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戦国時代の戦って敵味方の区別どうやってつけてたの?

1:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)10:56:38 20g
大阪の陣とか日本全国から集まってるやん


引用元
戦国時代の戦って敵味方の区別どうやってつけてたの?
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1459734998
2:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)10:59:09 Wjv
背中に旗指物着けてんじゃん
3:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:00:15 ygH
見分けつくカラー的なものがあるんじゃね
5:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:01:37 TAp
馬印
6:侍◆Aol1cKk8dFXF:2016/04/04(月)11:02:24 rd2
鎧とか旗指物とか
7:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:02:50 VLY
袖に印を縫い付けとくとかあったと思う
北条氏は武具を色分けしてたとか
8:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:03:55 B2k
見分けつかずに同士討ちもあるんやで
大坂の陣では伊達隊が味方に射撃して、
途中で気がついたけどバレるのがイヤで
そのまま相手を全滅させた
9:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:04:38 p7l
>>8
ひどすぎる
10:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:07:28 B2k
>>9
まあ誤認じゃなくてワザとやったとか諸説あるけど、どっちにしろ政宗だから仕方ない
11:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)11:07:53 VLY
味方かと思ったら実は敵で本陣まで侵入してたなんてのもあるけどな

>>10
政宗なら仕方ないな
22:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)23:47:24 kG4
>>10
戦国立志伝だと
正宗「(もうどうにでもな~れ*゚゚・*+。)撃て」

って感じだった
23:名無しさん@おーぷん:2016/04/05(火)01:54:45 j1t
>>22
何その二本松義継と伊達輝宗をまとめて葬った感
25:名無しさん@おーぷん:2016/04/05(火)22:07:47 HTc
完全に敵味方を識別するのは難しいだろうね
想像だけど、馬印とかで大将とかの位置目立たせといて雑兵連中がその周りで戦う感じじゃないかな
同じ隊同士なら顔で識別できるだろうし

>>23
安定の政宗
12:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)12:47:43 MUH
>>8
関ヶ原の際の某所での実話
兵隊が足りないというので農村で兵士を出すようお上からお達しがあったんだが
いくさに出なくなって十年以上経っていた農民は、いくさに行くのを嫌がった
結局、村から農兵として出す事になったんだが
身長2メートルを超える村の若者が、味方の武将の首を間違えて刎ねてしまったw
13:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)18:50:38 B2k
>>12
初めて聞いた
戦国時代の農民怖いよね
14:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)19:18:49 MUH
>>13
12はお間抜け話として村に伝わってる奴
郡史が村史、どっちだったかを読んだ時に偶々書いてあった話
戦国時代は多くの地域で兵農未分離だから、農兵結構いたからね
15:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:21:18 YwY
戦国時代後期は完全に職業兵士だったらしいな
そりゃあ農民も戦の仕方忘れるわな
16:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:29:20 MUH
>>15
秀吉の時代だな
農村にいる地侍や農兵に対して、武士を続けたければ(近場の)城下町に移住しろ
そういった触書を出したらしい
これで兵農分離が進んだ
17:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:31:25 hBK
中国だと、黄巾党は黄色い布を付けて味方の目印とした。
あとは紅巾や眉を赤く塗った赤眉軍なんてのもいた。
18:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:37:34 B2k
戦場の霧って言うけど
敵味方の識別は重要だったんだろうね

現代戦でもあるくらいだもんね
19:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:43:03 MUH
小説武田信玄の三方ケ原の戦いでは、合言葉で敵味方の識別をつけるシーンが出てくる
20:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:45:34 iXu
関ヶ原とか訳わかんねぇよな
味方側で布陣してた奴にいきなり横っ腹刺されたり
絶対間違えて殺された奴多い
21:名無しさん@おーぷん:2016/04/04(月)20:47:51 B2k
勝った側でも味方とはぐれたら落ち武者狩りされたりしたんだろうなぁ
24:名無しさん@おーぷん:2016/04/05(火)02:22:04 K5s
背中の旗、あれを上司がみて功績とかつけてたらしいし。

戦国時代の城に籠城している兵士たちって栄養失調にならなかったの?

1:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:25:09 QfB
兵糧といっても米とか植物の茎とか、それくらいしかなかったんだろ?
それだけで何ヵ月も籠城してるとか何らかの病気になりそうで怖いな
2:■忍法帖【Lv=6,グリズリー,cEr】:2016/06/02(木)20:26:48 EKc
そういう攻め方はあるぞ
衛生環境に関しては時代が時代だからお察し
七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)は、天正4年(1576年)11月から天正5年(1577年)9月にかけての越後の上杉謙信軍と能登畠山家の重臣・長続連率いる畠山軍の能登七尾城での戦い。

この戦いで上杉軍が勝利し、能登は上杉家の支配下に入った。謙信は8月9日に織田軍の越前出兵を知り、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して救援を求める書状を送って織田軍の進軍妨害を求め、また石動山に本陣を置いて七尾城攻略を急いだ。

七尾城は堅城であったが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ。幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病で死去してしまった。窮した続連は小伊勢村の八郎右衛門に上杉軍に対して一揆を起こすように扇動した。ところが一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛兄弟らと結託して内応しようとしていた。もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。遊佐・温井らは9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。

9月15日、遊佐・温井・三宅らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族100余人はことごとく討たれてしまった。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入った。

3:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:28:01 QfB
>>2
食糧備蓄していても絶対生活習慣病とかなりまくってたろ
現代人の食生活でこの有り様やぞ
8:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:31:13 Wj9
>>3
栄養失調で生活習慣病…?
16:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:38:07 E2y
>>8
おそらく糖尿病とか脚気。
9:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:31:50 QfB
>>8
あ、栄養バランス片寄って生活習慣病になるって意味ね
10:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:33:10 Wj9
>>9
そんなことになる前に餓死するだろ
当時の日本人は玄米からほとんどの栄養を取っていたし
4:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:28:16 ray
籠城も過酷になると非常食用の鶏から庭に生えてるような草木まで食い尽くした後に餓死してった奴を食ったりなんて状況になったらしいぞ
5:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:28:53 4kj
江戸の市民でさえ白米ばっか食ってたから脚気になりまくったらしいからな
脚気
脚気(かっけ、英: beriberi)は、ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。

日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している。江戸時代の江戸では、精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめとした上層武士に脚気患者が多かった。将軍徳川家定は脚気が原因で死亡したとも言われている。
脚気は、元禄年間に一般の武士にも発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも大流行し、「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれた。領地では貧しく白米を食することのできなかった地方武士も、江戸勤番では体面上白米を主食としたため、江戸在住期間が長引くとこの病いに罹る例が多かった。経験的に米にかえて蕎麦(ビタミンB1を含む)を食べると、快復に向かうことが分かっていたため、漢方医学では療法として用いられていた。

江戸時代中期以降、江戸で蕎麦が流行した。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる。

日本の脚気史
日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない。しかし、『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されており、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。江戸時代に入ると、玄米に代わって白米を食べる習慣が広まり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。江戸を離れると快復に向かうこともあり、「江戸患い」と呼ばれた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。


明治になると陸軍軍人の職業病として国家的問題になった。明治6年に公布された徴兵令の目玉は、1日6合(江戸時代の「一人扶持」は1日5合だった)の白米を食べさせるという特典であったため、軍人に罹患者が多くなった。建軍期には海軍がイギリス、陸軍はフランス、後にドイツを範としたため、海軍は栄養由来説、陸軍はドイツの細菌説を取っていた。後に、陸軍軍医総監石黒忠悳と次の森鴎外が海軍の米食由来説を批判したため、陸軍は脚気の被害を多く受けたといわれ、鈴木梅太郎のオリザニン発見、さらにビタミンの発見までこの状況が続いた。陸軍が「白米6合」を止め、麦3割の麦飯兵食を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった。


歴史上の有名死亡者
豊臣秀吉(尿毒症説などもあり確定した死因ではない)
桜町天皇
徳川家定
徳川家茂
和宮
小松帯刀


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E6%B0%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%84%9A%E6%B0%97%E5%8F%B2#.E5.89.8D.E5.8F.B2

7:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:30:42 O69
>>5
だよなあ
6:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:29:35 NYz
秀吉の鳥取兵糧攻め
11:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:33:41 CRK
だから篭城してるところに死体やら糞尿固めたのやら投げ込んで衛生状態を悪化させたりしてた
12:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:34:04 7tX
何カ月も籠城するのは普通に補給があるよ
兵糧攻めと勘違いしてない?
13:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:34:30 4kj
井戸に毒流すとか普通にやるからなぁ廃城にする気だと
14:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:35:07 Bod
長期籠城戦なんて滅多にないけどな
大体篭城側が打って出て死ぬか
資源乏しくなって攻城側が撤退するか
救援が来るか
15:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:36:29 WRO
後詰を考えてない籠城はもはや策ではないんだよな
17:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:40:32 E2y
籠城したら、敵の戦死者の生首とか生肉とかを場内に投げ入れるバイオテロ戦法とかあったらしい。
18:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)20:43:36 pKD
籠城して無くてもなってた定期

あと戦国時代の城って割とあっさり落ちる時あるからなぁ
屋敷の周りを堀と土塁で囲っただけとかそんな城も多いし
19:名無しさん@おーぷん:2016/06/02(木)22:08:03 wF3
守備側の兵糧少なくなってくると
お粥を更に薄くした物とかで腹を満たしてたとか
援軍の当てがないのにする籠城=そこが最後の拠点か、飛び地だったり大軍に包囲されてて援軍が近寄れない時


引用元
戦国時代の城に籠城している兵士たちって栄養失調にならなかったの?
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1464866709

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