
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因wwwwwwwwwww
1:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:33:29 09U
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因
『柴田合戦記』
・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆)
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという
意気込みである。
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。
『太閤記』
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。
盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。
『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。
『渡辺勘兵衛記』
・撤退戦で奇襲部隊は善戦。
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、
勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。
『柴田合戦記』
・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆)
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという
意気込みである。
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。
『太閤記』
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。
盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。
『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。
『渡辺勘兵衛記』
・撤退戦で奇襲部隊は善戦。
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、
勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。
2:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:34:10 09U
『一柳家記』
・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。
・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。
『江州余吾庄合戦覚書』
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。
『佐久間軍記』
・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。
・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。
各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。
・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。
・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。
『江州余吾庄合戦覚書』
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。
『佐久間軍記』
・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。
・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。
各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。
3:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:38:09 09U
衝撃だわ!?前田w隠蔽工作wしてまで佐久間盛政に濡れ衣を着せるw
4:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:39:48 09U
利長やってしまいましたなw自身と父親の敵前逃亡を家臣を使って隠蔽w
6:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:41:28 09U
利長じゃなく利常か!でもどちらにしろ前田はやってしまいましたなw
7:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:42:04 4iq
(そろそろやめとけやイッチ)
10:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:46:20 09U
前田利家=敵前逃亡
11:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:46:47 09U
前田利長=敵前逃亡
12:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:48:38 09U
鬼玄蕃?
13:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:49:05 09U
槍の又左=敵前逃亡
14:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:51:29 09U
佐久間盛政=戦国一の武将?
15:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:53:31 09U
鬼玄蕃=戦国一の武将・善政家
16:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:53:52 3hr
長いわ
17:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:54:18 09U
>>16全文読んだ?
18:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:56:59 09U
>>16要するに前田父子が敵前逃亡して柴田軍は敗北したってこと
19:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:59:22 rad
見抜けなかった鬼玄蕃()が無能ってことでFA?
21:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)21:59:50 09U
>>19見抜くこと誰にも不可能
22:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:00:39 uKr
何が戦国一の武将や
24:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:04:20 09U
>>22佐久間盛政伝説
朱功記録保持者第二位
温井景隆
三宅長盛
遊佐長員
中川清秀
計四人の朱功を記録
加賀一向一揆
越中一向一揆(鳥越城の戦いを勝利し勢いのままに越中一向一揆を潰す)
計2つの一向一揆を潰す。
なお約100年一向一揆の国を上手く治めた知略・政治力は卓抜したものがある?要するに善政家と武将として戦国一
朱功記録保持者第二位
温井景隆
三宅長盛
遊佐長員
中川清秀
計四人の朱功を記録
加賀一向一揆
越中一向一揆(鳥越城の戦いを勝利し勢いのままに越中一向一揆を潰す)
計2つの一向一揆を潰す。
なお約100年一向一揆の国を上手く治めた知略・政治力は卓抜したものがある?要するに善政家と武将として戦国一
23:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:01:35 09U
金森長近・不破勝光とか離脱敵前逃亡組は一緒に調略されてるから見抜くことは可能かもね…
25:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:06:16 09U
本願寺の牙城、加賀を平定して上手く治めた力量は凄すぎる
26:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:08:08 keK
温井景隆
三宅長盛
遊佐長員
なに土人倒したくらいで喜んでんねん
三宅長盛
遊佐長員
なに土人倒したくらいで喜んでんねん
27:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:08:50 09U
能登守護 畠山家の重臣たちだぞw
31:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:11:25 keK
>>27
上杉と織田の狭間で消えてったうんこやん?
上杉と織田の狭間で消えてったうんこやん?
33:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:13:37 09U
>>31温井景隆
三宅長盛
遊佐長員
このメンツは盛政軍の倍以上の兵力だった
三宅長盛
遊佐長員
このメンツは盛政軍の倍以上の兵力だった
28:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:09:30 Mz9
本当に名将なら前田父子が敵前逃亡して状態からでも逆転出来る
29:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:10:47 09U
>>28無理だろ
30:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:10:50 uKr
>>28
数の差は名将でも無理よね
数の差は名将でも無理よね
32:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:11:51 09U
いや言うても能登守護だからなw
34:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:14:23 09U
荒山合戦で温井景隆 三宅長盛 遊佐長員を討ち取った?
35:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:15:08 ZGy
エクスクラメーションマークうざい
37:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:15:29 09U
>>35すまない…
36:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:15:10 09U
しかも前田利家の救援に駆け付けての戦?
38:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:18:47 rad
なんて戦いや?
39:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:19:00 09U
>>38荒山合戦
40:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:20:15 rad
「荒山合戦記」では、温井・三宅兄弟が能登奪回を企てて、遊佐長員(ながかず)と共に、上杉景勝らの援兵などを率いて、
海路より6月23日(7月の説もあり)早朝に、氷見女良浦に着き、石動山に登った。
そして般若員快存(はんやいんかいぞん)・大宮坊立玄(おおみやぼうりゅうげん)・大和坊覚笑(やまとぼうかくしょう)・火宮坊らの率いる衆徒と合し、4千300の軍勢となった。
翌6月24日、石動山に近い荒山城(桝形山)に拠って、堡柵を構えようとした、とあります。それにより実質能登守護となっていた前田利家と対峙することとなりました。
海路より6月23日(7月の説もあり)早朝に、氷見女良浦に着き、石動山に登った。
そして般若員快存(はんやいんかいぞん)・大宮坊立玄(おおみやぼうりゅうげん)・大和坊覚笑(やまとぼうかくしょう)・火宮坊らの率いる衆徒と合し、4千300の軍勢となった。
翌6月24日、石動山に近い荒山城(桝形山)に拠って、堡柵を構えようとした、とあります。それにより実質能登守護となっていた前田利家と対峙することとなりました。
41:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:20:44 rad
利家は、石動山に向かい、かつ、尾山(金沢)城主・佐久間盛政、北ノ庄(福井)城主・柴田権六勝家に書状を送り加勢を請いました。
そして自分は先手を3000の兵をもって石動山に進み、
石動山と荒山の中間にある柴峠に陣を張り、石動山の温井景隆・三宅長盛兄弟の軍勢が、荒山に向かうところを急襲しました。
温井景隆・三宅長盛軍は、このため石動山と荒山の2つに分断されました。
この頃佐久間盛政(さくまもりまさ)は、2500人の兵を引き連れ、石動山の南麓の高畠村に陣取っていましたが、その知らせを聞き、直ちに荒山城を攻めました。
温井景隆・三宅長盛兄弟及び遊佐長員らは佐久間盛政の攻撃で敗死し、利家は、伊賀の倫組50余人に伽藍を放火させ、敵軍を破りました。
そして自分は先手を3000の兵をもって石動山に進み、
石動山と荒山の中間にある柴峠に陣を張り、石動山の温井景隆・三宅長盛兄弟の軍勢が、荒山に向かうところを急襲しました。
温井景隆・三宅長盛軍は、このため石動山と荒山の2つに分断されました。
この頃佐久間盛政(さくまもりまさ)は、2500人の兵を引き連れ、石動山の南麓の高畠村に陣取っていましたが、その知らせを聞き、直ちに荒山城を攻めました。
温井景隆・三宅長盛兄弟及び遊佐長員らは佐久間盛政の攻撃で敗死し、利家は、伊賀の倫組50余人に伽藍を放火させ、敵軍を破りました。
42:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:21:00 rad
言うほど倍以上か?
43:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:22:02 09U
>>42倍は記憶ちがい、悪いすまない
44:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:22:26 09U
でも相手側のほうが多勢
45:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:24:11 uKr
4300と5500やないか?多勢ではなくないか?
46:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:24:39 09U
いや相手側には上杉援軍あった
47:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:25:49 rad
不意を突かれた石動山衆徒と上杉勢は武具もとれぬまま壊滅した。これによって一山は火の海となり、上杉景勝が援軍として送った3000の軍勢は虻ヶ島あたりから火煙を眺望、そのまま越後へ撤退した
何もしてないやんけ!
何もしてないやんけ!
48:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:27:15 09U
>>47だから援軍くる前に叩き潰した
ちょっと待ってて良い情報がある
ちょっと待ってて良い情報がある
49:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:29:42 09U
荒山合戦における佐久間盛政の働きは、350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、盛政は前田利家に譲った。能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した。
『第九師団管古戦史』では、参考にした史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、盛政は前田利家に譲った。能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した。
50:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:31:37 09U
>>49これは佐久間盛政の戦略眼が凄まじく良かったことを物語る記述
51:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:32:25 09U
佐久間盛政は采配にも長けていた。
52:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:34:19 rad
すごいかすごくないかで言えばすごいとは思うけど
イッチの言うように超絶すごい感じはしないな
日本陸軍が褒めた武将なら他にもいそう(知らんけど)
イッチの言うように超絶すごい感じはしないな
日本陸軍が褒めた武将なら他にもいそう(知らんけど)
53:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:35:15 09U
>>52超絶とは言ってないけど戦国一の武将だと思うよ。
55:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:35:45 rad
>>53
えぇ…
えぇ…
57:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:36:45 09U
>>55引くなww
58:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:43:56 09U
佐久間盛政は有能?
59:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:46:35 09U
鬼玄蕃やN1
60:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:46:55 09U
佐久間盛政やN1
61:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:48:08 09U
ていうかいつの間にか盛政スレになってる!?
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因スレなのにw
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因スレなのにw
64:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:51:50 O0O
佐久間盛政なんて秀吉が引き返してくる時間読み間違えて勝家の撤退命令無視して敵陣にぐずぐず居座ってて思ったより早く秀吉が引き返してきたもんだから慌てて撤退するところを追撃されて柴田軍総崩れとなりそのまま北之庄まで追撃されて柴田家滅亡したんやないか
命令違反から主家を滅亡させたいわば愚将より悪い疫病神将やろなあ糞玄蕃は
命令違反から主家を滅亡させたいわば愚将より悪い疫病神将やろなあ糞玄蕃は
65:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:52:38 09U
>>64ちゃんとスレを最初から読め軟弱w
66:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)22:59:45 09U
>>64奇襲も成功してる撤退も成功してるんだよな…柴田勝政が撤退遅れて秀吉軍に攻撃されてそれを救援するため戻って秀吉軍と激戦、そんななか後詰めすべきの前田父子は敵前逃亡、勝政隊敗走→盛政隊敗走→柴田本陣に秀吉軍殺到→柴田軍壊滅 だからな明らかに敵前逃亡前田父子が敗因w
67:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:03:41 09U
敵前逃亡前田利家・利長父子が賤ヶ岳の戦いにおける柴田軍の敗因。
70:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:07:24 09U
そもそも前田父子が敵前逃亡してなかったら負けてなかったw
74:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:10:45 09U
要するに前田利家・利長父子の敵前逃亡により裏崩れを起こして敗走したんだよ…柴田軍は
75:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:12:25 09U
しかも柴田勝家率いる本軍も出っ張ってきてたし
76:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:12:31 Vry
丹羽長秀と滝川一益はここで燃え尽きた感がある
77:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:13:00 09U
>>滝川は神流川の戦いで終わった…
80:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:15:54 09U
丹羽は上手く秀吉に丸め込まれた感あるわw
81:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:19:28 09U
そろそろこのスレ終了かな?賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因についてなんかレスない皆さん?
82:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:22:11 Vry
猿の裏工作は戦の碁盤をひっくり返すほど上手いという事やろ
83:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:22:53 09U
>>82まぁ秀吉の交渉術は卓抜してるね?
84:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:26:26 uKr
戦略なき戦術は無力ってね
85:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:26:58 09U
>>84戦略はあっただろ十分?
86:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:27:37 09U
戦術もあったけどな。
87:名無しさん@おーぷん:2016/09/20(火)23:27:53 uKr
奈良なぜ負ける
104:名無しさん@おーぷん:2016/09/21(水)00:24:39 aBR
信長の野望での過小評価ぶりが酷いだろ!
統率 90 武勇 98 知略 90 政治 92 総合370
これぐらいだろ史実の活躍からみてみても!
統率 90 武勇 98 知略 90 政治 92 総合370
これぐらいだろ史実の活躍からみてみても!
105:名無しさん@おーぷん:2016/09/21(水)00:25:26 aBR
>>104盛政は絶対にこれぐらいの能力なはず
106:名無しさん@おーぷん:2016/09/21(水)00:29:23 aBR
しかも信長の野望の盛政の紹介に賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因を作った的なこと記されてるのが気に食わないな。信長の野望って前田あげだよな?
コメント一覧
なんか懐かしい気持ちになった
これは盛政ファンを装ったアンチですね……
丹羽が賤ヶ岳を死守したおかげで反転攻勢に出られた、みたいな印象なんだけど
ワロタw敵前(から後進に)逃亡の前田利家と敵前(に前進に)逃亡の島津義弘
真性厨二なのか、なにかしらの利益があるのか。
「佐久間の突出のせいで敗北」
史実はこれしかないのに。
勉強不足みたいだね君。
武勇は80後半あってもいいとは思うが政治90は流石に盛り過ぎやろ…盛政だけにな!(`・ω・´)=3
加賀を平定して約100年間一向一揆の国を治めた知略と政治力は卓抜してるでしょ。
百間堀作ったのも盛政だしな。
あるとすれば戦いの前だね、北之庄を本拠地にしたり、長浜城の守将の人選の間違いなどネ。
仮にその意見を通しても一揆の申し子顕如や伊達のまーくんですら政治知略片方しか90越えしてないから無理でねーの?
早雲や道灌みたいな隠しキャラ的なのは許す
戦国無双真田丸のスレでも見たぞ
織田旧臣同士の戦いから戦線離脱したことを叩かれるのか理解不能
同じ立場の佐々だって柴田と必ずしも連動してたわけじゃないのに
敵前逃亡するタイミングが悪すぎるからだよ。タイミング酷すぎる。敵前逃亡するくらいなら最初っから柴田軍に加わんなくても良いと思うんだよな。
利長じゃなく利常か!でもどちらにしろ前田はやってしまいましたなw
利常はまだ産まれておらん
たぶん「太閤記」が成立した時期が利常の時代だからじゃないかな。スレの流れを最初から見るとわかるよ。
前田親子は将軍家を除いた江戸時代の大名で最大の石高を領する加賀藩の礎を築いた
小早川秀秋は関ヶ原の功績で大幅に加増されたけど酒に溺れて早死にして家を断絶させた
簡潔に言えばきちんと子孫を残せたか残せなかったかの違い
昔からの与力連中すら裏切る柴田軍の対比ってイメージだな
盛政のイメージが悪くならんか心配だわ
いずれはばれちゃうんだなって思うよ
確かにな…隠蔽しても結果何百年後にはバレてるしなw
結局、盛政勝政が敗因じゃん。
ダサすぎ
日本陸軍の戦史研究チームから絶賛って印象操作としても強引すぎるな
柴田「う、うむ、そうだな!」
つって非武装平和主義に走って滅んだんじゃないの?
ワロタw大河ドラマに影響されすぎだろw
激同
秀吉殺して勝家が天下統一したのにね。
気持ち悪いな
勝家にそんな根性ないし
そもそも羽柴勢の方が倍以上多いから結局負けてるやろ
敗因は利家らだけど
史実を見ようなw前田利家・利長父子の敵前逃亡だぞw
この記事みてよくそんなこと言えるな…
生きるチャンスを与えられながら、それを生かさず一族を路頭に迷わせる自分に酔ったその行動こそ愚かだ
恩を仇で返すを体現した前田利家は凄いと思うよ。
柴田勝家本隊は動かないし、眼前には敗走中の友軍と羽柴本隊。
連携も無しに各個に砦を攻めてる柴田諸隊がその状況で踏みとどまるのは自殺行為でしかない。
ちなみに動かない柴田本隊は、そのまま敗走する佐久間と追撃する羽柴本隊に飲み込まれて壊滅、
勝家自身は影武者を置いて僅かな供回りを連れて逃げ帰った。
史実を勉強してくださいね。
いや完璧に前田父子が悪いだろ。決戦しようという時に敵前逃亡して悪くないわけないし玄蕃は前田が後詰してくれると思ってただろうしな。もしかしたら仙石秀久よりクズだぞ。
なんで功績や戦績が格下の伊達や顕如と比べるんだよww
結果は覆ったのでは?
大軍に賤ヶ岳を突破されて
真夜中に敵味方入り乱れて陣前に雪崩れ込まれたら、それこそ盛政でも
対処できないだろう。
時間かけると主要な人間が調略される
家臣ではないんだよな
本能寺で無理やり部下みたいな扱いになって周りが勝手にそう思ってただけ。
最初から利家は秀吉になびいてたし、本能寺後~合戦前に使者として何度も秀吉に会ってるんだから調略されててもしょうがないじゃん。
織田信長の足軽時代からの同僚でご近所さんで嫁同士も仲が良くて、苦労も発展も一緒にしてきた同僚と、
昔からの上司で特に褒美をくれるわけでもないのに、流れで部下みたいな扱いする厳しい人と比べてどうするよ。
戦線崩壊の原因は前田家の撤退だろうけど、撤退するしか両方に恩を返す方法はなかっただけだしな。
利家からしたら、喧嘩するなや。するなら巻き込むなや。って感じだろ。
それな