徳川将軍家って無能多過ぎない?

1:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:55:56 Ovr
15代もいるのに家康と吉宗以外有能なやつおらんやん


引用元
徳川将軍家って無能多過ぎない?
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1466578556 svg
2:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:56:18 ROr
家光「ワイがおるやん」
3:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:56:26 wSq
よ、よしみつ…
4:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:57:30 fhA
吉宗も有能かどうか怪しいもんやで
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされる。

5:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:13 SvW
綱吉は有能説あるやん
3代将軍・徳川家光の四男として江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ)。綱吉の行状については価値の低い史料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。
綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州の飢饉、元禄11年(1698年)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上)、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震・富士山噴火、および宝永5年(1708年)の京都大火などである。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた。

そして綱吉のもう一つの不運は、「水戸黄門」徳川光圀の存在である。光圀には生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、『水戸黄門』の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら『易経』を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある。

また、現代においての評価の低さはテレビドラマによるところが最も大きい。というのも綱吉がドラマに登場するのは基本的に『忠臣蔵』関連か『水戸黄門』関連のドラマのどちらかであることが多いためである(そのためか歴代徳川将軍の中でも知名度の高い部類に入る)。
『忠臣蔵』(赤穂事件)では大抵の場合、高家・吉良義央が浅野長矩へ悪態を見せる姿が描かれる。その結果、長矩にのみ切腹を命じて義央の罪を問わなかった綱吉には義央の悪態に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。このことも、綱吉の評価を実際以上に低めていると言える。
徳川綱吉 - Wikipedia

6:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:13 j2J
いろんな小さい問題は抱えとったけどあんだけ長いこと安定した時代が続いたんが既に凄いんやで
7:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:30 WvU
秀忠は有能でええんちゃう?
18:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:07:44 xPZ
>>7
秀忠「降伏するとか嘘ついて無駄な時間稼ぎした真田許さないンゴ、上田城攻めるンゴ」
側近「ほっといて関ヶ原行くべきでは」
昌幸「バーカバーカ、おたんこなす」
秀忠「真田絶対殺すンゴ!上田城攻めるンゴ!」
昌幸「バーカバーカ」
秀忠「あっ関ヶ原間に合わなくなるンゴ!もう真田は放置で移動するンゴ!」

家康「なんで徳川軍本隊が合戦に来ないんや…」
20:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:09:47 SvW
>>18
将軍としての能力の話してるのに別の話出すのはおかしい
23:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:10:51 7Xp
>>20
逸話じゃん
24:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:11:08 SvW
>>23
将軍就任前の話やろ
8:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:43 SvW
徳川秀忠の過小評価は異常
9:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:47 pX9
吉宗有能論とかイッチ年齢バレるで
吉カス綱吉見直しが現代やぞ
13:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:01:53 aLe
>>9
綱吉は朱子学奨励は認めるが有能かと言われたら違うと思う
新井白石からの雑なバトンパスを上手く処理したという点では吉宗有能やろ
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。

16:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:05:29 pX9
>>13
まぁ正直将軍どうこうよりその下の方が重要だよな
新田と水野とかいうレジェンド
10:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)15:58:58 sTx
生類憐れみの令が文治政治だなんだで
綱吉有能説を言う人いるけど
そこは違うだろと思ってる
11:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:00:53 pX9
>>10
正しくは前半生周りが有能で綱吉もそれに従っとったけど
水戸カスが綱吉煽りまくったせいで綱吉がガイジ化してみんながよく知っとるお犬公方になってしまったって感じやな
水戸黄門とかいう畜生アンド畜生畜生
12:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:01:46 q9U
家宣が文治政治の体現者やな
親藩から持ってきた将軍は皆有能
14:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:03:11 hwN
5~9代まで楽しめる『八代将軍吉宗』

綱吉=津川雅彦
家宣=細川俊之
家継=子役
吉宗=西田敏行
家重=中村梅雀
17:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:07:41 sfM
将軍はもう天皇みたいな扱いで政治のトップは老中や
19:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:08:33 ZVf
生類憐みの令なんていう法令は無いんやで
22:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:10:48 DD2
>>19
先述の通り、生類憐れみの令は複数のお触れに及ぶが、その流れは以下の通りである。
貞享4年(1687年)2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
貞享4年(1687年)4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
貞享4年(1687年)4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠流処分
貞享4年(1687年)6月26日:多々越甚大夫(旗本・秋田采女季品の家臣)が、徳川家綱の命日である5月8日に、吹矢で燕を撃ったため死罪。これに参加した同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。
元禄元年(1688年)5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
元禄元年(1688年)10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
元禄2年(1689年)2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
元禄2年(1689年)10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門
元禄4年(1691年)10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
元禄8年(1695年)5月23日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。住民は強制的に立ち退き
元禄8年(1695年)10月16日:鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじめ10人が切腹、1人が死罪。
元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
元禄13年(1700年):鰻、ドジョウの売買禁止

小分けやった
21:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:10:37 pX9
あと無能っていうなら徳川将軍じゃなくて御三家の方が大概なんだよなぁ
水戸紀州とかいうクズの家系
尾張は何してたか知らん すまんな
25:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:12:24 WvU
秀忠って将軍としては有能だったんちゃうんか?
武家諸法度作ったのって秀忠やろ?
27:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:14:13 aLe
>>25
せやね。作ったってよりは制度化やけど
28:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:18:51 fhA
将軍様とかお殿様なんて世継ぎを作ってなんぼやろ
というわけで家斉有能
徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。
御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。
安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、父と田沼意次の後継工作、並びに家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかったことから、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。
天明6年(1786年)家治(50歳)の急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。

他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老達がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。
天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった時期でもあった。
徳川家斉 - Wikipedia

30:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:35:27 pX9
>>28
幕府崩壊の原因作ったオットセイはNG
29:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:30:37 n62
家継と家重を再評価せな(錯乱
徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。
第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官した征夷大将軍である。

家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。
正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。死因は風邪が悪化したためといわれる(急性肺炎説が有力。)。享年8。満年齢では7歳に満たない死であった。
徳川家継 - Wikipedia

徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。
父・吉宗が将軍に就任することになると、同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服、それまでの徳川将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。発話の難に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中・松平乗邑によって廃嫡されかかった事もある。延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承は家重の長男・家治が父とは逆に非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。
大岡忠光は、権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。

家重の言語不明瞭は、脳性麻痺による言語障害とする説がある。
『徳川実紀』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」、「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、平穏を保ったと言われているのである。
その一方で、忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させていることから、井沢元彦は「人事能力は優れている」「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また、甲斐素直も障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、綱吉同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。
徳川家重 - Wikipedia

31:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:36:56 RO9
慶喜「江戸の町を破壊から守ったワイが有能じゃないわけないやん」
32:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:38:21 pX9
いや慶喜は普通に有能だろ
むしろ何を根拠に無能って言うのか知りたいわ
33:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:40:43 UOY
>>32
名前のダサさ
34:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:42:09 pX9
>>33
なんでや!字面はかっこええやろ!
家茂とかの方がダサイやろ!
35:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:47:22 3E3
慶喜は有能やな
ガチって志士とやりあってたら大変なことになってた
36:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:53:52 ynD
>>35
倒幕派も頑張れば倒せたけど外国の介入を気にして大政奉還したってマ?
39:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:58:25 pX9
>>36
陸軍はガチで崩壊しとったけど海軍は幕府の方が圧倒的に強かったんやで
だから世間で言われるほど幕府軍は無能っていうわけでもないんや
ただ大政奉還の時は普通に徳川家として新政府牛耳ろうとしてたんやで
戦争やる気なくしたんは鳥羽伏見の時やな
37:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:56:09 1mY
家継は何とも言えない
38:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)16:58:23 2JB
慶喜は大政奉還したるけど、どうせ徳川がおらな朝廷はなんもできんやろ、って舐めプしてただけちゃうか?

それで思いの外、強権的に出たから焦って戊辰戦争なんかになっちゃったんじゃん。結果的には有能だが無能の部類
40:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)17:02:23 pX9
>>38
慶喜の動き追ってみればわかるけど大政奉還から小御所会議までこいつの有能ぶりやばいで
慶喜が有能すぎて京都の会議で薩摩長州封じこめられかけてそれでビビッて「江戸炎上させるやで~」つって幕府挑発して
幕府軍に新政府軍攻撃させてこれは教育やろなぁっていう大義作って戊辰戦争起こしたんや
薩長があのまま何もしなかったら慶喜の政治力で普通に徳川が新政府にいた可能性が高かった
畜生薩摩だけど畜生薩摩のお陰で日本は近代化したからね仕方ないね
41:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)17:09:06 2JB
>>40
有能な人間から死んでいくんやね…
そんなんが東京都知事候補やったんやから
ワクワクするやで
42:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)17:17:27 pX9
>>41
なおクッソ長生きして大正2年まで生きて
カメラに狩猟に自転車に油絵など趣味にして
静岡の人々からケイキ様と親しまれて老後を過ごした模様
更に明治政府に害をなさないとみられてその有能さから政府より貴族院議員にも召集されるガチ有能
43:名無しさん@おーぷん:2016/06/22(水)17:17:55 ean
あの自分以外は馬鹿ばっかりみたいに思ってた勝海舟が生涯我が主君はこの人だと言ってた家茂公がいるンゴねえ

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