
単なる田舎の喧嘩好きと誰かが言うのを聞いて、納得してしまった。
32: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)19:25:32 ID:pML
最近のイメージは完全に光栄の暴走だろwwwwwwww
家のじいさんが官兵衛での描写や配役に嘆いていたぞ?
家のじいさんが官兵衛での描写や配役に嘆いていたぞ?
33: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)19:45:42 ID:WRa
官兵衛は長い間湿った座敷牢にいたせいで、ビッコ引きで頭は疥癬でブツブツだらけだったらしい。
38: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:06:32 ID:uhl
反面教師は必要だろ?
近世以降の日本の歴史を理解できていない奴もいるわけで
近世以降の日本の歴史を理解できていない奴もいるわけで
39: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:23:12 ID:OLs
信長は身内に謀反されても甘々だし
不具の乞食を哀れんで家を与えて村民に世話させたり
比叡山を焼き討ちする時には罰が当たらないか気にしたり
家臣の夫婦仲に気を使ったり
わりと良い奴
不具の乞食を哀れんで家を与えて村民に世話させたり
比叡山を焼き討ちする時には罰が当たらないか気にしたり
家臣の夫婦仲に気を使ったり
わりと良い奴
868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/27(火) 17:47:21 ID:bOGd/W0d
信長は京都への往復の際、美濃と近江の境の山中というところを通っていた。
そこを通る際に不具の者が雨露に打たれ乞食をしているのを見た。
信長はそこを通るたびいつも見るこの者を不憫に思い、
ある時、この乞食を知る者に尋ねた。
「乞食というものは元来、住所不定の者であるのに、
なぜこの者はいつも同じ場所にいる?
なにか理由でもあるのか?」
尋ねられた者が言う。
「この者は昔、ここ山中の宿で常盤御前を殺したゆえ、
その因果によって先祖代々不具に生まれ乞食をするのである。
世間では山中の猿と呼ばれている。」
と答えた。
ときは過ぎ天正三年六月二十六日、信長が上洛したとき、
不意に山中の猿のことを思い出し、木綿二十反を持ち、
山中の宿に、その村の住人すべてを呼び出した。
なにを仰せ付けられるかと住人一同心配しながら集まったところ、
信長は木綿二十反を山中の猿に与え住人たちに言った。
「その半分を売り、家を建て、餓死しないように情をかけてやれ。
なお隣家の者たちは、麦、米が出来たらそれぞれ一度ずつ、
毎年少しずつとらせたら、この信長に対しても祝着に思うであろう。」
と申しつけたので山中の猿だけでなく、山中の町のすべての者に、
袖をしぼらぬ者はなく、供の者たちもその慈悲深さに感じたという。
40: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:25:55 ID:Nh3
>>39
秀吉の嫁に送ったフォローの手紙とかかわいいよなw
秀吉の嫁に送ったフォローの手紙とかかわいいよなw
41: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:31:40 ID:OLs
>>40
秀吉の愚痴を聞かされてヤレヤレ顔の信長が目に浮かぶw
秀吉の愚痴を聞かされてヤレヤレ顔の信長が目に浮かぶw
43: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:36:34 ID:lvn
革命家…??
気短すぎて無駄を嫌うイメージならあるけど
カップラーメン五分のやつも三分でボリボリ食っちゃうイメージ
気短すぎて無駄を嫌うイメージならあるけど
カップラーメン五分のやつも三分でボリボリ食っちゃうイメージ
44: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:39:36 ID:0ZH
>>43
気が短かったら、長篠で武田軍に突っ込んでないか?
気が短かったら、長篠で武田軍に突っ込んでないか?
45: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:41:49 ID:lvn
>>44
尾張兵は弱いって風評あったし、鉄砲たんまりあったしそもそも突っ込む必要を感じないような
尾張兵は弱いって風評あったし、鉄砲たんまりあったしそもそも突っ込む必要を感じないような
46: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:43:11 ID:6Q7
>>44
ぶっちゃけあの兵力差なら、突っ込んでも勝っていただろうな。
ぶっちゃけあの兵力差なら、突っ込んでも勝っていただろうな。
47: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:56:56 ID:0va
気が短いのは家康。
信長は慎重派だし、かなりの策略家だよ。
金ヶ崎の退口も真っ先に逃げて、殿の秀吉の撤退が素早く行えるように配慮してる。
信長は慎重派だし、かなりの策略家だよ。
金ヶ崎の退口も真っ先に逃げて、殿の秀吉の撤退が素早く行えるように配慮してる。
48: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)22:58:49 ID:lvn
>>47
確かに特に若い頃なんかの家康は突っ込んでいくイメージだな
確かに特に若い頃なんかの家康は突っ込んでいくイメージだな
50: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)23:26:44 ID:rH4
革命革命言うのが好きな奴らはアカ思想に染まってる奴ら
これ豆な
これ豆な
51: 名無しさん@おーぷん 2015/02/24(火)23:27:51 ID:okE
うつけだよ
56: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)00:54:57 ID:8r3
信長が博打やったのは桶狭間だけ
脚色されたエピソードによって破天荒で奇策を好むなんて印象が先行したせいだろ
革命家なんて程遠いくらいガチガチの慎重派だったろうに
脚色されたエピソードによって破天荒で奇策を好むなんて印象が先行したせいだろ
革命家なんて程遠いくらいガチガチの慎重派だったろうに
58: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)01:10:16 ID:GMt
>>56
田楽狭間にしたって
今川方からは織田の動きが逐一見えてたんで
奇襲でも何でもないんだよなぁ
今川方の完全な慢心
田楽狭間にしたって
今川方からは織田の動きが逐一見えてたんで
奇襲でも何でもないんだよなぁ
今川方の完全な慢心
65: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)03:49:29 ID:8M8
>>56
その通り。信長の勝率が高いのは、勝てる戦しかしなかったから。
その通り。信長の勝率が高いのは、勝てる戦しかしなかったから。
70: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)19:38:21 ID:Sn1
>>65
勝てない相手には頭を下げて勝つ算段ができるまでがまんする
戦前の軍人には無い能力だったな
勝てない相手には頭を下げて勝つ算段ができるまでがまんする
戦前の軍人には無い能力だったな
72: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)20:42:22 ID:Sn1
>>56
信長自身は弱小勢力だったけど尾張は50万石で
商業も発展しているからな
尾張を統一してからは桶狭間のような賭はする必要もなかったね
信長自身は弱小勢力だったけど尾張は50万石で
商業も発展しているからな
尾張を統一してからは桶狭間のような賭はする必要もなかったね
59: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)01:17:48 ID:NvU
桶狭間はだまし討だって、何かで読んだが。
織田側が降伏する旨を今川に送り、今川は祝勝を田楽狭間で
あげてたら攻撃されて討ち取られたとか。
慢心ちゃ慢心だが。
織田側が降伏する旨を今川に送り、今川は祝勝を田楽狭間で
あげてたら攻撃されて討ち取られたとか。
慢心ちゃ慢心だが。
63: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)03:39:20 ID:iDD
今の日本人戦国時代なんか生き抜けなさそう
すぐ上機嫌になったり怒ったりする前に物事のこれはどういう意図があるのかとか考える事をしなくなった感じ
違和感や思惑に気付けずに騙されコントロールしやすく利用されるだけ。はっきりとした敵と認識できるものしか警戒できない、恩を売られたり頼られたり可哀想に見えたり誉められたりや自分の意見に肯定的な態度の打算仮面の敵に弱い。打たれ弱い。自分もまさにこれだし平和ボケ。
戦国時代と違って普通に生きてて相手がどんな手を使ってくるかどんな手を使えばいいか考える機会なんてなかなかなかったし
でも政治家とか企業は常に考える必要ありなはずだったのになんでこうなった
甘い信長ですら宗教でも敵対するなら叩き潰してたのに
すぐ上機嫌になったり怒ったりする前に物事のこれはどういう意図があるのかとか考える事をしなくなった感じ
違和感や思惑に気付けずに騙されコントロールしやすく利用されるだけ。はっきりとした敵と認識できるものしか警戒できない、恩を売られたり頼られたり可哀想に見えたり誉められたりや自分の意見に肯定的な態度の打算仮面の敵に弱い。打たれ弱い。自分もまさにこれだし平和ボケ。
戦国時代と違って普通に生きてて相手がどんな手を使ってくるかどんな手を使えばいいか考える機会なんてなかなかなかったし
でも政治家とか企業は常に考える必要ありなはずだったのになんでこうなった
甘い信長ですら宗教でも敵対するなら叩き潰してたのに
64: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)03:44:31 ID:58N
>>63
江戸時代末期の徳川家なんかもおめでたい平和ボケ集団だよな
信長や秀吉・家康にとってはペリーの黒船なんか脅威じゃなかったはず
江戸時代末期の徳川家なんかもおめでたい平和ボケ集団だよな
信長や秀吉・家康にとってはペリーの黒船なんか脅威じゃなかったはず
68: 名無しさん@おーぷん 2015/02/25(水)03:57:54 ID:An0
>>63
> でも政治家とか企業は常に考える必要ありなはずだったのになんでこうなった
> 甘い信長ですら宗教でも敵対するなら叩き潰してたのに
むしろ逆だよ。戦国時代を見ると現代の構造がよく分かる。
武田にしろ今川にしろ北条にしろ毛利にしろ、信長なんかより大大名だっただろ?
なぜ信長が勝てたのか?
まさに貴族とは対極の庶民派だったからだよ。
無謀なこともしないし、かと言って保守的に安穏ともしない。
戦国時代との一番の違いは経済。財務省はじめ政府が民間の力を弱めている。
そこに外国の勢力が加わって問題を大きくしている。戦国大名で言えば、
キリシタン大名や足利あたりか。
> でも政治家とか企業は常に考える必要ありなはずだったのになんでこうなった
> 甘い信長ですら宗教でも敵対するなら叩き潰してたのに
むしろ逆だよ。戦国時代を見ると現代の構造がよく分かる。
武田にしろ今川にしろ北条にしろ毛利にしろ、信長なんかより大大名だっただろ?
なぜ信長が勝てたのか?
まさに貴族とは対極の庶民派だったからだよ。
無謀なこともしないし、かと言って保守的に安穏ともしない。
戦国時代との一番の違いは経済。財務省はじめ政府が民間の力を弱めている。
そこに外国の勢力が加わって問題を大きくしている。戦国大名で言えば、
キリシタン大名や足利あたりか。
73: 一般人♪(ФωФ) 2015/02/25(水)20:51:26 ID:2BW
>>63
大名ストレスが、酷かったために茶道が、発達したと言う説が、あったな~(ФωФ)♪
茶道は、ストレス解消法だった~(ФωФ)♪
大名ストレスが、酷かったために茶道が、発達したと言う説が、あったな~(ФωФ)♪
茶道は、ストレス解消法だった~(ФωФ)♪
コメント一覧
「比叡山の焼き討ち、一向一揆の虐殺等、残虐な面を思い浮かべがちな信長像だが、それは全て正面からやった事であり、信長は騙し討ち等の卑怯な戦法を一切受け入れず嫌った。」
って聞いたことあるんだけどよく考えてみれば弟騙し討ちで殺してたわww
一旦許したふりをしても、20年以上たって蒸し返して粛清してきたりするし、
荒木とかも部下が本願寺に兵糧を売ってたのがばれて
「信長の事だから、殺される!」って思って謀反して、信長がちょうど余裕なかったから、
「何か言いたい事があるならいえ!許してやるから!」って言って荒木が喜んだけど、
家臣から「今は信長が余裕ないから言ってるだけです!都合がよくなれば殺されます!」
と言われて恐怖で再離反してるし、どこが甘いとか寛容で気さくなのか、とっても疑問ですww
その実イメージ優先っぽくてなんだかなあ…
「信長の舅」の道三がもと商人ってのも
もうこんにちでは否定されているのになあ
「今は信長が余裕ないから言ってるだけです!都合がよくなれば殺されます!」
なお言った当事者は荒木を見捨ててそのまま信長に降伏した模様
なお、その当事者も自身の身が危ういと思ったのか、羽柴に接近しまくって兄弟の契りまで結んでいた模様。
秀吉も秀吉で、畿内の要地に領土を持つ中川を引き込んでおく為に、加増の運動をしまくってた模様。
なお、その当事者も自身の身が危ういと思ったのか、羽柴に接近しまくって兄弟の契りまで結んでいた模様。
秀吉も秀吉で、畿内の要地に領土を持つ中川を引き込んでおく為に、加増の運動をしまくってた模様。
は実はノブで三人目。
なのでノブはやったらぁ!と思ったものの、山の上に燃やす建物がない。
ので、山門ではなく寺門、つまり坂本あたりを焼いた。
比叡山大炎上!はない。
後あんまり人気ないけど大河の信長は結構ポイズン好きなんだよねえ
他の信長は信長の絶対的魔王的な外面的イメージから語られてる希ガス
利家とまつの信長は結構繊細
>以降の貴族から民への流れが江戸時代以降も続き、日本の発展に
続いてないわ。思いっきり朝鮮朱子学を導入して日本は完全に停滞した。
まあでもそれはあるかもね
スレ内では信長は合理的であったとあるが、日本を統一すれば朝廷への対応も変わってくるからね
ただ潰すまではいかなかったと思うけど
信長って結構世間体気にするし、相当自分の身に危険が及ぶ厄介事にならなければ足利幕府みたいに残っただろう
さらに言えば当時の天皇がそこまで指導力を発揮できるかは微妙だし、対立したとしても何人かの公家が追放され半ば織田政権の傀儡になるって所に落ち着きそうではあるが
ろくに論拠の無い、革命者像と違って、資料的な裏付けのある事で構築されてる像なんだから、
正反対って事はなくね?最近では、神田氏とかの研究で、信長が朝廷権威を驚くほどに立てようと
してた事が明らかになってるから、信長が天皇を廃するとかはまずないと思っていいと思うけどなあ。
「それを示す資料はないけど、信長はとっても凄い革命児だったのです。」的に書いておけば
後は信長に夢を抱いた人々が財布の紐を緩めまくってくれるので、作家からすればやめられないでしょ。
作家のお仕事はエンターテイメントとして読者が楽しめるフィクションを書く事。
彼らは需要のある信長を革命児としたフィクションを描いて、読者にエンタメを提供してるってだけの話でしょ。
キャラ付けがあってナンボだもんな
>キャラ付けがあってナンボだもんな
まさにその通り。
しかし、信長革命児厨は、フィクションの塊である信長革命児像は後生大事にするのに、
同じくフィクションの産物であり、キャラ付けである、最強の武田騎馬軍団、とか、
不敗の聖将にして軍神・上杉謙信、とかの像に対しては激しく嘲笑し、排斥しようとする。
普通に考慮してみれば、「なに笑ってるんだ、お前ら。信長革命児像だって同じキャラ付けの産物だろ?」
って感じではあるが、信長革命児厨にとっては違うらしい。
まことにもって摩訶不思議なり。
え?足利義教と織田信長以外にもう一人いるの?