1: 人間七七四年 2007/03/10(土) 19:58:47 ID:fPLRBhul.net
信玄、信長、幸村みたいな中期、後期の武将にくらべ
松平清康や浅井亮政、朝倉教景のような初期の武将ってよく知らないので語ってください。
no title

3: 人間七七四年 2007/03/10(土) 20:47:25 ID:EdeWeG5A.net
北条早雲

4: 人間七七四年 2007/03/10(土) 20:50:59 ID:HAV/uZdD.net
尼子経久は?

33: 人間七七四年 2007/08/07(火) 09:39:57 ID:BTA1e32k.net
>>4
経久と(新宮党)久幸とのツートップは強そうだ。
「尼子久幸」(あまご・ひさゆき 1473 ~ 1541)とは、戦国時代の謀聖・尼子経久の弟であり、冷静な性格で慎重論を唱えて尼子晴久を諌めた際に「臆病野州」と罵られたものの、その壮絶な最期から仇敵・毛利家によって弔われた事に定評のある真からの武士。

勇将でありながらも冷静な性格で、勝ち目の無い戦と見るや兄・尼子経久も諌めたといわれており、中国地方の三大謀将に数えられる兄・尼子経久が嫡子が戦死した際に、その冷静さを買って家督を継がせようとしたものの、冷静に対処して尼子経久の孫の尼子晴久へと家督を継がせている。

兄・尼子経久が没した後は尼子晴久を支え続けたが、離反した毛利元就を討つべしと言う声が家中で大きくなり、それに応えて尼子晴久が討伐しようとした際に、

尼子久幸自身を石見津和野へ配置して大内義隆を牽制する。
尼子国久を備後に派遣して諸城を固めさせる
毛利元就が出陣してきた時は、尼子国久と共に挟み撃ちにする。
毛利元就が篭城した際は、全軍をもって吉田郡山城を包囲する。
と、毛利元就とその背後にいる大内義隆(まだ腑抜けになる前)ら周辺への対処を忘れずに、慎重に対処するように諌めた。しかしこれらの提案は尼子晴久に却下され、

久幸殿は戦が恐ろしいのだ。
だからいつも戦に反対しなさる。
臆病野州と呼ぶが良かろう。
と罵られてしまう。しかし、それでも久幸は主家の為に屈辱に耐えて、毛利元就討伐軍に参加した。

尼子久幸の予見した通り、毛利元就の采配と、大内義隆の参戦によって尼子晴久は大敗北を喫し、尼子軍は敗走し、初陣を飾った毛利元就の子・吉川元春や大内軍が尼子晴久を追撃せんと襲い掛かった。

尼子晴久が絶体絶命のその時、尼子久幸は、

臆病野州の壮烈なる死をとくと見よ
と大内・毛利軍に突撃し、敵兵数十人を倒した後、矢を受けて壮絶なる最期を遂げ、戦いの本質を知るからこその臆病者こそ真の勇者である事を証明した。

7: 人間七七四年 2007/03/11(日) 00:05:25 ID:+93EF2+j.net
太田道灌?

8: 人間七七四年 2007/03/11(日) 10:46:34 ID:X59icQHw.net
織田信秀もはいるのかな?

9: 人間七七四年 2007/03/11(日) 12:39:30 ID:8gfIiuQO.net
伊達植宗はどないでしょうなぁ。
大伊達主義で内外を混乱に陥れた張本人のように見られているようですけど、
周囲の大名豪族に対する影響力を伸ばしたのはこの人の代ですよね。

10: 人間七七四年 2007/03/11(日) 18:11:29 ID:ESkoRLWe.net
武田信虎、長尾為景、

11: 人間七七四年 2007/03/11(日) 20:48:32 ID:1YsXth+m.net
両上杉の歴代当主や足利成氏。
そして太田道灌と長尾春景。
最後に今川氏親、北条早雲と明応の政変の関連。
個人的には最高に面白い時代だと思う。

12: 人間七七四年 2007/03/14(水) 17:51:53 ID:cnVP16Q5.net
つ【大内義興】
この人と尼子経久は毛利元就に大きな影響を与えたとオモ

13: 人間七七四年 2007/03/14(水) 22:39:08 ID:s9jFdxWb.net
赤松家を再興した忠臣であり名将の浦上則宗公

91: 人間七七四年 2009/08/23(日) 13:20:38 ID:m8TGo+Yf.net
>>13
今更だが忠臣はねーよw

山名侵攻のどさくさ紛れに赤松を追い落とそうとしてる。

14: 人間七七四年 2007/03/16(金) 00:17:44 ID:UlKv3oSa.net
戦国初期が舞台の物語は江戸時代に成立したものを含めても
かなり少ない気がするな。

15: 音楽奴隷 ◆5c/UstWSY. 2007/03/18(日) 22:16:12 ID:aeUHCC55.net
>>1
戦国初期って、応仁の乱の頃じゃないの?
細川勝元とか山名宗全とか。

16: 人間七七四年 2007/03/19(月) 00:07:34 ID:t4fFpaJV.net
武田信長もはいっていいか

18: 人間七七四年 2007/03/19(月) 03:04:41 ID:qBXNNtEt.net
武田信長は確かに名前負けしないくらいに名将だけど
時代が応仁前の人だから微妙

20: 人間七七四年 2007/04/13(金) 01:04:39 ID:/9K3Ze+y.net
龍造寺家兼は中期か…

21: 人間七七四年 2007/05/23(水) 17:06:54 ID:C9FVZ7i2.net
伊達植宗はどないでしょうなぁ。
大伊達主義で内外を混乱に陥れた張本人のように見られているようですけど、
周囲の大名豪族に対する影響力を伸ばしたのはこの人の代ですよね。

22: 人間七七四年 2007/05/23(水) 18:18:34 ID:/K8pN9LN.net
名将には違いないが、
今川義元同様、詰めの甘さでどうしても評価が厳しくなる

23: 人間七七四年 2007/05/23(水) 19:11:48 ID:8qvYGrDT.net
>>22
天文の乱は稙宗と晴宗の見解の違いであり、どちらかが悪いというわけではないけどね。
稙宗は足利将軍家と仲が良く、足利義稙から偏諱を受け、左京大夫に任官されている。
また、塵芥集を制定したり陸奥守護を獲得したりと、なかなか活躍している。
天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年から17年までの6年間(1542年~1548年)、伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。

永正11年(1514年)に伊達氏第14代当主となった稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至った。奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、一挙に拡大した伊達家中の統制を図るべく『蔵方乃掟』・『棟役日記』・『塵芥集』・『段銭古帳』などの分国法・台帳を次々と作成して集権化を推し進めていった。また伊達傘下に入った諸侯に対しての宥和政策として、特に稙宗に協力的であった婿の相馬顕胤に伊達領の一部(宇多・行方)を分与しようとしたが、この案に稙宗の長男・晴宗が猛反発する。
これに加えて、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示したことで、父子間の対立は決定的なものとなる。天文9年(1540年)には越後においてこの案に反対する揚北衆の本庄房長らが挙兵して紛争へと発展しており、稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させることにした。強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時・牧野宗興・桑折景長ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、天文11年(1542年)ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。まず、伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏・相馬氏・最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長した。また大崎・葛西両家においても、養子として送り込まれていた稙宗の子(義宣・晴清)が討たれ、乗っ取りが失敗に終わった。
一方、伊達家中においても、稙宗方についていた懸田俊宗らが和平案を不服として晴宗に反抗を続け、この鎮圧にさらに5年余りを要した。加えて晴宗方の重臣・中野宗時が乱中にあって、子の久仲を牧野氏の後継に送り込むなどして力を伸ばし、家中最大の勢力となって権勢を振るうようになった。晴宗は乱の終息後、家中の検断を行って(『晴宗公采地下賜録』)集権化を図るが、晴宗方についた重臣達には守護不入権などを認めざるを得なかった。こうした乱の後遺症の後始末がようやく終わったのは、晴宗の子・輝宗の代であった。

25: 人間七七四年 2007/06/29(金) 01:11:59 ID:QbSFjeI/.net
>>23
稙宗の思惑通りに進めば、越後上杉家を乗っ取れたのになw
そうなると、長尾景虎が上杉謙信になることもなかったか。

28: 人間七七四年 2007/07/04(水) 02:26:59 ID:hfF8u4+E.net
>>25
伊達じゃ形の上では乗っ取ることができても
国人たちを統率するのは難しいんじゃね

26: 宇喜多直家信者 2007/06/29(金) 01:37:18 ID:nCRVxoJR.net
宇喜多能家とか本山茂宗とか

27: 人間七七四年 2007/07/04(水) 00:42:26 ID:QBFNCqdv.net
島津忠良(日新斎)

31: 人間七七四年 2007/07/09(月) 00:56:49 ID:IGtJ9zFz.net
木沢長政
行動や人物が弾正殿と被ってる
木沢 長政(きざわ ながまさ)は、戦国時代の武将。河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。

木沢氏は畠山氏の被官として名が見える一族である。畠山持国の時代には木沢蓮因なる人物がいたことが知られている。
長政の時代において、主家の畠山氏は総州家と尾州家に分かれて対立しており、当初は畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていた。だが、相克を続ける主家を見限るかのように、次第に独自の行動をするようになっていく。
細川氏本家京兆家へ取り入って自らの地位向上に努める中、政敵の排除には一向宗と法華宗の宗教対立まで利用する狡猾さを見せた。やがては主家を牛耳るほどの勢力を一代で築き上げ、畿内にその名を轟かせたが増長したため孤立し、最後は三好長慶に敗れ戦死を遂げた。

32: 人間七七四年 2007/07/11(水) 07:23:54 ID:psnRn7WO.net
対面したとき信秀から受ける迫力は、信長以上だったような気がしてならない

信秀が長生きしていたら歴史はどう変わっただろう

35: 人間七七四年 2007/09/07(金) 13:53:51 ID:pdAkyRZz.net
島津忠良とかはどうろう?(貴久の親父)

36: 人間七七四年 2007/09/20(木) 04:27:06 ID:CrHg+POx.net
冨樫政親

37: 人間七七四年 2007/09/20(木) 19:03:03 ID:28xyCAe+.net
やっぱ初期で好きな武将は朝倉宗滴 三好元長 尼子経久かな

38: 人間七七四年 2007/09/20(木) 22:05:25 ID:IJ0YalAV.net
足利義教
山名宗全
細川勝元
細川政元
六角定頼
上杉憲実
長尾景仲
長尾景信
武田信長
足利成氏
長尾景春
太田道灌
長尾為景
北条早雲

39: 人間七七四年 2007/09/21(金) 00:56:50 ID:9zZvpJzG.net
北条早雲とか大田道灌とか、武将ってだけじゃなくものすごいインテリで超エリートなんだよな。
出自も含めて戦国初期の将は、そういう筋目のはっきりしたのばっかりだな。下克上の世の中はまだ先。

40: 人間七七四年 2007/09/21(金) 08:56:51 ID:RTvmzokN.net
上杉憲実が創建した足利学校で道灌は学んだ

41: 人間七七四年 2007/09/22(土) 16:39:51 ID:kNHNr6jD.net
歴史ゲームに登場してくれれば知名度あがるんだがな。

43: 人間七七四年 2007/10/18(木) 00:05:45 ID:Gv4m6Alb.net
大友親繁
三浦時高
あたりはどうだろうか。

44: 人間七七四年 2007/10/18(木) 00:56:41 ID:QzK1DS2H.net
「戦国」の始まりを応仁の乱でとるか明応の政変でとるかで変わってくるかな。
時期で分けると前者では入り、後者では落ちるボーダーライン上の名将たち。

●東常縁(1401?~1484)
本国は美濃郡上。室町幕府奉公衆として京都にあった。
将軍家の命で1455年関東の千葉氏の内紛に介入(東氏は千葉一族)、
千葉実胤・自胤を擁して関東を転戦、千葉孝胤派(古河公方足利成氏が支援)と争う。
関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の郡上を斎藤妙椿に奪われるが、和歌を送って返してもらう(両方とも風流だな)。
二条派の堯孝に和歌を学び、宗祇に古今伝授を行った「古今伝授」の祖として、文学史でも有名人。

●斎藤妙椿(1411~80)
美濃守護代斎藤宗円の子。守護代となった甥の利藤の後見人の立場でありながら
守護土岐成頼を圧倒(妙椿は守護代でもないのに従三位権大僧都と官位も上)、
美濃一国を平定。公家や寺社領を奪う。応仁の乱では西軍に属して東軍方の所領をがっつり没収。
さらに近江・伊勢・尾張にも侵攻。越前の朝倉・甲斐氏の争いを調停するなど、周辺国に影響を及ぼす。
妙椿以後斎藤家は分裂、内紛を勝ち抜いた当主の戦死もあって弱体化。
のちに長井規秀(斎藤道三)が斎藤家の名跡を継ぐことになる。

●朝倉孝景(英林)(1428~81)
越前守護斯波氏・守護代甲斐氏の政争を潜り抜けて勢力を伸ばし、
応仁の乱中に西軍から東軍への寝返りを敢行、見返りに守護職を掴み取り、朝倉五代の礎を築く。
公家や寺社の所領を召し上げて「天下一の極悪人、天下悪事始業の張本」と呼ばれ、
その死を「天下の慶事」とまで公家の日記に書かれた男。
成り上がりで裏切りで武断派なワイルド朝倉。義景ばかりみてるとイメージが違う。

46: 人間七七四年 2007/11/16(金) 08:55:08 ID:lGJhFuwp.net
関東の戦国は足利持氏と足利義教の対立からかな?
それとも小山の乱か禅秀の乱あたりかな。

47: 人間七七四年 2008/01/13(日) 18:33:04 ID:rdlz2WK8.net
関東の本格的な戦国は享徳の乱からじゃない?
まあ、成氏が元服時点で戦国かもしれないけど
本格的な争いは1450年代に入ってからだと…
享徳の乱
西暦1454年に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誘殺したことに始まる戦乱。鎌倉公方と幕府の支援する関東管領上杉氏の、永享の乱から続く対立が伏線となっている。乱は関東一円に拡大し、関東は応仁の乱よりも一足早く戦国時代に突入してしまう。

この乱により鎌倉公方は足利成氏の古河公方、8代将軍・足利義政の兄弟足利政知の堀越公方に分裂した。

48: 人間七七四年 2008/01/13(日) 21:33:49 ID:DnE0OxON.net
英主関東管領上杉憲実からだろ。

50: 人間七七四年 2008/03/19(水) 19:55:17 ID:pQnIEhKf.net
畠山義就が好きだな。
なんかただ暴れまくってるだけに見えるがちゃっかり幕府から河内大和と摂津欠郡をもぎとってるあたりが
畠山義就(永享9〈1437〉年-延徳2(1490)年)

畠山持国の嫡子として生まれる。足利義政の寵愛を受け、偏諱を受けて義夏と名乗る。後に義就と改名する。

持国には実子がおらず、弟の畠山持富を後継者としていたが、義就の誕生を受けて文安5(1448)年には持富の家督継承を取り消し、義就を後継者とする。義就の家督継承に反発する畠山氏の被官神保氏らは宝徳4(1452)年に死去した持富の遺児弥三郎を立てて持国・義就に対抗する。持国は神保父子を誅殺するが、畠山被官の反発を買い、さらに細川勝元・山名持豊(宗全)も弥三郎を支持し、義政も弥三郎を家督継承者と認めるが、なおも反発する山名持豊を領国但馬に追い、義就は復活し、弥三郎が逃走する。

享徳4(1455)年に持国が死去し、義就が畠山家の家督を継承し、さらに弥三郎も長禄3(1459)年に死去するが、弥三郎派は弥三郎の弟畠山政長を立ててなおも抵抗する。義就は義政の上意を詐称して義政から疎まれるようになり、義政は義就から畠山家家督を取り上げ、政長を畠山家家督に据える。義就は領国の河内国に下り、徹底抗戦の姿勢を示し、寛正4(1463)年に義就のこもっていた嶽山城が落城し、義就は吉野へ没落する。

文正元(1466)年には細川勝元と赤松家再興をめぐって対立した山名宗全の支持を受けて上京し、政長を失脚させる。翌応仁元(1467)年正月に上御霊社で政長と義就の武力衝突を機会に応仁の乱が勃発する。

義就は一貫して宗全の率いる西軍に属し、勝元の率いる東軍と戦った。応仁の乱の終結後も政長と戦い、主戦場となった南山城では文明17(1485)年に国人によって山城国からの退去を要求される(山城国一揆)。

延徳2(1490)年に病死、一説には病魔に冒され自害したと伝えられる。

58: 人間七七四年 2008/11/20(木) 08:46:54 ID:uUJ+sXDV.net
戦国初期には巨大な権限を持っていた、管領家の被官たちの没落は悲しいものがあるな。

香川、安富、上原、薬師寺、越智、古市、遊佐、甲斐、…

60: 人間七七四年 2008/11/25(火) 02:59:34 ID:rTEM3abl.net
遊佐はまだいい方じゃないか?
途中までは三好とくっついてたんだし

61: 人間七七四年 2009/01/25(日) 00:27:12 ID:u5jz4IYp.net
朝倉宗摘が一番

62: 人間七七四年 2009/02/03(火) 18:34:00 ID:BEpeJK3g.net
長尾為景が最強

63: 人間七七四年 2009/02/04(水) 15:55:51 ID:fe6rHG2f.net
尼子経久ですよ

68: 人間七七四年 2009/03/04(水) 13:13:19 ID:BY7edfmq.net
>>63
だよな。


でも歴史群像の特集みて長尾景春と太田道灌も凄いと思った

64: 人間七七四年 2009/02/08(日) 13:10:50 ID:R6zmht9+.net
一色義貫を討った武田信賢は間違いなく名将
応仁の乱にも参加してるからギリギリオーケーだな

66: 人間七七四年 2009/03/03(火) 03:43:14 ID:5/PqRDoT.net
三好元長だろ

67: 人間七七四年 2009/03/04(水) 01:32:13 ID:M5sopcSK.net
松平清康も忘れてくれるな

69: 人間七七四年 2009/03/04(水) 13:23:49 ID:KVbDwnhr.net
長尾景春はマジ名将だよ。
山内扇谷越後上杉の超大軍を率いる道灌相手に寡兵でゲリラ戦を続け討ち死にせずに関東ド真ん中で暴れまわり天寿を全うしてんだから。
しかも謀殺された道灌の主だった扇谷上杉定正の正妻は景春の姉妹と言う怪しさ。
道灌が殺害されると景春は扇谷上杉の軍師になって山内上杉軍を撃ち破るし。
敵に回すと危険過ぎ!

78: 人間七七四年 2009/07/08(水) 21:57:14 ID:d8pP9Ih2.net
北畠顕家

79: 人間七七四年 2009/07/08(水) 22:32:19 ID:n4HuOY7s.net
浅井亮政
尼子経久
伊勢宗端
一条房基
大内義興
太田道灌
織田信秀
吉川基経
島津日新斎
武田信虎
長尾為景
長尾景春
龍造寺家兼


怪物だらけ

80: 人間七七四年 2009/07/09(木) 03:35:18 ID:sxKtz2pB.net
>>79
織田信秀は戦国中期だろ。
戦国初期の織田といえば織田敏定。
あと斉藤妙椿も入れて欲しいな。

82: 人間七七四年 2009/07/09(木) 16:16:55 ID:QPhOw9zo.net
「今川仮名目録」という独自の分国法を作り
荘園制を無くし農地改革し今川家を確固たるものにした
今川氏親を忘れてもらっては困る。

87: 人間七七四年 2009/07/09(木) 20:25:07 ID:sxKtz2pB.net
>>82
氏親は北条氏綱と並んで、伊勢宗瑞のよき弟子ってイメージ。
そういえば敵方である扇谷朝興も、宗瑞の花押真似したりしてるな。

83: 人間七七四年 2009/07/09(木) 17:12:53 ID:8WX/Rc9e.net
マイナーで可哀想な三浦義同
三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の東相模の武将、小大名。通常、出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。
北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。

89: 人間七七四年 2009/07/10(金) 02:26:46 ID:OkSkFjhO.net
小笠原長棟も名君と名高いな
小笠原 長棟(おがさわら ながむね)は戦国時代の武将。信濃の大名小笠原氏(府中小笠原氏)の当主。小笠原貞朝の次男。
智勇に優れた人物で、天文2年(1533年)7月、高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(1534年)、対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一した。天文8年(1539年)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。
しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、やがて長利と不和となったため長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移る。そして小笠原家とは対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。
天文10年(1541年)に長棟は出家して、嫡男長時に家督を譲った。長棟の死後、8年で信濃小笠原家は滅亡に至った。

90: 人間七七四年 2009/08/23(日) 12:56:32 ID:UsWFh3N4.net
信濃四将の親はみんなそれなりに評価高いよな

98: 人間七七四年 2010/06/25(金) 00:42:25 ID:FNTCNZUv.net
神保長誠

99: 人間七七四年 2010/06/25(金) 03:53:05 ID:eBu04YiQ.net
良スレなのに伸びないな 朝倉孝景 尼子経久 龍造寺家兼

106: 人間七七四年 2010/12/26(日) 18:07:12 ID:46RMXR9G.net
>>99
孝景って敏景に改名した人?
経久は大河での緒方拳のイメージが。
家兼は一族皆殺し→復活がすごいよね。

100: 人間七七四年 2010/07/02(金) 11:17:59 ID:lCbRmmXe.net
その辺はやっぱり資料が少ないからな。話す内容も限定的にならざるを得ない。

101: 人間七七四年 2010/08/15(日) 07:31:49 ID:F3QawBXV.net
残念だね

105: 人間七七四年 2010/12/22(水) 04:19:36 ID:UmiZs8RO.net
宇都宮成綱はかなりあのカオスな宇都宮家の中では名君だと思うのだが。

107: 人間七七四年 2010/12/26(日) 18:26:42 ID:vtDOfajY.net
毛利元就とか北条早雲

110: 人間七七四年 2011/01/06(木) 13:00:41 ID:9XE3cjFN.net
神保長誠

117: 人間七七四年 2011/12/10(土) 00:12:12.99 ID:njx4YYju.net
結城氏朝・持朝父子
まさか嘉吉の乱まで連鎖するとは。

121: 人間七七四年 2012/06/13(水) 21:00:01.97 ID:p2x/JXER.net
斎藤妙純と赤沢宗益もなかなかの名将だろう
ただし無残な末路を迎えるがな
斎藤 妙純(さいとう みょうじゅん) / 斎藤 利国(さいとう としくに)は、室町時代から戦国時代の武将。美濃守護代斎藤利永の子。叔父にあたる斎藤妙椿の養子となる。

最期
妙純は京極高清の求めに応じ、先に石丸方に味方した六角高頼を討伐するため、近江に出陣、緒戦で京極政経を打ち破る。しかし、六角方は蒲生貞秀・延暦寺や北畠政郷らの支援を受けた上に大きな合戦もなく戦線は膠着し、和議を結び美濃へ撤収することとなった。12月7日、撤収準備にかかったところ、突然、長期の侵攻に不満を蓄積していた郷民・馬借による土一揆が蜂起し、不意をつかれた美濃勢は具足太刀を奪われ、妙純以下1000余りが戦死、妙純の嫡男利親らも戦死し、持是院家は大打撃を受けることとなった。

122: 人間七七四年 2012/06/24(日) 03:30:08.87 ID:GNuwgBwA.net
半将軍細川政元
ある意味上杉謙信をしのぐガチな人

123: 人間七七四年 2012/06/24(日) 11:32:55.98 ID:sn30vJZS.net
若い頃の寿桂尼

124: 人間七七四年 2012/06/24(日) 16:44:21.30 ID:U3qhLd0K.net
三好元長
長慶のおとん
何気に凄い人

125: 人間七七四年 2012/06/27(水) 00:51:57.43 ID:X1Gvhyl9.net
半将軍細川政元の最期がイイよナッ!!!!!




126: 人間七七四年 2012/06/27(水) 07:39:55.41 ID:MEZm0fpI.net
今川氏親
六角定頼
松平清康

引用元: ■戦国初期を彩る名将たち■