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細川忠興「今から簡単な質問をしまーす」

1:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:03:49 3MT
ウチの妻、美人だと思う?


引用元
細川忠興「今から簡単な質問をしまーす」
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1443863029
2:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:05:07 tiA
まあまあかな
3:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:07:15 LRd
>>2
忠興「まぁまぁとか中途半端な答いらんねん。死ね」ズバー
4:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:08:53 vWq
裏切り者の娘やん
5:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:10:50 LRd
>>4
忠興「は?そんな事美しさには関係ないやろ?死ね」ズバー
7:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:13:38 3MT
ちょっと目を離した隙にワイがやろうと思ってたことやってる奴いて草
8:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:14:27 LRd
>>7
スマンな。お詫びに庭師の仕事、斡旋しといたで
14:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:18:33 3MT
>>8
サンキューLRdニキ
おかげで庭仕事の合間にお玉様眺められますわ
16:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:21:30 Fyj
>>14
あ…
9:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:14:55 Oiv
玉てw猫かwww
12:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:17:30 LRd
>>9
忠興「島津みたいなキチガイと一緒にすんな。死ね」ズバー
11:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:16:41 5x0
誰やね
13:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:18:10 wy7
ぶっさwwwwwwワイんトコの愛ちゃんのが億倍美人やで
独眼竜で知られる伊達政宗。あるとき政宗が手に持った高価な茶器を眺めていた際、うっかり手を滑らせてしまいます。とっさに受け止めたために落とさずに済みましたが、なぜかその直後に政宗は茶器を床にたたきつけて割ってしまいます。いわく「茶わんを落とすことで慌ててしまった自分が腹立たしい」ということで、そんな茶わんは自分に必要ないとして割ったのだそうです。ちょっと意味が分かりません。伊達政宗に毛利元就…戦国武将の思わず引いてしまうエピソード - ライブドアニュース

18:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:30:36 wy7
mateで見たらLRdニキの表示が黒田で草
これも何かの縁やろし黒田と仲良うせいや
19:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:38:12 LRd
>>18
忠興「年貢返せ年貢返せ年貢返せ年貢返せ年貢返せ。黒田と仲良くする家臣は死ね」ズバー
慶長5年(1600年)、徳川家康から戦後の論功行賞で丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増となった。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。

20:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:44:29 5K7
こんばんは、後藤又兵衛です
26:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:15:52 LRd
忠興「珠の手料理は・・・最高やな!」

>>20
忠興「結局、旧主と戦う気概のない無能やんけ!殺したろ!」ズバー
21:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:49:01 0YJ
銃の名手がなんかいってますがどうします?
追い返しますか?
26:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:15:52 LRd
>>21
忠興「追い返さんでええぞ。ワイの部屋まで呼んだったり」メイトウヌキー
22:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)18:50:29 dnT
親父と仲良くせなあかんで
26:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:15:52 LRd
>>22
忠興「自分の趣味を教養するクソ親父は死んで、どうぞ」ズバー
23:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:06:57 PCA
恵まれた教養から放たれるクソみたいな自意識
26:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:15:52 LRd
>>23
忠興「無学の哀れな負け惜しみが聞こえるなぁ。それはそうと死ね」ズバー
24:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:08:14 GnW
キリシタンにならなきゃ(使命感)
26:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:15:52 LRd
>>24
忠興「珠を惑わす邪教徒は死ね」ズバー
25:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:11:40 Tk6
>>1
の質問の回答ってどれが正しいんや
すごく美しい方ですよね→顔をジロジロ見やがって!グサッ
知りません→俺の妻の美しさは有名なのに知らない筈はない嘘つくな!グサッ

「お会いしたことはございませんが、とてもお美しい方と伝え聞いております

でいいのか
28:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:26:49 LRd
>>25
この手のは何答えても殺されるのが様式美やからな・・・
忠興「憶測で美人やろとか失礼過ぎるわ!死ね」ズバー
27:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:20:00 vDs
一色から妹君救いだしたんですけどどうしましょう?
28:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:26:49 LRd
>>27
忠興「逆に聞くけど、俺の顔の傷どう思う?」
丹後攻略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵をみな殺しにするなど非常に残忍な手法も取った。一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也はそのことを恨み、戦後に兄に斬りかかったという逸話が存在する。右の額に投石で受けた傷、鼻に刃物で切り裂かれた傷があった。妹婿の一色義定を暗殺した後、一色残党から救い出した忠興の妹であり義定の妻である伊也に対面の席にて懐剣で襲われる。首に突き付けられた刀を間一髪のところでかわすが鼻を真一文字に切り裂かれる。額の傷は初陣の城攻めで一番乗りを果たして信長より感状をもらっており自慢にしていた。しかし、伊也の恨みのこもった鼻の傷が残って以降、大名の間では忠興の前で顔の傷のことを話題にするのはタブーとなった。
29:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:30:22 Tk6
>>28
時々ふと我に返って反省する感が忠興っぽいw
31:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:36:35 LRd
>>29
忠興「あんまり意識しとらんけどな。でも嬉しいから歌仙に会わせたるわ」カタナヌキー
30:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:32:59 0YJ
美人かもしれんが、殺された庭師の血を浴びた単着る人はどうかと
まぁ鬼にはまむしの女がお似合いやな
31:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:36:35 LRd
>>30
忠興「珠を蝮扱いする奴は問答無用で死ね」ズバー
また玉は大変な美人だったとされ、忠興はその美しさを他の者に見せないため、玉を家の奥にやり、外出も許さなかった。しかし二人が食事中、庭師が玉を見てしまい、それに対して忠興が激高、玉の姿を見た庭師を殺した。庭師の首を玉の前に置いたが、玉は平然と食事を進め、それを見た忠興が「首を前にしても平然としているとは、お前は蛇のような女だ」と言うと、「鬼のような夫には蛇のような女が似合いでしょう」と返したとされる。細川忠興 (ほそかわただおき)とは【ピクシブ百科事典】

32:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:42:43 Fzv
古今伝授のお蔭で助かったわい
34:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:46:44 LRd
>>32
忠興「武士なら武士らしく切腹しろ。それとも、俺が介錯しないとダメか?」ズバー
33:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:42:56 ues
37人目を手にかけたら歌仙で通じなくなるから斬ろうにも斬られへんやろうし、持久戦や!
やーいお前の嫁さん親父譲りのキンカ頭ー!
歌仙兼定 - 兼定(2代)作。細川忠興の佩刀。忠興がこの刀で家臣36人を斬った後、三十六歌仙にちなんで名付けた。この刀の拵(外装)は美的に優れた物で「歌仙拵」と呼ばれ、現在は永青文庫に貯蔵されている。

34:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:46:44 LRd
>>33
忠興「百人一首(ニッコリ) 珠をディスる奴はこの世に存在する価値もないわ」ズバー
35:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)19:47:38 7Yb
これからも、姉とは仲睦まじくお願いします


彡(;)(;)「流石に肉親なら…」
36:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)20:02:58 LRd
>>35
忠興「光慶くんかな?ワイが珠を裏切る訳ないやん!お前は謀反人の息子やから斬るけどな!」ズバー
明智 光慶(あけち みつよし)は、安土桃山時代の武将明智光秀の長男。異説が多く謎に包まれている光秀の家族のなかで、十五郎は考証的に実在を推認できる男児で、光秀の書状など史料に表記がある。通説では十五郎を光慶のこととするが、光慶は『明智軍記』に登場する名前であり、同記では名を十兵衛光慶とすることから、光慶の諱も正しくないとの説もある。光慶が歴史に登場するのは、光秀による丹波国・亀山城(京都府亀岡市)の築城前後であり、初陣の記録もなく、目立った活動や功績は明らかではない。天正10年5月28日に催された光秀主催の西之坊威徳院連歌(愛宕百韻)において、光慶の名が見られ、これは光慶が結句を詠んだことになっている。本能寺の変の前後の行動は2説があり、亀山城に在城していて変の一報を聞き、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したとする説。変の前から近江国・坂本城(滋賀県大津市)にいて、山崎の戦いで父光秀が敗走中に討たれると、帰還した明智秀満が守る坂本城は中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、落城の際に他の一族と共に自害したとする説がある。
37:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)20:06:48 Fzv
利休「ここだけの話、三斎才能ないで」
38:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)20:10:50 LRd
>>37
忠興「またまた~宗匠は冗談が上手いんですから。宗匠の茶の湯を受け継げるのは俺位しかいないじゃないですか~」
39:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)20:28:33 Oiv
石田三成「ワイな三斎と仲良くなりたいねん…ほら、お前の大好きな柿やで食えや(ポン)」
40:名無しさん@おーぷん:2015/10/03(土)20:30:18 LRd
>>39
忠興「TPOも弁えん馬鹿と仲良くする必要はないんだよなぁ・・・。その柿はお前が食え」ポイー

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/04(日) 01:27:30 ID:+xI16PLc
柿と三成と忠興

石田三成と細川忠興は、仲が悪かった。当の石田三成自身が
「幾らなんでも仲悪すぎじゃね?」と思うほど悪かった。

そこで三成、殊勝にもこう思い立った。「そうだ!仲直りをしよう!」

三成は前田玄以に仲介をしてもらい、忠興と一席を設けて仲直りをすることとなった。

さて、その席でのこと。
忠興が先に着座していると、三成が入ってきた。手に盆を持って。
その盆には柿が載せてあった。

そして仲直りの挨拶もせず、おもむろにその盆を忠興の前に置き

「越中守は柿が好物だと聞いたので、持参いたした。それがしのことは気にせず、食して頂きたい。」


忠興は真っ赤になって怒って出て行った。
残されたのは、何で出て行ったのかまるで解ってない三成と、あまりの三成の行為に頭痛がしてきた
前田玄以であった。
柿と三成と忠興・悪い話 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
41:名無しさん@おーぷん:2015/10/04(日)01:13:20 cnp
基本的に偏愛的な教養人なんだけど、時たまに素に戻ったりコンプレックス爆発させるのが忠興様クオリティ
42:名無しさん@おーぷん:2015/10/04(日)01:20:15 cmx
親父に勘当されたから御爺上に養って貰うンゴwww
細川 忠隆(ほそかわ ただたか)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。細川忠興の長男。
文武に優れ、祖父・細川幽斎にも可愛がられていた。

慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫のいる隣の宇喜多屋敷に逃れた。
しかし、10月になって妻の千世が大坂玉造屋敷から逃れたことを咎められ、父の忠興から妻を離縁して千世の兄・前田利長のもとへ追い払うように命じられた。忠隆は千世との離縁に納得せず、彼女をかばって前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、ガラシャを失った忠興の怒りを買い、新領地の豊前国に赴くことなく勘当された。さらに慶長9年(1604年)には廃嫡されてしまった。千世は前田利家の娘であったため、前田・細川の姻戚関係を徳川家は好ましく思っていなかった。忠興はこの際に千世を離縁して前田との関係を絶とうとしたが、忠隆が承知しなかったことが廃嫡の原因であると、現在では解釈されている。

忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られている。
廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の固有所領を持ち京都に隠居在住していた祖父・幽斎が支えた。また、幽斎の死後に遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。


寛永3年(1626年)、忠興は京都毘沙門町の利休聚楽第屋敷跡にある休無邸を訪問して孫にも初対面し、25年ぶりに休無の勘当を解いたが、休無はその後も京で暮らし続けた。
休無は親戚にも当たる公家衆と親しく、その京都で和歌書『愚問賢注』や能謠、茶の湯などに親しんでいる。また隠居料を扶持されるようになって以降、徐々に京都公家衆との能や茶の湯などの文化活動サロンの長老的存在となった。 後には、西園寺左大臣の岳父という立場から朝廷と細川藩を結ぶ役目もしたようである。京都の休無から弟の藩主・細川忠利宛の小倉城への手紙なども散見される。
寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解し、八代領6万石を与えるので熊本で住むように申し付けたが、休無は固辞して京都に帰った。
43:名無しさん@おーぷん:2015/10/04(日)03:15:05 H3n
弟が和歌を詠んで、それが上手くてブチ切れ事件もあったような…
さすがDQN四天王
44:名無しさん@おーぷん:2015/10/04(日)06:46:28 YIj
???「信長公討った奴のムスッメとかどんな顔しとるんや?ちょっと見せに聚楽第連れて来やんかい」
45:名無しさん@おーぷん:2015/10/04(日)07:25:56 H6d
視線を感じた!とりあえずズバーな忠興流石やな…
嫁と一緒に死ななかった息子の嫁にマジギレするし

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