1: 人間七七四年 投稿日:2011/03/22(火) 00:30:41.13 ID:B92HFMen
破天荒な兄・信長とは対照的な人柄で、二度の謀反の末に謀殺されたと言われる「織田信勝(信行)」。
その遺児で明智光秀の娘婿だった為に、本能寺の変直後に信孝と丹羽に謀殺された「津田信澄」。
活躍することもなく、若くして殺された悲劇の親子やその子孫について語れ。
織田信行 
織田 信行(おだ のぶゆき)は、戦国時代の武将。名は一般に信行と流布しているが(『織田系図』)、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できていない。なお信行の名以外では信勝で呼ばれる方が多い。通称は勘重郎(勘十郎)。尾張末森城主。
天文20年(1551年)、父・信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信勝は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」(『信長公記』)と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった。
天文24年(1555年)5月頃、達成は代々の当主が名乗ってきた弾正忠の官途を信長を差し置いて名乗るようになり、家中で信長の唯一の対抗者となっていった。
同年6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた達成は激怒し、信次の居城・守山城の城下を焼き払った。これに対し信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」として達成を牽制したが、織田家の家臣たちは親族のつながりを尊重した達成に、より当主としての期待を寄せる結果となった。
弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、達成は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。しかし8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。敗れた達成は末森城に籠城、達成は母・土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。
弘治3年(1557年)、武蔵守信成は岩倉城の織田信安に通じるなどして再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に通報した。『信長公記』によると、信成は若衆の津々木蔵人を重用し、勝家は増長した蔵人に侮られ無念に思っていたという。その後、信成は信長が病気との報を受け、柴田勝家に事の真偽を仰ぐが「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば信友殿もいない今、織田家はあなたのものです」と諭された。そして、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行ったが、清洲城北櫓天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって暗殺された。
津田 信澄(つだ のぶすみ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。近江大溝城主。摂津大坂城代。
弘治元年(1555年)、織田信行(信勝)の嫡男として生まれる。弘治3年(1557年)、父が謀反の企てを起こしたとして伯父の織田信長によって暗殺されるが、幼少の信澄は祖母の土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。このこともあって、織田氏を名乗らず津田氏を称したともいわれる。
永禄7年(1564年)正月に元服したといわれるが、これは誤りで実際は天正初期に元服したとも伝わる。天正2年(1574年)2月3日朝に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に出席している。3月に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る奉行を務めた。
天正3年(1575年)7月の越前一向一揆征伐に従軍、初陣した。10月27日に公家の吉田兼見が信長に礼参した際、信澄が進物を披露している。天正4年(1576年)1月14日、信澄は高島郡より上洛した事が確認されるため、これより以前に信長より近江国に所領を与えられていたと確認されている。同年には明智光秀の丹波攻めに援軍として参加している。
天正6年(1578年)2月3日、浅井氏旧臣で高島郡を任されていた磯野員昌が織田家より出奔したため、員昌の養子として高島郡の所領を加増され、また同時期に明智光秀の娘と結婚した。 4月4日、織田信忠に従い石山本願寺攻めに従軍。10月から翌年11月までの荒木村重討伐にも従軍している。この荒木征伐で開城した摂津伊丹城には信澄が入り、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送した。また天正6年(1578年)8月15日の安土における相撲興行では堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門らと共に奉行を務めた。
天正10年(1582年)春、土佐の長宗我部元親と信長の関係が悪化し、信長は三男の信孝を総大将に丹羽長秀、蜂屋頼隆、そして信澄を副将に付けて四国に渡海させる計画を立て、信澄は大坂城に駐留する。そして京都から大坂に向かう徳川家康の接待役を丹羽長秀と共に命じられる。

天正10年(1582年)6月2日、舅の光秀が京都にいた信長を襲撃して殺害した(本能寺の変)。信澄は光秀の娘婿であった事が災いし、6月5日に信孝と長秀により襲撃され、野田城で信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって殺害され、首級は信孝の命令で堺で晒された。享年28。
no title no title


2: 人間七七四年 投稿日:2011/03/22(火) 00:32:30.51 ID:B92HFMen
林や柴田が信長に代わる当主に推そうと思った理由が分からん。
単に常識的な人物だっただけか?

8: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 06:47:20.65 ID:FHrUSD8R
>>2
それはいわゆる「俗説」どおりだと思うよ。
つまり、信長が「尾張の大うつけ者」と言われる
ただの酷いタワケに見えたからだろ。

3: 人間七七四年 投稿日:2011/03/22(火) 00:37:12.89 ID:0g0DkCVQ
二人の母親が同じ、信長の兄二人は違う
信長が嫌なら誰かを担がなければならない
単純な消去方だと思う

4: 人間七七四年 投稿日:2011/03/22(火) 00:46:01.20 ID:CuGzhn9N
親子とも悲劇的な最期遂げたけど、津田信澄の子昌澄は最終的には徳川秀忠に仕えて旗本として家名存続できたからよかったね。
藤堂高虎の口添えのお陰だけど。

6: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 01:27:17.91 ID:TOM6K8MQ
>>4
藤堂は信澄の家来だったことがあるんだよね。

5: 人間七七四年 投稿日:2011/03/22(火) 00:50:26.81 ID:0g0DkCVQ
確か馬揃えの序列も4~5番目くらいだったし信長もかなり期待してたんじゃないかな?

7: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 02:46:38.42 ID:Mj88+Uxa
なかなか義理堅い所あるじゃん藤堂

9: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 06:48:38.63 ID:FHrUSD8R
俗説=間違いってのは短絡的すぎるよ。

10: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 07:28:41.27 ID:PXT4NrKw
操るなら変人よりは優等生と

11: 人間七七四年 投稿日:2011/03/23(水) 19:37:48.20 ID:YeMBVaYk
織田信勝ってホントに優等生タイプだったの?
信長に二度も反抗してるくらいだから結構気性激しかったんじゃないかと思った。

13: 人間七七四年 投稿日:2011/03/24(木) 01:18:43.90 ID:6A/EeChX
>>11
優等生でも気性が荒いんだろ。

12: 人間七七四年 投稿日:2011/03/24(木) 00:29:12.34 ID:Bqgcbcr/
訛伝である信行って名はどこが由来?

46: 人間七七四年 投稿日:2011/05/10(火) 11:34:28.02 ID:IL6BQcgs
>>12
系図。
「信長公記」などでは一部を除いて通称を用いている。
信勝も「勘十郎」としか書かれていない。
系図があてにならないことは林秀貞とかを見ればわかる。

14: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 01:16:51.42 ID:ZsakRfBg
優等生でもあるが乗せやすいタイプ
悪く言うと単純、こんなイメージがある

15: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 01:21:46.64 ID:WsETP2gf
まぁ家臣にとっては担ぎやすい人間だったんだなw
よくいえば素直なんだろうけど。

16: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 01:26:18.68 ID:6nc4W73P
ハンカチ王子みたいな感じじゃね
一見爽やかそうで実はすげー我が強いの

17: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 02:08:10.55 ID:FtHrYjiK
信澄を重用?したのは、身内に甘い信長というか、
亡き弟へ思う所があったのかな?

18: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 02:45:37.18 ID:i+P+LUsA
信澄は平均以上の武将だったと思うが
これからと言うときだったのに惜しい

19: 人間七七四年 投稿日:2011/03/25(金) 22:59:15.01 ID:gIISAq5I
一部信澄が勇敢だった説があるが
信澄の戦での功績が全く見えてこない
一級史料で信澄が合戦場に出陣したと記してるものあるのか
せいぜい相撲の奉行やったぐらいじゃないの

そもそも大溝城主になったのも信澄の養父であった磯野員昌が出奔したからというが
ほんとは信澄が信長に頼んで員昌を追放したのではないのか

20: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 12:30:17.66 ID:s0sJrcTF
>>19
三重県上野のホテルで見た天正伊賀の乱の布陣図で信澄の名がある。
ただ信雄が神戸、信澄が織田と記されてるからいつの時代だ?

21: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:01:46.63 ID:iozshMO8
信澄を本能寺のどさくさに紛れて殺した信孝の側近が信澄の弟である信兼
織田 信兼(おだ のぶかね、生年不詳 - 天正11年(1583年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。新八郎。織田信行の三男。兄に津田信澄・津田信糺、弟に津田信直、妹に神田之成室がいる。
織田信孝に仕える。本能寺の変直後に信孝が実兄の津田信澄を謀殺したが、信兼は変わらず信孝に仕え続けた。最期は信孝に殉じた。

25: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:36:42.65 ID:36c6609K
>>21
やはり兄弟不仲だったのかも?

28: 人間七七四年 投稿日:2011/03/27(日) 18:31:14.36 ID:ebx11gaY
>>21
信兼って最期まで信孝に殉じてるんだよね。
信孝への忠誠心が高過ぎたせいで実兄殺害へ至ったのかね?

22: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:16:46.47 ID:dNhp/i5J
信行×で信勝○だったとすると、信長の実子、信雄と読みで被るのが不思議。
信雄の元服は信勝死後ずいぶん経ってからだから、時期的に重なってはいないし、日常的に使うわけではないから問題ないといえばそのとおりなんだが。
どんな名前でもつけられたのに、なぜわざわざ同じ読みで名付けたか。
信雄が「のぶお」だったんだろうか。

24: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:22:58.83 ID:iozshMO8
>>22
息子に親父と同じ名前つける人だからあんま気にしてないんじゃね
奇妙丸とか茶筅とか犬とか適当だし

25: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:36:42.65 ID:36c6609K
>>24
信秀の諱は本能寺後に付いたと思う。

37: 人間七七四年 投稿日:2011/03/31(木) 16:41:06.71 ID:8kGqREVx
>>22
そもそも諱で呼ばれることがほとんどないし、信勝も「達成」「信成」など
別名もある。
信雄が元服したころには信勝はもう死んでるんだし、同じ読みでも問題はなかろう。

23: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 13:17:18.69 ID:Fdf67IhV
その辺の人間関係は複雑だな

結局、光秀を討った後
信澄の子息は連座されずに生き延びたし

26: 人間七七四年 投稿日:2011/03/26(土) 15:56:37.52 ID:3U6WQMGg
>>23 信勝の未亡人が池田恒興に嫁いだ、という情報あり(未確認)。そのとおりだとすれば、恒興夫人の孫であったことになり、信澄の遺児が池田家の保護を受けたとしても不思議ではない。
信澄の家系は江戸時代、旗本になって続いているはず。

36: 人間七七四年 投稿日:2011/03/31(木) 14:49:25.13 ID:hyc5WH8c
>>26
信澄の遺児を匿ったのは池田じゃなくて信澄の家臣だった事もある高虎だよ
信澄が大阪で殺された後に二歳の息子を連れて奥方が高虎を頼った
光秀の娘だったからホント藁にもすがるような心細い思いだったと思う
高虎は二人を労わり息子が成人した後に芦尾庄九郎と名乗らせ家臣とした
関が原合戦の折、高虎不在の伊予で一揆が起きたが
その一揆の大将である三瀬六兵衛を討ち取ったのが芦尾庄九郎だ
後に千姫が秀頼に嫁ぐと庄九郎の母は上臈として千姫につき従った
その縁故により秀頼は庄九郎を呼び寄せ百人扶持を与え
織田主水正と改名して秀頼のお側に仕えさせた
で、大阪の陣の後に高虎の取り成しで旗本に取り立てられた、と

38: 人間七七四年 投稿日:2011/04/02(土) 17:45:57.72 ID:NjaGxowY
>>36
藤堂高虎はほんと義理堅いよなぁ。
信澄の遺児の面倒も後々まで見てるのもそうだけど、豊臣秀長の菩提寺の保護も徳川政権成立以降もしてるし。
司馬の小説とかで不当に貶められてるのが不憫というか腹立つなぁ。

29: 人間七七四年 投稿日:2011/03/27(日) 19:02:08.51 ID:4Z/NBlCE
信兼にすれば信澄への嫉妬もあったんじゃないのかね
自分は子守り役、兄貴は伯父に認められて一軍を率いている

30: 人間七七四年 投稿日:2011/03/28(月) 06:13:26.67 ID:7DSUCtCR
子守役ってほど信孝と年離れてないでしょ
多分知らない間に事が起こってただけでは

34: 人間七七四年 投稿日:2011/03/30(水) 23:44:42.32 ID:w25Vb8Sw
>>30
そうだとしても、信澄が殺された後も信孝についていってるから、
兄弟仲は良くなかったんだろうな。
もし仲良かったら兄殺された時点で秀吉の下に走るだろう。

31: 人間七七四年 投稿日:2011/03/28(月) 07:25:02.46 ID:MaE0fokH
知らないってこたぁないでしょ
信孝からどうする?って言われてるだろ
味方につけられるならこしたことないし

32: 人間七七四年 投稿日:2011/03/28(月) 08:11:07.95 ID:vLNXXQTC
計画もれて返り討ちの可能性があるのにか?
信孝の器がでかいか、周りも含めてバカばっかりだったのか。
どちらにせよ凄いな。

33: 人間七七四年 投稿日:2011/03/28(月) 12:35:28.09 ID:7bcJC7ti
信勝流の嫡流争いじゃね

39: 人間七七四年 投稿日:2011/04/06(水) 00:23:15.75 ID:TD5RMyAa
信澄は磯野員昌の養子になってたんでしょうか?

41: 人間七七四年 投稿日:2011/04/12(火) 13:17:03.64 ID:qYhSdLZ0
>>39
伊勢の神戸・長野・北畠を見ると磯野も同じ方策を採ったと考えていいと思う

42: 人間七七四年 投稿日:2011/04/15(金) 12:18:23.02 ID:cheFDZ1M
磯野はあとを継がせてもハクが付くような名門じゃないし、
家代々の広大な所領が付いてくるわけでもないし、
員昌は器量人なんだから、神戸や長野や北畠のような乗っ取りかけないで、
荒木のように普通に取り立てたら良かったんじゃね?

44: 人間七七四年 投稿日:2011/04/26(火) 19:58:23.22 ID:sonKM6wa
>>42
>員昌は器量人
それを決めるのは信長であって他人がいくらそう思っても関係ないかと

45: 人間七七四年 投稿日:2011/05/08(日) 21:26:11.21 ID:KEjnqAk3
>>42
別にハク付ける為に養子につけたわけじゃないよ
現に神戸長野北畠を継いだ誰もが織田姓に戻ってる

43: 人間七七四年 投稿日:2011/04/26(火) 00:52:07.19 ID:KHfNMOXL
信澄の武功って具体的にどんなもんがあるんだ?

47: 人間七七四年 投稿日:2011/07/09(土) 21:59:20.23 ID:7IBP2Z9/
信澄って大した武功は無いけど、信長が未完の大器として期待してた人物って事なのか?

49: 人間七七四年 投稿日:2011/07/17(日) 11:10:39.08 ID:X6bG8+vK
>>47
そこそこの武功はあったみたいだけど、奉行仕事のほうが多かったみたいね

51: 人間七七四年 投稿日:2011/07/22(金) 16:40:23.45 ID:z1vWeVpf
>>47
信長は結構身内には甘いからな。

48: 人間七七四年 投稿日:2011/07/17(日) 08:57:36.78 ID:Ysnp8VjQ
こんな時代に生まれてなくてよかった

50: 人間七七四年 投稿日:2011/07/21(木) 20:57:47.99 ID:VfB7HXsu
信長が清原で、信勝は桑田

52: 人間七七四年 投稿日:2011/10/08(土) 09:01:11.84 ID:RtzQ27mU
信澄も本能寺の変の時に大坂に従軍中だったのが不幸だったね。
もし領国にいれば細川家みたいにどっちにつくか考える余裕あったのに。
変が起きて何がなんだかわからんうちに疑われて殺されたからな。

まぁ領国にいて上手いこと秀吉に付いて本能寺の変の混乱を乗り越えたとしても、
その後の織田家中の主導権争いに巻き込まれて信孝みたいに死に追いやられたかもしれんが。

56: 人間七七四年 投稿日:2012/06/13(水) 21:07:09.75 ID:vQpNanRp
>>52
領国にいたら静観と予想

58: 人間七七四年 投稿日:2013/05/24(金) 23:07:52.69 ID:7OB/O96o
>>56
信澄が本能寺の変時点に領国にいたら絶対光秀の誘い受けてただろう。
でも信長の信頼厚かったから誘い断って妻を離縁して、対光秀戦に備えるだろう。
そうなると光秀は秀吉が畿内に戻ってきても近江に一定の兵を張り付けないといけないし、
山崎では光秀が史実以上の大敗喫しそう。

53: 人間七七四年 投稿日:2011/12/31(土) 14:23:18.31 ID:qREREFQC
何をきっかけに「一段の逸物」と評されたのか気になる。
宣教師のルイス・フロイスは信澄の死去にあたり「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と評している。逆に奈良興福寺の多聞院英俊は「一段の逸物也」とその死を惜しんで高い評価を与えているなど、信澄は武将としての評価が極端に分かれている。

54: 人間七七四年 投稿日:2012/05/05(土) 10:42:39.74 ID:pNUB9kGM
琵琶湖畔の安土城を中心に、東に長浜城の秀吉、西に坂本城の光秀、
北に大溝城の信澄が配置されているのを見るだけで信長の信頼が相当厚かった気がするが。

59: 人間七七四年 投稿日:2013/09/30(月) 20:23:27.11 ID:FK+AtRgd
>>54
信長は身内には優しいからな。
弟の遺児って補正もあるし。

55: 人間七七四年 投稿日:2012/06/11(月) 07:16:01.59 ID:fvxs281x
信行はドラマではいつも損な役割にされてるなw

57: 人間七七四年 投稿日:2012/11/10(土) 15:07:59.78 ID:KZszfPV3
実際信勝の謀反が成功して信長殺して尾張国主になったらどうなんたんだろうな。
今川義元か斎藤義龍に降参して家臣になったのかなぁ。

60: 人間七七四年 投稿日:2013/10/05(土) 05:35:34.90 ID:pYOv+Dvt
しかし、明智光秀の婿で伯父に父を殺されていたとは言え
織田一族なのに疑われて殺されるとは。

同じ明智光秀の婿で父の細川幽斎は明智光秀と昔からの付き合いで
愛妻家の忠興は助かった訳だから。
幽斎の剃髪、ガラシャの幽閉等疑われない様に手を打ったからなんだけどね。

61: 人間七七四年 投稿日:2013/10/05(土) 10:40:52.22 ID:4BQaJR0y
家忠日記「信澄謀反は誤報」
フロイス「信雄が馬鹿だから信澄を殺した。皆が滅べといっている」等々
明智が信澄と釣るんで謀反を起こしたと三河衆上杉毛利そろって
初期に報告受けてるくらいだから
混乱中の現地では事実として扱われてたんだろう。
運が無かったなぁ。

62: 人間七七四年 投稿日:2013/10/05(土) 10:42:14.71 ID:4BQaJR0y
おっと誤記。フロイスの所は信雄じゃなくって信孝

65: 人間七七四年 投稿日:2014/01/15(水) 11:45:09.29 ID:ziDh33Pa
明石散人が、信勝嫡流・信長庶流説を主張していたが結構説得力あると思った

信勝の官名が織田家代々の弾正忠で、逆に信長はその後も名乗ってないし
一番家老の林が信長をさしおいて堂々と信勝側についているし
戦後の仕置きが当主に対する謀叛者に対するものとして弱いし
その他の親族の動向も信長が嫡流とすると中途半端だし
日本外史の庶長子信広、其次を信長となす、という書き方も信長=庶子とも読めるし

まあ、織田氏自体が守護代家の家老に過ぎなかったから
嫡流相続はあまり強く思われなかったのかもしれんが

67: 人間七七四年 投稿日:2014/01/15(水) 18:53:13.13 ID:TPombuGQ
信長は父の三郎を継承してるから
生まれた時から信秀の後継者として育てられている。
そもそも信長は変わり者で、
いきなり上総守を名乗り始めて、
存在しない官職名を自称してる。

68: 人間七七四年 投稿日:2014/01/15(水) 22:51:39.16 ID:lVrP7xNG
65には結構同意だな。
信長に家督を譲った、とよく言われるが
直接的な証拠はない。城の話ぐらいだし。
信長と信行が同腹というのも直接の記録は
公記にはないし、土田御前と信長の関係もそんなに
確実な史料はないだろう。

明石自身は踏み込んでないが、首巻自体がかなり創作部分が
多いだろうし、信長はすごいんだぞ、というのをビミョウな表現で
後からまとめた、というのがしっくりくる。

信長一覧なんかには、道三対面とか濃姫婚礼とか
年月が書いてあるが、これも公記からは確定はできないし
定説というのも案外いいかげんな部分はあるんだよね。

69: 人間七七四年 投稿日:2014/01/16(木) 09:57:39.40 ID:ot7UNKv6
明石散人なんて史学者じゃなくてミステリー作家じゃんwww
大衆向けにトンデモ異説本を出しただけじゃんよwww

70: 人間七七四年 投稿日:2014/01/16(木) 13:17:09.66 ID:5aj3FbUA
ミステリー作家ってことはないけどね。
歴史本はたくさん出してるけど
狭い範囲しか知らない専門家よりは
よほど幅広く知識があって面白いけど。

71: 人間七七四年 投稿日:2014/01/17(金) 11:35:25.48 ID:aIUxrf9g
あれでミステリー作家じゃなかったら、
なんなんだよw

73: 人間七七四年 投稿日:2014/04/30(水) 22:34:49.01 ID:6a/DAlV8
明石散人は信長公記の中でも特に、
首記はいい加減だと指摘してたな。

それまで雑誌等で公記の信頼性は高いとか読んだことあって、マジかよっておもったが、
最近2ちゃんのスレでも公記の信憑性を疑うやつとか見かけて、今じゃちょっと鵜呑みに出来ないかもって感じてる。

明石散人はミステリー作家でいいと思うが、独自に史料を発見して
写楽の正体を突き止めてるんで、アカデミズムにも貢献してる。
歩く故事類苑の異名は伊達じゃない!

75: 人間七七四年 投稿日:2014/09/22(月) 08:01:08.68 ID:YVRr2ASe
弟秀孝を間違って殺した叔父信次の居城守山城下を焼き払ったり
信長以上に気性が荒かったんじゃないか?

76: 人間七七四年 投稿日:2014/09/24(水) 20:30:17.02 ID:BAnClos+
柴田勝家に養育された信澄、後に柴田に推される信孝。
この2人の仲はいかに...。

引用元: 織田信勝(信行/勘十郎)と津田信澄