北条が秀吉に臣従してたら
1:名無しさん@おーぷん:2016/09/15(木)21:24:20 Sti
秀吉死後は家康と5大老筆頭を争うくらいにはなれたの?
2:名無しさん@おーぷん:2016/09/15(木)22:29:48 AWW
家康の領地はどこになるんだ?
3:名無しさん@おーぷん:2016/09/15(木)22:51:56 Sti
三河のまま?
4:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)00:20:55 7Sa
小田原攻めがキャンセルだと伊達がどういうことになってたのか気になるな
5:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)05:44:58 0g9
秀吉が認めないだろ。
あんな大領土を維持したままの臣従なんて。
第一、最近の研究では、北条の側は臣従する意思が有ったが、秀吉が拒否って戦争になったらしい事が解ってきているそうだし。
北条側は、反秀吉派の筆頭の氏政が、上洛しようと準備を整えていたらしいし。
中央情勢に疎い東北地方の諸大名に、豊臣家の力を見せつける為にも、北条家は血祭りに上げられなければならなかった。
あんな大領土を維持したままの臣従なんて。
第一、最近の研究では、北条の側は臣従する意思が有ったが、秀吉が拒否って戦争になったらしい事が解ってきているそうだし。
北条側は、反秀吉派の筆頭の氏政が、上洛しようと準備を整えていたらしいし。
中央情勢に疎い東北地方の諸大名に、豊臣家の力を見せつける為にも、北条家は血祭りに上げられなければならなかった。
6:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)18:35:01 Fv3
>>5
徳川と北条の扱いの差は何に起因したんだろう
小牧長久手で手痛い目にあったとは言え、がちで押し切れば秀吉が徳川滅ぼすこともできたでしょ
徳川と北条の扱いの差は何に起因したんだろう
小牧長久手で手痛い目にあったとは言え、がちで押し切れば秀吉が徳川滅ぼすこともできたでしょ
7:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)20:09:07 0g9
>>6
家康を滅ぼすのはかなり時間かかったと思うけど。
東海道に加えて、甲斐国や信濃国のような山岳地帯までもが家康領土でしょ?
で、家康は北条と同盟を結んでいるし、この状況下では、東北地方の諸大名もどう動くか解らない。
毛利家とかの扱いを見てると、「百万石」くらいまでなら秀吉も認める許容範囲だったんじゃないの?
北条は、氏直の代には余裕で二百万石を突破してたから、到底許容出来なかったという訳で。
伊達も、葦名領土を併合して百万石を突破してたから没収されてるし、
さらに後の一揆煽動も加味されて、最盛期の半分近くにまで石高を落とされたよな。
(新田開発を繰り返して、結局江戸時代初頭には百万石の大領土に持ち直したけど)
家康を滅ぼすのはかなり時間かかったと思うけど。
東海道に加えて、甲斐国や信濃国のような山岳地帯までもが家康領土でしょ?
で、家康は北条と同盟を結んでいるし、この状況下では、東北地方の諸大名もどう動くか解らない。
毛利家とかの扱いを見てると、「百万石」くらいまでなら秀吉も認める許容範囲だったんじゃないの?
北条は、氏直の代には余裕で二百万石を突破してたから、到底許容出来なかったという訳で。
伊達も、葦名領土を併合して百万石を突破してたから没収されてるし、
さらに後の一揆煽動も加味されて、最盛期の半分近くにまで石高を落とされたよな。
(新田開発を繰り返して、結局江戸時代初頭には百万石の大領土に持ち直したけど)
8:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)20:46:17 Fv3
>>7
なるほどねぇ
いやなんでこんなこと思ったかっていうと、秀吉亡き後は徳川一強で天下が動いたけど
対抗馬として北条が残ってたらめっちゃ面白い話になってたろうなって
なるほどねぇ
いやなんでこんなこと思ったかっていうと、秀吉亡き後は徳川一強で天下が動いたけど
対抗馬として北条が残ってたらめっちゃ面白い話になってたろうなって
11:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:18:58 0g9
>>8
北条と徳川は姻戚関係に在る同盟国だよ?
恐らく、徳川の本国から遠く離れた九州か東北にすっ飛ばされ、
200万石を与えられて終わりだったんじゃないのかな?
北条と徳川は姻戚関係に在る同盟国だよ?
恐らく、徳川の本国から遠く離れた九州か東北にすっ飛ばされ、
200万石を与えられて終わりだったんじゃないのかな?
9:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)20:47:12 7Sa
家康が慎重だったってことなんだろうな
小山会議と小田原評定の違いかな?
小山会議と小田原評定の違いかな?
10:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:14:54 7Sa
とりあえず国内は平定されるわけで、大陸出兵時期が繰り上がるわけだよな?
秀次に関白を譲らず、明との交渉は家康に任せたらどういう結果になったんだろうか?
秀次に関白を譲らず、明との交渉は家康に任せたらどういう結果になったんだろうか?
13:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:31:11 0g9
>>10
秀吉としては、福島正則とか加藤清正とかの子飼いの武将に、
もしくは宇喜多秀家とか小早川秀秋とかの養子に大陸で大領土を与えたかった訳で、
まず、既に250万石の大領土を誇ってる家康に任せるとか有り得ないでしょ。
秀吉としては、福島正則とか加藤清正とかの子飼いの武将に、
もしくは宇喜多秀家とか小早川秀秋とかの養子に大陸で大領土を与えたかった訳で、
まず、既に250万石の大領土を誇ってる家康に任せるとか有り得ないでしょ。
12:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:24:08 0g9
>>10
そうかね?
もし北条征伐をやらなかったら、東北地方の諸大名が秀吉の実力を認めなかったと思うけど。
例えば、最近有名になってきた話として、石田三成の「忍城水攻め」が有るよな?
石田三成の「戦下手」を証明する根拠みたいに長年言われ続けてきたけど、
実際には秀吉が、反対する三成の意見をはねつけて強引に水攻めを強行させたと。
あれって、関東地方や東北地方の諸大名に、豊臣家の力を見せつける為のデモンストレーションでしょ?
あれとか、小田原城を十重二十重と囲む光景を目の当たりにしなかったら、東北地方の諸大名たちが臣従を決意したか甚だ疑問なんだけど。
そうかね?
もし北条征伐をやらなかったら、東北地方の諸大名が秀吉の実力を認めなかったと思うけど。
例えば、最近有名になってきた話として、石田三成の「忍城水攻め」が有るよな?
石田三成の「戦下手」を証明する根拠みたいに長年言われ続けてきたけど、
実際には秀吉が、反対する三成の意見をはねつけて強引に水攻めを強行させたと。
あれって、関東地方や東北地方の諸大名に、豊臣家の力を見せつける為のデモンストレーションでしょ?
あれとか、小田原城を十重二十重と囲む光景を目の当たりにしなかったら、東北地方の諸大名たちが臣従を決意したか甚だ疑問なんだけど。
14:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:33:01 7Sa
>>12
見せるだけならどこだっていいでしょ
大陸出兵をデモンストレーションにしたほうがもっと大規模にできる
見せるだけならどこだっていいでしょ
大陸出兵をデモンストレーションにしたほうがもっと大規模にできる
16:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:38:53 0g9
>>14
今みたいにインターネットも無ければ、電話もラジオもテレビも存在しない時代に、
海の向こう側でデモンストレーションを行って何の意味が有るのよ?
情報が伝わると思う?
それに人間は聞いた事よりも、己の目で見た事を信じる物だからねぇ。
朝鮮に実際に渡海しない限りデモンストレーションにはならんでしょ。
今みたいにインターネットも無ければ、電話もラジオもテレビも存在しない時代に、
海の向こう側でデモンストレーションを行って何の意味が有るのよ?
情報が伝わると思う?
それに人間は聞いた事よりも、己の目で見た事を信じる物だからねぇ。
朝鮮に実際に渡海しない限りデモンストレーションにはならんでしょ。
17:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:48:20 7Sa
>>16
そもそも小田原攻めだって行かなきゃわからないのは同じ
そもそも小田原攻めだって行かなきゃわからないのは同じ
15:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)21:36:33 0g9
それか、秀吉の養子扱いだった結城秀康辺りを朝鮮に配して、
家康に家臣団の半分くらいを朝鮮に送れとか命じて戦力を削ぐ事も出来ない訳じゃないけど。
結城秀康は家康よりも秀吉の方を慕ってたみたいだし。
秀吉が家康並みに狡猾だったら、そういう手も有ったかも知れない。
家康が実際、伊達政宗に仕掛けた罠がそれだったし。
関ヶ原の戦いで「百万石のお墨付き」を与えておきながら約束を反故にした事で怒った政宗を慰める為に、
東北地方から遠く離れた四国の宇和島に伊達家の分家を作らせてあげ、結果的に伊達家の戦力を削ぐ事に成功してるし。
家康に家臣団の半分くらいを朝鮮に送れとか命じて戦力を削ぐ事も出来ない訳じゃないけど。
結城秀康は家康よりも秀吉の方を慕ってたみたいだし。
秀吉が家康並みに狡猾だったら、そういう手も有ったかも知れない。
家康が実際、伊達政宗に仕掛けた罠がそれだったし。
関ヶ原の戦いで「百万石のお墨付き」を与えておきながら約束を反故にした事で怒った政宗を慰める為に、
東北地方から遠く離れた四国の宇和島に伊達家の分家を作らせてあげ、結果的に伊達家の戦力を削ぐ事に成功してるし。
18:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)22:35:10 0g9
陸路で歩いて行けるのと、
遠く海路を(しかも安全ではない海路を)行くのとでは苦労が違うのでは?
遠く海路を(しかも安全ではない海路を)行くのとでは苦労が違うのでは?
19:名無しさん@おーぷん:2016/09/16(金)23:31:39 7Sa
だからこそ動員力が凄いと言えるわけで
結局見返り次第だよな
気候的には東北の冬と比べてどうだったんだろ
結局見返り次第だよな
気候的には東北の冬と比べてどうだったんだろ
20:名無しさん@おーぷん:2016/09/17(土)12:12:40 nqg
>>19
朝鮮王朝の悪政続きで米が取れないから、寒さはともかく、補給が続かない。
実際、戦死者なんかより餓死者や、病死者の方が多かったんじゃなかったっけ?
朝鮮王朝の悪政続きで米が取れないから、寒さはともかく、補給が続かない。
実際、戦死者なんかより餓死者や、病死者の方が多かったんじゃなかったっけ?
21:名無しさん@おーぷん:2016/09/17(土)22:09:36 hEj
虎退治してる暇があったら小田原みたいな補給不要な拠点をどんどん作っていけばよかった気がする
23:名無しさん@おーぷん:2016/09/18(日)02:10:42 17O
コマ郡とか海を渡った難民が開拓したみたいな地名が東国には沢山あるわけだから
その辺ゆかりの人材掘り出してくればもっとマシな口実付けられたんじゃないだろうか?
その辺ゆかりの人材掘り出してくればもっとマシな口実付けられたんじゃないだろうか?
24:名無しさん@おーぷん:2016/09/18(日)14:54:04 sj3
この時代、「侵略=悪」なんて概念無いから、
口実なんか必要ないでしょ。
秀吉の頭の中では、台湾も琉球も朝鮮もシナも、
小田原征伐や九州征伐をするのと同レベルの次元であったという時代感覚だったという訳で。
実際そういう時代だったしね。
口実なんか必要ないでしょ。
秀吉の頭の中では、台湾も琉球も朝鮮もシナも、
小田原征伐や九州征伐をするのと同レベルの次元であったという時代感覚だったという訳で。
実際そういう時代だったしね。
26:名無しさん@おーぷん:2016/09/18(日)15:29:17 17O
>>24
いや、交渉の口実
そもそも私戦禁止に違反したという口実で征伐したり処分してるんじゃない?
いや、交渉の口実
そもそも私戦禁止に違反したという口実で征伐したり処分してるんじゃない?
27:名無しさん@おーぷん:2016/09/21(水)17:59:40 PRM
朝鮮出兵の300年後、日韓併合が行われる訳だが、
それを強行した初代朝鮮総督の寺内正毅は、朝鮮をその目で視察して、
「まるで鎌倉時代のようだ」
と述べたそうな。
農業一つ取っても雨乞い頼み。
雨が無ければ干ばつになり、雨が降りすぎれば洪水になる……
当然、人々の平均寿命も短く、20代で亡くなる者も多かった。
(鎌倉時代は、執権の北条家ですら30代で亡くなる者が多かった)
関連記事北条家が即効で豊臣の軍門に下ったなら北条氏政とかいう無能のエピソードで打線組んだwwwwwwwww北条氏そら滅亡するわな、秀吉容赦ねー!!島津が有能扱いされて北条が評価されない歴史それを強行した初代朝鮮総督の寺内正毅は、朝鮮をその目で視察して、
「まるで鎌倉時代のようだ」
と述べたそうな。
農業一つ取っても雨乞い頼み。
雨が無ければ干ばつになり、雨が降りすぎれば洪水になる……
当然、人々の平均寿命も短く、20代で亡くなる者も多かった。
(鎌倉時代は、執権の北条家ですら30代で亡くなる者が多かった)
コメント一覧
臣従させるためにデモンストレーション必要だったんじゃないかって主張なのに臣従後の話するのは草
狡猾なら北条の領土を半分家康にやればいいんだよ。これで旧領の取り合い発生よ。真田と北条の関係みたいになる
家康が秀吉についたりとか刻々と変わる状況の変化についてけなかったくせに実は臣従するつもりだったとか言ってもなあ。
判断遅いにもほどがあるだろ、滅びて当然。
その4家は毛利ちょかべ以外は黄色信号だったと思うわ
毛利、上杉、島津、長曽我部も全然違うが、なぜ一緒くたにして北条と比べたし
というか宇喜多でしょそこは
そもそも石高が理由で攻められたわけでもないし、徳川との婚姻とスレにまで、、、
というか毛利なんて北条の半分程度の石高ですし
こいつが余計な事しやがったのか
この中で毛利だけは特別扱いされてるが、他の三家と北条の明確な違いは支配領域の重要性だろう。関東なんて大昔から上方とは別の行政府として半独立扱いされる地域だったわけで、そんなところへ五代も続く家柄が当時としては異質ともいえる善政を敷いて領民を手なずけていたもんだから、その地域に深く根差した土着勢力みたいなのを嫌う豊臣政権の性格上、薩摩や土佐の田舎とは比べ物にならないほどの警戒感を抱かせる存在だったのは間違いない。
むろん徳川や伊達、上杉と同盟関係を結んで秀吉に対抗できる外交関係を構築していたという経緯もあるが、仮にそうした過去をうっちゃって豊臣政権に従ったとして、そのまま関東を差配させておく未来はあまり浮かばない。できれば徳川や上杉にやったように大規模な引越しをやらせたいけど、移転先も見当たらんし支配地の性格上、島津と同じくそう簡単に動かせる感じもしない。やはり北条は攻め滅ぼされるしか道はなかったかな。
抵抗がもうちょっとうまくいけば、大幅に減封はされるものの国持ち大名としてそこそこの領地をどこかに認められたかもしれないけど、それすら許されない完敗に持って行かれてしまった。
長宗我部、上杉が石高的に北条と比較出来ない
比較するなら九州をほぼ手中に納めた島津だろうか
その後すぐ死ぬけど
それが1万石なの?
ちょっと寂しいな
多少、時期は前後するかもしれんが、毛利なんて織田に五か国だか献上しようとするまで追い詰められていたのが、秀吉政権では分家や家臣(AKとか)の取り分含めたら元就時代よりむしろ増えて、石高の面では徳川に十分対抗しうるくらいまでもらってたでしょ。本家のトコだけ見るとかなり少ないように見えるけど。
上杉は相手が柴田だったこともあり後々秀吉と利害が一致したけど
同意。加えて言えば、北条の外交態度は事態をちゃんと呑み込めてない感がある。
wikipedia「北条氏政」、これを根拠とするけど、北条氏への上洛要請とその対応は以下の通り。
(氏政の上洛について1590年)『氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないこと』、
『家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。』
とある。
続く
続き
まず、北条が豊臣に「条件」を出すというのが不味い。この頃の秀吉は「天下人として命令」してるのであって「勢力差こそあるが同じ大名として交渉」している訳ではない。さらに言えば、「当主を人質として城下に置く」・「国替え命令に従う」などは臣従するならば当然飲まねばならない条件だ。待遇に関しても、家康を引き合いに出したのががさらに輪をかけてマズイ。
島津、長宗我部、佐々などの大名としての存続は秀吉の恩情であり、織田・徳川もその文脈上にあり、かつての旧主家とその同盟者だから重用しているという形で小牧長久手の敗戦を解決するデモンストレーションをしているのにそこに小牧長久手を通じて間接的に敵対・戦術的勝利はもぎ取るという天下人の立場に関わってくる戦に間接関与した、200万石を超える大封を持つ大名家が、「あいつ好待遇じゃん、(俺も勝利者の一人だから、織田家と関係深くは無いけど)同様に待遇改善してよ」と待遇改善の要求を「対等に」「交渉」しようとするのは、政権的にも認められるものではない。
「豊臣家には随いません。豊臣と北条・徳川・織田ラインは対等です。っていうか小牧長久手で勝ったじゃないですか。天下の対等な共同統治者ならまだしも一方的に不利な状況に置かれる臣下にはなりません。天下人も三部の遠慮をする天下大名衆の次席には織田・徳川・北条ラインの盟主である北条家を据えて下さい。毛利・上杉・佐竹は豊臣に下りましたよね?じゃあ、俺らの下風じゃないですか。俺らは勝ったんだし。」
関白様に対して臣従して当たり前の相手だな
北条は12月に上洛すると豊臣に伝えて上洛費用も調達していた。こじれたのは秀吉が11月上洛と勘違いしたとも言われていて10月の末に騒ぎ出しているのと、11月3日に名胡桃城事件が勃発し白紙にもどってしまうから。だから従うつもりが無いってのは間違いで従属もしている。
7月14日の氏邦への書状でも少人数で上洛する遅れるのはまずい、と北条氏政は認識していることがわかる。
実態は半島に異常に気を遣うんで
秀吉の研究はアンチ秀吉の結果しか発表できないのです・・・
秀吉が突っ切ったので批判されたも仕方ない気がする
これで豊臣恩顧の軍が疲弊して、秀吉が死んでしまい
尻拭いを家康がやり、関東で兵も無傷だったから
天下取りに動けたんだし
豊臣恩顧を明入りの為に九州に領地与えたのも
中央の争いに後れを取る原因になったし