Battle_of_Mikatagahara

足軽「武田が攻めてきました!」家康「あっ…そっかぁ…(池沼)」

1:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:24:41 mm3
ブリュリュリブリュッセル


引用元
足軽「武田が攻めてきました!」家康「あっ…そっかぁ…(池沼)」
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1433010281
2:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:25:50 DNo
焼き味噌だから(震え声)
3:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:31:37 HOW
信玄「青二才やしスルーでええやろ」
家康「シカトとか許さん!うりゃあぁ!突撃じゃー!」
で焼き味噌事件なイメージ
5:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:40:42 Xis
>>3
追ったらやられるかもしれんし追わなかったら織田がやられるかもしれんしで仕方ないと思いました(センゴク並感)
12:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:48:35 fKu
>>5
言うても信玄死ななきゃ美濃か尾張で決戦やし、織田さんサイドからしても三河兵は温存しといて欲しかったんとちゃうかなぁ
個人的には家康の若さが招いたことやと思っとるわ
7:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:46:50 0oV
徳川家康にまつわるちょっと悪い話の中でも有名なものに、三方ヶ原敗走時の脱糞の話がある。
概略としては次のようになる。

三方ヶ原で敗走した徳川家康は、山県昌景の軍勢に追い立てられ、
恐怖のあまりに馬上で脱糞をした。
浜松城について馬を下りた所で家臣の大久保忠世に発見され、
からかってくる忠世に対して「これは焼き味噌じゃ!」と返した。
8:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:47:11 0oV
この話は実は出典がわかっていない。
少なくとも三河物語や松平記、徳川実紀や朝野旧聞ホウ藁等には書かれていない話であり、
明治以降の本である日本戦史や徳川家康(山路愛山著)、
徳川家康公伝等にも採録されていない話なのである。
山岡荘八の小説以前には見られないので、あるいは彼の創作かもしれない。
9:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:47:35 0oV
しかし、全くの事実無根の話ではなかった。学者の小楠和正先生がこの逸話について調査しており、
著書「検証・三方ヶ原合戦」で次のように述べている。

>家康の脱糞の話は、NHKの番組担当者からも、その話の出所を調べてほしいと
>頼まれていたのであるが、三方ヶ原合戦のことと思い込んでいたため、
>三方ヶ原合戦についての記述だけを調べていた。そのため、どの史料をみてもなかった。
>ところが、『改正三河後風土記』によると三方ヶ原合戦の前の一言坂の戦いの話とし、
>「是等皆妄説なる故削り去りぬ」とあった。
一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い。家康の退却戦である。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、二俣城の戦い(あるいはそれを含めて三方ヶ原の戦い)の前哨戦である。先行していた本多・内藤率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇する。偵察隊は刃を交えずすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まる。徳川軍の望まぬ形で開戦し、また兵の多寡もあり、家康は撤退を決める。本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤隊を逃すために殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。急戦で陣形もままならぬ本多隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊は容赦なく突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打ち破る。また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。これに対し、忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図る。これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多隊を見逃す。このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。こうして本多忠勝の働きによって家康率いる本隊は無事に天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を無事に完了させた。

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場した。これは小杉左近が書いたと言われる。「本多平八」は本多忠勝のことである。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。一言坂の戦い - Wikipedia

10:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:47:52 0oV
これに従って『改正三河後風土記』の13巻、「遠州一言坂軍の事」を読んでみると、
次のように記述されている。

原書に大久保忠佐神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、
糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。
是等皆妄説なる故に削り去りぬ。

(原書(三河後風土記)には、家康公が浜松に帰って来た時に大久保忠佐が
「馬の鞍壺に糞があるぞ。殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか」と罵った話を記している。
しかし、この日には家康公の御出馬はなかったので、お逃げなさるようなことはなかったはずだ。
これらは全て馬鹿げた話なので、削っておく。)
11:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:48:11 0oV
また原書三河後風土記によると、元の話は次のようになる。

家康公が浜松城に入り馬より下りた時、
大久保忠佐が家康公に聞えるように大声を挙げて、馬の口取りに向かって
「その馬の鞍壺を見てみろ。糞があるぞ!殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか!」
と悪口を言った。これは、家康公が本多忠勝の諌めによって一戦もせずに引き上げたのを
情けなく思い、かつ家康公が忠勝を我家の良将であると激賞したことに嫉妬したために、
このような悪口を言ったのである。
13:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:50:22 pd7
ファッ!?
じゃあワイらは戦場脱糞ニキのことをソースもなしに徳川家康って言ってたんか!
14:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:51:07 0oV
つまりビビって逃げたから脱糞したんじゃなく戦わずして逃げたけどうんこしてたんだよなぁ・・・
37:名無しさん@おーぷん:2015/06/14(日)04:38:17 GFv
>>14
不利だから戦わずして退いたら、
家臣が「ファッ!?何で戦いもしないで帰って来とるんやこいつ!?
ムカつくから糞漏らしって馬鹿にしてやるで!」
って私怨で主君を脱糞ニキに仕立て上げただけやで
15:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:52:28 yAH
殿様に舐めたこと言ったら殺されるだろ
どんだけだよ忠世
17:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:57:35 Xis
>>15
殿は俺のおかげで生きとるんやでーって言ったらいろいろあって殿が泣き出したり、関ヶ原からの帰り道に殿様の飯強奪する奴いたりするで
20:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)08:36:38 pB5
>>17
なにその面白エピソード。詳しく
26:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)09:29:27 HOW
>>20
関ヶ原の帰りのやつは島津さんじゃね
馬肉強奪かなんかされたやつ
28:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)12:57:30 Xis
>>26
そうそう、中馬重方って男の話やで
中馬 重方(ちゅうまん しげかた)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣(薩摩藩士)。桓武平氏伊地知氏の一族。また、島津家中で数多くの逸話を遺した人物でもある。
関ヶ原の敗戦後、島津の退き口で兵力を消耗した島津義弘一行は疲労と空腹のため、身動きが取れなくなってしまった。そこで馬を殺して食べることになり、その馬肉の塊を家臣が義弘に献上しようとして目の前に差し出したところ、重方は「義弘様の輿を担ぐ者が優先」と、その肉の塊を奪い取って食べてしまった。元和偃武が過ぎ、戦の無い平和な時代へとなりつつあった。関ヶ原の数少ない生き残りとなった重方に、その戦の話を聞こうと、鹿児島から若い藩士が訪ねてきた。重方は「関ヶ原と申すは…」と話し始めたものの、とめどもなく涙が溢れ出て、それから先、一言も語ることができなかった。若い藩士達は関ヶ原の話はこれまで何度も聞いたが、そのどれよりも優れていたと語り合った。

34:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:32:15 pB5
>>26 >>28
サンガツ。調べてみたら面白かったでー
「(敗走中の)殿はいざとなったら腹を切る力さえ残ってればええんや。栄養は(駕籠担いでる)お前らがとればええ」
って話やね。駕籠かつぎに与えず自分で食った説もあるみたいやけど
27:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)12:55:30 Xis
>>20
・泰平になった世の中、佐賀藩では鍋島勝茂の治世になっていたけど、隠居してたその親直茂(先代)の発案で鉄砲の訓練が行われる事になった。しかし斎藤用之助は空に向かって鉄砲を撃っただけ。
標的係りが「玉無し(弾痕不明)」と言ったところ、用之助は怒鳴り返した。
「土なんて撃ってられるか!ただ妙な癖で敵の胴中は外したことが無いんや!だから殿(直茂)はワイのおかげで生きとるんや!!」


勝茂「パッパ、こんな無礼もんその場で切り捨ててもよかったんやけどパッパお気に入りやから我慢してきたわ。どう処分するんや?」

直茂「腹を立てるのももっともや!!今すぐ用之助を訓練させた上司の腹切らせろや!!」

勝茂「ファッ!?」

直茂「若者と同じように歴戦の勇者の用之助を訓練させるってどういうことや!!確かにワイが生きとるのはあいつのおかげや!!早う、早う上司に腹切らせんか!」

勝茂「(なんやこいつ・・・)」

ちなみに葉隠って本のおはなしやで
30:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:18:00 pB5
>>27
サンガツ
ワイは現代人でよかったと思いました(小並感)
16:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:53:11 pd7
江戸時代ならともかく戦国時代は殿様の焼き魚勝手に食ったりしても割と許されるんだよなあ…
18:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)03:58:41 3dB
[朗報]家康公、脱糞ニキではなかった
19:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)04:47:06 abN
お前らの脱糞にかける情熱は異常
21:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)08:40:38 Em0
本田忠勝ですら一回家康を裏切ってる事実
25:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)09:24:43 Z0I
>>21
誰だかわからんが、裏切りそうな名前だ
22:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)08:50:38 1TJ
家康「岡崎城に戻ってきたンゴwww」
家臣「お寺側について徳川倒すンゴwww」
23:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)08:55:58 oCM
これ以降家康は仏教勢力にトラウマを持ち
政権をとってから寺に対して布教の禁止を命じた
その代り各寺には近くに住んでいる住人を強制的に入信させる檀家制度を作ってあげた

この結果寺と政府はズブズブの関係になり寺は村に対してやりたい放題をするようになった
24:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)09:23:35 Em0
>>23
その結果できたのがお彼岸とかお盆やからな

金儲けが目的ってはっきりわかんだね
31:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:21:43 4sq
家康「腹減ったー。婆さん、餅と茶を頂戴プリーズやで~。」

茶店のババア「はい、まいど!」

家康「あ~、美味かった。ごちそうs・・・あっ、武田軍追いかけてきよった!」
家康「と…とんずらー!」


家康「(;゚∀゚)=3ハァハァ…ここまで逃げてきたら、ダイジョブやろ。」

ドドドドドドド・・・
家康「ひぇっ!武田軍また来た!」

茶婆「グォラァァァァァッ!金払わんかいっ、味噌糞チョンマゲ狸!!!」

家康「ひぇぇぇぇぇぇぇえっ!!」


このエピソード作ったやつ、誰なんやろ?
32:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:24:31 Xis
>>31
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/小豆餅

面白いもんやなぁ
33:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:26:22 kp8
>>31
こんなん草生えるわ
35:名無しさん@おーぷん:2015/05/31(日)13:38:01 Xis
葉隠は面白いで
岩波の奴は古文体で旧漢字やから非常に読みづらいけど、中公クラシックスとやらの葉隠は読みやすいで
図書館で借りてみるのもオススメや
それと葉隠入門として隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり(未完)」は是非みんなに読んで欲しい
大好きな小説や
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。葉隠 - Wikipedia


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