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1: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:27:47 ID:71D
1(二)山崎吉家
2(左)陶晴賢
3(三)菅谷政貞
4(一)土居宗珊
5(中)吉弘統幸
6(右)高橋紹運
7(遊)明石全登
8(捕)甲斐親直
9(投)宮部長房の家臣の皆さん
山崎 吉家(やまざき よしいえ、生年不詳 - 天正元年8月14日(1573年9月10日))は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越前国の戦国大名朝倉氏の家臣。
天正元年(1573年)、刀禰坂の戦いでは退却する朝倉軍の殿軍を任され奮戦したが、織田軍の執拗な追撃の前に力尽き、弟の吉延、子の吉健ら一族のほとんどを含めた多くの将兵と共に戦死した。

陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。

菅谷政貞(すげのや まささだ、永正15年(1518年) - 文禄元年(1592年))は小田氏の家臣。左衛門大夫、摂津守を称した。 後に入道して全久と号す。菅谷勝貞の子。子に菅谷範政。父同様、小田氏治に忠義を尽くした。氏治が佐竹氏に小田城を奪われると、氏治を居城の土浦城へ迎えて、小田城を何度も奪還した。

土居 宗珊(どい そうさん、生年不詳 - 永禄12年(1569年)、又は元亀3年(1572年))は土佐一条氏の重臣。
一条氏の筆頭家臣で、智勇兼備の名将であった。長宗我部元親の侵攻に遭って弱体化してゆく主家を必死に支えたが、主君・一条兼定の手によって処刑された。『土佐物語』には兼定の素行について諫言したところを逆に上意討ちにされたと伝わり、一方『四国軍記』には宗珊が度々、元親からの調略を受けており、またその事を元親側があえて流布したため、疑心暗鬼となった兼定により誅殺されたと伝わる。


吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)は。安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。
豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家の松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため攻略を断念。黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与えた。自身も朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃され一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であり、得意の槍を振るって奮戦。緒戦で母里友信の率いる先鋒隊を破り、小田九朗左衛門等30~40人を自ら討ち取ったとされるほどの獅子奮迅の活躍をし、一時は数の上でこそ大友勢を上回っていた黒田勢を相手に優位に戦を進めた。
しかし、如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であったため、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となっていった。統幸は主君・大友義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる。

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。

明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり/かげもり/もりしげ、生没年不明)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成が出奔し、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。

甲斐 親直 / 甲斐 宗運(かい ちかなお / かい そううん、永正12年(1515年) - 天正13年7月3日(1585年7月29日))(天正11年(1583年)死去とも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。阿蘇氏の家臣。天正11年(1583年)または天正13年(1585年)に病死。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。なお、戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。しかし宗運死後の1585年、嫡男・親英は島津方が築いた花の山城を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになり親英は早々に降伏。わずか2歳の阿蘇家当主・惟光は島津氏に降伏したのち、母親に連れられて逃走し、戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。

宮部 長房(みやべ ながふさ、天正9年(1581年)- 寛永11年11月18日(1635年1月6日))は、安土桃山時代の武将・大名。宮部継潤の嫡男(養子とも)。
慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。
その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってきた。 与力の木下重堅、垣屋恒総がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言してきたが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。しかし長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないため、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束した。一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束の船がいなく辺りを捜しまわった。その頃家臣らは、陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また、総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった。 結局、長房らは船は見つからず夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきて呆然としていたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、岡崎城に押し込められてしまった。 西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまった。

2: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:35:08 ID:0ML
朝倉、大友、大内で1チームずつ作れるやろ

14: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)08:27:49 ID:0Y7
>>2
朝倉って何か致命的なミスしたっけ?
地理的位置の問題で誰が当主でも結局信長に滅ぼされた気がするけど・・・

15: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)12:09:59 ID:UND
>>14
強いていうなら、日本海・琵琶湖の水運を抑えて
北近江の浅井を足がかりに京への道筋もつけられそうやったのに
内にこもって安穏としたのがあかんかったんやろか・・・

信秀・道三の時代には美濃・尾張にもちょっかいだしてたのに

3: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:36:19 ID:dlT
一人もしらん

4: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:40:59 ID:GHW
安定の四番

5: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:46:17 ID:eo8
奸臣が入ってて草
6は本人はもとより、その部下もキツいな

6: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)00:51:24 ID:Qqu
2番と5番しか知らん

7: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)04:09:52 ID:Yxu
藤堂高虎が入ってない

9: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)06:46:15 ID:NRo
>>7
羽柴秀長『は?』

10: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)06:50:13 ID:gG4
>>9
貴方以外が酷すぎて…

16: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)12:14:25 ID:NRo
>>10
脱糞狸『これは改易やろなあ』

8: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)05:46:17 ID:i7K
>>1
六角家臣の後藤賢豊は?
後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。
主君である六角義賢の偏諱(「賢」の字)を受け、賢豊と名乗った。
賢豊の後藤氏と進藤貞治・進藤賢盛の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。
永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。
永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。

11: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)07:14:47 ID:g28
岡部元信、朝比奈泰朝の今川氏真時代も追加で

12: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)07:27:04 ID:4ev
松野主馬「よし!ワイは恵まれとったな!」
松野重元
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍へ寝返った秀秋に反発して不参戦。のち戦線を離脱する。しかし、このことが主家(豊臣家)を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は秀秋の下を去って田中吉政に仕官し、1万2,000石で松延城城番家老として仕えた。吉政の下、治水工事や堤防工事などに才を発揮し、重元が改修した川は「主馬殿川」と呼ばれた。
ところが、元和6年(1620年)に田中氏が無嗣断絶により改易となると、同年9月に徳川忠長に仕えたが、忠長も寛永10年(1633年)に改易され自害に追い込まれた。主君に恵まれなかった重元はその後は仕官せず、明暦元年(1655年)に陸奥国白河で死去したという。

13: 名無しさん@おーぷん 2015/03/24(火)07:36:23 ID:PKl
山中幸盛「主君に恵まれない方が、たくさん苦労出来てお得やんけ!」

引用元: 主君に恵まれなかった戦国武将で打線組んだwwwwww