1: 人間七七四年 2012/03/29(木) 10:04:00.94 ID:PtmCKu8A.net
本能寺で信長親子が殺されると
織田家が皆好き勝手に行動し、二度と織田家として機能せず一気に瓦解する
畿内で勢力を広げた織田家がなぜここまで没落・実質滅亡してしまったか論じよう
・・・・というifスレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331542607/73
織田家が皆好き勝手に行動し、二度と織田家として機能せず一気に瓦解する
畿内で勢力を広げた織田家がなぜここまで没落・実質滅亡してしまったか論じよう
・・・・というifスレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331542607/73
4: 人間七七四年 2012/03/30(金) 08:33:12.53 ID:WbYbFBu/.net
信長の負の遺産のせいで信忠も孫も滅亡そして信成も転倒
5: 人間七七四年 2012/03/31(土) 04:13:13.90 ID:EJLU6R0Q.net
まあ実質的当主と跡継ぎの現当主尚且つ中枢の側近が一度にやられたら
どんなお家でもボロボロだろ。
徳川家なら家康と秀忠、土井利勝等の側近がやられたようなもんだし。
勿論それだけではなく信長の負の遺産というのもあるけどさ。
どんなお家でもボロボロだろ。
徳川家なら家康と秀忠、土井利勝等の側近がやられたようなもんだし。
勿論それだけではなく信長の負の遺産というのもあるけどさ。
6: 人間七七四年 2012/03/31(土) 15:09:48.95 ID:KbUmUigW.net
信長というキツいタガが外れたんだから織田家という桶がバラバラになって当たり前
7: 人間七七四年 2012/03/31(土) 16:30:56.20 ID:ZSJSEEQd.net
滅んでなくないか
家としては信雄がしぶとく残したぞ
家としては信雄がしぶとく残したぞ
11: 人間七七四年 2012/04/01(日) 13:59:07.69 ID:oSEv2uDc.net
>>7
秀吉に改易されて秋田県の北方へ流罪にされて断絶してる。
その後、さらに四国へ島流し同然にされてる信雄さんw
秀吉に改易されて秋田県の北方へ流罪にされて断絶してる。
その後、さらに四国へ島流し同然にされてる信雄さんw
8: 人間七七四年 2012/03/31(土) 21:22:54.75 ID:EJLU6R0Q.net
まあ滅んでいないけど結局嫡流は途絶えて織田政権は呆気なく滅んだ。
9: 人間七七四年 2012/03/31(土) 21:33:03.71 ID:T5inP4eL.net
そもそも織田家ってまとまり良かったのか?
あんまりそんな印象ないんだが
あんまりそんな印象ないんだが
12: 人間七七四年 2012/04/03(火) 22:51:05.03 ID:Aa27p+Ak.net
そら秀吉からすれば一度刃向った信雄よりも従順で慕ってくれる秀信の方がいいもんな。
それが仇になって秀信は関ヶ原後に改易されたけど。
それが仇になって秀信は関ヶ原後に改易されたけど。
13: 人間七七四年 2012/04/03(火) 23:16:12.49 ID:tf0l6zmX.net
織田家が雑魚すぎたから滅んだだけ
圧倒的国力の弾正忠家を継ぎながら連戦連敗、
ついには丹波一国人の赤井に大敗するような戦下手の光秀に奇襲されて滅んだカス
圧倒的国力の弾正忠家を継ぎながら連戦連敗、
ついには丹波一国人の赤井に大敗するような戦下手の光秀に奇襲されて滅んだカス
15: 人間七七四年 2012/04/12(木) 21:55:59.05 ID:necFyMDc.net
まあでも最終的に家康が信雄に五万石をやってお家を存続させている。
秀吉は織田家を簒奪した上に事実上織田家を崩壊させているけど
今度は家康に同様の事をやられて滅亡させられているからなあ。。。
因果応報という言葉がこれ程しっくりくる例もめずらしい。
秀吉は織田家を簒奪した上に事実上織田家を崩壊させているけど
今度は家康に同様の事をやられて滅亡させられているからなあ。。。
因果応報という言葉がこれ程しっくりくる例もめずらしい。
22: 人間七七四年 2012/04/28(土) 03:29:39.88 ID:jCnCkb3f.net
家康はその後250年の天下泰平の世を築いているから、変な言い方だけど
滅亡させてもお釣りが来るというか。
家康は豊臣家滅亡させた時「主家(織田家)を蔑ろにしたむくいだ」と言っていた
という史料が幾つも残ってるけど「お前が言うかなあ」だよね。
滅亡させてもお釣りが来るというか。
家康は豊臣家滅亡させた時「主家(織田家)を蔑ろにしたむくいだ」と言っていた
という史料が幾つも残ってるけど「お前が言うかなあ」だよね。
23: 人間七七四年 2012/04/28(土) 06:31:45.69 ID:dyMsrFBh.net
まぁ、家康は秀信というか、織田嫡流を取潰しているしな。
高家みたく残しておくことすらしなかったし、
お前も織田を蔑ろにしてるじゃんと、思う。
高家みたく残しておくことすらしなかったし、
お前も織田を蔑ろにしてるじゃんと、思う。
24: 人間七七四年 2012/04/28(土) 11:48:50.44 ID:3JHs0yy+.net
秀信は秀吉に洗脳されて頭がおかしくなっていた
家康は秀信の洗脳を解くために一時的に高野山で修行をさせていただけ
残念ながら修行途中に病死してしまったがきちんと洗脳解除に成功すれば復帰させていただろう
家康は秀信の洗脳を解くために一時的に高野山で修行をさせていただけ
残念ながら修行途中に病死してしまったがきちんと洗脳解除に成功すれば復帰させていただろう
25: 人間七七四年 2012/04/28(土) 13:24:40.85 ID:jCnCkb3f.net
秀信君は仕方ないだろう。
明確に西軍の将として戦いに参戦しているのだから処罰しない
わけにはいかない。
長生きしていたら何らかの形では取り立てて貰えたと思うけどね。
一説には秀信は自殺じゃないかと言われているんだよな。
明確に西軍の将として戦いに参戦しているのだから処罰しない
わけにはいかない。
長生きしていたら何らかの形では取り立てて貰えたと思うけどね。
一説には秀信は自殺じゃないかと言われているんだよな。
26: 人間七七四年 2012/05/11(金) 22:12:45.24 ID:FkN/g6Pj.net
織田と豊臣は残しておくのは危険と判断したんじゃね?
28: 人間七七四年 2012/07/11(水) 09:51:59.79 ID:EVr5BNDw.net
人望がゼロだから
29: 人間七七四年 2012/07/11(水) 12:17:59.79 ID:QHRXlnNv.net
信雄が勝手に戦線離脱したから
終了
終了
30: 人間七七四年 2012/07/16(月) 04:41:23.73 ID:NvXHDQC7.net
滅亡? 傍流が小藩としてのこらなかった?
31: 人間七七四年 2012/08/23(木) 17:37:22.27 ID:4cgiEJma.net
織田嫡流家滅亡
35: 人間七七四年 2012/08/28(火) 10:47:34.10 ID:hnff96gp.net
そもそも伊賀を攻めて大敗した北畠信雄は信長から
親子の旧離許容すべからず候
と信長から親子の縁を切る宣言まで出されているしな。
親子の旧離許容すべからず候
と信長から親子の縁を切る宣言まで出されているしな。
36: 人間七七四年 2012/08/28(火) 15:01:42.25 ID:+GqSO7mE.net
秀吉という獅子身中の虫(簒奪者)が居た為だよ。
奴が妙な野心を起こさず、信孝を主に据えて家臣一同が合力出来ていればな。
奴が妙な野心を起こさず、信孝を主に据えて家臣一同が合力出来ていればな。
37: 人間七七四年 2012/08/31(金) 11:43:52.26 ID:FewJxgdL.net
人心が離れていたから。
安国寺がすでに天正元年末の時点で
織田は一気にひっくり返り転落すると喝破してたじゃん。
安国寺がすでに天正元年末の時点で
織田は一気にひっくり返り転落すると喝破してたじゃん。
43: 人間七七四年 2012/09/05(水) 18:07:50.42 ID:gsAywUoD.net
しっかり天下を統一し、しっかり後継者もいたのに影も形も無く滅んでしまった豊臣家よりはマシ
44: 人間七七四年 2012/09/06(木) 16:42:10.42 ID:K3fOx+iA.net
>>43
言われてみればそうだわ。。。。
言われてみればそうだわ。。。。
45: 人間七七四年 2012/09/08(土) 12:09:26.29 ID:BqRfVJvJ.net
>>43
統治をひっくり返されるような爆弾抱えたまま放置しといてしっかり天下統一もクソもないがな
形だけ首輪つけた虎を放し飼いにしてる状態だし
唐入りで絶好の戦力を削ぐ機会があったのにわざわざ宿敵の主力を温存させ
味方になりそうな配下の戦力を悪戯にそぎおとす不手際もいただけない
とりあえずポーズでも臣従してくればいいよ~なんて生易しい判断でなく全力で徳川は潰すべきだった
死ぬ間際の三成はそう思っただろうよ
統治をひっくり返されるような爆弾抱えたまま放置しといてしっかり天下統一もクソもないがな
形だけ首輪つけた虎を放し飼いにしてる状態だし
唐入りで絶好の戦力を削ぐ機会があったのにわざわざ宿敵の主力を温存させ
味方になりそうな配下の戦力を悪戯にそぎおとす不手際もいただけない
とりあえずポーズでも臣従してくればいいよ~なんて生易しい判断でなく全力で徳川は潰すべきだった
死ぬ間際の三成はそう思っただろうよ
80: 人間七七四年 2012/09/21(金) 00:26:01.02 ID:Hs0xZBEZ.net
>>45
それは失敗した結果論ジャン
秀吉としては朝鮮支配は成功するつもりだっただろ
子飼いの武将に手柄をたてさせ、それら武将の領地を増やすつもりだったんだろ
一方、家康は国内に置いて手柄をたてさせず領地も増やさない
それは失敗した結果論ジャン
秀吉としては朝鮮支配は成功するつもりだっただろ
子飼いの武将に手柄をたてさせ、それら武将の領地を増やすつもりだったんだろ
一方、家康は国内に置いて手柄をたてさせず領地も増やさない
81: 人間七七四年 2012/09/26(水) 09:23:36.60 ID:fmy+3rkw.net
>>80
秀吉が海外領土拡張が無理だと気がついた時には、家康は国内安定のためにもはや不可欠な存在になっていたからな。
秀吉が唐入りの泥沼にハマればハマるほど、家康の立場は強化されていった。
秀吉が海外領土拡張が無理だと気がついた時には、家康は国内安定のためにもはや不可欠な存在になっていたからな。
秀吉が唐入りの泥沼にハマればハマるほど、家康の立場は強化されていった。
54: 人間七七四年 2012/09/10(月) 09:38:47.03 ID:57g/VNdo.net
>>43
確か豊臣家滅亡した日が信孝の命日なんだよね。
家康が側近にそういう話をして豊臣滅亡は主家を蔑ろにした報いを受けたのだ
と語っている話が幾つかの資料にあるけど(お前が言うなだけど。。)
単なる偶然ではあるが非常に意味深。
確か豊臣家滅亡した日が信孝の命日なんだよね。
家康が側近にそういう話をして豊臣滅亡は主家を蔑ろにした報いを受けたのだ
と語っている話が幾つかの資料にあるけど(お前が言うなだけど。。)
単なる偶然ではあるが非常に意味深。
織田信孝
命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。
辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(昔から主を討つといわれる内海の浦。そこで自刃する私の恨みは深い。報いを待っていろ、秀吉よ)
信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句である。これは、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)の内海で家臣・長田忠致に討たれた源義朝にかけたといわれる。
豊臣 国松(とよとみ くにまつ、慶長13年(1608年) - 慶長20年5月23日(1615年6月19日))は、江戸時代前期の人物で、豊臣秀頼の庶子。
46: 人間七七四年 2012/09/08(土) 21:49:19.39 ID:sl/mhg1R.net
家康と利家は明攻め用に温存していただけだけどな。
まあ利家は南部らを引き連れて秀次らと渡海する計画があったが、
実行されなかった。
これは秀次が死ぬ原因になった。
まあ利家は南部らを引き連れて秀次らと渡海する計画があったが、
実行されなかった。
これは秀次が死ぬ原因になった。
48: 人間七七四年 2012/09/09(日) 01:56:18.07 ID:/TKVNgFD.net
なんで秀吉はそんなに唐入りに絶対の自信を持ってたんだ?
フロイスも無謀だと書いているし、どっかの坊さんは稀代の不思議
と日記に書かれているのに。
フロイスも無謀だと書いているし、どっかの坊さんは稀代の不思議
と日記に書かれているのに。
49: 人間七七四年 2012/09/09(日) 09:55:35.61 ID:dTcnBZrx.net
>>48
看羊録によれば
統一されたとは言っても大名達はまだ戦国時代の気風が冷めやまず
隙があれば乱を起こす気満々だったし、
刀狩りしたところで、元国人達も猛々しさが残っていて
隙を見せれば加賀が一揆の国になった前例もあるので警戒が必要だったため
朝鮮出兵は国内で変事を起こさせないように
外征させ兵を消耗させる意図があったと書いてある。
絶対権力で不穏分子を海外へ出しているわけだ。
伊達も朝鮮出兵に行ってる間に
豊臣政権によって伊達領国の検地を強制的に施行されてるように
出兵中に検地などを施行して国内統治体制を強化し
在地と武士を切り離し、転封を通じて上下の離間を図っていた。
家康は明攻めに使う予定で温存してただけだし。
中央集権化のために朝鮮出兵を利用していたわけだ。
大坂陣の頃になると、戦国時代を知る下克上的気風のある大名は
老衰または死去しており乱の発生要因が大幅に消えており
刀狩の効果も十分に現れてきており国人の帰農も安定期を迎えていたため
江戸幕府は時の経過が多くの問題を解決させ安定を望む方向に向かっていた。大名たちも一発御家改易の危険性が生じる博打打ちのような選択ができるほどな戦国の豪胆なものはおらず
今で言う祖父や父は豪腕だったが今では
孫社長や3世議員のような京や江戸に在住し
遊びで酒をかっくらう世代に移り変わっていた。
看羊録によれば
統一されたとは言っても大名達はまだ戦国時代の気風が冷めやまず
隙があれば乱を起こす気満々だったし、
刀狩りしたところで、元国人達も猛々しさが残っていて
隙を見せれば加賀が一揆の国になった前例もあるので警戒が必要だったため
朝鮮出兵は国内で変事を起こさせないように
外征させ兵を消耗させる意図があったと書いてある。
絶対権力で不穏分子を海外へ出しているわけだ。
伊達も朝鮮出兵に行ってる間に
豊臣政権によって伊達領国の検地を強制的に施行されてるように
出兵中に検地などを施行して国内統治体制を強化し
在地と武士を切り離し、転封を通じて上下の離間を図っていた。
家康は明攻めに使う予定で温存してただけだし。
中央集権化のために朝鮮出兵を利用していたわけだ。
大坂陣の頃になると、戦国時代を知る下克上的気風のある大名は
老衰または死去しており乱の発生要因が大幅に消えており
刀狩の効果も十分に現れてきており国人の帰農も安定期を迎えていたため
江戸幕府は時の経過が多くの問題を解決させ安定を望む方向に向かっていた。大名たちも一発御家改易の危険性が生じる博打打ちのような選択ができるほどな戦国の豪胆なものはおらず
今で言う祖父や父は豪腕だったが今では
孫社長や3世議員のような京や江戸に在住し
遊びで酒をかっくらう世代に移り変わっていた。
50: 人間七七四年 2012/09/09(日) 10:13:56.55 ID:D1CVi5qE.net
>>49
家康は明攻めに使う予定で温存してたって、何を根拠にそう言える訳?
文禄・慶長の役で家康は一度も渡海していない史実が全てを物語ってるのだが。
朝鮮を支配できないのでは明攻めどころではない。
家康は明攻めに使う予定で温存してたって、何を根拠にそう言える訳?
文禄・慶長の役で家康は一度も渡海していない史実が全てを物語ってるのだが。
朝鮮を支配できないのでは明攻めどころではない。
51: 人間七七四年 2012/09/09(日) 13:42:30.43 ID:/TKVNgFD.net
>>49
なるほど、ありがとう。
こういう記述を読んだら唐入りも仕方なかったのかなと思う部分もある。
結果論にはなるけど失敗したから「何故?唐入りを?」と思っちまうけど
それなりに理由はあったんだな。
なるほど、ありがとう。
こういう記述を読んだら唐入りも仕方なかったのかなと思う部分もある。
結果論にはなるけど失敗したから「何故?唐入りを?」と思っちまうけど
それなりに理由はあったんだな。
58: 人間七七四年 2012/09/11(火) 14:07:24.08 ID:cl7YPNjp.net
独裁者が統治体制とまともな後継者を残さなかったからだな。
信長はどっちもなかった。秀吉は体制はつくったが後継者は残さなかった。
家康は体制と後継者が落ち着くまでしっかり生きてた。
信長はどっちもなかった。秀吉は体制はつくったが後継者は残さなかった。
家康は体制と後継者が落ち着くまでしっかり生きてた。
59: 人間七七四年 2012/09/11(火) 15:24:29.10 ID:Fj7whMON.net
足利尊氏がさんざんトラブルの種蒔いて後始末せずに無責任に死んでも、なんだかんだで15代続いちゃったから、一番大事なのはまともな後継者だろうな。
62: 人間七七四年 2012/09/11(火) 18:51:54.20 ID:f3l0iDxr.net
>>59
まともな後継者もそうだけど一番は野心のある有能な家臣がいない事が大前提だと思う。
秀吉や家康のように。
まともな後継者もそうだけど一番は野心のある有能な家臣がいない事が大前提だと思う。
秀吉や家康のように。
60: 人間七七四年 2012/09/11(火) 15:54:37.90 ID:fseZpXNs.net
当主と後継者が同日に討たれる事例なんて前代未聞だからなぁ。
それに羽柴が忠義の士だったならばああまで瓦解しなかっただろう。
それに羽柴が忠義の士だったならばああまで瓦解しなかっただろう。
61: 人間七七四年 2012/09/11(火) 17:47:49.14 ID:vZFCpGG+.net
秀吉が織田に義理立てしてたら勝家とともにのぶおよりまだマシな方の信孝を立てていただろうから
筆頭の勝家と対立せずに形の上では瓦解せずにすむ…はず
勝家がヤダヤダ秀吉なんか嫌だいと仕方なくのぶおと組んだ場合は知らん
主筋を立てるなら信雄→信孝→三法師の順に継承していけばいいんだが
二男三男がそれぞれに「俺が織田家の棟梁だ、あいつは家臣だ」と変な自負心持ってると家中が割れる
筆頭の勝家と対立せずに形の上では瓦解せずにすむ…はず
勝家がヤダヤダ秀吉なんか嫌だいと仕方なくのぶおと組んだ場合は知らん
主筋を立てるなら信雄→信孝→三法師の順に継承していけばいいんだが
二男三男がそれぞれに「俺が織田家の棟梁だ、あいつは家臣だ」と変な自負心持ってると家中が割れる
62: 人間七七四年 2012/09/11(火) 18:51:54.20 ID:f3l0iDxr.net
>>60、61
まあ秀吉は思いっきり報いを受けて、自分の死後だけど家は滅亡、跡継ぎ死亡だからね。
豊臣滅亡は悲劇だけど因果応報という感じの終わりで個人的にはすっきり感はある。
まあ秀吉は思いっきり報いを受けて、自分の死後だけど家は滅亡、跡継ぎ死亡だからね。
豊臣滅亡は悲劇だけど因果応報という感じの終わりで個人的にはすっきり感はある。
63: 人間七七四年 2012/09/12(水) 01:33:40.23 ID:gQk/IlZ6.net
信雄はともかく信孝が野心ムキムキだったからな
64: 人間七七四年 2012/09/12(水) 04:20:21.87 ID:PZHjs4xH.net
信雄と信孝、どちらが先に生まれたかが問題になるほど年が近接、兄の方が「凡庸」と言われるなど不仲、対立要因満載で、それが秀吉などに利用されている。
ところで、この二人の次の弟、秀勝(秀吉養子)と信房(勝長ー元武田家人質)は10歳ほど離れていて、やはりどちらが先に生まれたのかが両論ある。
まさか信長が趣味でやったことではないだろうが、変な符合だ。
ところで、この二人の次の弟、秀勝(秀吉養子)と信房(勝長ー元武田家人質)は10歳ほど離れていて、やはりどちらが先に生まれたのかが両論ある。
まさか信長が趣味でやったことではないだろうが、変な符合だ。
65: 人間七七四年 2012/09/12(水) 06:33:52.39 ID:gYFBikzQ.net
戦国は実力あるものが統率するのが当たり前。
嫡男相続なわけが無かろう。
嫡男相続なわけが無かろう。
68: 人間七七四年 2012/09/13(木) 14:11:07.75 ID:/s+TvHgl.net
信長・信忠だけでなく、内政・軍事の奉行衆もまとめて死亡したからな。
織田家の中枢がそっくり無くなったんだから。
ところで織田家の中枢がまとめて京にいて何をするつもりだったのかと。
もしかして・・・やはり・・・
織田家の中枢がそっくり無くなったんだから。
ところで織田家の中枢がまとめて京にいて何をするつもりだったのかと。
もしかして・・・やはり・・・
69: 人間七七四年 2012/09/13(木) 17:14:21.33 ID:qNsdwmg2.net
色んな意味で最悪の状況が出来上がったという事か。
徳川家で言うのなら家康、秀忠と土井利勝等の側近がまとめて死亡したような
もんだから揺らぐわな。
徳川家で言うのなら家康、秀忠と土井利勝等の側近がまとめて死亡したような
もんだから揺らぐわな。
70: 人間七七四年 2012/09/13(木) 21:40:31.53 ID:FO73lA51.net
織田重臣や家老は健在だったじゃねぇか
77: 人間七七四年 2012/09/20(木) 21:15:50.35 ID:kaJcqpzI.net
>>70
その重臣たちは信長に抑圧されてたから信長いなくなった途端、勝手なこと
やりだした。
その重臣たちは信長に抑圧されてたから信長いなくなった途端、勝手なこと
やりだした。
71: 人間七七四年 2012/09/13(木) 22:16:33.98 ID:9tLeosSR.net
現代は総理と官房長官ほか長官クラスが軒並み死んでもとりあえず国は回るけど
この時代いっきに瓦解してもおかしくないな
この時代いっきに瓦解してもおかしくないな
72: 人間七七四年 2012/09/13(木) 22:19:50.10 ID:jOt7JT8I.net
織田家総帥、織田家当主、中央勤務の重臣達が一気に死んだのに
織田家が大名家として残ったのは奇跡中の奇跡
織田家が大名家として残ったのは奇跡中の奇跡
73: 人間七七四年 2012/09/19(水) 01:40:49.27 ID:Uc4q0vpz.net
ゲームの信長は人間が出来すぎている。
突然、プレイヤーに殴りかかってきたり
何年も前のことを言い出して、役目御免になったり
そんなリアルな信長ゲームがしたい。
突然、プレイヤーに殴りかかってきたり
何年も前のことを言い出して、役目御免になったり
そんなリアルな信長ゲームがしたい。
82: 人間七七四年 2012/11/03(土) 19:12:49.50 ID:fTPHEJyW.net
>>73
おいおいw
おいおいw
74: 人間七七四年 2012/09/19(水) 05:33:57.56 ID:3Iam2c72.net
成人した息子がおったのにあっけなく歴史舞台から消えたな
75: 人間七七四年 2012/09/19(水) 09:08:32.32 ID:yhU9Q6dJ.net
社長と専務ほか役員陣が突然いなくなって
課長がドラ息子と組んでゴタゴタすればそりゃあ基盤も弱くなるわ
課長がドラ息子と組んでゴタゴタすればそりゃあ基盤も弱くなるわ
76: 人間七七四年 2012/09/20(木) 00:57:58.91 ID:3jW7kzq3.net
武田滅ぼした手腕とか、後継者として問題ない能力だったのにな
78: 人間七七四年 2012/09/20(木) 21:17:22.42 ID:kaJcqpzI.net
>>76
一種の出来レースだろあれは。
武田が自滅崩壊したに乗じただけ。
一種の出来レースだろあれは。
武田が自滅崩壊したに乗じただけ。
79: 人間七七四年 2012/09/20(木) 23:02:58.49 ID:00GcMZhs.net
勝手なことやりだした重臣は野心を現した秀吉だけ。
85: 人間七七四年 2012/11/09(金) 07:14:01.41 ID:WiWpe2xV.net
>>79
秀吉以上に信孝の自滅が酷い
何がやりたいのかわからんまま死んだ
秀吉どころか他の織田一門にも嫌われとる
秀吉以上に信孝の自滅が酷い
何がやりたいのかわからんまま死んだ
秀吉どころか他の織田一門にも嫌われとる
88: 人間七七四年 2012/11/12(月) 22:12:01.12 ID:e57b+Mj/.net
>>85
>他の織田一門にも嫌われとる
誰に何と言われて嫌われていた記録があるの?
>他の織田一門にも嫌われとる
誰に何と言われて嫌われていた記録があるの?
90: 人間七七四年 2012/11/25(日) 23:35:40.98 ID:2XwBvwz2.net
>>88
織田有楽斎と織田信包、あとは藤左衛門家の織田信張などは皆信雄の味方
織田家一門で信孝に味方した人間はほとんどいない
織田有楽斎と織田信包、あとは藤左衛門家の織田信張などは皆信雄の味方
織田家一門で信孝に味方した人間はほとんどいない
83: 人間七七四年 2012/11/08(木) 23:07:51.12 ID:RaJAkLSP.net
信忠が生き延びたとしても明智から逃げただけじゃやはり立場は弱くなる。
それじゃ信孝信雄と変わらない。
それじゃ信孝信雄と変わらない。
97: 人間七七四年 2012/12/01(土) 19:10:04.87 ID:T5N+Lmzo.net
>>83
兵力差は明らかなのだから、一旦逃げるのは恥でも何でもない。
もし信長が明智軍の包囲を破る術があったら、120%一時的に逃げ延びている。
実際、家康は堺から領国へと逃げているのだから、何ら問題ない。
兵力差は明らかなのだから、一旦逃げるのは恥でも何でもない。
もし信長が明智軍の包囲を破る術があったら、120%一時的に逃げ延びている。
実際、家康は堺から領国へと逃げているのだから、何ら問題ない。
86: 人間七七四年 2012/11/09(金) 09:19:29.37 ID:mAf/WuhP.net
辞世の句もえらい下品な怒り方だし
その辞世の句ですら捏造説があるし
その辞世の句ですら捏造説があるし
87: 人間七七四年 2012/11/09(金) 12:16:16.90 ID:IPkXZ/QA.net
報いを待てや羽柴筑前!
こんなことしたからにはお前もろくなことにならんぞ
こんなことしたからにはお前もろくなことにならんぞ
89: 人間七七四年 2012/11/14(水) 00:11:25.44 ID:YgLqz89Q.net
信忠が後継に指定されていたのも、おそらく一番マシだったからなんだろうなあ
後々の状況からするとどうも信雄も信孝もダメだったろうし
本能寺本戦よりも二条城での損害が酷いから、おそらくそこまで考えた上での襲撃だったんだろう
後々の状況からするとどうも信雄も信孝もダメだったろうし
本能寺本戦よりも二条城での損害が酷いから、おそらくそこまで考えた上での襲撃だったんだろう
90: 人間七七四年 2012/11/25(日) 23:35:40.98 ID:2XwBvwz2.net
>>89
信孝はともかく信雄は余裕で行ける
元々立ち位置わきまえてたし
信孝は武田勝頼の二の舞になって家滅ぼすだろうな
信孝はともかく信雄は余裕で行ける
元々立ち位置わきまえてたし
信孝は武田勝頼の二の舞になって家滅ぼすだろうな
91: 人間七七四年 2012/11/27(火) 21:49:10.16 ID:B3gekdQj.net
信孝は嫌われていたのか
92: 人間七七四年 2012/11/27(火) 21:51:42.28 ID:/gAGb3HT.net
>>91
嫌われていたというより、家康の結城秀康なんかと一緒で、母親の身分が低く、そのため最初から庶流としての
扱いだったようだ。なので信孝がおだけを次ぐなんて、常識的に考えて全くありえない話だった。
嫌われていたというより、家康の結城秀康なんかと一緒で、母親の身分が低く、そのため最初から庶流としての
扱いだったようだ。なので信孝がおだけを次ぐなんて、常識的に考えて全くありえない話だった。
93: 人間七七四年 2012/11/27(火) 22:10:36.65 ID:CCwSDPR3.net
確かに織田一門の席次の中で、信孝は明らかに一歩下の扱いだったようだね
信長の弟を挟んで常に四番手として置かれるってことはそうなんだろう
信長の弟を挟んで常に四番手として置かれるってことはそうなんだろう
94: 人間七七四年 2012/11/28(水) 13:33:27.73 ID:nst73xd7.net
清州会議後なら信雄・秀吉に勢いがあるのは明らかで、機を見るに敏な保身の巧い者ほどそちらに付く。
信孝・勝家が「嫌われていた」などという好悪の話ではない。
信孝・勝家が「嫌われていた」などという好悪の話ではない。
95: 人間七七四年 2012/11/28(水) 13:34:55.76 ID:m8rfHk5/.net
秀吉はともかく信雄なんて完全に忘れ去られていたじゃないか
領地問題で弟にいちゃもんつけられるし完全に舐められてる
領地問題で弟にいちゃもんつけられるし完全に舐められてる
96: 人間七七四年 2012/11/28(水) 14:33:25.23 ID:2owKRwHq.net
勝家が明智を伐ってればこんなややこしい事態にはならなかった
98: 人間七七四年 2012/12/01(土) 20:13:03.77 ID:OQM83l9Q.net
真面目な二代目イメージではあるな
確かに逃げる最中に土民に殺されたら恥だけど、そういう事を考える段階で若いというか治世の武士の発想
メンツもあってここで死ぬって言いはる殿を強制的に連行する部下に恵まれなかったのかな
確かに逃げる最中に土民に殺されたら恥だけど、そういう事を考える段階で若いというか治世の武士の発想
メンツもあってここで死ぬって言いはる殿を強制的に連行する部下に恵まれなかったのかな
104: 人間七七四年 2013/06/11(火) 20:50:40.42 ID:Jxxl/jMj.net
>>98
信忠が自身の能力をわきまえすぎていた
これだとなんか贔屓の引き倒しだなあ
信忠が自身の能力をわきまえすぎていた
これだとなんか贔屓の引き倒しだなあ
99: 人間七七四年 2012/12/01(土) 23:48:23.40 ID:yksj0suH.net
明智が事を起こしたのだから逃げ場はない
ならばここで華々しく切り死にする!→死亡
なお包囲は本能寺だけで二条城は割りと手薄で逃げようと思えば逃げられた模様
死因、信忠の思い込み
ならばここで華々しく切り死にする!→死亡
なお包囲は本能寺だけで二条城は割りと手薄で逃げようと思えば逃げられた模様
死因、信忠の思い込み
102: 人間七七四年 2012/12/12(水) 08:00:43.30 ID:PZaT3svq.net
>>99
包囲がしょぼくてもまわりみんな明智領じゃあな
もともと京は北側全て山で南から軍勢来られるとほぼ逃げ場なくなるし
数少ない西側は明智領丹波、東側は明智領近江坂本
包囲がしょぼくてもまわりみんな明智領じゃあな
もともと京は北側全て山で南から軍勢来られるとほぼ逃げ場なくなるし
数少ない西側は明智領丹波、東側は明智領近江坂本
100: 人間七七四年 2012/12/02(日) 18:01:54.22 ID:sAKS4Vze.net
急速すぎた膨張が招いた結果だろう
103: 人間七七四年 2013/02/22(金) 01:50:38.48 ID:c+Cbvnm2.net
信孝の母の出自は、商人出の上の兄たちよりずっといいよ
伊勢鹿伏兎氏の庶流坂氏
信雄生母より出自のいい母から生まれた自分が格下扱いされるのが嫌だった可能性もある
伊勢鹿伏兎氏の庶流坂氏
信雄生母より出自のいい母から生まれた自分が格下扱いされるのが嫌だった可能性もある
105: 人間七七四年 2013/06/25(火) 11:36:48.67 ID:Kz28lOZH.net
概算で600万石以上も持ってた家が10年後にはただの一大名っていくら何でもどうなのよ
しかも豊臣みたいに明確な意思で潰されたわけでもなく建前上は家臣に尊重されてたわけだろ
しかも豊臣みたいに明確な意思で潰されたわけでもなく建前上は家臣に尊重されてたわけだろ
106: 人間七七四年 2013/06/25(火) 13:40:55.91 ID:OSymjV9p.net
その600万石の代表であって所有者ではないから
110: 人間七七四年 2013/12/08(日) 17:21:22.26 ID:dVoVpmBD.net
織田秀信の場合、
岐阜城が落され捕縛された時に
福島正則が死一等を免じるように嘆願して命拾いしたが、
高野山に幽閉され、5年満ずに22歳で夭折してんだから
家康が死に追いやっているのは明らかだろ。
武徳編年集成に至っては高野山に憂死スとまで書いてるし。
岐阜城が落され捕縛された時に
福島正則が死一等を免じるように嘆願して命拾いしたが、
高野山に幽閉され、5年満ずに22歳で夭折してんだから
家康が死に追いやっているのは明らかだろ。
武徳編年集成に至っては高野山に憂死スとまで書いてるし。
111: 人間七七四年 2013/12/10(火) 00:11:44.82 ID:cnXWiFxC.net
三谷幸喜の『清洲会議』見てきたが、なんだかなぁ~って感じの駄作。
まず、基本的な時代考証が全然なってない。
信長の敬称は『上様』なのに『お屋形様』って・・・。バカか。
秀吉と勝家が集団で砂浜で駆けっこやってるのも意味不明。無駄なシーンだ。
秀吉が利家に天下狙いの心中を打ち明けるのも有りえない。三谷レベルの小物ならではの発想か。
狡猾な秀吉がそんなに迂闊かよ。
信雄役が妻夫木聡って、ミスキャストも甚だしい。
信雄はデブでだらしない顔だったのだから、伊集院光以外には有り得んだろ。
まず、基本的な時代考証が全然なってない。
信長の敬称は『上様』なのに『お屋形様』って・・・。バカか。
秀吉と勝家が集団で砂浜で駆けっこやってるのも意味不明。無駄なシーンだ。
秀吉が利家に天下狙いの心中を打ち明けるのも有りえない。三谷レベルの小物ならではの発想か。
狡猾な秀吉がそんなに迂闊かよ。
信雄役が妻夫木聡って、ミスキャストも甚だしい。
信雄はデブでだらしない顔だったのだから、伊集院光以外には有り得んだろ。
112: 人間七七四年 2013/12/10(火) 03:54:05.10 ID:07CgtR8+.net
叔母を秀吉に嫁がせて、自らも嬉々として「羽柴中納言秀信」と名乗って、
西軍の主力級の人間だったんだから家康からすれば当然邪魔な存在。
三成や毛利ら西軍主力がポカやらかさなければ一致団結して家康を攻撃していた
西軍の主力級の人間だったんだから家康からすれば当然邪魔な存在。
三成や毛利ら西軍主力がポカやらかさなければ一致団結して家康を攻撃していた
113: 人間七七四年 2013/12/10(火) 22:04:44.04 ID:zqrfVU9p.net
Wikipediaの織田秀信の記述詳しすぎだろw
信忠より充実してるw
信忠より充実してるw
コメント一覧
それほど重要な拠点を守っているのだからひとまず高野山行きになるのは仕方がない。冷遇されたのは信長を恨むしかないよ。何でも家康が悪いというのはちょっとおかしい。
信成からは想像つかんわ。
秀吉、滝川みたいな成り上がり者や
明智などの外様を最高幹部として多数抱えてたのも問題かもね
血筋を重視して、柴田、佐久間、林、丹羽などの譜代家臣で最高幹部を固めていたら主家乗っ取りなんて企まないでしょ
もっともその場合、信長の急激な領土拡大もなかっただろうが
別に秀吉が信孝に臣従した訳でもないんだしさ。
統一戦の過程で領土を広げたのも朝廷の権威を利用したのも秀吉の実力でしょ。
臣従を誓いながら因縁を付けて秀頼を殺した家康と並べるのはどうかしてるわ。
別に家康が天下を取ったこと自体は批判してないからね、念のため。
西軍が勝ってても毛利幕府が出来てただけだし。
批判するとしたらこすっからい因縁を付けて秀頼を殺したことだけだから。
秀信(三法師)は子供で関ヶ原のときの豊臣秀頼状態
残された後継者が頼りなさすぎ
自称子孫系とか江源武鑑派とか飯沼とか大好き!美濃厨が拠って集って編集してるからな。
むしろ信憑性が薄れていくパターン。
「…というIFスレ」っていうのを端っこに書いてるけど、これなんなんでしょうね?
依頼者の言う通り、本能寺以後に織田重臣や一族が好き勝手に行動して、
2度と織田家として機能せずに実質滅亡したのは史実なのに、
IFスレというのは何を指しているのか。もしもそうならなかったら、というIFを語ろうって事でしょうか。
すまん、何が言いたいのかさっぱり解らん
何を主張したいのかはよくわかりませんが、織田信孝は少なくとも名目上は織田秀信の後見人なのですが。
幼君の秀信に政権運営なんか無理に決まってますから、織田家が既に重臣や一族で分裂してたとはいえ、
将来に再び統合される可能性を僅かでも残すためには、その後見人である信孝が勢力を保持しておく事が
必要だったはずなのですが。結局、秀吉は信孝を殺しましたし、信雄も改易しました。
それは秀信の為でもなんでもなく、自分の天下制覇の為だった事は、秀吉が秀信が成人した後も
天下の主の座を渡そうとは一切しなかった事からも明白だと思うのですが。
しかも、秀信の岐阜領って13万国程度でそれも豊臣秀勝のおさがりですしね。
秀吉が秀信に天下の政権の座はおろか、大領をあたえるつもりもさらさらなかった事は明白ですし、
信孝を殺し、信雄を改易したのは秀信の為でもなんでもなかったのは明白かと。
偏った思考でも、歴史を勉強し、時代考証し、情勢や各勢力の関係性を考慮して理論武装するならともかく
スカスカの知識で自分の意にそぐわないものには攻撃してるだけじゃ歴オタも名乗れないぜ
カキコする前に軍記物や小説ではなく歴史書を読め
君の知る「史実」と違うものは見たくないというのであれば、
今後一切創作物を見なければいいと思うよ
道理で
守護代殺して守護追放して将軍追放してる外道なのに
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川
この歌のままの感覚だったからだろ
自分は逃げた有楽斎。
信長の直系は江戸時代以降も大名なり旗本なり生き残ってるし一応の勢力もある。
根拠地移転が滅亡に繋がるなら伊達も毛利も滅亡だろ父祖伝来の土地失ってるし。
「嫡系が滅んだから滅亡」というのならそもそも信忠が側室腹で嫡男じゃない。
実子じゃない景勝が継いだ上杉はどうなる?三男の秀忠が継いで嫡男の信康が切腹した徳川家は滅亡か?
「織田政権がー」というのなら信長が右大臣やめた時点で空位。政権たる根拠もなし
結局織田が滅亡なんて教科書にすら載ってないこと言う奴はアホなんだよ
なんか、言ってる事めちゃくちゃすぎないですか?
そこまでして、必死で織田が崩壊した事を拒絶しなくてもいいと思いますよw
ひょっとして、本スレの>>1さんですか?wスレ立て依頼にもなかった「というIFスレ」なんて言葉を
必死で入れてた事からして、よっぽど織田の崩壊を認めたくないんだろうなあ、と思いましたけどw
>信長の直系は江戸時代以降も大名なり旗本なり生き残ってるし一応の勢力もある。
直系?秀信の系統は断絶してますけど?信雄の方は次男ですし、そもそも秀吉に一回改易されてますし。
大阪の陣の時に脱走して家康の下に転がり込んで小さい領地をもらったのを勢力とか言われましても。
ってか、旗本とかで生き残ってりゃいいなら、今川も武田も滅亡してない、でFAですな。
根拠地移転云々なんて誰も言ってないと思いますが。
>「嫡系が滅んだから滅亡」というのなら~
信忠は信長から正式に嫡子として認められた人物ですから、その系統が嫡流となるのは当然かと。
景勝もれっきとした謙信の養子です。秀忠も家康から嫡子として認められ、その系統が嫡流とされてますね。
織田は信長から嫡子として認められた信忠の系統が断絶してるので、立派な嫡流断絶かと。
(続く)
>「織田政権がー」というのなら信長が右大臣やめた時点で空位。政権たる根拠もなし
確かに織田領国は最近では天下政権たる実質も組織も体制も持っておらず、戦国大名領国の一環であった事が
指摘されていますが、京を抑えた三好政権の拡大版としての、戦国大名領国の一環として見ても、
結局の所、信長死後に誰も信長の支配した領域を統一維持していこうとはせず、重臣達がみんなで
自分の勢力拡大に走り、清州会議では織田宗家の領国をゼロにする事が決められ、みんなで
織田領国を分捕りあい、その後は勢力争いに躍起になった点からも、
「京を抑えた三好政権の拡大版としての、戦国大名・織田領国」なるものは見事に崩壊し、
2度と復活する事はなかった、というのが紛うことなき史実かと。
結局、織田狂信者の方がどれだけ愚論をこねくりまわそうとしても、織田が本能寺以後に一気に瓦解し、
二度と戻る事はなく、没落・実質滅亡(スレ主はちゃんとこういう言い方をしてる)をしたのは単なる史実かと。
>信雄の方は次男ですし、そもそも秀吉に一回改易されてますし
直系ってのは子孫全てのことを指すから、次男ももちろん直系だで。
もしかしておまえさん、直系=長男と思ってないよな?
それならまず織田信長自身が三男なわけだが。確か武田信玄にも兄貴がいたよな?
両家はとっくに滅亡しているのか?
>旗本とかで生き残ってりゃいいなら、今川も武田も滅亡してない
なんでそこで武田の名前が出るんだ?何か嫌なことでもあったのか
一応教科書や歴史家の間では武田家は滅亡したことになってるな確かに
まあ養子縁組で何回も直系がいなくなってるし、高家旗本になったのは大分後だもんな。
しゃーないしゃーない。嫌なら学界にでも提唱したらいいんじゃないかな?
いやあ初めて聞きましたなーそういうの。
よければ何かそれを示す書状とか日記とか出してくれませんか?
家督相続者が必ず嫡男であるなんて前代未聞ですし、上杉景勝に至っては景虎という養子もいたわけですが
「家督相続者が嫡男でなければならない」というなら、ほとんどの家が滅亡ということになりますなあ
有名なのですと四男だった勝頼が継いだ武田とかどうするんです?
>清州会議では織田宗家の領国をゼロにする事が決められ
嘘は関心しないなあ嘘は
清洲会議ではちゃんと織田秀信の領土ありますけどねー
というか領地なかったら織田秀信どこに住んでたんですかねー
>没落・実質滅亡
いやあ没落と実質滅亡って全然違う表現ですけどねー
そもそも「実質」ってなんなんでしょうね?
織田家の勢力は純然として存在してますし、無論江戸時代もそのまま現存。
これは日本史では通説史実として言われてますし。他の連中に比べればよく残った方だと思いますが
一族皆殺しにされちゃった武田とか可哀想ったらないですよーあれで一気に武田衰退しちゃったもん
信玄には兄貴はいませんよ。誰の事を言ってるのか知りませんが。
信長も下で言ってるように、普通に嫡子と認められた存在なのですが。
なーんで、この「織田は嫡子と認められた系統が滅んだ」という事実をかたくなに拒絶するのか
謎杉ですが。ちなみに、その理屈で言うと、武田も次男の系統が続いていきましたので、
武田も滅亡してない、でFAですよね。
いや、普通に貴方の言ってる理屈だとそうなる、って話ですが。ちなみになんで今川はスルーなんです?
それから、教科書とか言ってますが、最近の教科書だと「武田は滅亡した」とか書いてあるんですかね。
戦国時代の事って結構流して進めるもんでしたけどねえ。
ああ、それから
>養子縁組で何回も直系がいなくなってるし
これ何の事を言ってるんですか?武田信玄の次男、武田竜芳の子供である、武田信直は
徳川とつながりを持ち、その孫である武田信興が高家に列せられてますけど?
普通に貴方のいう所の「直系」が高家に列せられてるのですけど。
とりあえず、貴方の言ってる事を是非とも論証してほしいものですが。
それから、普通に学者さんも本能寺以後で織田家の領域が崩壊・没落した事は認めてますがw
嫡流は断絶し、貴方の言う次男の信雄も改易されて過ごしていたのですがw三男は殺されてますしw
いやー、これで貴方はどうして織田はオーケーで武田・今川はダメだ、とおっしゃるのか、
歪んだ織田への愛情が垣間見えて心配になってしまいますよーw
へ?あのー、貴方の言ってる事ってところどころ常識からしておかしいような。
嫡男、っていうのを何だと思ってるんですかね?長男と混同してませんか?
嫡男、っていうのはその氏族の継承者として認められた男子の事ですね。
大抵は正妻の長男がそれに認定される事が多いですが、そうでない場合も多々ありです。
結局最終的に嫡子を誰にするか、というのは当主が決める場合が多いですね。
三国志の時代でも、袁紹が長男を差し置いて三男を嫡子としてますし、
曹操も長男ではなく三男を嫡子としようとして、家臣から諌められたりしてます。
>家督相続者が必ず嫡男であるなんて前代未聞ですし
いや、将来の家督相続者として認められた男子が嫡男なんですが。
ほぼ大抵の家は嫡男と認められた男子が継承してる事が多数です。
>「家督相続者が嫡男でなければならない」というなら、ほとんどの家が滅亡ということになりますなあ
ならないですって。貴方は嫡男と長男を混同してるでしょ。長男は最初に生まれた子しかなれませんが、
嫡男は上にも書いたように、その時の当主が指定するものなので、三男だろうが次男だろうがなれるのです。
もちろん、四男もですね。勝頼は普通に義信が死亡した後に信玄から後継者子として認められてますので、
勝頼は義信死亡後において、信玄からそう認められた時点から武田の嫡男ですよ。
かような感じで、貴方がそもそも長男と嫡男を混同してる事から起きた間違いではありますが、
織田信忠が信長から織田の嫡流と認められているのは、信長公記において1575年の11月28日の時点で
尾張美濃の差配と織田家家督と織田家の重宝が信長から信忠に譲り渡された、と明記されてる時点で
確定はとれるかと。(続く)
>というか領地なかったら織田秀信どこに住んでたんですかねー
いや、住んでるところ=秀信の領土じゃないんですけどねえ。
結局、織田秀信の領土?とされたのは近江の三万石であって、それは堀秀政が代官という名前で
実質領土化して統治してたのですが。それから、織田秀信が清州会議以降、織田信孝の岐阜城に
留め置かれたり、安土の仮屋敷に遷されたり、さらには丹羽長秀の城に遷されたり、と
「自分の(名目的にも)領土じゃない所」を転々としてたのですが。なので、名目上直轄領とされた3万石すら
結局堀秀政が代官という名目で実質領土化統治してて、織田宗家の所領は実質ゼロ…。
というか、この三万石が秀信の領土として仮に完全に継承されたとしても、それで何ができるというのです…。
結局、織田家重臣達がせっせと自分達に織田領土を分配しあってた事が、この清州会議の実態を
明瞭に示しているわけでして。
(続く)
>織田家の勢力は純然として存在してますし、
嫡流は断絶しましたし、次男は改易されましたし、三男は殺されてますね。
次男も大阪の陣の前後に家康に転がり込んで小さい領地をもらっただけですし。
>無論江戸時代もそのまま現存。
んじゃ、武田も今川も滅んでないですねー。
>これは日本史では通説史実として言われてますし。他の連中に比べればよく残った方だと思いますが
通説、って何の事をいうんですかねー?織田家の嫡流が断絶した事は紛れもない史実ですし、
次男も改易され、三男も殺され、と織田の勢力なるものが崩壊してるのは確実な史実ですが。
秀信が死亡してから、信雄が徳川のもとに転がり込んで領地をもらうまでの10年間は
マジで信長の息子達の領土はほぼ壊滅状態では。関ヶ原で他の子供達(一応か細い領地を秀吉から
もらってた。)もどんどん改易されていきましたからね。
(続く)
>一族皆殺しにされちゃった武田とか可哀想ったらないですよーあれで一気に武田衰退しちゃったもん
ですから、武田も普通に次男の家系が血脈続いたまま徳川時代に高家に任ぜられてるんですけどねえ。
ついでに信玄の7男である武田信清は上杉家に亡命して上杉家の高家筆頭となって江戸時代を継承して
いくわけなのですがねえ。さらに5男仁科盛信の子孫も続いていきましたし、信玄の兄弟である河窪氏の
血脈も旗本となり、後に武田の姓に復して江戸時代を過ごしていきますし、そもそも武田の名跡自体は
水戸徳川家に継承されている、という史実があったりするのですがねえ。貴方の理屈で言うと、
全然武田は滅んでない事になりそうですが。
ああ、それから※28は一部訂正しときます。一応信玄にも7歳で早世した兄がいますね。
ただ、信玄が生まれてすぐに死亡してしまったので、そのまま信玄が長男扱いとなり、
そのまま嫡子となっていったわけですが。そもそも貴方が長男と嫡男を混同しての話なので、
※28に示したように、意味のない話ではあるのですが。
一族合わせて10万石の織田、一族あわせて1万石にすら届かない武田
どっちが実質滅亡なのやら・・・・
問題は、信長、後継者たる織田家当主信忠、その両者の側近が根こそぎ死んでしまったって事。
はあ?文体変えてるつもりでも変えられてないのが貴女でしょ?なんでこっちがそんな事するのかと。
一族合わせて、って言いますが、織田信雄が改易されて、豊臣家に養ってもらって
大阪の陣の前後に家康の下に転がり込んで小さい領地もらうまで、無禄だったのに何を言ってるのかと。
っていうか、それいったら武田の名跡自体は家康の息子に継承されて、水戸徳川家に継承されてるから、
数十万石、とかも言えちゃうんですけど。
んな事言ったら、織田家そのものが豊臣に乗っ取られてるだろ、としか。
ああ、豊臣からは名跡を取る価値もないとみなされてた、ってオチですか。
豊臣は朝廷からもらった織田とは全く別の家
武田信吉って武田の旧臣期待させただけ
そもそも信吉は武田と縁もゆかりもない赤の他人
いつぞやの武田アンリと同レベル
いや、いつも珍説垂れ流して資料も論証もできずに発狂逃亡するのがデフォルトなのが
貴女でしょ。
まさかとは思いますが、織田の旧領土をまるまる秀吉に奪われながら、乗っ取られてない、
とか思ってるわけですか。さすがにそれは無理ありすぎかと。
そして、織田の名跡をとる価値があると思われていたなら、それなりの手をうったでしょうが、
実際にはそんな事は欠片もなかった、と。
武田信吉は徳川家康の息子で、家康は武田の名跡を信吉に継がせることで
武田を自分の血筋によって維持していく事を狙ったわけなんですが。
豊臣の織田に対する扱いと違って、家康は十分に武田をリスペクトしてますね。
貴女の理屈で言うと、織田には旧臣を期待させる程の効果もなかったんですね。
さすがに悪評満載の信長の家ですね。
どうでもいいはずの織田家には大名として一族あわせて10万石、高家旗本にわざわざ3家も
用意してやっておきながら、本物の武田子孫は
存在を抹消されて50年間八丈島、ようやくお情け帰還で高家旗本になったと思ったら柳沢のダシにされるし。
武田信吉はあっさり武田姓捨てるわ、そもそも
武田と何の縁もないわ、信吉死んだらこれ幸いとばかりに
勝手に徳川御三家になって武田と無関係になるわ
本物の武田子孫が無視され続けて、武田旧臣から
何一つ再興のない可哀想な武田家を家康は救ってやれよ・・・・
いや、だから武田信吉は水戸藩創設の時に武田家再興、を行ってるのですけど。
織田家に一族合わせて10万石、ってその中で最大の織田信雄の家系すら数万石なのに、
そんな大威張りで言われましてもねえ。しかも織田家はその後で待遇を変えられていきますし。
武田も旗本高家であわせれば数万石くらい行きますし、織田家とどれほど異なるやら。
水戸藩の事を考慮すれば言わずもがな、ですし。
八丈島、ってなんです?伊豆でしょ?論証をお願いします。
普通に高家に任じられてたのを、柳沢がその家名を求めただけですのに、何を言ってるのかと。
っていうか、織田なんか途中から高待遇受けられなくなってるのに何を言ってるのかと。
江戸時代にどんどん削減されてるんですけど…。
結局、最終的なトータルは武田の数万石と
対して変わりなさそうな気がしますが。水戸藩入れれば圧勝ですし。
っていうか、結局は織田こそが何一つ家臣から再興の無い家だったと思いますが。
身内で養ってもらってた豊臣の情報を徳川に売り渡して、徳川の下に転がり込んで
小領もらった事を、何か徳川から高く評価されてた証みたいに言われましても。
全員あわせて一万石あるかどうかってレベルだぞ
一番多いので5000程度なのにどうやったら数万石行くんだよ
挙げ句水戸藩wwww武田の無関係な徳川のルーツ主張とか朝鮮人かよwwww
いくら誇張したいからってそんな恥知らずなマネよくできるなw
あのね、信玄には海野信親という息子がいて
本来家督を継ぐはずだったのに盲目で継げなかったの
んで、その息子に武田信道という息子がいて、
彼は僧籍の身だったから無事に甲州征伐永らえたの。
ところが、大久保長安事件に連座して
家康に八丈島まで飛ばされたの、50年ww
家康って武田を尊敬していたんでしょ?
なのに信玄の実の孫をこんな酷い目に
あわせて、自分の息子をどさくさ紛れに
武田乗っとりに使うなんて随分非道だよね
頼房の代にはもはや影も形もない武田カワイソス
いや、だからそれ知ってますけど、信道が流されたのは伊豆大島であって
なんで八丈島になってるのか、って聞いてるんですが。
大久保長安事件に連座したから、としか言えませんが。
それ言ったら織田信長の息子をどんどん改易してるのですが、家康。
どさくさ紛れも何も、武田信吉が武田の名跡を継承したのは大久保事件のずっと前なんですが。
貴女ってどうしてそうやって発狂しながら妄想しまくって、
時系列がおかしな事になるのか説明してもらえませんかね。
上記事項の矛盾点の説明をよろしく願いますねー。
高家武田家500石、仁科氏4100石、米沢武田家3100石、河窪氏2700石、
ぱっと思いつくのを挙げるだけでも一万石は普通に超えてますが。
それから柳沢氏とのつながりも関連すれば、数万石は確実にいきそうですが。
無関係も何もないでしょう。武田の名跡は穴山が継承し、(穴山は裏切りの時の条件に
武田の名跡を残す事を織田徳川との条件に入れていた。)
その武田の名跡を家康が息子を養子に入れる事で継承したんですから、
無関係どころか、名跡継承の概念で言えば、普通に武田の名跡は水戸藩に継承されている事に
なっていくのですが。
「織田信雄は1度秀吉に領地取り上げられたから滅亡
徳川に卑怯な手で取りいって大名にしてもらったからノーカン」
⇒この理屈だと立花宗茂は大名復帰したが滅亡扱いになってしまいます。
納得いく人は少ないのではないでしょうか?
「武田信吉は養子で子供はいなかったけれど家臣が武田旧家臣だから名跡は残って
問題ない」
⇒水戸の領地を受け継いだ徳川頼房は武田とは血縁として無関係で奥方は武田家の血筋ではない。
当然武田姓を名乗っていない。
もし、名跡や旧家臣で事足りるならば、どの大名ものこったことになり曖昧な議論になります。
あと、1616年以降は
織田家の場合、「嫡流は断絶。信長直系一族で大名がいる」
武田家の場合、「嫡流は、当主ではなく一族で決めた系譜が存在しかつ信玄直系一族で1万石以上の大名はいない」
だと私は解釈しております。
1592年には三法師こと織田秀信が元服して、岐阜に13万石貰ってる。
「誰を織田家当主とするか?」ってならわかるが、織田が領地ないから滅亡はこの時点でおかしい
いや、武田も今川も後々で復帰してますけど滅亡扱いになってるのですが、
これはどう思われるのでしょうか?ご解答をお願いしますね。
いや、名跡ってそういう意味じゃないんですが。
武田の家督というのが継承されていった系譜が連なっているわけでして。
そもそも武田信吉自体が血縁も無関係で奥方も特に武田家ではないですが、
穴山亡き後の武田の家督を継承した事で武田の名跡継承者となってるのですが。
その織田の子孫とやらが盛大に改易や削減されていった事を静かに認識された方が
よろしいかと思いますが。
いや、ですからその理屈で言うと、仁科だの上杉の所にいた武田家だの、河窪だのが普通に領地を
もらってるから、武田滅亡はない、って事でいいんですよね?
そもそも1592年がどうとか言ってますが、その頃には武田信吉も生きてますし、
関ヶ原後には武田として水戸藩を起こしてもいますし。
それから織田信雄改易は私が言ってるのは一回目の事ではなく関ヶ原後の事なのですが。
織田は後で復帰したり、領地持ってた一族があるから滅亡じゃない、ってのはどうなのかと。
武田信吉が武田を名乗ってた時まではまだ理解できるけど
徳川頼房以降の水戸藩は武田の名跡を継承してるとはとても言えない
そもそも武田信吉すら武田の苗字を捨てて松平姓に戻してる
にもかかわらず水戸藩を入れれば織田に圧勝というのは全く理解不能
返信ありがとうございます。ただの歴史好きなので個人的な見解だけ述べます。
復帰条件 領地または家録を与えられ、明治維新の廃藩置県まで減額されても子孫に残していること。
○武田家の場合 滅亡⇒復帰
勝頼信勝親子自刃により滅亡⇒貞姫血筋より宮原家、伊豆武田家復帰
(武田信吉は名跡を継承、一代のみ)
○今川家の場合 氏真存命中に滅亡⇒復帰
最後の当主は今川範叙で明治維新後に亡くなっており充分家名を保ったと言えます。
○織田家の場合 秀信死亡で嫡流断絶滅亡⇒直系の信雄が改易後大名復帰
明治維新の後、大名の織田家四家が子爵になっております。
あと、名跡の件ですが徳川頼房は武田家を名乗っておりません。
家紋も「水戸三つ葵」(水戸黄門に出てくる印籠)で武田菱ではありません。
いや、ですからなんで貴女はそうやって都合よく時系列を曲解なさるのかと。
普通に武田信吉は水戸藩を起こす時に武田の名跡をもって起こしてるのですけど。
なんでこれをスルーしてるんですかね?
というか、来たんならこちらに質問されてる事にさっさと答えてくださいよ。
そうやって他人装いして相手をくさす事ばっかしてないで。
その条件ですと、武田・今川・織田の三氏共に滅亡してない、って事でよろしいですかね?
それならそれでいいのですが。
ちなみに、武田は他にも信玄の5男である仁科盛信の二人の息子の系統がいずれも徳川に仕え、
武田姓に復しておりますし、河窪氏も徳川に仕えながら後に武田姓に復しておりますね。
水戸藩に関しては、「武田再興」の旗印のもとに旧武田家臣達を集め、組織構成して
興した藩なわけで、武田信吉は短命で死亡はしましたが、その異母兄弟の人間が
その組織を継承して、組織運営とかもそのまま続けられていってるのですが、
これでも連続性がないというものでしょうかねえ?
まあ、武田・今川が結局滅んでない、というのならそれはそれでもいいのですが。
「戦国大名」としての連続性はないな。
豊臣の天下統一を区切りとして一応戦国が一時終わったと考えると
戦国大名織田家は完走したと言える。今川や武田とは全然違う。
江戸幕府を区切りとすると織田も苦しくなるが、
一応有楽の系統が完走したことになる。
おい、ちょっとまて。
他ならぬ豊臣家から信雄は改易され、まだ豊臣時代の区切りに入るであろう、
関ヶ原の戦いの後で信雄やら秀信やら信長の他の息子達やら、が盛大に改易されてって
明らかに滅亡的な状態ですが。少なくとも武田や今川くらいには。
有楽が戦国大名だった時期は特にないのでは。っていうか、有楽の領土って
関ヶ原の前までは2千石程度だったはずでは。まだ武田一族の生き残り連中の方が
領土多い感じですが。これで織田は完走で武田とかはダメとか言われてもねえ。
恣意的すぎるとしか。
秀信、信包、有楽のところは健在
>関ヶ原の戦いの後で信雄やら秀信やら信長の他の息子達やら、が盛大に改易されてって
有楽のところは健在
>これで織田は完走で武田とかはダメとか言われてもねえ。
タスキを繋いだところと、駅伝でいうところの繰り上げスタートしちゃったところの差
いや、だからその秀信の所が改易されてるだろ。関ヶ原が豊臣時代だよね、っていってんだけど。
うん、だからその理屈で言うと武田は仁科の2系統だの河窪だの武田信吉だの越後武田だの、
が普通に領地もって生きながらえてるから問題ないよな?関ヶ原前の有楽の領土なんて
上記の武田元一族連中の方が多いくらいだし。
理屈になってねえよ。
普通に武田だって領地もって継続されてるんだから。
戦国大名としてどうたらとかいいながら、有楽が戦国大名でもなんでもないと指摘されたら
コロコロ必死に理屈変えるのやめろよ。
豊臣時代はもうゴールは過ぎてる、と考えた場合は秀信と信包は戦国大名として完走扱い。
だめです。領地持ってても一回ゼロになってるので繰り上げスタート扱い。
有楽も戦国大名織田家でしょ。
つまり織田はゼロになってない。武田今川は違う。
武田信道(信玄嫡孫) → 大久保長安事件に巻き込まれ、伊豆配流。子孫が高家旗本1500石で復帰
武田信清(勝頼末弟) → 姉の実家である上杉家に仕え3300石。のちに減封されるが明治まで存続
河窪信俊(勝頼従弟) → 勝頼自刃後は徳川家康に仕え、子孫が2700石で旗本になったらしい
仁科信基(勝頼甥) → 実在不詳。仁科盛信の子。江戸時代に3100石の旗本
全部足しても1万石程度で、それも豊臣政権時代は全員が家臣の家臣か。
※55
実際に調べればわかるのだが、武田信吉自身は武田の組織をほとんど継承していない。
まず実際の甲斐武田家近臣は武田勝頼の天目山自刃の際に付き従い尽く壊滅してる。
残りも裏切りや逃亡先で許されなかった連中も含めて織田軍に撫で斬りされてるので残りようがない。
真田みたいに信濃で半独立した人間や、土屋のように子供が逃れてのちに誰かに仕えたパターンのみ永らえた。
ただ、甲州征伐の段階では穴山梅雪が織田・徳川に寝返っており、ここの組織はある程度温存できていたが、
本能寺のゴタゴタで梅雪が死亡して、息子の勝千代が継いだのだが、勝千代が継いだ部分は少なく、
旧穴山家臣を差し置いて、徳川家臣が勝手に政務を取り仕切ってるのが文書で確認されてる。
ちなみにこの段階で残っていた旧武田、旧穴山家臣には穂坂忠文、有泉勝重、芦沢元辰などがいるが
全員武田信吉が水戸に領地与えられるまで生存しておらず、有泉に至っては独力で家康の直臣になっている有り様。
血縁一族に武田一門がいない当主
信玄勝頼ら歴代武田宗家を全く知らない当主
特に武田と関わりのない家臣
かろうじて親が武田と面識ありの家臣
これで後継者認定とか武田家の権威はボロボロ
せめて当主に武田の血くらい入れようや
だな
じゃあ名前くらいは武田かと思ったらあっさり松平に戻してるわけで
※65
普通に武田信吉の母親は信玄6女とも言われてるし、有力説としても武田一族の秋山氏の娘なので
武田の血筋は普通に入ってるぞ。なんでこれスルーなんかな。
>信玄勝頼ら歴代武田宗家を全く知らない当主
人間が世代交代する以上当然だろ。
>特に武田と関わりのない家臣
>かろうじて親が武田と面識ありの家臣
適当な事を言うなよー。水戸藩が興された時、全体の4割が旧武田家臣だぞ。
幕末の武田耕雲斎とかも普通に武田旧臣の跡部氏の末裔だしな。
※66
いや、だからさあ武田信吉は普通に水戸藩を興す時に武田再興として興してるんだけど。
なんでこれスルーしてんの?
おーい、だからそれ、お前にだけ都合よすぎだろ。
秀信がどうとか言ってるけど、秀信が岐阜でおさがりの13万石もらったのは
1592年だから、1590年の豊臣の天下統一の時にはもらってないぞ。
ついでに、織田信包も小田原の時の事が原因で後になって秀吉からしっかり改易されてるぞ。
だからそれ都合よすぎ。一回改易されたらアウトなら、織田なんか改易されまくりだから
アウトしまくりだろ。お前の言ってる秀信も信包も無禄になったり、改易になったり普通にしてる。
だからさあ、織田有楽の領地っていくらだと思ってるんだよ。秀吉に仕えてからは2千石だし、
そもそも織田信雄に仕えてたから戦国大名じゃないし、信雄と一緒に改易されてる。
これは1590年の事だから、有楽もアウトだな。
※64
とりあえず、仁科信基は実在不詳じゃないぞ。信久と混同してるだろ。
信基の家系は後に加増されて4100石になってるな。
おーい、適当な事を言うなよー。水戸藩研究者によれば、水戸藩成立時代の家臣団の
約4割は旧武田家臣だぞ。家老の蘆沢信重は普通に1577年生まれの武田時代からの生き残りだし、
上にも書いた跡部氏の生き残りとか、秋山氏とかも普通に仕えてるぞ。
改易はその後戻ることはあっても、滅亡はその後戻ることはないからねえ。
つうか織田の4人だって高野山で若死した秀信以外は結局大名復帰してるわけで。
>>ついでに、織田信包も小田原の時の事が原因で後になって秀吉からしっかり改易されてるぞ
恣意的な発言は関心しないな。織田信包が改易処分になったのは1594年の話だ。
この頃には織田秀信が2年前に岐阜13万石をもらってとっくに自立している。
時系列にまとめると
1590年:織田信雄 織田信包
1591年:織田信包 織田長益(2000石)
1592年:織田秀信 織田信包
1594年:織田秀信 (織田信包改易)
1598年:織田秀信 織田信包(復帰)
1600年:織田信包 織田長益(大名格上げ) (織田秀信改易)
1615年:織田信包 織田長益 織田信雄(大名復帰)
で織田は当主および中心格はめまぐるしく変わっているが全員が領地失陥したことは1回もない。
多分わざと豊臣徳川政権がそう配慮していたんだろうけど、結果として織田が滅亡したとは言われない理由だね
>>有力説としても武田一族の秋山氏の娘なので
秋山夫人の生家である秋山氏って武田家から見ればかなり傍流だからね。
500年くらい遡らないと武田と繋がらないんじゃないか?
そこまで遡るなら大体の家同士が一門縁者になってしまう。
信玄末娘説が正しければまた覆るが現状珍説の域を出ない。
>>全体の4割が旧武田家臣だぞ
「水戸藩は武田家を再興して作られたもの」って言う割に、よそ者出身の方が数として
多いのはいかがなものか。まあ旧北条系とかも多いし、武田当時の重臣連中は死んじゃってる連中もいるわけだけども。
しかも調べてみれば、武田信吉がわずか1年で死んだ後、ほとんどの連中は水戸藩を見限って去り、
徳川頼房時代には全体の1%にも満たない数まで減っている。これでは
水戸藩そのものを「武田の名跡を継いだ存在」とはとても言えない。
少なくとも頼房の代には影も形もなくなってると言っていいね。
>とりあえず、仁科信基は実在不詳じゃないぞ。信久と混同してるだろ
逆。実在疑われてるのが信基。
まず仁科信基は通説だと3100石、のち子孫が4100石もらってるが
これは1万石未満が基本の旗本の数字にしてはかなり多い。
大名家の家老や重臣クラスが同程度だから、それだけの厚遇を受けていたことになる。
ところが仁科信基は同時代の史料には全く登場しない。
君の言う仁科信久は信基よりはるかに小さい存在だが、ちゃんと当時の史料に残っている。
4100石の大身旗本が当時の史料に全く残らないのはおかしいという見解が出て架空人物説が出てる。
仮に豊臣秀吉が全国統一を完成させなかったら、小早川隆景や吉川元春みたいな徳川主家を支える柱石としての分家に
しようとしていたんだろうけどな家康も。秀吉の天下統一で時勢が変わって、信吉本人の夭折でトドメ刺された。
一般的に御三家とは言われるが、水戸藩は何から何まで特殊だね
秀信は清洲会議で蔵入地3万石持ってる
いや、だからそんな事ないって。
>つうか織田の4人だって高野山で若死した秀信以外は結局大名復帰してるわけで。
実際はか細いながら領地もらってた信長の息子は関ヶ原で改易されて二度と戻らなかったのが
何人もいるけどね。
>多分わざと豊臣徳川政権がそう配慮していたんだろうけど、
いや、特にそんな事ない、ただの偶然だと思うけど。長益が大名になれたのは東軍に所属してたからだけだし。
>結果として織田が滅亡したとは言われない理由だね
それってお前さんしか特に言ってないんじゃ。
普通は全員が改易経験者、って時点で滅んでないなんて普通いわないだろ。
珍説も何も、徳川幕府家譜では普通に信玄の娘扱いだけど。穴山家の養女でもあるし。
んな事いったって、普通に武田の血族として扱われてるしなあ。少なくともこれだけ近しい繋がりで
武田と無関係とか言ったっておかしいだろ。
あのねえ、「ほとんどいない」って最初言ってたろ。
4割もいると明らかにされた時点でその言い方するのははっきり言って卑怯だぞ。
さらにいうと、その4割の武田家臣団は当然ながら、水戸藩で最大数だぞ。
>ほとんどの連中は水戸藩を見限って去り、
>徳川頼房時代には全体の1%にも満たない数まで減っている。これでは
>少なくとも頼房の代には影も形もなくなってると言っていいね。
嘘つけ嘘つけ。まず水戸藩勃興時に4割を占めた176名の旧武田家臣のうち、
33名が水戸に残ってる。そしてさらに62名が頼房に仕えた事が判明してる。
どこが1%なのか、影も形もないのか、ちゃんとした資料と論拠に基づいて
論証してほしい。なんか明らかに結論ありきでコロコロ主張変えまくってるだけにしか思えない。
それも嘘こけ。
だから、それまるっきり信久の事だろ。仁科信久は旗本になる前の資料がなく、
仁科氏の資料にも存在しない事から架空人物とする説がでてるし、
そもそも途中でこの家系は断絶してる。
普通にその後も残った信基の家系が架空なわけがないだろうが。
こっちについてもしっかりとした論証を求めるね。
うん、だからさあ、そうやって明らかに見え見えの語り掛けは…
とりあえず、※74で聞かれてる論証についてはしっかりと答えてね。
※72
それ実質的に堀が代官という名前で実質支配してたよ。
>信長の息子は関ヶ原で改易されて二度と戻らなかったのが何人もいるけどね。
だから恣意的な表現はダメだってw
信長の息子で領地もらってて、関ヶ原で改易食らって復帰できなかったのは
信長八男の織田信吉だけ。残りの連中はそもそも参戦前に死没してたり、
参戦自体してなかったり、参戦して改易されたけど戻ってきたパターンばかり。
>ただの偶然だと思うけど。長益が大名になれたのは東軍に所属してたからだけだし
その東軍に属したのがそういう配慮とは考えないんだね。
>それってお前さんしか特に言ってないんじゃ。普通は全員が改易経験者、って時点で滅んでないなんて普通いわないだろ。
なら教科書でも学者の著書でも見てきたらいいんじゃないかな?w
少なくとも俺が調べた限りでは「織田家は滅亡した」なんて書いてる箇所や著書は1つもなかったよ。
というか、仮に滅んでいたら義務教育レベルで習うと思うけどね
実際に豊臣家や武田家は滅亡したものとして教科書レベルですら扱われているわけだし。
>少なくともこれだけ近しい繋がりで武田と無関係とか言ったっておかしいだろ。
いや500年くらい経ないと繋がらないってかなり遠縁の部類だと思うけどなあ
まあ信玄娘というのが正しければ繋がりがあるといってもいいかもしれんが
実際問題、武田信吉の母親をそんな風に言っている連中は見たことないなあ
>4割もいると明らかにされた時点でその言い方するのははっきり言って卑怯だぞ。
そらねえ、君は「水戸藩は武田家の名跡を継いだ、武田家を再興するための、武田家正統後継の家である」って
言ってたわけだから、さぞ武田家臣が多く、武田家と縁の深い人間が当主やってると思うじゃん?
それがたった4割でしょ?どう見ても少ない。武田信吉の勢力なんて大してデカイわけでもねーのに
なぜ旧武田家臣(真田や土屋など)をもっと下に入れないのか、って誰でも思うことだろ?
本当に家康は武田を再興する気持ちなんてあったの?っていう。
>どこが1%なのか、影も形もないのか、ちゃんとした資料と論拠に基づいて論証してほしい。
あー多分同じ資料見てると思うけど、ちゃんとしたところまで見てないな。
まず「176名のうち33名が水戸に残ってる。そしてさらに62名が頼房に仕えた事が判明してる。」っていう
部分、これは旧武田家臣ではなく、武田信吉に仕えた家臣全員の数だ。無論旧武田家臣以外の家臣もいる。
そしてページのさらに上を見よう。水戸藩の、年代別における、家臣の出身地が書かれた表があるはず。
ここで「慶長年間に水戸藩に仕えた家臣」の部分、旧武田家臣が75名(絶家33名)とあるよな?
176人のうちの75人だから、まだそこそこの数はいるようにみえる。
ところがだ、その次の「元和年間に水戸藩に仕えた家臣」の部分、ここでは旧武田家臣がわずか9名(絶家4名)しかいない。
石高上昇に伴う、家臣総数の増加(176名→205名)があったにも関わらず、旧武田家臣は75名から9名と大幅に減少している。
そして入れ替わるように、旧徳川主家家臣、旧松平忠輝家臣が合計71名増加している。
元和年間における、水戸藩家臣総数の206名のうち、旧武田家臣はわずか9名。これでは影も形もないですなあ・・・・
>普通にその後も残った信基の家系が架空なわけがないだろうが。
ん?仁科信基の子孫はとっくに断絶してるはずだが、どこから情報得てるんだそれ?
良ければ仁科信基の子孫家系図とか明示してくれないか?
※75
うん?君以外の人に話しかけちゃいけないの?構ってちゃんかな?w
当主 徳川光圀(徳川頼房の子)
15000 中山備前守 (北条)
10000 山野辺土佐 (最上)
*5000 鈴木石見 (三河豪族)
*4000 松平志摩守 (大草松平)
*3000 徳川頼利 (弟)
*3000 徳川頼雄 (弟)
*3000 徳川頼泰 (弟)
*3000 徳川房時 (弟)
*3000 徳川綱條 (甥、3代藩主)
*3000 雑賀孫市 (紀州豪族)
*3000 真木隼人 (朝倉)
*3000 松平主馬 (出自不詳)
*2100 伊藤玄蕃 (結城)
*2000 岡田宗十 (三河豪族)
主要家臣に旧武田系はいないね
全ての日本人に猛虎魂は宿っているんや、武田は日本人の母や
ただの代官に過ぎない
秀信領が実質
家臣が旧武田系だから水戸藩は武田としてカウントするというのがそもそも無理があると思う
でも※80を見るとその家臣にすら武田系はいないわけか
※83
そもそも眉唾に思えますがねえ、※80自体が。その参照元のソースを知ってますが、
普通に千石とか800石とか700石とかには武田系がいるんですけど、
そこら辺をあえてスルーしてるようですし。
当主の武田信吉は武田の血族である秋山氏の娘とも信玄の6女ともいわれる女性を
武田の名跡を継承した穴山氏の養女とし、その上で家康の側室として生まれた子供なわけで、
明らかに2重・3重に武田の正統たる事を意識して生まれた子なわけでして。
で、現にその武田信吉が武田の名跡を継承し、関ヶ原の後で武田再興として興した家が
水戸藩なわけで。そして、その勃興期における水戸藩の家臣の4割が旧武田家臣であり、
その比率は名実ともに最大、と。※80はそもそも上記のように色々と武田系を省いてますし、
そもそも光圀時代の事ですしねえ。
そんな事をいいつつ、秀信は名目的にも自分の領地じゃない所を転々とし続けたのですが。
※80
※84にも書きましたけど、普通に武田系で千石とか800石とか700石とかの人達を
スルーしてますよね。そもそも光圀の時代ですし。
武田信吉が死亡し、頼房の時代になると、旧武田家臣が続々とそれに仕えておりまして、
少なくとも62人、それは重臣層の多数であった事が指摘されております。
筆頭家老の蘆沢は旧武田系で4700石、3千石は4人、2千石は1人、1500石は2人、
千石は3人、といった感じで旧武田系家臣団が大きな石高をもって頼房に仕えていた事実を
貴女はいったいどうとらえているのか、是非とも説明してもらいたいものですが。
いや、貴方の言ってる事が明らかにおかしいと思うのですが。
>これは旧武田家臣ではなく、武田信吉に仕えた家臣全員の数だ。無論旧武田家臣以外の家臣もいる。
ほほう。では、とりあえず同じ資料を見てる、という前提に基づきまして説明をしていきますと、
最初にその段落の一番最初に「旧武田家臣が全体の4割を占める。」「彼らの多くはかって穴山に仕え、
後に武田信吉に付属した者達である。」「信吉の没後、33人は水戸にとどまり、
他は江戸に来るべき命令を受けた。」という感じで文章が進んでるわけですが。
この流れだと、明らかに「旧武田家臣達が信吉没後に33人が水戸にとどまった。」と読めるのですが。
そして「62人がさらに仕えた。」っていうのは同じ段落の、旧武田家臣達の説明の段落に含まれているわけで
実際にその段落が終わった後に、「旧武田家臣達に次いで多いのが旧北条家臣である。」と書かれて
旧北条家臣達の説明が続いていくわけなのですが。
なんだって旧武田家臣達の事を説明してる段落で、旧武田家臣の事じゃない、と言い出すのか
非常に意味不明に思えますが。(続く)
>ところがだ、その次の「元和年間に水戸藩に仕えた家臣」の部分、
>ここでは旧武田家臣がわずか9名(絶家4名)しかいない。
>石高上昇に伴う、家臣総数の増加(176名→205名)があったにも関わらず、
>旧武田家臣は75名から9名と大幅に減少している。
あの…私は貴方が貴方の言ってる事がおかしいと思わないのかと疑問に思ってしまうのですが。
その表のタイトルはこうなってますよね?
「年次別登用家臣とその出自」って。「登用」って意味わかりますか?
「その年代で新たに召し抱えた家臣達の人数と出自を示した表」って事なんですが、この表。
その下から2番目にわざわざ「年平均」って書いてあるのがおかしいと思わなかったんですかね?
これは年平均で何人の家臣を新たに登用したか、って事を示してるわけでして。
ここに示されている人数が総人数なわけないじゃないですか。勃興期は最初ですから、
それが総人数になるでしょうが、それ以後の時代のは、その時代その時代で召し抱えた連中、って事で
貴方の言ってる、9名、っていうのは元和期において新たに召し抱えられた旧武田家臣達、って事であって
他の連中がみんな潰されたとかそういう話じゃ全然ないんですが。
貴方の言ってる表自体でわかりますよね?慶長期で75人、のち31家が絶家、75から31を引けば44、
なのに貴方的解釈だと次の時代の元和ではなぜかその44から9に何の脈絡もなく減少してる事になる、と。
そんな事があるわけないでしょう。
普通に前の時代から残っている旧武田家臣の家は残ったままで、元和時代に新たに召し抱えられたのが
9名ってただそれだけの話でしかないんですが。
貴方って自分でレスを書いてて、本当におかしいと思わなかったのか、私にはそれが疑問なのですが。(続く)
>元和年間における、水戸藩家臣総数の206名のうち、旧武田家臣はわずか9名。これでは影も形もないですなあ・・・・
※87にも書いたように、そもそも貴方が「登用」って言葉を妙に解釈して、
「その年代で新たに召し抱えられた旧武田系家臣が9名」っていうのを
「その時代に残ってる旧武田系家臣が9名」っていう風にみょうちきりんな解釈しただけの話なので、
完全に的外れ、としか言いようがないのですが。
貴方的解釈で言いますと、水戸藩家臣は正保期には91名で絶家が48名とか言う、大量絶滅状態に
なるのですが。こんな事あるわけないでしょうが。
>ん?仁科信基の子孫はとっくに断絶してるはずだが、どこから情報得てるんだそれ?
それのソースを示してもらいたいですねえ。
少なくとも大正時代までは生き延びて、武田の子孫として正4位を贈られてるはずですが。
とりあえず、貴方のそのみょうちきりんな歴史世界において、その信基系の最後の当主はなんて人なんですか?
ついでに、黒田基樹氏編纂の集成戦国期武田氏系図においては、信基はしっかりと仁科盛信の長男として
記されております。母は武田信廉の娘と明記されております。さらに同じ流れで仁科信貞も盛信の子として
明記されておりますね。対して信久については一切記述無し。
これらについて、貴方が一体どうして仁科信基を架空と言い張るのか、どこで断絶したと言い出すのか、
是非ともまともな資料を基にして論証よろしくお願いしますね。
見え見えの事はやめた方がいいのでは、って事なのですが。
実際に秋山氏は縁戚として扱われてますのに、そんな事を言われましても。
それに、※84にも書きましたように、
武田信吉は武田の血族である秋山氏の娘とも信玄の6女ともいわれる女性を
武田の名跡を継承した穴山氏の養女とし、その上で家康の側室として生まれた子供なわけで、
明らかに2重・3重に武田の正統たる事を意識して生まれた子なわけでして。
で、現にその武田信吉が武田の名跡を継承し、関ヶ原の後で武田再興として興した家が
水戸藩なわけで。
連中、も何も書いてるのは徳川幕府家譜ですしねえ。
貴方、そもそも上でほとんどいない、的に言ってましたよねえ。
それなのに、4割もいて、初期水戸藩における最大比率の派閥だった、って事を示されたら
必死でコロコロと理屈を変えてるだけ、としか思えませんが。
4割もいて、最大比率なら、普通なら「たくさんいる」って思うでしょうし、
単に貴方が最初に言った出まかせを覆されるのが嫌で、必死に認めてないだけなので、
貴方以外には特に思わない事を「誰でも」なんて言われても失笑しかわかないです。
で、4割もいるのに、「ほんどいない」とおっしゃった事に対する整合性をさっさと資料とかを基にして
つけてほしいのですが。
8男信吉は改易されてそのまま死亡し、
7男織田信高も西軍に属して領地を失ってますが。
その信高死亡後の10数年後に子供が2千石もらってますが、このルートって武田とか今川とかと同じじゃ。
織田信貞も西軍について改易され、それから10数年後に大阪の陣で必死に戦って千石の領地をもらって、
って明らかに徳川は織田の家系に敬意とか持ってなくて、普通に戦功に対して小領あげただけに見えますが。
というか、織田信長の息子が家康に改易され、千石の領地をもらう為に必死で奮戦する様とか
スゲー泣けてくる感じですけどねえ…。
で、これらから徳川の織田に対する敬意とやらが見受けられるとしたら、逆にスゲーとは思いますが。
>その東軍に属したのがそういう配慮とは考えないんだね。
?長益が東軍に属したのは彼なりに時勢を読んだ結果が当たっただけの話で、
他の西軍に属してた織田の係累はおおむね容赦なく改易されてるのですが。
なにがどう家康の配慮なのでしょうか。説明よろしくですねー。
義務教育レベルで習う、って言われましてもねえ。
武田が滅亡した!なんて教科書に一々書いてなかったような。
織田の連中が軒並み改易経験者だらけになるのって、関ヶ原以後の事ですから、
この時に教科書で一々織田の血筋なんぞに行数を割く必要性自体がないですし。
>義務教育レベルで習う、って言われましてもねえ。武田が滅亡した!なんて教科書に一々書いてなかったような
えええwwww
あなた本当に日本人ですか?一応聞いておきますけど朝○学校出身じゃないですよね?
武田家が天目山の戦いで滅亡した、なんて中学生でも習いますよ今どき
大学受験では「長篠の戦い」を引っ掛け問題で使ってくるので、どこの学校や塾でもガッツリ教えさせるんですけどねえ。
スタンダードな教科書と言われる山川出版のものでもちゃんと書かれていますよ。一般常識くらい理解して欲しいですよw
>徳川は織田の家系に敬意とか持ってなくて、普通に戦功に対して小領あげただけに見えますが。
その割には無駄に旗本多いんですけど。高家旗本が3家もありますがぶっちゃけこんなに必要ですか?っていうw
織田に3つも割くくらいならそれこそ武田家復興のために子孫呼び寄せてもいいと思うんですけどねえ
家康は信玄に敬意を払ってた、という割にはずいぶん冷遇というか渋い対応ですねえ
※89
>初期水戸藩における最大比率の派閥だった
言葉って便利ですよねえ「最大比率」なんて。豊臣家なんてよその家臣の方が多いんですけど、
それをもって「家臣の最大比率は○○家だから実質○○家」なんて言う人聞いたことないですけどねえ。
>単に貴方が最初に言った出まかせを覆されるのが嫌で、必死に認めてないだけなので
いやあ、それは武田信吉の家臣176名を、全て旧武田家臣だ!なんて大言壮語していたあなたにこそ返したい言葉ですよ
都合の悪いところだけスルーして、まくしたてようなんて随分性格が悪いんですなあ
>「その年代で新たに召し抱えた家臣達の人数と出自を示した表」って事なんですが、この表。
え?その理屈でいいんですか?それだと、あなたの言う「旧武田系家臣が75名で、
これは水戸藩176名の中では約4割を占め最大派閥。だから武田家だ」という論拠が、
そうするとそっくりそのまま崩れてしまうことになると思うんですが・・・・・・。
水戸藩において旧武田系が最大派閥だという論拠は、言うまでもなくこれですよね?
これ以外に家臣の旧出自が書いてある部分はありませんから。※87の
論拠に従うならば、「慶長年間に水戸藩に登用された家臣のうち、
旧武田家臣が多かった」というだけで、武田信吉がもともと雇っていた家臣や、
それ以降水戸藩家臣が、どういう出身者で構成されているか、という
根拠は全くないことになるのですが・・・・・・・・。
万千代君古帳によれば、武田信吉の元来の家臣が172名いて、
62名がそのまま水戸藩に仕えた、ということになってますけど、
この172名の家臣の旧出自については言及されていないことに
なるのですが、とすると、何をもって「水戸藩の最大派閥は旧武田家出身」、
「武田信吉は旧武田家臣をたくさんつけられた、武田の正統後継者」
としたのか理解に困るのですが・・・・自分の論拠を自分で否定することになりますよ?
>旧武田家臣達の説明の段落に含まれているわけで
いやいやいや、あなたちゃんと読んでます?
「旧武田家臣が全体の4割を占める。」は、さっきも言ったように
「慶長年間の登用者数176名」のことですよ?※87の
「その年代で新たに召し抱えた家臣達の人数と出自を示した表」
という論拠に従えば。そしてこの176名のうち、
33名が水戸藩に留まり、残りは江戸に来たって話なんですが。
そして、万千代君古帳にある、武田信吉にもともと
仕えていた172名は、信吉が1603年に死んだ後、
62名がそのまま水戸藩に仕えた、とあるだけで、
この172名に関しては「旧武田家臣が4割を占める」という
言葉は全く書かれていないですよ?これは前のコメントでも
言いましたが、「旧武田家臣が最大派閥で約4割」というのは、
176名のうち75名を占める
「慶長年代で新たに召し抱えた家臣達の人数と出自を示した表」が根拠ですよね?
つまりあなたの言う論拠に従えば、武田信吉に
「もともと仕えていた家臣」に旧武田家臣が多いかどうかは
全くの不明で、のちに慶長年間に旧武田家臣を
その年代の40%を占める割合で多く召し抱えた、
ということになり、「武田信吉が武田の名跡を継いだ、
武田家旧家臣をたくさんつけられ、武田の正統後継者として
家康が再興させた」という論拠は全て崩れる事になりますね。
ほとんどわからないわけですから。ちなみに※85では信吉の部下である
旧武田家臣の芹沢信重の話が出てますけど、
芹沢は信吉時代に2000石。(同心含めると4700)
万千代君古帳ではそれを越える3000石の
家臣があと5名いるんですが・・・・・・ちなみに
この3000石の家臣の出自は不明で、旧武田系で
あるかどうかなどどこにも記述はないですよ?
ちなみに同じく旧武田系であった万沢、帯金、馬場、河方は
幕命で改易処分にさせられてます。
※84
>普通に千石とか800石とか700石とかには武田系がいるんですけど、
あれ、気づかなかったんですか?
これ石高で数えて上から重臣連中しかあげてないんですけど。
重臣連中に旧武田系が全くいないって、
本当に武田の名跡継いでるんですか?
>武田の名跡を継承した穴山氏の養女とし、その上で家康の側室として生まれた子供なわけで
そもそも穴山って武田の名跡継いでるんですか?
甲州征伐の時にいの一番に寝返って武田家当主を見捨ててますけど。
勝手に徳川が穴山利用して武田を乗っ取ってるだけにしか
見えないんですけどねぇ。ご丁寧に穴山梅雪は伊賀越えで不審死を遂げ、
穴山勝千代も夭折して、なぜかその後を血縁関係のない
主家の息子が継ぐことになってますけど・・・・。随分な偶然ですなあ
>書いてるのは徳川幕府家譜ですしねえ。
いやあそれは知ってますけど、当の武田家の記録にそんな
娘が出てこないんでねえ。というか信玄の末娘が家康の側室なりに
なったのなら、穴山の養女にする必要ないと思うんですけどねえ・・・・
というかこの人の理屈に従うと
『織田家は豊臣家、徳川家に血縁も旧家臣も繋がってるから、天下を取ったのは織田!』
って言えちゃうんだよね。(無論こんな恥知らずなことを本気で言う気は全くないが。)
なにせ豊臣徳川双方に織田家の姫君が嫁いでいて
実際に豊臣秀頼、徳川家光は織田の血を引いている。
武田信吉のように松平に姓を戻してもOKならこれで十分だし、
家臣連中といえば前田、池田、細川、黒田、稲葉、堀と数えればキリがなく
豊臣家臣の場合は主君の主君に織田信長がいる人がほとんど。
でもこの人は「改易があったから織田家は滅んだ!」とか言ってるんだよね。
でも武田家はボッコボコにされて一族家臣死にまくってるけど
「穴山から武田信吉が入って再興したから滅んでない!」とか言ってるんだよね。
むちゃくちゃだね
まあ「織田 滅亡」でググってもこのスレとそのまとめしか出てこないから仕方ないか
まだ幼くて統治出来なかっただけ。
それに転々としてても領地があることには変わりがない。お前の負け。
それは秀吉に従った人間だけで、逆らった信孝は殺してるし
秀頼を残してほしかったら、織田家のように
家康に従うしか残るルートはないのに
秀頼は最後の最後まで逆らい続けたじゃん
信孝と同類だよ
実際は信雄だぞ。
句は創作な。あんな風流もくそもない句はありえないから。
そのせいで俺の祖先は故郷を離れざるをえなくなって…滅ぼした織田家に顎で戦場へ
行かされた。そうです私は伊勢の藤原といわれる伊藤氏でござる。