真田丸時代の真田家周辺の国人衆について解説する

1:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)22:49:55 iLG
まずはドラマに登場した人物から

出浦盛清(昌相)1546-1623 現話で39歳
北信濃の国人衆、出浦城主。出浦氏は信濃村上氏の一族。
戦国時代において信濃の情勢は目まぐるしく変わり、盛清は村上義清→武田信玄・勝頼→森長可→真田昌幸・信之と次々と主君を変えた。
一時期は岩櫃城代を務めた他、忍城の戦いでも活躍した。本人は甲斐忍者の頭領と言われているけど「忍」城攻めと混同されているっていう説がある。
森長可家臣時代、国人衆の反発によって長可は撤退せざるを得なくなった。出浦・室賀・屋代以外の国人衆全員が長可を裏切ったため窮地に陥ったが盛清の献策で
「人質を盾にして撤退する」という方法で脱出に成功した。撤退に成功した後、盛清と長可は用済みとなった人質数十名の首を刎ねた。
真田家臣となった後も長可とは仲がよかったようで感謝の印として脇差を貰ったり、文通をしている。

真田家が滅亡しても森家へと新たな仕官先を考えていたのだろうか?
いずれにしても汚いな、流石忍者汚い

引用元
真田丸時代の真田家周辺の国人衆について解説する
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1458740995sanadamaru337
2:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)22:52:29 iLG

屋代正国 1520-1582 現時点で死亡
北信濃の国人衆。屋代家は信濃村上氏の一族。村上義清と共に武田信玄と戦うが、途中で寝返る。
甥の屋代勝永を養子として家督を継いだ。武田家滅亡後失意のうちに死去。
4:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:01:08 iLG
③室賀正武 ?-1584
北信濃の国人衆。室賀家は屋代家の分家。武田家滅亡後は森長可家臣となり、領内一揆の鎮圧に協力している。
(信濃時代での鬼武蔵さんの逸話は多くが室賀・屋代家の記録がソースだったりする)
天正壬午の乱では真田昌幸とは別行動をとり、上杉・徳川の間で揺れ動く。
当時の上田市は千曲川を挟んで北側が真田家、南側が室賀家が治めていた。方向性の違いから次第に両家は敵対。一度は戦にも発展したが和睦。
その後徳川家康から命を受けた鳥居元忠によって真田昌幸を暗殺するよう指示される。
しかし昌幸にこの計略がばれ、昌幸に「囲碁の大会をやる」という嘘の情報によって上田城に誘い出され謀殺される。
正武の死後、混乱に陥った室賀家は没落、甲斐に逃亡し真田昌幸は上田市の統一に成功する。
親戚や弟は信長の野望の常連だが正武本人はKOEIに忘れさられ(ry



ダマレコワッパ!ツギノゲームデトウジョウスルワ!
5:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:07:25 iLG
④矢沢頼綱 1518-1597 66歳
昌幸の叔父。矢沢家は諏訪家の一族であり、真田家とは敵対していたが、頼綱が養子になることで敵対が解消された。
(でも妻は矢沢家という訳でも無いからどうやって養子に入ったのかよく分かっていない・・・)
主家の海野家が滅亡してからは武田家に仕え活躍した。長篠の戦い以降昌幸家臣に
岩櫃城代も務めたが、有名なのは沼田城絶対守るマンだろう。
頼綱は北条からの使者を尽く惨殺するという暴挙で挑発。北条氏邦・猪俣邦憲率いる軍勢を籠城・野戦とありとあらゆる方法で打ち破る。
中には兵300で北条軍3500を「野戦で撃破」とかいう本多平八郎もビックリの猛将っぷりを発揮。
家宝である名槍「小松明」は夜に発光して北条軍を蹴散らしたとかいう伝説があるとかないとか
6:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:10:41 iLG
⑤矢沢頼康 1553-1626 31歳
別名三十郎、頼綱の嫡男。天正壬午の乱以降沼田城代となる。上田合戦では大久保忠世ら徳川勢相手に奮戦。
関ヶ原の戦いでは信之の部隊として、大坂の陣では信之の息子たちを補佐した。矢沢家は代々1000石の家老格として真田家を支えた。
7:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:15:39 iLG
⑥河原綱家 ?-?
真田家は海野家の支流であった河原家のその支流。海野家真田昌幸の母、恭雲院は河原家出身であることから、史実でも劇中並に発言力のあった女性だったかもしれない。
河原家は真田家の家老ナンバー2
関ヶ原のちょっと前、昌幸親子は西軍・東軍いずれにつくか密談を行うが、そんなことも知らない綱家が昌幸の部屋を除いたところ、激怒した昌幸がその場にあった下駄を綱家めがけて直球ストレートを投げ
顔面ヒットして綱家は前歯が折れたという逸話が残っている。
大河でもセリフこそないが、ドラマ内の端っこにいる。
8:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:22:49 iLG
⑦木曾義昌 1540-1595? 44歳
木曾谷の豪族。木曾家は信濃四大将の一格だったが、父の代に信玄に降伏。信玄の娘真理姫を娶る。
しかし、統治は常に武田家に口を挟まれ武田家に重いロイヤリティーを課されていた。重税と賦役に堪えかねた木曾谷住民を守るために織田家に離反、これがきっかけで武田家は滅亡の道を辿る。
しかしこの際、人質として出していた母と妻(真理姫ではなく若いころから支えた妻)娘を磔にされて殺される。その後も森長可に息子を人質にとられたり、その息子が息子が無能だったために彼の死後すぐに
木曾家は改易されたりふんだりけったり。三男は医者になって江戸に移り住んだ。木曾家の改易後、領地は木曾家臣山村・千村氏といった木曾家臣が治めた。
9:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:34:21 iLG
⑧小笠原秀政 1569-1615
小笠原秀政のご先祖は源頼朝の弓の先生であり、信長の野望ファンでは「小笠原と言えば弓!」というイメージがある。
小笠原家は祖父長時の時代に武田信玄に所領を追われ、諸国を放浪していたが父・貞慶が家康家臣となり、石川数正の元で成長する。
数正出奔後、秀政も一緒に出奔。しかし帰参して1589年松平信康の娘・登久と結婚。翌年3万石の大名になる。
徳川軍として小田原・宇都宮城守備と功を上げるが大坂夏の陣において毛利勝永の猛攻撃を受ける。家康の前に運ばれた時には虫の息で「信濃は・・・」と言い残して死亡した。
秀政本人はおろか嫡男、子供のころからの馬廻衆11人のうち10人までが戦死。残った一人も「ただ一人生き残ってしまうのは、死ぬよりも辛い」主君や同僚の墓を作り、妻に子供のことを頼むと数か月後に切腹した。
しかし、これが「父祖の勲功」として小笠原家は29万石の譜代大名に出世、後の御家騒動でも改易されずに幕末を迎えた。サンキューガッツ

ちなみに、都市伝説で「大坂の陣で家康は戦死した」というのがあるが、その後影武者を務めたのは秀政という設定らしい。
10:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:42:49 iLG
⑨諏訪頼水 1571-1641
諏訪藩初代藩主。諏訪家は武田勝頼の母の実家。諏訪家は信玄に一度滅ぼされるが、父の頼忠が本能寺の変以降軍事活動を行い元の領地に復帰する。
元服後徳川家臣となり1601年にはかつての諏訪氏の故郷であった高島2万7000石の大名になった。大坂の陣では息子頼恒が毛利勝永と戦う。
新田開発・年貢の軽減など諏訪藩の内政に尽力し、1616年からは改易された松平忠輝の面倒を見ている。1640年頼恒に家督を譲って隠居し72歳で死去した。
正義感が強い男で、例え諏訪家の菩提寺であっても殺人を犯した罪人を匿い、引き渡し拒否した際には寺を焼き罪人と僧侶を処刑している。(宗教によって法律が捻じ曲げられることはあってはならないということを示した)

諏訪家は実は武田家よりも身分が上だったりする
11:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:54:38 iLG
屋代秀正 1558-1623 26歳
室賀正武の弟。伯父・屋代正国の婿養子になる。主君が武田勝頼→森長可→山浦国清→徳川家康→徳川秀忠→徳川秀忠と藤堂高虎並に変えている。
村上義清の息子である山浦国清の副将として海津城を守るが、小笠原家大名復帰運動に協力し木曾義昌と戦う。兄・西村邦彦が真田昌幸に謀殺されたため、また上杉・徳川どちらとも外交活動を行っていることが景勝にばれたため、一族を引き連れて上杉家を出奔
以降は徳川家の武将となる。大坂の陣では徳川軍の旗奉行を務める。
旗持ちと言えば、戦には参加しないものの軍隊の前に立って旗を持ち、周囲にその威厳を知らしめる名誉職である。旗奉行はその総責任者のため室賀一族は徳川家で大変出世したと言える。
なお真田信繁によって三方が原以降倒されなかった馬印を倒される模様。
後に徳川家光の駿河大納言の家老となる。忠長の切腹、改易後は譜代大名として1万石を得た。
屋代家は孫の代に農民一揆(万石騒動)によって改易されるが正武・秀正の勲功から3000石の旗本として存続した。

ちなみに信長の野望では常連。能力値は平均50前後と有象無象の一人
12:名無しさん@おーぷん:2016/03/23(水)23:58:23 iLG
⑪室賀満俊 1560-1626 24歳
室賀正武の弟。正武の死後家督を継ぐ。兄・秀正と共に上杉家から徳川家に寝返り徳川家の武将として活躍。
大坂の陣でも家康摩下の旗本として真田信繁と戦う。家光の代には槍奉行に出世する。

ドラマでは正武の死によって話が一区切りするが、正武の死後も真田家と室賀家の因縁は続いていくのだ。もしかしたら最終回で正武の一族と信繁が槍を合わせる・・・というファンサービスがあるかもしれない。
13:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:02:05 Veh
⑫山浦国清 1546-1603 38歳
村上義清の息子。上杉謙信・景勝家臣として川中島の戦い・御館の乱で活躍。春日信達の死後海津城代として30年ぶりに村上家の領地に復帰。
上杉家のナンバー2となる(直江兼続よりも地位は上)上杉家の米沢移封の後出奔し、以後の消息は不明。
14:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:07:54 Veh
⑬高梨頼親 ?-?
北信濃の国人衆・高梨氏の一族。父・高梨政頼は信玄の侵攻によって所領を失い、謙信の庇護を受ける。
その後川中島・御館の乱・天正壬午の乱・朝鮮出兵などに従軍したが1597年突然改易される。この時に斎藤朝信の息子や柿崎景家の孫と一緒に改易される。
理由はよく分かっていないが、1624年頼親が再び上杉家に復帰しているところを見ると、直江兼続に政争で負けたのではないのだろうか?
最終的に高梨家は幕末まで米沢藩主として続いた。
15:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:20:06 Veh
⑭真田信尹 ?-1632
真田幸隆の四男。昌幸は双子の兄と言われている。
頭脳派のイメージがあるが、若いころは武田勝頼の槍奉行として活躍。また北条綱成と戦い1度は勝利するなど知勇兼備の将だった。
真田昌幸と示し合わせたのか、それとも昌幸についていけなくなったのか上田城の戦い前後で徳川家に仕えている。その後徳川と真田の間を取り持つ仕事をしているため、前者の可能性が高い。
真田の血が残るように上田城の戦いに先立って兄弟で別れたのかもしれない。
徳川家 5000石 → 蒲生家 4000石 → 徳川家 5200石と徳川家の外交官として活躍。江戸城の無血開城や甥の信繁に対して10万石で豊臣方から寝返るように説得している。
信繁の首実検をしたのも信尹と言われている。

1万石の打診があったが、断っている。1万石になると大名格になり参勤交代の義務が発生する。加えて幕府直参の旗本であるため実は待遇としては5000石の方が良かったりする。
分かりにくいと思う人は独立して零細会社の社長になるのと、大企業の部長として働くのとどっちがキツいか想像してみよう
16:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:28:27 Veh
⑮原貞胤 1557-? 27歳
武田二十四将・原昌胤の3男。原虎胤とは別の一族らしい。兄が高天神城の戦いで戦死したため家督を継ぐ。
真田昌幸と共に新府城の築城に従事した。武田家の滅亡後は徳川家臣となる。大坂の陣では信尹と共に信繁の首実検を行った。

冬の陣の和議の後、信繁・真田家から小山田茂誠・矢沢頼康と共に真田家の同窓会として酒宴を開いた。
その際に信繁が「この和議で豊臣の滅亡は決まった。どうせ早ければ来年にもまた戦が起こり私は死ぬだろう。武名を誇るために豊臣方に付いたのだから討ち死には本命だが息子の大助が私の後を追うと言っている。まだ15の大助が戦で討ち死にすると思うと不憫でならない」
と号泣する場面があったという。
17:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:34:52 Veh
⑯小山田信茂 1540-1582 現時点で死亡
甲斐の国人衆。甲斐東部を治めた国人衆で武田譜代衆。天目山の戦いで土壇場で勝頼を裏切り、武田家は滅亡する。
小山田一族はそもそも武田家と同盟関係であったため家臣という考えは無かった。しかし、周りから見ればただ「命惜しさに主君を裏切った不忠者」でしかない。
この行為から信茂は信忠によって咎を攻められ甲斐善光寺で処刑

小山田家は「族滅」、孫娘一人を除いて処刑された。(赤子であった孫娘は信忠の妻・松姫に匿われ無事だった)
19:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)00:44:19 Veh
⑰小山田茂誠 1562-1637 22歳
小山田信茂の家臣であり、父は高遠城で森長可相手に討死。小山田一族処刑の手から逃れ、北条→真田と主君を変える。
信茂の家臣ではあったが、昌幸の長女「村松殿」の夫であること(一門衆である)、小山田信茂とは別の一族であると主張したことから罪を問われなかった。
しかし信茂との確執に悩んだのだろうか?「重」誠と名前を替え、息子も小山田姓を返上し「小野」と名乗るなど小山田信茂との違いをアピールしている。
真田信之の家老として活躍。大坂の陣では信之に代わって真田軍の総責任者として従軍した。真田信繁が最後に出した手紙は茂誠・村松殿夫妻に宛てた手紙だという。

信長の野望にも登場せず、戦国大戦でも最近追加された無名の将だが「やる夫が真田信之になるようです」(未完のまま打ち切り)では信之の目付役として2008年に登場している。おそらくこれが歴史物語史上最も古い茂誠かもしれない
20:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)01:17:14 Veh
⑱鈴木重則 1547-1589 37歳
名胡桃城主。名胡桃城は昌幸が沼田城攻略の際に前線基地として築いた城。1589年惣無事令を破った猪俣邦憲によって名胡桃城を落とされてしまう。
若い時から昌幸を苦難を共に過ごした自身の城を落とされたことに対して重則は憤死する。しかしこの事件ですらも後に小田原征伐の口実という昌幸の謀略であった・・・
目的のためなら自身の部下ですら捨て駒にする昌幸の恐ろしさが垣間見える事件である。

⑲鈴木忠重 1574-1658 10歳
鈴木重則の嫡男。名胡桃城が落城した際には母と共に北条軍の捕虜になる。19歳の時に1度出奔し、柳生石舟斎の弟子になったらしい。
その後帰参するが、関ヶ原前後に再び出奔、一説には真田家の諜報官として働いていた可能性がある。(伊達成実や小幡景憲にも同様の説がある)
大坂の陣以降再び帰参し信之重臣として藩政に努めた。参勤交代で信之がいない間は忠重が藩政を主導した。
21:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)01:24:02 Veh
⑳猪俣邦憲 ?-1590
北条家臣。北条氏邦の副将格として上野侵攻の指揮官に抜擢される。沼田城を幾度となく攻めるが矢沢親子にフルボッコにされる。
1589年昌幸に倣って謀略によって名胡桃城を落とすがこれが惣無事令違反となって小田原征伐の発端になる。小田原の役後、磔にされた。
ここまで見ればとんでもない無能だが、多くの資料から北条氏政の指示を受けていたという可能性が高い。猪俣の暴走という事実は江戸時代に1万石に落とされた北条氏が自身は関係ないことを主張するために描かれた創作かもしれない。
大河では登場していないので、名胡桃城事件はカットか北条氏政の命令という風に描かれるだろう。
22:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)01:37:20 Veh
? 沼田景義 1552-1581
沼田城主。戦国大名沼田顕泰の庶子(側室の子)。沼田領は北は上杉謙信・南は北条氏康との緩衝地帯としてうまく勢力を拡大できなかった。
御家騒動が起こり家臣によって親子共々追放される。由良氏の後援を受け挙兵、沼田奪還を目指した。しかし同じく沼田を狙う真田昌幸によって謀殺される。
これによって沼田氏は滅亡・断絶する。津軽家の家老・沼田祐光は一族と言われているがはっきりしない。

?金子泰清 ?-?
沼田景義の伯父。御家騒動以降、沼田家は北条の影響を激しく受ける。初めは景義を当主に据えるため正統な後継者であった朝憲を謀殺するが、真田昌幸・矢沢頼綱との戦いに敗れて
講和条件として「沼田景義の謀殺」を出された。沼田家名を守るため景義を謀殺するが、約束は反故にされ昌幸によって「不忠者」として追放されたとも処刑されたとも言われている。
自身の手は一切使わずに沼田一族を殲滅したことから真田昌幸最大の畜生エピソードかもしれない。宇喜多直家もびっくり
23:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)01:55:20 Veh
主要な国人衆
高梨家:北信濃の国人衆、後に上杉家臣となる。高梨内記は一族とされているが、おそらく真田家の主張であって嘘だろう。もしかしたら高梨家を滅ぼして内記に継がせる予定だったのかもしれない
村上家:北信濃の大名。義清は槍衾や捨てがまりによって武田信玄を3度打ち破った。
小笠原家:北信濃の大名。信濃の大名・国人衆ではナンバーツーの勢力を誇る。後に徳川譜代家臣に
屋代家(室賀家):信濃の国人衆。小県の国衆として真田家と争い続けた。
依田家:信濃の国人衆。天正壬午の乱において徳川に与し信濃平定に貢献。しかし息子の代にスキャンダルを起こし改易されてしまう。
小幡家:上野の国人衆。長野家臣、武田家臣、徳川家臣と戦乱の世に置いて次々と主君を変えた。
木曾家:西信濃の国人衆。木曾義昌の代に全盛期を迎えるが息子の代に改易。
諏訪家:信濃の国人衆。一度は滅亡するが、最終的に譜代大名に昇格。諏訪頼重・頼忠・頼水・頼恒の諏訪4代の歴史は真田家よりもよっぽど「真田丸」している
高遠家:信濃の国人衆。弱体化した諏訪家を乗っ取ろうしたが、諏訪勝頼ら諏訪家に返り討ちにされ滅亡
海野家:信濃の大名。真田家のかつての主君。海野平決戦で敗北し滅亡。
沼田家:上野の大名。真田昌幸によって滅ぼされる。
小山田家:甲斐の国人衆。信茂系は滅亡するが、茂誠の子孫は真田家臣として存続。
24:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)02:04:48 Veh
?依田信蕃 1548-1583
春日城主(佐久市付近)。依田氏は小笠原氏の支流と言われる。武田信玄・勝頼に仕えた。二俣城・田中城と2度にわたって家康相手に戦うがどちらも落城することなく持ちこたえ、講和にまでもつれ込ませるなど勇将であったことが伺える。
佐久市一帯を領有し、真田昌幸と連絡を情報交換を行いながら天正壬午の乱を戦った。その後徳川家康に属しゲリラ戦を用いて北条家に対抗。
その途中で戦死するが、信蕃の活躍は家康お信濃侵攻に大いに貢献した。
大河では昌幸・信繁によって小諸城を攻めたが、実際は信蕃との共同作戦だった。大河での依田家は室賀に与する小県の国衆という設定なのかもしれない。
25:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)02:22:37 Veh
ここからは真田丸には登場しないけどちょっと関係のある徳川勢の武将
①岡部正綱 1542-1584
岡部元信の弟。正綱は人質時代の家康の友人であり、岡部家は家族揃って駿府での家康の生活をサポートした。
今川家滅亡後武田家に使えるが、兄・元信が高天神城で戦死(援軍を出さず実質勝頼に見殺しにされた)すると武田家から離反して家康の家臣になる。
甲州征伐の後、平岩親吉と共に旧武田家臣の登用に奔走した。この勲功から岡部家は6万石の譜代大名になった。
旧武田家臣と徳川家臣との親睦を深めるため酒宴を頻繁に催していたため急性アルコール中毒が原因で亡くなったと言われる。
お酒にはほどほどに・・・

②岡部長盛 1568-1632 16歳
正綱の長男。1585年鳥居元忠に従軍し、上田城攻めで真田昌幸と戦う。家康の関東移封後1万2000石を与えられ後も次々と加増された。(最終的に5万石、さらに息子の代に6万石)
1615年大坂夏の陣にも参戦。武勇に優れた勇将であったことから「岡部の黒鬼」と称された。
26:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)02:49:01 Veh
③牧野康成 1555-1609 27歳
牛久保城主。父・成定は今川家臣だったが、父の死後家督争いが起こる。家康の後援を受け家督を継承したことから家康の家臣となる。
酒井忠次の娘を娶り、主要な合戦に参戦した。関ヶ原の戦いでは秀忠に属して上田城攻めに参加した。
秀忠の失態を自分の責任として庇い蟄居する。1604年処分が解かれ2万石の大名に復帰。後に牧野家は9万石の大名に栄転するなどたびたび加増されている。

④中山照守 1570-1634 14歳
1590年、真田昌幸らによって攻められた八王子城は城兵・婦女子はおろか籠城した百姓まで根切りにされる憂き目に遭う。この時城代を任された父・家範に感銘を受けた家康が300石で召し抱えた。
照守は馬術に長け、秀忠や家光の馬の先生として教授した。第二次上田城の戦いでは父の敵である昌幸の挑発にのって暴走、結果秀忠は昌幸に敗北する。
軍律違反もあり、上田七本槍に数えられた(実質晒し上げ)ものの、閑居処分になる。翌年復帰し、大坂の陣にも参戦、3500石の旗本となる。

⑤平岩親吉 1542-1612 42歳
家康の幼馴染にして人質時代からの忠臣。水野信元や加藤清正など暗殺に自信ニキで、自身を犠牲にした毒まんじゅうで清正を毒殺した逸話がある。
第一次上田城の戦いなど合戦もするが内政面で腕を発揮、最終的に犬山藩12万3000石の大名になる。晩年は御三家の義直を補佐した。
跡継ぎがいなかったため彼の代で平岩家が断絶、しかし統治は家臣が完全に移行する1617年まで続いた。

⑥小幡景憲 1572-1663 12歳
武田家臣小幡昌盛の息子。徳川に仕えたが、しばらくして出奔大坂の陣終了まで合戦には参加しつつ全国を放浪した。(全国の軍学を学ぶためと言われる)
大坂の陣の後は帰参し、徳川家の軍学である「甲州流軍学」を完成させ「甲陽軍鑑」も著した。

甲陽軍鑑は春日虎綱の作となっているが、春日家は1600年ごろに森長可の弟によって「族滅」させられ一人の子孫もいなかったため、「一族から文句言われる可能性がない」都合がよかったのだろう
実際他の武田四天王の子孫は徳川家臣になっている。勝頼のことをボロクソに書いているため、景憲の私情が入ってるようにも思われる。武田家滅ぼしたし
27:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)03:13:45 Veh
⑦井伊直孝 1590-1659 大坂の陣では25歳
井伊直政の次男にして「ひこにゃん」のモチーフ。「夜叉掃部」の異名を持つ井伊赤備えの継承者。
冬の陣の直孝はまだ未熟で真田丸の戦いで信繁の挑発に乗り自軍から500人の死者を出す大敗北を喫する。
捲土重来、大坂夏の陣においては木村重成・長宗我部盛親を撃破し、冬の陣での雪辱を遂げた。
直孝が毛利勝永に話をつけ秀頼が切腹する・・・というのが一般的な大坂の陣の講談
家綱の代まで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。

領地は譜代大名最高の30万石

⑧本多忠朝 1582-1615 33歳
本多忠勝の次男。大坂冬の陣では酒で二日酔いしたため豊臣方に敗北。家康に「お前なんか死んだ方がマシだ!」とまで言われる。
雪辱を果たそうと夏の陣では正面突入し奮戦するが命を捨てた毛利勝永の猛攻によって戦死。
小松姫が自身の息子に「どちらか死ねばよかったのに」と発言しているが、このような発言には弟である忠朝の死で思うところがあったのかもしれない。

⑨茶阿局 ?-1621
家康の側室。百姓出身で前夫が地侍に殺されたため、娘を連れて「敵を討ってほしい」家康に直訴する。家康はなぜか「その場で床を敷き」コイニハッテンシテ・・・
めでたく側室となった。(前夫の敵も探し出して無事首を刎ねた。)
阿茶局ほどではないものの聡明で筆まめだったため家康の公的文書の作成や寺同士の問題の仲裁に当たるなど政治面では徳川家臣に劣らない活躍をしている。
息子・忠輝の大名昇格とその家臣団の任命など忠勝や康政よりもはるかに国政に関わった。
藤堂高虎・本多正純・阿茶局と共に家康の臨終に立ち会い、死去後朝覚院と号した。

大河では山手殿が「百姓の娘と結婚するような馬鹿な話があるか」とあったが脱糞が成し遂げているんだからしょうがない
28:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)03:14:45 Veh
これで終了です。
まだまだこれが足りない!という声があったら解説します
29:名無しさん@おーぷん:2016/03/24(木)07:22:19 aoI
>>28
勉強になったわ

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