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【早雲・氏綱・氏康】後北条氏スレッド其の一【氏政・氏直】

1:名無しさん:2014/03/29(土)12:59:38 ???
※後北条氏について語ろう

引用元
【早雲・氏綱・氏康】後北条氏スレッド其の一【氏政・氏直】
http://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396065578
2:名無しさん:2014/03/29(土)13:42:46 ???
早雲以外は凡庸だからな
3:名無しさん:2014/03/29(土)16:39:51 ???
>>2
氏綱、氏康は非凡だろう
氏政、氏直はお察し
4:名無しさん:2014/04/07(月)11:40:01 ???
氏政は信賞必罰を良く守り気前もよく
あの謙信にも対抗して北条の最大版図を築き上げた傑物
胡散臭い汁掛け飯のエピソードでDisられ過ぎている
5:名無しさん:2014/04/07(月)12:10:51 ???
だいたい、最近の評価では、
豊臣秀吉にだって臣従するつもりがあったらしいからな。
氏政。

でも、北条に関八州の大領土を持たせておきたくなかったことと、
家臣の猪俣が勝手な暴挙に出たことで口実を与えてしまった
6:名無しさん:2014/04/07(月)12:11:44 ???
小田原評定。
現代人が崇め奉る民主主義が如何にくだらない価値観か、あれを見ればよく解るな。
8:名無しさん:2014/04/08(火)03:34:20 ???
武田と同盟破綻して実家に帰される嫁さんに未練タラタラな人情派氏政
人間臭くて好き

黄梅院(おうばいいん(こうばいいん)、天文12年(1543年) - 永禄12年6月17日(1569年7月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。武田信玄と正室三条の方の長女。北条氏政の正室。武田義信は同母兄、武田勝頼は異母弟。

甲斐国の生まれ。今川氏・武田氏・後北条氏の甲相駿三国同盟のために、天文23年(1554年)12月、12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁ぐ。その輿入れ行列は、一万人もの供の者が付き従い、大変豪華であったと伝えられている。また、信玄は彼女のために弘治3年(1557年)の11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、子煩悩であったことが覗える。
弘治元年(1555年)に男子(名前不明、夭折)、その翌年末に女子を産む。永禄5年(1562年)に、嫡男氏直を出産し、8年に氏房、その後直重、直定を産むなど夫婦仲は良好であった。しかし、永禄11年(1568年)12月13日、父の信玄の駿河侵攻により三国同盟は破綻(兄・義信はこの過程で信玄に廃嫡される)。信玄の駿河侵攻に激怒した氏康は黄梅院を甲斐に送り返した。その際、氏政からは堪忍分として16貫文余を与えられている。
夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家したとも言われる。そして永禄12年(1569年)6月17日、27歳で死去した。
信玄は薄幸な長女のために、巨摩郡竜地(甲斐市竜地、旧双葉町)に菩提寺黄梅院を建立し葬り、墓碑が現存している。それから信玄は、元亀元年(1570年)の12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行い、大泉寺に黄梅院領として南湖郷(南アルプス市、旧甲西町)を寄進している。夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年(1571年)12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。

9:名無しさん:2014/04/08(火)08:08:32 ???
氏政には何人も側女がいたよ
10:名無しさん:2014/04/08(火)10:29:36 ???
>>9
いや、戦国大名だからそれは当たり前だけど

後日、信玄との同盟が復活した際には、真っ先に元妻の遺骨を貰い受けたって逸話が残ってるじゃん
29:名無しさん@おーぷん:2016/01/31(日)11:57:53 ???
>>9
正室から男子が生まれない時もあるしこの時代夭折することも多数
仮に側室が居なくて正室の嫡男が居ない場合
大体は縁戚関係にある家から養子取るしかなくなる
11:名無しさん:2014/04/08(火)22:16:38 ???
氏政は結構やり手だから
小田原攻めの時も、実は秀吉側の方が困っていて官兵衛に開城交渉させたところ、「100万石なきゃやだ」といいそれを官兵衛に呑ませたって言われてる
12:名無しさん:2014/04/09(水)16:33:29 ???
一時は関東地方を制覇しかけたのに意外に滅ぼした大名家が少ないのね
信長の野望とかならすぐに関東統一してしまうけど史実では里見も宇都宮も佐竹も倒せなかった
結城家も滅ぼしたわけじゃなかったし
13:名無しさん:2014/04/09(水)16:46:09 ???
里見は臣従させてたからな
14:名無しさん:2014/04/12(土)12:20:14 ???
徳川家康とまだ同盟を結んでた頃の話。
徳川家康が舶来のオレンジを北条氏政に送ったら、
『橙(だいだい)なんかが珍しいとは、徳川殿はよっぽど貧乏なのか?』
と哀れんで、どっさり橙を送り返したって話は本当ですか?
792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:04:22 ID:PnnGojQG
まとめスレを見ていたら載って居なかったのでカキコ
有名な話なのでみんなが避けてたのかも知れないが


1562年(永禄五年)四月、北条氏政はとある合戦に出陣し、
兵達の勇敢な声や昂揚振りでにぎわう陣内を家老の松田憲秀と
共に視察していた。そんなある時…氏政は北条鱗の軍旗がはためく
彼方に、地元の農民が田畑より麦を刈り入れている光景を見た。

北条氏政>>おぉ。農民が麦を刈り入れておるな!!。゚+.(゚∀゚*)。+.゚
松田憲秀>>左様でございますな。(゜、。 )ンナニメズラシイカ?

北条氏政>>よし!今日の昼飯はあれで決まりだな。刈り立ての麦だ、
      きっと旨いに違いないぞ!!  。゚+.(゚∀゚*)。+.゚ワクテカ

松田憲秀>>…は。ゎ、若殿…?(゜、。;)ソレハヒョットシテジョークデ(ry

そしてこの話を聞いたのが御隣は甲斐国の戦国大名、甲斐の虎こと武田信玄。
その浅墓な様子を大いに酷評したという。

武田信玄>>(*>ヮ<) ははは、流石は北条氏政は大身の御家のおぼっちゃまだなァオイ!!
      言うことが違うわ、そこに痺れんし憧れもせんが!!

      麦っていうのは刈り取って直ぐに喰えるものではない。
      刈り取ったあと扱いで、こなして、潤して、搗いて脱穀して、
      天日に干して乾かして、また搗いて、水に浸してから煮る。
      そこまで手間をかけて、ようやく喰えるものなのじゃからな。』

他にも、北条氏政の食に関するエピソードに橙とオレンジの話がある。

一時期同盟関係にあった徳川家康が、海外より渡来した南蛮人よりオレンジを
手に入れた。当時は蜜柑の品種改良が進んで居なかったため美味ではなく、
そもそも手に入れようにも紀伊でしか栽培法が確立していなかったため
大変な珍品である。もちろん、家康はこのオレンジを北条氏政にも贈った。

しかし北条氏政、これを受け取っても眉をひそめるばかり。
北条氏政>>…――なんじゃ、これは橙ではないか。こんな煮ても焼いても食えぬもの、
      家康殿は何がめずらしゅうて贈ってきたのだ?。゚+.(゚皿゚#)。+.゚
松田憲秀>>…。(そこで考えるんだ、橙じゃないから贈って来たんだと。)(゜、。;)

なお、橙(だいだい)というのは正月を祝う鏡餅のてっぺんに乗っている蜜柑に
良く似たアレのことである。見てくれは蜜柑に似ているが酸味と苦味がひどく
食用には向かないが、『代々』に音が通じるため縁起物として扱われていた。
大坂冬の陣で遊郭に出かけて失態を犯した薄田兼相が『橙武者』と罵られたのは
『正月の鏡餅飾りにしか使えないような奴』という侮蔑に通じている。

そんな北条氏政の、(北条家五代で最大勢力を為した君主なのにろくな逸話しかない)悪い話。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-59.html


15:名無しさん:2014/04/13(日)03:35:31 ???
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html

イメージとして、相模と伊豆あわせて50万石くらい達してたのかと思ってたが、
25万石程度だったみたい。

相模国単体で見る限り、武田信玄の甲斐国よりも石高が少ないんだって事を知って驚いた。
甲斐国って貧乏ってイメージあったんだけどな。
それ以上に北条家は貧乏だったのか……
17:名無しさん:2014/04/13(日)14:30:40 ???
>>15
相模はともかく伊豆では金も採れたし
石高=大名家の財力って訳じゃないよ
16:名無しさん:2014/04/13(日)14:23:41 ???
>>15
石高が少なくとも海が有るじゃない相模は
海運、海産物、塩の利益を忘れるな
17:名無しさん:2014/04/13(日)14:30:40 ???
>>16氏も言っているように
内陸の甲斐とは違い北条の領国は海に面しているから
そこからの利益も馬鹿にならない
27:名無しさん@おーぷん:2016/01/20(水)02:02:12 ???
>>17
伊豆金山は北条時代に見つかってないだろたしか
28:名無しさん@おーぷん:2016/01/20(水)02:03:50 ???
>>27
見つかってたはすまんな
18:名無しさん:2014/04/13(日)15:06:56 ???
なるほど。ありがとう。
石高、特に実高こそが、一番大事な指標だと思ってたよ。
19:名無しさん:2014/04/18(金)14:38:14 ???
北条って川越夜襲以来、野戦で勝利したことってあんま無い希ガス
なんで三船山合戦とか三増峠合戦とか負けてんの?
20:名無しさん:2014/04/18(金)15:16:01 ???
>>19
氏綱の時代と氏政の時代に国府台で小弓公方・里見・大田
相手に二度合戦して二度とも勝利してるし
神流川の戦いでも滝川一益の軍勢相手に勝利してるよ
21:名無しさん:2014/04/18(金)15:47:31 ???
>>20
(第二次)国府台合戦の場合、緒戦で負けてるよ
里見家がそれで浮かれて酒盛りになったところを夜襲して勝利した形

滝川一益の場合も、本能寺の変の混乱に便乗した形でしょ

真っ正面からぶつかった場合、大抵の戦は負けるのが北条なんだけど

第一次国府台合戦くらいまでか…
国府台合戦(こうのだいかっせん)は、戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦である。天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別される(「第二次合戦」は近年まで同じ国府台で行われた2回の合戦を同一の合戦のものと誤解されてきたために1個の合戦として扱われている)。







22:名無しさん:2014/04/18(金)15:49:36 ???
何よりも、滅亡寸前の里見家に、三船山合戦で敗退したのが不思議でならない
第二次国府台合戦で敗北したあと、里見家は家臣が裏切ったりしてボロボロ状態だったはずで、到底負ける戦いじゃないと思うんだが
三船山合戦(みふねやまかっせん)は、戦国時代の永禄10年8月23日(1567年9月25日)に上総国君津郡三船台(現在の千葉県君津市上湯江・富津市前久保)において、里見義弘と北条氏政の間で戦われた合戦。
第2次国府台合戦において里見氏は北条氏によって大敗を喫した。このため、北条氏は里見義弘の上総北部・西部の里見領を悉く占領し、東部においては里見氏の重臣であった正木時忠・土岐為頼を帰順させた。更に里見義弘の居城である佐貫城を奪うべく、三船山(現在の呼称は三舟山、君津・富津市境)の山麓にある三船台の地に砦を築き、北条家当主の氏政自らが総督した。里見義弘は三船台の砦ができた場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考えて三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。
これを知った北条氏政は太田氏資らとともに江戸湾を渡海して佐貫城攻撃に向かい、一方弟の北条氏照は原胤貞とともに別働隊を率いて市原郡方面から小櫃川沿いを遡って、義弘の父・里見義堯の居城である久留里城の攻撃に向かわせた。
これに対して義弘は正木憲時とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の軍を攻撃した。戦いは激闘となり、里見軍が北条軍を破った。この時、殿を務めた太田氏資が戦死した。また、北条・里見の両水軍の間でも激しい戦いが行われた。勢いに乗じた里見軍が北条軍を追撃する姿勢を見せたために、水陸から挟撃されることを恐れた北条軍は全軍を相模国に撤退させた。

24:名無しさん@おーぷん:2014/05/10(土)01:59:31 ???
>>22
戦術レベルではそういう事もあるという事だな
25:名無しさん@おーぷん:2015/04/05(日)16:01:44 ???
>>22

地形が入り組んでいる場所での戦いは、アウェイ不利。