1: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:17:21 ID:JGg
・北畠氏配下の木造氏一門の層として北畠氏に仕えている
・滝川一益の調略を受けて木造氏を織田方に寝返らせる
・滝川一益の娘を娶って一門に
・北畠氏の家督を継いだ織田信雄に仕えて家老として活躍
・秀吉が天下統一後に信雄改易後は単独の伊勢神戸城の大名に
・関ヶ原の戦いは西軍に付き、改易されたものの、徳川秀忠に能力を買われ、常陸片野の大名に復活
滝川雄利という化け物
no title


2: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:17:52 ID:JGg
という事で自由に戦国時代の議論をしてクレメンス

3: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:19:01 ID:7sI
>>2
付いた奴が全部没落していくんですがそれは・・・

4: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:19:45 ID:vOJ
ちょっとマイナー過ぎやしませんかねぇ・・・

6: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:42:13 ID:oic
山崎長徳について語るスレはこちらですか
山崎 長徳(やまざき ながのり、天文21年(1552年) - 元和6年11月11日(1620年12月4日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
はじめ朝倉義景の家臣として仕えた。義景の宿老だった山崎吉家の縁戚に当たるともいわれ、父は吉家の弟の山崎吉延ともいわれるが、詳しいことはわかっていない。朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕え、天正10年(1582年)の本能寺の変や山崎の戦いにも参加した。
光秀が山崎の戦いで死去すると、越前の柴田勝家に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の家臣・佐久間安政のもとで戦った。勝家が死去すると前田利家、次いで前田利長に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは加賀大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、戦後に利長から1万4000石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも、冬・夏の両陣に参戦している。
元和6年(1620年)、69歳で死去した。槍術に優れていたといわれている。

7: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)17:46:03 ID:JGg
>>6
そもそも朝倉家中の山崎氏がどこの立ち位置に居たのやら…
彼もその一族出身なのは確かやけど

10: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:08:08 ID:JGg
というか朝倉家は朝倉景みつの死に方ヤバすぎるだろ。
口論に負けて自害ってマトモな家中じゃ絶対起こり得ないわ

11: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:12:52 ID:oic
>>10
景鏡やろなあ

12: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:17:18 ID:vKq
>>11
景鏡が口論相手なんだよなぁ

13: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:17:28 ID:JGg
>>11
>>12
この件といい、なんでこんなに景鏡の影響力だけが高いんや?
義景の影響力ボロボロ過ぎないか?

16: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:22:07 ID:yPs
>>13
どうにもよくわからん。本人に才能があったのか、母が烏丸家の出ってのが大きいのか
父の朝倉景高は宗淳孝景の弟やけど謀反して追放されとるし。普通なら冷遇されてもおかしくないのにな

14: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:18:02 ID:yPs
>>10
景恒の兄景みつか
あれのせいで敦賀郡司が没落してもうたのが勿体ない

15: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:20:30 ID:oic
景みつ「総大将になれなかったンゴ・・・自害するンゴ」

景恒「信長に負けたンゴ・・・永平寺に帰るンゴ」

17: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:27:22 ID:JGg
>>14
そんな有力な一門なのに口論の後、義景の裁定を仰がず、あっさり切腹って訳わからん。
>>15
うーんこのクソメンタル
>>16
朝倉一門は朝倉景隆景健父子とか朝倉景嘉、朝倉景綱も居るのに、むしろ滅亡した後の方が目立って大暴れしている謎

18: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:28:42 ID:vKq
>>13
義景になかなか子供が出来なくて一族衆の影響力が大きかったのが原因やとは思うけど

19: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:33:12 ID:JGg
>>18
確かに。
蘆名、大内や毛利、島津なんか大体一門衆や寵臣が幅利かせているよね

20: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:33:29 ID:oic
郡司って席次で1.2争うぐらいのやつやろ

21: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:36:33 ID:JGg
>>20
朝倉宗滴の地位、そのままスライドだしねえ。景鏡居なければ、1番やろねえ

22: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:39:35 ID:JGg
>>21
朝倉宗滴の養子が朝倉景紀、その子供が景みつ、弟が景恒ね

25: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:50:58 ID:vKq
>>21
大野と敦賀の主導権争いが濃厚やな

23: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:40:12 ID:oic
山崎は府中に4万石やったとか

24: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:48:51 ID:JGg
>>23
まあそのくらいが妥当な地位やろうなあ。
一門衆のグラグラに苦労している姿しか思い浮かばんわ>山崎吉家

26: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)18:56:17 ID:yPs
朝倉義景亭御成記によれば、足利義秋御成りの時点で席次は

式部太輔景鏡(大野郡司
孫三郎景健(宗淳孝景一族
次郎左衛門尉景尚(景純一族?
修理進(朝倉景冬?
孫六景茂(孫六景盛の子
修理亮景嘉(景冬一族?
右馬助景富(将景一族

てな具合らしい。景恒は敦賀での歓待役で別枠みたいやね
山崎長門守(長徳)は同書の詰衆・右筆方・同朋衆ノ相伴に名前があるようやね
毎度毎度思うが朝倉一族は同じ名前多すぎやろ・・・

27: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:08:54 ID:JGg
>>26
その長門守は吉家じゃね?
というか朝倉一族、似た名前が多いなホント…

28: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:13:22 ID:yPs
>>27
年寄衆に山崎長門守吉家っておるで
名前被りもある程度しゃーないにしろ、官名すら入ってないのは区別つかへん・・・

29: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:16:09 ID:JGg
>>28
http://fukuihis.web.fc2.com/data/onari.html
本当だ…。兼務とは考えにくいし、吉家の息子やろうか

31: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:20:22 ID:yPs
>>29
山崎吉延が長門守名乗ってたり・・・せんよなあ
長徳も永禄11年時点で多分16だからギリギリ詰衆あたりやってる可能性はあるかと思うんやけど

36: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:25:35 ID:JGg
>>31
家譜にやっては吉家の息子は吉建、しかも肥後守名乗りやねえ。
一族で同じ官途名名乗るって不思議な話やねえ

38: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:30:18 ID:yPs
>>36
親兄弟でも継ぐ形ならままあるんやけどね
同時期に同じ姓で同じ受領名ってのはちょっとようわからんね

39: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:32:15 ID:JGg
>>29
この一覧見てると杉若氏とか千秋氏が居るのか。
紀伊の杉若氏と熱田神宮の千秋氏の関連が気になる。
あと九里氏も九里亜蓮の関連が気になる

41: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:39:15 ID:yPs
>>39
千秋氏はhttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-03-02-03.htmが詳しいで
氏家氏は美濃に移る前は越中の出身って説があるから、その系統かもしれんね

42: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:44:54 ID:JGg
>>41
ああ、千秋は遠縁なのか。
氏家は奥州→美濃なのは知ってたが、越中に居た時期があるのは知らなかった

44: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:49:11 ID:yPs
>>42
その奥州氏家氏の祖、中務丞重国が越中出身って説があるんや
新田義貞の首を挙げる武功を挙げる前は越中の住人やったって話

余談やけど、ワイが浪岡や阿蘇菊池が好きなのは南北朝時代が好きやからなんや

45: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:56:37 ID:JGg
>>44
yPsちゃんは南北朝好きだったか。
南北朝は足利直義が北朝から離反したのに、南朝に付かないのを見て「えっ、なんで」と思ったのはいい思い出

49: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:04:05 ID:yPs
>>45
あれほどワケわからん時代もなかなかないで。観応の擾乱なんて最たるものやな
でも南北朝ではっちゃけた家って応仁の乱後には基本没落しててかなC

信忠生きてたらゴタゴタの結果ほぼ元鞘ちゃうかな
信濃あたりまでは徳川に持っていかれるやろうけど、家臣団の分裂は史実ほど大きくなかったやろ

50: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:10:13 ID:JGg
>>47
少なくとも織田政権は存続してたやろうね。だけど求心力は低下するだろうし、
そこで信忠がどういう治世を示せるかがミソやね。
あと本能寺の変が無ければ、松姫は正室として迎えられていたっていう説、マジなんやろうか。
>>49
天正壬午の乱は徳川氏が織田政権の意向と家康の判断で北条氏と上杉氏と戦った話だからなあ。
もしかしたら、甲斐は徳川氏の物、信濃は織田家臣に返却とかありそう

30: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:17:55 ID:JGg
なんかすっごくマイナー路線ズブズブやけど、
もっとメジャー且つ戦国時代初心者の質問も待ってるで

32: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:20:39 ID:vq4
ワイにわか話についてけず無事死亡

33: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:22:45 ID:JGg
>>32
大丈夫、実は徳川好きなワイちゃんもyPsちゃんの話に付いて行くのに精一杯や!
君の気になる戦国時代の疑問をぶつけてもええんやで?

35: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:24:26 ID:yPs
(大内や浪岡、阿蘇菊池あたりが好きだけどその辺詳しくないなんて今更言えへん・・・)

43: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:46:11 ID:JGg
というか福井県史ネット見放題なのすご杉内

46: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)19:57:32 ID:B2q
すき

48: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:03:52 ID:euP
石田三成、明智光秀が好きっていうとヒかれるのが辛いンゴ…

51: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:12:46 ID:JGg
>>48
本多忠勝って答えて目が点になられるよりマシやで(その目は優しかった)

53: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:15:05 ID:vq4
やっぱり信忠の死亡が大きかったか・・・・・
>>51
ワイも一番忠勝が好きやで(小声)

55: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:21:03 ID:JGg
>>53
一般人は本多忠勝レベルですら分からないの、ちょっとかなC

52: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:14:19 ID:yPs
>>48
ワイも好きやで
特に三成は少し悪し様に言われ過ぎやと思う

54: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:15:36 ID:JGg
南北朝ではっちゃけて尚且つ戦国時代まで持ったのは北畠と宇都宮と小笠原くらいか?
佐竹と島津が南北朝時代何をしてたのか良く知らんし

58: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:33:48 ID:yPs
>>54
島津は南北朝時代に大隅と日向の守護職を回復し、南北ふらふらして最後は今川貞世に反抗してた
佐竹は楠正家・北畠親房と死闘、最終的には高師冬の支援を得て常陸での影響力を強めてた

今川や大友あたりが一番手やろか。今川は範氏の系統やから微妙かもしれん
南部も・・・師行の八戸系は微妙か。地味なとこでは赤星氏や城井宇都宮氏なんかもなかなかやね

59: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:34:24 ID:vKq
>>54
佐竹は北朝方について旧領回復、島津は多々良が浜の後からの九州のゴタゴタのど真ん中やな

60: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:40:34 ID:JGg
>>58
>>59
サンガツ
今川氏と大友氏忘れてたンゴ…
確か今川貞世の子孫は築山殿の出身家である瀬名氏だよな?
両宇都宮、赤星氏は最後の棟梁たちがプライドを優先してしまい、身を滅ぼした感凄い

62: 名無しさん@おーぷん 2015/06/26(金)20:47:35 ID:yPs
>>60
せやね。瀬名氏のほうは家康の旗本として残っとるね
城井氏はともかく、赤星氏(統家)は事情が事情だけにしゃーない面もあると思うわ

91: 名無しさん@おーぷん 2015/06/27(土)00:40:19 ID:Ih5
官位が欲しいンゴ。
なんでもいいンゴ。

117: 名無しさん@おーぷん 2015/06/27(土)17:25:41 ID:Siz
信長の野望の創造も201xも楽しいンゴ

引用元: なんJ戦国時代部