400_title[1]
1:日本@名無史さん:2016/04/01(金) 20:07:46.65 ID:.net
没後400周年なのにスレッドがないようなので立てました。
真田丸でも散々なキャラにされてます。

3:日本@名無史さん:2016/04/17(日) 18:36:58.89 ID:.net
糞をもらして団子を食い逃げして難癖をつけて主家を滅ぼしたイメージが強い
5:日本@名無史さん:2016/04/18(月) 01:02:14.82 ID:.net
>>3
ほとんど高家として待遇しただろう。
優雅な江戸生活できただけありがたいと思いなさいw
4:日本@名無史さん:2016/04/17(日) 23:32:01.35 ID:.net
正一位東照大権現
6:日本@名無史さん:2016/04/18(月) 04:21:46.83 ID:.net
没後400周年記念に「城塞」を読んでみた。
ふむふむ。
ワルすぎる家康たん萌え
7:日本@名無史さん:2016/04/18(月) 22:24:22.97 ID:.net
天下を乗っ取った印象が強くて好きではないなぁ
8:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 10:40:59.21 ID:.net
秀吉も天下乗っ取ったので仕方ないな。
秀頼の次の大阪城主に、大阪が天領になるまで大政所の系統とも血縁あるもの据えたり、
豊臣姓を北政所系の木下氏に認め、大名や大身旗本で処遇したのは徳川の慈悲だろう。
12:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 18:04:35.28 ID:.net
>>8 北政所と懇ろだったんだろう。だから。
15:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 18:49:39.65 ID:.net
>>8
江戸時代に豊臣姓が許されていたのは北政所の甥の
木下利房(足守藩)と木下延俊(日野藩)とその分家のみだが

関が原で西軍についた木下利房に足守藩が許されたのは
大坂の役で大坂城入りしようとする高台院を大坂城に入れるなという
家康の命令に従い高台院を推しとどめて京から外に出さなかったから
慈悲のためではなく家康のために働いたから

日野藩の木下延俊は関が原で最初から東軍に属しており
最初から家康に属していたため慈悲をかけるも何もない
9:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 11:11:43.61 ID:.net
秀吉は直接織田家の人を殺していないしw
(信雄の命令で信孝を殺しただけ)
家康は秀頼を殺しただけでは気に食わなくて
8歳の国松を斬り、7歳の奈阿姫を尼にして豊臣宗家を根絶やしにした
更に秀吉の墓をぶち壊し神号を奪って豊国神社も破壊した
10:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 14:09:17.88 ID:.net
小牧長久手で秀吉に折れた信雄サンスケどののように
大阪冬の陣後は家康に折れて大阪退去すればよかったんだよ

裸城になったのだから大阪にこだわってもしょうがない
転封候補だった大和郡山か房総館山で楽隠居できただろ

豊後の立石陣屋の木下延由が国松だとしたら
相当に温情かけてるぞ徳川さん

ご近所さんは豊臣恩顧の黒田さんだし
木下 延由(きのした のぶよし、慶長19年11月9日(1614年11月29日) - 万治元年7月6日(1658年7月25日))は、江戸時代の交代寄合。日出藩初代藩主木下延俊の四男。八蔵、縫殿助。幕府には延次と届けられている。異母兄に日出藩2代藩主木下俊治。室は大久保忠常養女(里見忠義の娘)。継室は小浜嘉隆の娘。子に木下延知、江坂延明。寛永19年(1642年)5月9日、父の遺領のうち速見郡立石5,000石を分知された(実際に許可されたのは寛文4年(1664年))。また、この分封より兄弟仲は悪くなり、藩士も含め一切交流をしなかった。徳川家光に拝謁し旗本交代寄合となる。正保3年(1646年)に初めて領地に入る。万治元年(1658年)、参勤交代の途中、45歳で急逝した。法名、江岸殿月渕良照居士。泉岳寺に葬られる。家は没後子の延知が継いだ。延由における謎実は豊臣国松だったとの説がある。寛政重修諸家譜によると実際の年齢と異なって4歳年上に記載されている。万治元年(1658年)7月6日、49歳で没するとある。また、延由なのになぜ延次とされたか。父の延俊は、1万石を分封すると家臣の長澤市之亟に遺言したが、彼の機転により5,000石とされた。これは1万石の分封では本藩が立ち行かなくなることを案じてである。ここで3万石のうち、1万石を分知するということは常識では考えられず、豊臣国松だとすれば考えられる。分知が秘密裏に行われ、実際に許可されたのは寛文4年(1664年)だった。

11:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 14:13:42.22 ID:.net
豊の国で、
豊臣家(木下家)を残したのは、
なかなかのユーモア。

木下日足紋は旭日旗に似ているので、
大日本帝国は復活豊臣政権といっても良い。

毛利大公爵の一門で木下氏から養子迎えた大名家は、
ついでに復活小早川氏となれば完璧だった。

大勝利西軍。
16:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 19:21:43.42 ID:.net
ねね家系では浅野や杉原
秀吉家系では小出
一応大名として残れたんだから良かったじゃないか

江戸時代
吉良→高家 江戸城では徳川以外で最高官位の時代も
今川→高家 後に吉良も継ぐ
織田→大名と高家と旗本など
足利→喜連川温泉御所さま格

充分に人情あるだろw
17:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 20:19:25.62 ID:.net
徳川さんは名家好き
没落した大名を旗本に取り立てて家名を存続させてる

没落大名の溜まり場である交代寄合、高家旗本を男爵にもしなかった薩長の方が冷たい
18:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 20:40:01.27 ID:.net
>>16 >>17 武田も大名になってないが、旗本はいるな。
19:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 21:51:14.40 ID:.net
高家や交代寄合や大身旗本は名門氏族も多い
京の堂上公家より家柄のバリエーション豊富かもしれない

薩長の爵位制度は薩摩長州多すぎて気品ゼロ
勲功といっても戊辰内戦で儲けただけ
20:日本@名無史さん:2016/04/19(火) 22:04:10.81 ID:.net
秀吉の直接の子孫ではないとはいえ、血筋としては完子の子孫が繁栄
しているし、徳川もこちらには手を出せなかったようなので完全に子孫
が絶えているわけではない。
ましてこちらは浅野家や摂関家にずっと続き、皇室まで続いた。
24:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 00:11:07.60 ID:.net
秀次娘と真田幸村の末裔は
秀次の旧姓三好を用い
三好氏を名乗った

これは豊家第二代関白の子孫だ
江戸時代に家も家系も残ってるぞ一応
25:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 00:35:37.06 ID:.net
>>24
秀次の娘が真田信繁の側室になったのって、何も確証のない話だが?
いくらなんでも流刑者の側室にならないだろう
28:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 01:51:48.13 ID:.net
>>25
たしか信繁が大坂城に行った時には同行せず、秀吉の姉の日秀の
保護を受けているんだがね。
26:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 00:43:43.51 ID:.net
それでなくとも本人の自称による系図は嘘が多いというのに
真田昌幸の妻が菊亭晴季の娘だと言ったり、
あの田舎もんの一族は、馬鹿なんじゃないか
教養がないからすぐそれとわかる嘘を平気で系図に書いたりする
28:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 01:51:48.13 ID:.net
>>26
そんな事言い出せば徳川家なんて源氏でもなくどこの馬の骨かもわからんの
に。詐称なんてどこの武家もやっとるだろ
36:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 18:45:38.04 ID:.net
安土桃山時代の真田の怪しい系図

・信幸の母が菊亭晴季の娘 ・・・ 嘘率99.9%
 (菊亭家の系図ではもちろん確認できない、身分的にもありえない)
 (本当は宇多頼忠の娘が30%、足軽大将遠山右馬助の娘率が60%)

・信幸の妻の小松殿が家康(秀忠)の養女・・・嘘率90%
 (家康(秀忠)の養女だと言ってるのは真田家だけ。書状や引き出物などもなし)
 (当時の真田は無位無官の国衆で、本多忠勝でも十分に格上なので養女の必要はない)

・信繁の妻が大谷吉継の娘・・・嘘率80%
 (大谷家の系図では確認できない)

・信繁の妻が豊臣秀次の娘・・・嘘率70%
 (証拠がないが、これについては秀次の娘が罪人の娘なので嘘ということも明確には言えない)
42:日本@名無史さん:2016/04/20(水) 22:41:46.32 ID:.net
現在日本で徳川を名乗っているのは約400家。
そのうちの過半は、北朝鮮の「徳川(トクチョン)市」出身者の子孫。
64:日本@名無史さん:2016/04/28(木) 01:20:43.31 ID:.net
徳川家康ブラックねた

幾多の窮地を助けてもらった
伯父水野信元を大樹寺にて
暗殺。
65:日本@名無史さん:2016/04/28(木) 03:00:56.50 ID:.net
最上義光「家康君、息子をよろしく」
徳川家康「うん、わかった。これ義親、ワシの近侍として仕えなさい」
最上義親「はい」

徳川家康「そちも13で元服よのう?よし、ワシの名前の”家”を与えよう。これから”家親”と名乗りなさい」
最上家親「はい」

徳川家康「これ家親、そちの弟の清水義親は未だに豊臣家と懇意にしておるそうじゃの?殺れ(ボソッ」
最上家親「はい」

もうめんどくさくなったw書くのやめるわ
70:日本@名無史さん:2016/05/03(火) 12:50:58.97 ID:.net
>>65
さすが徳川様だ!

一字拝領で家の字を与えるとは信頼されてた証拠だ
関ヶ原後、加増で最上は実高90万石だったとも。

秀次事件で豊臣から離れた最上が徳川様に付いたのも当然。

後の
最上騒動でも、温情で、一度は家中がまとまったら減封無しで済ませようとした徳川様。

結局、最上家は空中分解したが嫡流を大身旗本にして屋形号も許し、
分家を水戸藩家老の山野辺氏とした。

さすが徳川様は豊臣と違って温情味があるw
67:日本@名無史さん:2016/05/02(月) 21:44:51.79 ID:.net
家臣に恵まれたな
四天王や本多父子、伊奈とか
68:日本@名無史さん:2016/05/03(火) 06:00:14.34 ID:.net
>>67 秀吉と大違い。でも、秀長が家康より長生きしていれば、徳川幕府もなかったかもな。
71:日本@名無史さん:2016/05/03(火) 12:56:49.89 ID:.net
>>68
大和大納言秀長卿がいらっしゃったら、関が原も起きなかったろう。

秀長卿の希望通りに、秀長娘の婿に利発だったという秀長養子の丹羽仙丸を迎えて大和家を継がせればよかった。
(仙丸が相続した場合、藤堂の徳川接近も遅れた可能性が有る)

秀長卿は慈悲慈愛を持ちながらも、金儲けが旨かったので、
豊臣家は副収入でも覇商となっただろう。
藤堂 高吉(とうどう たかよし)は、江戸時代前期の武将。丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。母は杉若無心の娘。天正7年(1579年)、近江佐和山城で丹羽長秀の三男として生まれる。幼名は仙丸(せんまる)。天正10年(1582年)の織田信長の死後、羽柴秀吉が長秀を取り込むため、仙丸を秀吉の弟・秀長の養子として迎えた。このため、実子の無い秀長の後継ぎになるはずであったが、天正16年(1588年)に秀吉が自身と秀長の甥の秀保を秀長の後継ぎにしようとしたため、その話は消滅してしまった。しかし、後継ぎを仙丸にしようとしていた秀長は秀吉に反発し、秀吉と秀長の仲は険悪になってしまった。[要出典]そこで、当時秀長の家臣であった藤堂高虎が仙丸を養子としてもらい受けた。仙丸は従五位下宮内少輔に叙任され、名を高吉に改めた。文禄元年(1592年)の文禄の役において朝鮮半島に渡海し、武功を挙げた。文禄4年(1595年)、溝口秀勝の七女を娶るが数年で離縁し、その侍女の慶法院を側室に迎えている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍に与して活躍、伊予2万石を領した。高虎は実子に恵まれなかったため、養子として迎えた高吉を後継者にしようと考えていたが、慶長6年(1601年)に高虎に実子・高次が生まれると、その話も消滅したため、伊予を離れて高虎の家臣となった。高虎は高吉を疎んじて参勤交代に同伴しなかったという。慶長9年(1604年)、加藤嘉明と些細な騒動を起こしたため蟄居処分を受けたが、慶長11年(1606年)に許されて江戸城普請を務めた功績により、伊予今治城主(高虎の城代)に任じられ、1万石を加増、名張川の治水や城下町の発展に努めた。地元では現在でも名君と慕われているという。

75:日本@名無史さん:2016/05/03(火) 20:17:33.60 ID:.net
>>71 豊臣政権が続いて、あとどうなったろう?
83:日本@名無史さん:2016/05/04(水) 01:18:30.44 ID:.net
>>75
秀長の寿命によっては、
秀次の生存率が高くなるだろうな。

その場合、
実在しないという説もあるが近江は秀次派の六角義郷の領国だっただろう。
山形の最上もたぶん豊臣側。

関白秀次公は管領最上と侍所別当六角などの室町大名に囲まれて聚楽幕府となる。