関ヶ原の戦いって・・・
1:日本@名無史さん:2015/03/12(木) 23:56:51.73 ID:.net
天下分け目とか言うけど、
徳川家康255万石 VS 石田三成19万石
まずこの時点で無理ゲーじゃね?
レベル10のスライムでレベル80のムドーに勝負を挑むようなもの
徳川家康255万石 VS 石田三成19万石
まずこの時点で無理ゲーじゃね?
レベル10のスライムでレベル80のムドーに勝負を挑むようなもの
2:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 01:00:08.12 ID:.net
実際はかなりギリギリだった
3:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 01:06:09.62 ID:.net
秀頼を親心的に指導する教育係の爺的家臣がいなかったのが全ての原因
本陣で座って拡声器やってるだけで恩顧の心は動くのに
本陣で座って拡声器やってるだけで恩顧の心は動くのに
5:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 02:51:53.06 ID:.net
総大将は三成じゃなくて毛利な
6:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 03:37:39.89 ID:.net
西軍は関ヶ原へ兵力の集中に失敗した。丹後に1万5千、大津に1万5千、大坂城に4万、伊勢に1万 全部無駄。
本来なら西軍の圧倒的勝利になるはずだったが、ならなかった。
本来なら西軍の圧倒的勝利になるはずだったが、ならなかった。
64:日本@名無史さん:2016/12/25(日) 19:38:26.91 ID:.net
>>6に尽きる。
東軍も戦力の集中に失敗してるんだが、家康の判断で秀忠軍を待たずに攻めたのがよかった。
この時点で西軍の方が戦力が分散してたから。
毛利輝元が大坂の総勢引き連れて秀頼とともに戦場に現れたら全然違った結果になってたろう。
東軍も戦力の集中に失敗してるんだが、家康の判断で秀忠軍を待たずに攻めたのがよかった。
この時点で西軍の方が戦力が分散してたから。
毛利輝元が大坂の総勢引き連れて秀頼とともに戦場に現れたら全然違った結果になってたろう。
7:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 06:56:41.33 ID:.net
毛利は南宮山で弁当食ってた
8:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 07:23:06.05 ID:.net
豊臣家内部の抗争だし
あくまで豊臣家Aと豊臣家Bの主導権争い
もっとも家康は主家簒奪の布石としての主導権争いだろうけど
あくまで豊臣家Aと豊臣家Bの主導権争い
もっとも家康は主家簒奪の布石としての主導権争いだろうけど
10:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 18:27:12.67 ID:.net
やっぱりどう考えても西軍が勝つ方が遥かにハードル高いよ
仮に本戦で西軍が勝ったとしても、まだ関ヶ原に向けて進軍してくる秀忠率いる38000の徳川軍本体(精鋭部隊)が残っているからな
東軍の場合みたいに呆気なくはいかないだろう
仮に本戦で西軍が勝ったとしても、まだ関ヶ原に向けて進軍してくる秀忠率いる38000の徳川軍本体(精鋭部隊)が残っているからな
東軍の場合みたいに呆気なくはいかないだろう
11:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 21:47:55.63 ID:.net
>>10
それより先に>>6の軍がやってくるんじゃないの?
しかも毛利は関ヶ原での失態を埋め合わせるべく、
今度こそ本気で戦うわけだし
それより先に>>6の軍がやってくるんじゃないの?
しかも毛利は関ヶ原での失態を埋め合わせるべく、
今度こそ本気で戦うわけだし
12:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 22:05:38.15 ID:.net
そもそも家康が敗れた時点で全国の日和見武将たちは
東軍を見限るだろうし。
東軍は家康のカリスマ性で成り立っているから。
問題は西軍が勝ってもその後纏めることができる奴がいないこと。
どうせ豊臣家も65万石とかになるだろうし。
東軍を見限るだろうし。
東軍は家康のカリスマ性で成り立っているから。
問題は西軍が勝ってもその後纏めることができる奴がいないこと。
どうせ豊臣家も65万石とかになるだろうし。
13:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 22:43:14.57 ID:.net
秀頼を大坂城から引っ張り出せなかったのが敗因だな。
もし秀頼が近くまで来ていたら東軍は内部崩壊して負けてたよ。
もし秀頼が近くまで来ていたら東軍は内部崩壊して負けてたよ。
17:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 00:36:03.69 ID:.net
>>13
秀頼もだが西軍総大将の毛利輝元が関ヶ原に出陣せずに大坂城に居たのが最大の敗因
三成が指揮しても誰も従わない
秀頼もだが西軍総大将の毛利輝元が関ヶ原に出陣せずに大坂城に居たのが最大の敗因
三成が指揮しても誰も従わない
21:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 01:24:14.79 ID:.net
>>17
一応西軍の副将は宇喜多秀家だよ
関ヶ原の西軍では最強だった
一応西軍の副将は宇喜多秀家だよ
関ヶ原の西軍では最強だった
22:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 02:39:25.42 ID:.net
>>21
西軍の宇喜多隊1万7000騎に対して東軍の福島隊6千騎は互角に戦いました。
残念ながら西軍の宇喜多隊は精鋭部隊ではなかったのです。
西軍の宇喜多隊1万7000騎に対して東軍の福島隊6千騎は互角に戦いました。
残念ながら西軍の宇喜多隊は精鋭部隊ではなかったのです。
14:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 23:05:51.40 ID:.net
立花宗茂になんで他のところ攻めさせてんの?
立花隊がいたら小早川も西軍のままで戦ったかも
立花隊がいたら小早川も西軍のままで戦ったかも
15:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 23:47:43.99 ID:.net
西軍が勝ったら最大功労者は真田なので
将軍任官もあり得る
将軍任官もあり得る
16:日本@名無史さん:2015/03/13(金) 23:57:29.99 ID:.net
毛利が一番の悪だろ
毛利は、関ヶ原といい、幕末の東京遷都といい、何故、純血高貴な上方の人々に対して、反抗的なんだよな
毛利ごとき田舎者が、上方の人々に逆らうのは許されないし、許さない
毛利は、関ヶ原といい、幕末の東京遷都といい、何故、純血高貴な上方の人々に対して、反抗的なんだよな
毛利ごとき田舎者が、上方の人々に逆らうのは許されないし、許さない
18:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 00:41:46.50 ID:.net
これで西軍が勝ったとして
毛利は領土を獲得できるの?
毛利は領土を獲得できるの?
24:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 07:37:33.08 ID:.net
>>18 小早川秀秋の国替 藤堂高虎の改易または国替。これは、宇喜多が飲む
かどうかわからんが、関東探題就任で国替。小早川は、筑前名島より大和
郡山あたりに領地をもらって関白就任の方がいいだろう。
かどうかわからんが、関東探題就任で国替。小早川は、筑前名島より大和
郡山あたりに領地をもらって関白就任の方がいいだろう。
19:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 00:45:50.96 ID:.net
毛利家の宿願は石見銀山だけどな
真っ先に取り戻している
真っ先に取り戻している
20:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 00:52:16.29 ID:.net
上杉家なんかが財をなしたのも越後上布、これは魚沼を中心とした一大産業
京都との取り引きでかなり活況を勢してる
謙信の七尾攻略もいわば廻船の寄港地を確保するのが実利
京都との取り引きでかなり活況を勢してる
謙信の七尾攻略もいわば廻船の寄港地を確保するのが実利
23:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 06:52:33.17 ID:.net
宇喜多ってお家騒動があった後じゃないの?
色々西軍は問題を抱えてたよ
負けるようにシナリオが組まれていたか如く
色々西軍は問題を抱えてたよ
負けるようにシナリオが組まれていたか如く
25:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 10:38:54.79 ID:.net
>>23 お家騒動で実戦部隊長格が多く宇喜多を去ったからね。参謀の明石全登
だけで善戦したもんだ。
だけで善戦したもんだ。
27:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 12:47:13.02 ID:.net
東軍は徳川家の主力がほぼすべて到着できなかった
30:日本@名無史さん:2015/03/14(土) 18:35:42.10 ID:.net
輝元空弁当、広家動かず、秀秋錯乱気味に東軍へ突撃で西軍勝利になったのなら
毛利、吉川の領地を削って秀秋にやればいい。
特に広家なんて輝元を東軍で参戦させようとしてたアンチ三成アンチ恵瓊だし
吉川は取り潰されるのが既定路線。
毛利、吉川の領地を削って秀秋にやればいい。
特に広家なんて輝元を東軍で参戦させようとしてたアンチ三成アンチ恵瓊だし
吉川は取り潰されるのが既定路線。
45:日本@名無史さん:2015/05/10(日) 02:47:30.71 ID:.net
西軍総大将に担ぎ上げられた毛利輝元に戦意が無かったから
47:日本@名無史さん:2015/05/10(日) 12:02:51.96 ID:.net
260年後に薩摩と組んで徳川にリベンジするとは
48:日本@名無史さん:2015/05/11(月) 20:16:26.46 ID:.net
秀忠率いる3万8千は関ヶ原に間に合ってどの程度の働きが出来たか疑問。
榊原のような徳川の主力はいたけど
戦が苦手あるいは未経験みたいな武将も多かったように思う。
3万8千もいるけど、人数通りの強さを感じない。
仮に宇喜隊とあたっても互角だったんじゃないか?
吉川が西軍として真面目に戦ったとして秀忠の3万8千は南宮山の3万を打ち破れるのか?
榊原のような徳川の主力はいたけど
戦が苦手あるいは未経験みたいな武将も多かったように思う。
3万8千もいるけど、人数通りの強さを感じない。
仮に宇喜隊とあたっても互角だったんじゃないか?
吉川が西軍として真面目に戦ったとして秀忠の3万8千は南宮山の3万を打ち破れるのか?
50:日本@名無史さん:2015/10/12(月) 19:53:18.27 ID:.net
そもそも秀忠は間に合うっていうか岩村城あたりから
新府あたりまでを制圧しておくことが主目的だと思うんだけどな。
退路確保と、長期の戦闘を見越した兵站確保。
そして、関東勢の裏切り挟撃を避けるための制圧、威圧作戦であって
関ヶ原到着はついでかと思うんだよ。
新府あたりまでを制圧しておくことが主目的だと思うんだけどな。
退路確保と、長期の戦闘を見越した兵站確保。
そして、関東勢の裏切り挟撃を避けるための制圧、威圧作戦であって
関ヶ原到着はついでかと思うんだよ。
60:日本@名無史さん:2016/12/18(日) 22:33:26.32 ID:.net
>>50
秀忠はあくまで主力。メンツ見ろよと。
関ヶ原での家康は、冷静に考えれば豊臣方の海の中の孤軍。
後詰めに自軍を待機させてたが、それも毛利が襲ってきたときのために
後ろに回さざるを得なかった。
そもそも対徳川方面軍の司令官たる福島のアホがあっさり寝返って、
道々の城や武器や食料を全部解放してくれたからあっさり家康が先行
してしまったわけで、老骨に鞭打って最前線でどっちも豊臣という
剣山の上を歩くような中泳ぎ切った胆力と政治力は流石だが、内心は
生きた心地がしなかったわけで、だから秀忠にあれほど叱責したんだよ。
秀忠はあくまで主力。メンツ見ろよと。
関ヶ原での家康は、冷静に考えれば豊臣方の海の中の孤軍。
後詰めに自軍を待機させてたが、それも毛利が襲ってきたときのために
後ろに回さざるを得なかった。
そもそも対徳川方面軍の司令官たる福島のアホがあっさり寝返って、
道々の城や武器や食料を全部解放してくれたからあっさり家康が先行
してしまったわけで、老骨に鞭打って最前線でどっちも豊臣という
剣山の上を歩くような中泳ぎ切った胆力と政治力は流石だが、内心は
生きた心地がしなかったわけで、だから秀忠にあれほど叱責したんだよ。
52:日本@名無史さん:2016/03/03(木) 08:32:44.22 ID:.net
家康は上杉討伐で三成側にわざと決起させたの?
54:日本@名無史さん:2016/12/18(日) 11:58:10.56 ID:.net
>>52
毛利を担ぎ出すのは計算外だった模様
毛利を担ぎ出すのは計算外だった模様
53:日本@名無史さん:2016/12/10(土) 19:39:38.89 ID:.net
いざ戦闘がはじまってるのに三成がオマエラ戦えよーと督促してもなお動かない、これで西軍は本気で決起してるなんて言えないよな
ホントに烏合の衆
ホントに烏合の衆
55:日本@名無史さん:2016/12/18(日) 13:59:06.59 ID:.net
家康が大坂を空けただけで決起をさそう、ってのも無理があると思うけどね
あの時点で三成になんの権力もないし。
むしろ毛利あたりが謀反する、のを誘うならわかるけど三成はないわ
三成まわりからリークされてた、って見方もあるけど。
あの時点で三成になんの権力もないし。
むしろ毛利あたりが謀反する、のを誘うならわかるけど三成はないわ
三成まわりからリークされてた、って見方もあるけど。
56:日本@名無史さん:2016/12/18(日) 21:38:34.16 ID:.net
徳川家康が天下人になれたのは、長寿と毛利輝元が凡人だったからだろ
もし輝元が優秀だったら、関が原は、1日で終わらず、応仁の乱みたいに長期戦になったと思う
小早川、吉川、毛利と徳川の天下に寄与したんだよな
もし輝元が優秀だったら、関が原は、1日で終わらず、応仁の乱みたいに長期戦になったと思う
小早川、吉川、毛利と徳川の天下に寄与したんだよな
58:日本@名無史さん:2016/12/18(日) 21:48:15.62 ID:.net
>>56
他が凡夫、家康は傑出、そういうことだよね
他が凡夫、家康は傑出、そういうことだよね
61:日本@名無史さん:2016/12/19(月) 01:04:23.19 ID:.net
そう毛利輝元が、関が原の後も大坂城で籠城しておれば、簡単には落とせなかっただろう
その結果、江戸幕府は、そんなに強力なものにはならなかっただろう
江戸時代の300年の平和を築いたのも輝元のおかげなんだよな
本多正信は、徳川の天下は、石田三成の功績として、その息子の命を助けている
その結果、江戸幕府は、そんなに強力なものにはならなかっただろう
江戸時代の300年の平和を築いたのも輝元のおかげなんだよな
本多正信は、徳川の天下は、石田三成の功績として、その息子の命を助けている
63:日本@名無史さん:2016/12/25(日) 18:56:08.19 ID:.net
身分とか位で毛利になったが、宗茂がなっていたら逆転していたね
宗茂は裏切らないし、最後まで豊臣に尽くす気がする。
宗茂がなっていたら、関ヶ原の戦いは無かった筈、関ヶ原の前に
夜襲なりで家康の首を取っていたかもね。
適材適所ってのは大事だね。
宗茂は裏切らないし、最後まで豊臣に尽くす気がする。
宗茂がなっていたら、関ヶ原の戦いは無かった筈、関ヶ原の前に
夜襲なりで家康の首を取っていたかもね。
適材適所ってのは大事だね。
65:日本@名無史さん:2016/12/25(日) 21:05:32.57 ID:.net
>>63
宗茂でもなんでもいいが西軍は好き勝手やって誰も言うこと聞かないのが問題
頭がどうこうで変わる話じゃない
宗茂でもなんでもいいが西軍は好き勝手やって誰も言うこと聞かないのが問題
頭がどうこうで変わる話じゃない
66:日本@名無史さん:2016/12/25(日) 23:57:43.88 ID:.net
家康には秀忠軍3万8千以外にも予備軍2万がいるぞ
みんな忘れてるな
前田利長軍2万を
みんな忘れてるな
前田利長軍2万を
67:日本@名無史さん:2016/12/26(月) 08:02:29.96 ID:.net
毛利が弁当食わないで小早川が弁当食ってたら分からんかった
69:日本@名無史さん:2016/12/26(月) 08:38:21.88 ID:.net
>>67
史実の関ケ原合戦は1日で終わったが、もし2日以上続いたら、
吉川の空弁当作戦も1日もたせるのが精いっぱいだろうから、
毛利軍が山を下って攻めてくるね。
史実の関ケ原合戦は1日で終わったが、もし2日以上続いたら、
吉川の空弁当作戦も1日もたせるのが精いっぱいだろうから、
毛利軍が山を下って攻めてくるね。
70:日本@名無史さん:2016/12/26(月) 12:04:58.52 ID:.net
次の弁当待ってるから出られねえ、って言うだけだろ
73:日本@名無史さん:2016/12/30(金) 15:24:37.37 ID:.net
関ヶ原に至るまでの家康の戦術は
三方ヶ原の武田軍を参考にしたような所があるな
三方ヶ原の武田軍を参考にしたような所があるな
74:日本@名無史さん:2017/01/05(木) 20:37:42.98 ID:.net
長期戦になると西軍が有利で
そのため短期決戦するために、西軍を関が原におびき出したという説があるが
ただ逆に家康のほうがおびき出されたという説もある
どちらが本当がわからないが、裏切りがなければ西軍のほうが勝っていたみたいなので、後者のほうが真実だと言われている
そのため短期決戦するために、西軍を関が原におびき出したという説があるが
ただ逆に家康のほうがおびき出されたという説もある
どちらが本当がわからないが、裏切りがなければ西軍のほうが勝っていたみたいなので、後者のほうが真実だと言われている
75:日本@名無史さん:2017/01/05(木) 21:20:54.52 ID:.net
布陣みたらわかるように家康は必敗型なんだよね。
もちろん日和見や裏切りがある前提でやってることはやってるんだが、
そんな約束どう転ぶかわからんのが現実なんでね。
それにも関わらず決戦に挑まなければならないくらい家康は追い詰められていたというのが真相だろ。
全て家康にいい方に転んだから見逃されがちだけどね。
もちろん日和見や裏切りがある前提でやってることはやってるんだが、
そんな約束どう転ぶかわからんのが現実なんでね。
それにも関わらず決戦に挑まなければならないくらい家康は追い詰められていたというのが真相だろ。
全て家康にいい方に転んだから見逃されがちだけどね。
77:日本@名無史さん:2017/01/06(金) 05:23:11.72 ID:.net
家康抜きの軍勢で、堅城で名高い岐阜城をたった一日で落とした東軍の戦意の高さ・統率力。
三成派、毛利派、日和見派、小早川とか全然足並み揃わない西軍のチグハグさ。
関ヶ原で強固な陣場を構築・街道も抑えて補給連絡網もバッチリな西軍
なのに、それを活かす事ができない。
西軍に包囲される形でも、全然構わず正面から陣取る東軍。
平面図で視れば明らかに誘い込まれる形の東軍、でも全然構わず進軍し野陣を張る東軍。
倍以上の宇喜田隊と真っ向戦って引かない福島隊・・・。
合戦の準備の達人が集まった三成たち西軍、
悲しいかな自らが実戦でそれを役立てる事はできなかった・・・・。
三成派、毛利派、日和見派、小早川とか全然足並み揃わない西軍のチグハグさ。
関ヶ原で強固な陣場を構築・街道も抑えて補給連絡網もバッチリな西軍
なのに、それを活かす事ができない。
西軍に包囲される形でも、全然構わず正面から陣取る東軍。
平面図で視れば明らかに誘い込まれる形の東軍、でも全然構わず進軍し野陣を張る東軍。
倍以上の宇喜田隊と真っ向戦って引かない福島隊・・・。
合戦の準備の達人が集まった三成たち西軍、
悲しいかな自らが実戦でそれを役立てる事はできなかった・・・・。
78:日本@名無史さん:2017/01/06(金) 06:38:58.01 ID:.net
どうみても西の陣のほうが有利だったのにあのグダグダぶり
西はせめて統率くらいしろよと。
バカがあつまって烏合の衆ってのはホントにあるんだな
西はせめて統率くらいしろよと。
バカがあつまって烏合の衆ってのはホントにあるんだな
79:日本@名無史さん:2017/01/06(金) 07:43:50.27 ID:.net
総大将がいない軍隊といる軍隊との違いだよ。
毛利輝元が秀頼引き連れて出陣してりゃ勝ってたよ。
関連記事宇喜多秀家ってなんで赦されなかったの?毛利と上杉が本気出してたら西軍は勝てたという風潮面接官「関ヶ原で石田三成が敗れた理由を挙げて下さい。」 ワイFラン「えーっと…」この布陣で負ける石田三成wwwwwwww大谷吉継「小早川ぜってぇ裏切るわ。ワイが止めるで」毛利輝元が秀頼引き連れて出陣してりゃ勝ってたよ。
コメント一覧
三成「家康倒すために挙兵するで~」
輝元「よっしゃ!俺も家康の野郎殺すために一肌脱ぐわ!」
三成「負けた…」
輝元「俺知~らないw」
輝元って当時は同評価されてたんだろうね
現代人の目線だと家康は律儀者のフリをした腹黒狸
輝元は無能って感じだけどそうなったのって関ヶ原と大坂の陣が理由だと思うし
それ以前は信長包囲網のラスボス的ポジションだったわけで
黒田官兵衛の天下だったと思います
そこに東軍の豊臣方の部隊が到着して小早川の裏切りに混乱してる西軍に突撃して昼前には西軍は壊滅したと言われてる
家康本隊が到着した頃には戦が終わってたらしい
EU離脱が通っちゃって「あ、やべ本気じゃないんだけど」な英国みたいな
さらに豊臣家家臣団の争いなのに秀頼を連れてこいというバカも多い
滅茶苦茶間違っている
関ヶ原の一連の動きで誰が一番動いたか考えてみろ、どう見ても毛利だろ
広家の出した書状に重臣連中が連名している点からも毛利家全体の方針であることがわかる。
事ここに至って大坂城から出陣?するわけないだろ。
1番動いたとか関係あるか?
1番勢力がデカイんだから当然だと思うが
家康が気に入らない奴と上杉討伐に行こうとした連中を巻き込んだのが西軍なわけで
毛利輝元はその家康が気に入らない連中の一人で一番位が高いから総大将になった
実際輝元が総大将になったのは三成が大谷や奉行仲間に相談して挙兵を決めた後だったと思うが
そもそも動いたって言うが輝元は大坂城に篭って九州四国のハイエナ指示
後は秀包らが大津城を攻めた位じゃないの?
毛利秀元や吉川広家については言うまでもない
総大将ではあるがこの辺りを主導したのが三成と奉行仲間+大谷吉継だから
三成vs家康でも別におかしくないよねっていうか
少なくともバカって言うほど間違ってないと思うけど
当時の人達は応仁の乱の様に長引くって予測してたみたいだし、そのまま第2の戦国時代に逆戻りしてたんじゃない
というか、三成自身がそういう認識してたっていう書状があるみたいだし
どこで見たかまでは忘れてしまったけど・・・
と言ってしまったが個人的に毛利輝元は妥当家康より九州四国のハイエナに魅力を感じたように思ってる
長期戦になれば九州四国で毛利の影響力がさらに大きくなるし
輝元って対徳川で何か主導してたっけ?
あと岐阜陥落で西軍に見切りをつけたのではなく、西軍が負けてもいいよう東軍と交渉を始めて西軍と東軍を天秤にかけていたらしい
まるで西軍が西を完全に掌握していたみたいな考えなんだな
まずやることは地盤を固めることからだろ、秀元、広家を動かしているのに動いていないとは、どういうこと?
家康も秀忠に周囲を固めさせている間は何をしていた?
輝元本人が固まってない大坂を出て直接家康の首を取らないと納得しない?
岐阜城が落ちた後も秀包らがボロボロになりながら大津城を落としたのに
吉川、秀元は結局何もしないで終わった
地盤固め以前に家中の統制が出来てなかった
それでも三成らに利用されつつむしろ長期戦を見越して
逆に三成らを利用して勢力拡大を図った輝元は無能とは程遠い狡猾な男だと思ってるわ
ただこの辺りの話はどうでも良い
バカと言って一方的に見下すほど三成vs家康は間違ってるのか?というのが※16の主旨
岐阜城が1日で落ちた時点ですでに終わっている、終わってからのことを根拠にされても困る、その時点で工作も地盤固めもない
それ以前の秀元、広家の地盤固めなどは時間が掛かっているが、東軍の城を落として進めていた
三成に利用されていたと強調したいようだが、お互い利用し合うのは当たり前だからな、ただ総大将だったというのが滅茶苦茶間違っている
それで、何をイライラしている、読み直せよバカと誰が言ったか?
一方で輝元が大阪に向けて出立したのは7/15。
3日間で手紙送付→交渉→出陣準備が完了したとは到底思えないから、
7/12以前に輝元参陣の約定は取り付けていたとみるべき。
7/5に秀家が豊国神社で「前代未聞の物々しい出陣式」を執り行うっている点を鑑みれば
7/5以前には2大老と話は付いていた可能性が高い。
結局、輝元が後から大坂に入ったことは輝元が奉行衆の傀儡である根拠にならないし、
三成主導の根拠にもならない。つーか三成が西軍を主導しているなんて史料有ったけ?
総大将が毛利輝元なのは認めてるしそこに何の異議もない
ID辿ればわかると思うがそれは既に※11言った
その※11は※4に向けたもの
で、形式上は毛利輝元vs徳川家康で間違いない
ただ実際の所、石田三成が中心になっていたのは事実じゃないのか?
三成が挙兵を決めて奉行仲間に相談してそれで輝元を担いたとなれば
三成vs家康も完全に誤りじゃないのか?って事が言いたい
今まで言ったことは全部撤回するつもりだわ
それならもう形式上もクソもないからな
ふ~ん、そういうことで納得してやるか
中心人物なのには異論はない、しかし輝元、秀家よりはずっと下だ
中心はあくまで毛利、蟄居の身だった三成に軍事的な権限を与えられたところはない
それとどこら辺が三成中心に進んでいたと思うの?
それとあんたの※11の数行に対しての時点ではそこまで考えてねえよ、そう思うならそれでいいんじゃねえの?
最初から※11だけがこっちの主旨で毛利ついて話すつもりはなかったんだけど
伝わらなかったようで残念だわ
軍事的な権限はほとんどないだろうが大谷を引き込んだり人質確保しようとしたりと主導的に動いてる
会津征伐に行こうとした大名を止めたのは三成の兄だと言われてるし
その辺りを考慮して俺はじゃあ三成は中心にいたんじゃないの?と思ってる
軍事的な権限はない以上中心にはなれないって考えもあるかもしれんがな
ないです
中心小早川、鍋島等を足止めさせたのは毛利、宇喜多の力があってこそ、正澄は堺奉行だから地理的にも
まあ、つまり毛利の力ありきで三成中心の話ではないということ
筋が通ってるし別に三成中心説に固執するつもりもないが
関ヶ原の戦いを西軍の三成対東軍の家康って表現するのはそんなに暴論なんだろうか?
教科書じゃそんな感じに書いてあった気がするが今は違うんだろうか
教科書じゃ今でも三成vs家康だと書いてあるよ
ただ西軍輝元主導説的にはそこは
本当は輝元が首謀者と世間に公表して処刑したかったけど
大大名である毛利をいきなり滅ぼしちゃうといらん混乱が起きるから
小身で嫌われ者の三成に首謀者の濡れ衣を着せて処刑しちゃお☆
という事になったらしい
大名の寄せ集めである西軍の中で権力も国力もない三成がリーダーシップ取るのはかなり難しいと思う
まあ教科書の内容って割と古いからね
長篠とか教科書の説明通りやられても納得いかないところあるでしょ
因みに出典を書いとくと、
7/12の毛利輝元の上坂を要請は「7月12日付毛利輝元宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署状」
7月15日に毛利輝元が国許出発は「7月15日付加藤清正宛毛利輝元書状」
7/5の秀家の豊国社参拝は舜旧記だったかな?
関ヶ原の合戦って「現在の通説」と一次史料や江戸初期の編纂物との食い違いが大きいんだよね。
あの布陣図すら旧陸軍が想像で作ったもので、史料的裏付けが十分な訳でもない。
小早川についても「霧が晴れてすぐに大谷の陣地に突撃した」って史料もあるらしい。
これが事実なら問い鉄砲も小早川の日和見も創作ということになる。
石田家の閨閥が西軍の形成に役立っていたり、家康が東軍諸将に三成謀反として説明しているから。スケープゴートだけど豊臣家の裁定として西軍首謀者は石田三成だし、一つの事実ではある。
西軍蜂起のきっかけが宇喜多だったり、総大将が毛利だったり、首脳陣が増田長束だったりも事実だけど
※26
石田に軍事権がないってのは誤りで、岐阜陥落後の大垣周辺の防衛に関しては石田三成が中心で関与している。近江の領地が近いって理由だけどね。
家康の対偶に単独位置できるほどの西軍代表だったかは疑問。
精々「家康vs輝元・三成」だと思う。一対一で書くなら「家康vs輝元」
本戦についても三成が主導してたとは言いがたいと思う。
九月十二日付の増田長盛宛の三成の書状でも
自分の考えが反映されないことを延々と愚痴ってるし
サンクス
何度もコメントした収穫があったわ
中央での戦争に敗れれば、いくら四国や九州で勝利しようが、意味無いのを理解していなかったという本に納得した。
西軍が畿内での戦力分散も同様に思える。
大津城や田辺城など備えとして兵を置いて、関ヶ原や岐阜城に専念して、勝利すれば大津城や田辺城も無血開場できるし、
四国や九州の東軍所領も戦わずに没収できた。
毛利は戦国時代前半そのままで点とり合戦、徳川は中央での勝敗(戦、政治)で全て決着にかけた。
家康は信長や秀吉の戦いを再現したように思える。
状況を楽観しすぎていたからな。
8月6日付三成書状では、
・徳川の兵力は三、四万。
・上杉、佐竹対策の領国の守備固めで上洛は不能。
・無理して東軍諸将と一緒に上洛しても精々二万程度。
その程度なら尾張三河あたりで楽に潰せるから、上洛するなら寧ろ天の恵みだ。
って言ってる。おそらくこれが8月初頭の西軍首脳の想定。
実際に東軍として上洛してきたのは
東軍諸将3万5千、徳川軍6万5千だったんだけどね。
※38の九月十二日付増田長盛宛三成書状の下記一文。
「輝元出馬なき事、家康上らざれば要らざるかと存じ候えども、下々は此儀不審なりと噂し居り候。」
(輝元が出馬しないことについては、家康が西上しない以上、不必要な事だとは思うが、
この事についても下々の連中は不審がり、色々と噂している。)
これの恐ろしいところは、西軍中核の三成が、関ヶ原本戦の3日前の時点で、
家康が岐阜にいることはおろか、9/1に江戸を立ったことすら把握していないこと。
諜報戦で東軍に後れを取ったとかそういうレベルじゃない
岐阜城が1日で落ちたせいでやばそうな雰囲気を感じて家康との和睦路線
それで毛利と徳川の取り決めで失脚して何の価値もなくなった三成のせいにすることで一応収まった
ただ家康の方が一枚上手手で輝元的に大減封を食らってしまったと
処刑された首脳陣に安国寺恵瓊がいたが
従来は恵瓊が無能な輝元を唆したことになってるが
この場合だと成り立たないが恵瓊はどんな働きをして処刑された理由はなんなんだ?
小西行長も処刑されたが小西はずっと親家康だったから長宗我部や他と同様に巻き込まれた側だと思ってたが
処刑されたって事は首脳陣の一角だったのかそれとも単純にキリシタンだから切腹を拒否しただけなのか
首脳陣の長束正家は捕縛されたけど切腹で終わったり
首脳陣でありながら東軍に良いカッコをした増田長盛は改易だけど前田玄以は許されたり
謎が多いすな
トカゲの尻尾切り的な感じで外交官に犠牲になって貰ったんじゃね?
だから派手に動かなかった
であれば輝元が動かなかったのにも理由はつくし
そこまで、相手の戦力予想も動きも掴んでいないようでは、勝てないな。
実際に東軍がやってきたら、パニックになったのでは?
岐阜城の戦力不足で1日で落ちたが、東軍の戦力を把握してなかったせいか。
バカとかいってるけど三成が秀頼の参戦を要請してるんだからおかしくね?
家臣同士の争いの構図を崩そうとするのは正しいだろ
西軍初期の行動(内府違ひの条々で家康の梯子を外す、
会津成敗に向かう武将達を無理矢理足止めして西軍に引き入れる)は
輝元よりも三成の思考回路っぽいんだよね
それは他のレベルを落としすぎている
ある程度事情を知っている者ならば誰でも思い付くことだし、それに対して思考回路も何もない
そうなの?
じゃあ内府違ひの条々はいいから強制足止めだけでも前例を教えてー
足止めなら榊原康政が前哨戦でやってるだろ
これで十分?
足止めが三成が考えたこととか初めて聞いたわ
立花って所詮は前線の一武将ってイメージだったんだけど政治力もあったの?
腰抜けの毛利がアホ過ぎなだけ
無理でしょ
上杉のやる気以前の問題で山がちかつ東軍勢力に囲まれたあの領土で西国大名の指揮は不可能
おまけに転封されたばかりで足元が落ち着いてないんだから
そもそもあの時期の上杉に徳川を打倒する気があったかどうか微妙なところだし
この手の話題で立花が持ちあげられるのは、戦意のある実働部隊で実力も名声もあるから
関ヶ原で西軍としてまともに戦ったのは宇喜多・小西・石田・大谷・平塚・戸田くらいでただでさえ少ない兵力が足りていない
小早川秀包も含めた大津城攻略部隊がいれば相当違っただろう。って事じゃないか
景勝は会津征伐で意地だけ見せて討ち死にする気満々だったじゃねーか。
曲がりなりにも勝つ算段付けてから家康に喧嘩売った輝元の方がまだ総大将に相応しいわ
豊臣コンツェルンを揺るがすなら、現役常務でも抱き込むしかないわけでそれが毛利
そしてそれが失敗したら尻尾として切られる
現代でもどこかにありそうな話に見えるが
無理かと。
上杉も毛利と同じで、徳川との決戦より、自分の領土拡張優先した。
最上は喉に刺さった棘で、ほっておけないにしても、ほっておくべきだった。
徳川が南下した時点で追撃して、後詰部隊を撃破すれば、江戸侵攻は無理でも東軍は上杉と佐竹への備えさかねばならない。
それこそ、西軍の本来の戦略だったはず。
上杉も毛利も、遺言や家訓なり言い訳にして、目の前の領土拡大の欲に溺れて、中央での勝負に出れなかった。
織田包囲網と同じで、西軍は同格で強力な指導者いないので、強大な敵を包囲しているけど、自軍の損害を恐れて、
動かず各個撃破された。
東軍は大軍な上に徳川が圧倒的で従うしかなく、かつ自分の領地から離れているので、日和見もできない。
東軍の武将は従わなければ、その場で殺される状況。
上杉が徳川撤退を察知したのは、家康が江戸に入城し終わった後だったけど、
そのタイミングで宇都宮の秀忠軍3万8千に攻撃を仕掛けるべきだったってこと?
既に対上杉迎撃態勢も整え終わってる上に、
下手に軍勢を動かすと空の領国を伊達と最上に掠め取られるだけだと思うけど。
三成が輝元と家康にスケープゴートとはいえ首謀者にされたというならば
それが真実かどうかはともかく嘘ではないってことなんだろうな
当事者の家康と輝元がそういうことにして
周囲の連中もそれでいいかとなって
さらに当時の人間もそう認識してたって事なんだから
輝元が黒幕って分かったのって最近なんだろうか
子供の頃は三段撃ちやら騎馬軍団やら元寇は神風で~とか習ったが今はそれも否定的だし
こういう中世のは教科書ってなかなか改定しないよね
誰も認めないとしているのはそれはあんたの勝手な読み取り方だろ
ただ輝元等は何も考えなしに動き、三成がまるですべてのことをやってきたみたいなことに対しての反論だろ
終わったことだけど一人どうしてもいちいち煽りを入れないと反論というか
レスが出来ない人がいたから気になってついな
途中でIDが変わってるから一人なのかわからんが
わかってる人ならそんなの入れずに出典と事実だけで普通に反論してくれれば
こっちもムキになって何度もレスをせずに済んだのにって思って
つまり本スレを含め知ってる奴と知らない奴が色々いるんだけど
知らない奴を一方的にバカだとか言ってたのがいたから
そういうのは・・て思ってつい擁護したくなってしまったんだわ
その擁護の仕方もよくなかったから結局俺もバカにされて終わったんだが
勿論丁寧に教えてくれた人にいたけどね
3万超える秀忠に突撃は無謀。
結城秀康を撃破ぐらいは、可能でしょう。1万ちょい。
「結城秀康は若年で挑発してきても上杉は相手にしない。徳川の後ろを攻撃は卑怯。」
とか言わないで、野戦で交戦するだけで十分だったと思う。
※64にも書いているけど秀康のいる宇都宮には秀忠本隊もいた。
宇都宮が秀康軍のみになったのは秀忠軍が上田に向けて出発した8/24以降。
また9/1までは江戸に家康本隊3万も控えている。
地図を見て貰ったら分かるけど、景勝・兼続のいる米沢から宇都宮までは相当な距離がある。
少なくとも最上伊達を放置して撃破しにいける距離ではない。
宇都宮に着く前に徳川軍が集結する方が早いと思う。
無理だと思うよ
結城秀康を大将とした上杉に対する備えがどれくらいいるのかわからないけど、1万くらいだとしてさ
毛利史研究によると関ヶ原の戦いのときの毛利氏の動員兵力は全体で3万6千、上杉氏の兵力がこれと同じだとして1万石につき300人動員することになる
でも上杉の場合、庄内と佐渡それぞれ14万石分ずつ計28万石分は地続きじゃないから関東攻撃には連れていけない、つまり結城秀康攻撃に参加できるのは最大で90万石分の2万7千くらい
更にここから58万石の伊達氏に対する備え、24万石の最上氏に対する備え、堀溝口村上等の越後勢45万石に対する備えを抜いていかなくちゃならないと考えると秀康勢を攻撃できるだけの兵力は残らないと思うよ
庄内の乱の時に宗茂は小西行長と共に島津家を擁護して島津家、小西家、立花家で
以後も協力していくように誓紙を取り交わしたりしてたから
宗茂がいれば毛利家だけじゃなく島津や小西とも連携が見込めるってのもあるかな
これこそ、三成が西軍の中核ではない証拠だな。毛利は明らかに、家康の東上を知っていて、家康と和睦しているのに、同盟諸将にそのことを話さないばかりか、「家康は西上しない」とまで嘘を付いていたということ。
仲間を見殺す気満々のゴミクズが総大将で、諜報の中心じゃ勝てる訳ないよな。毛利の情報を鵜呑みにしていた三成はおバカさんやー。
クーデターを起こそうとして失脚じゃなく、家康子分らに起こされて失脚だろ。日本語は正しく使おう。
こういうのは準備が物を言う。
三成は、二大老・三奉行に誘われて立ち上がっただけで、西軍の中でも、ただの雑魚。
東上じゃなくて西上だ。すまん。
確か、歴史学者で、関ヶ原合戦の研究でも有名な、笠谷和比古氏が、大津城攻めの軍が関ヶ原に急行していれば、勝てたんじゃないか、みたいなことを著作で書いていた。これが過大評価かは知らん。
吉川広家が黒田長政を通じて家康から内応の承諾を得たのは8/17。
岐阜城陥落(8/23)より更に前で、当然、家康が江戸を立つ(9/1)よりも前。
(出典:八月十七日付黒田長政書状)
どうも恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で交渉を進めていた模様。
ただし、岐阜城陥落後には輝元に報告、追認を得たようで、
本戦前日(9/14)には毛利家重臣2人を人質として送り、毛利の戦闘不参加を改めて誓っている。
ただその広家も9/14の家康の赤坂着陣後に動き出してるので
9/12の時点では家康西上は知らなかったと思うけど。
根拠不十分ですわ。殆ど妄想に近かった。
それから、広家は関ヶ原後に国元の重臣に送った手紙の中で、
・小早川軍が松尾山に着陣した。
・石田軍の中にも徳川軍と通じている者がいると聞いた。
これらの理由から東軍には勝てないと思ったので、
長束正家や安国寺恵瓊に相談せず独断で内応を決めた。と言ってる。
本戦の「宰相殿の空弁当」は広家の独断っぽいね
豊臣は石田を擁護しないどころか
反逆者扱いしたそうだが…
前田謀反の疑いを家康に密告したのは増田長盛と長束正家、つまり奉行衆。
家康が謀反をでっち上げたと断定できる史料は今のところ存在しません。
ただし、家康の中で、政敵の小さな政治的ミスをうまく使って相手を屈服させ、
徳川の立場を寄り有利な方向へ持って行こうとする政治判断は当然あったはず。
(要は敵失をついた豊臣政権の枠内での主導権争い)
会津征伐にしても切っ掛けは堀と最上の「上杉に戦争準備の兆しあり」の密告である上に、
景勝自身が、重臣宛6月10日付書状の中で開戦理由として、
「奉行衆と再交渉を進めていたが、まともに取り合ってもらえなかった為」
と書いており、家康については一切言及していません。
少なくとも家康が最初から独裁的に前田上杉を潰そうとしたというのはいささか疑問。
寧ろ大坂の陣からの逆算で家康の陰謀扱いされてる点は大いにあるのでは?と思ったりしています。
政権運営にはすでに家康は深く携わっていたから関ヶ原時点で家康がいなくなる方が豊臣家に大ダメージだと思われるし、家康が権力を笠に着て私腹を肥やすなり悪政を行ったかというとそれもないようである
なら家康はその時点で豊臣忠臣でありそれを排除しようとするのは反逆者でしょ
なるべくして天下を取ったという感じだな…
家康を暗殺して、徳川家内部の御家騒動を起こりでもしないと徳川が天下をとってしますな。
他の大老や奉行が隙を見せまくってただけって感じ
私も最近確信を得たが神君と謳われるだけありますな。
したそうだが・・・・・。って、なんの文書?お前の妄想?
まあ、巧妙ともいえる。
七将襲撃事件は、七将が勝手にやったことで、家康は関係ない。
前田利長討伐(利長が屈服したから途中で終わったが)は、(当時家康に従っていた)増田・長束が密告したから、家康は関係ない。
上杉景勝征伐は、堀らが訴えたから、家康は「仕方なく」立ち上がったので、家康は関係ない。
こうやって、家康の政敵が秀吉の死後に連続して排除されているのに、家康は全く関係ないらしい。証拠はない。(残すか?普通。)
そんなことを本気で信じているのは、とんでもなくおめでたい奴だろう。しかも、当時ではなくて、家康が豊臣秀頼を滅ぼしたことを知っている現代人が、となればおめでたすぎる。
当時の人の方が判断が難しかったろうが、少なくとも当時の西軍の連中はそれほどおめでたい奴らではなかった。
西軍の連中がおめでたい連中だったら、この後、毛利・宇喜多・増田・前田(玄以)・長束は順番に排除されたが、家康は関係ない、という展開が続いたんだろうな。
秀吉の遺言・掟に反して、自分の派閥をつくろうとしたから、「他の大老や奉行に言いがかり(言いがかりじゃなくて正当な訴えだが)をつけられた」訳だ。秀吉の遺言・掟が家康が五大老筆頭である根拠であるにも関わらず。
歴史にifはないので、「作らなかったら絶対に他の大老や奉行に言いがかりつけられて潰されるのは目に見えてるし」かどうかなんて誰にも分からない。
毛利・宇喜多・増田・前田(玄以)・長束は順番に排除されたが、家康は関係ない、という展開が続くかどうかなんて誰にも分からない。
慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際には、家康と国元に居る毛利輝元に対して至急大坂に戻って謀叛の動きを抑えこむよう、三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)と連名で書状を送っている。
tps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
逆。先に派閥を作ったのは輝元+奉行衆。
秀吉が死んでわずか10日後に、三成は輝元に誓紙を提出させている。
内容は「増田・石田・前田・長束の意見に同意しない者があれば、
輝元は増田・石田・前田・長束の意見に同意し、秀頼様へ奉公する」(毛利家文書)
これは大名小名に関わらず誓紙のやり取りを禁じた、秀吉が生前に定めた掟に真っ向から違反するもの。
つまり、先に秀吉の遺言・掟を破ったのは輝元+奉行衆(後の西軍)、
先に派閥を作ったのも輝元+奉行衆。
更に言えば、この誓紙の中に五奉行筆頭の浅野の名前はない。
つまりこの時点で既に浅野と他4奉行には意見の隔たりがあったのだろう。
後に増田・長束が前田と「浅野」の謀反を密告して、浅野を隠居に追い込んでるのはこの辺が原因だろうな。
証拠がないのに妄想で家康の企みだと考えるのは只の陰謀論だろ
原文は抹殺できても、敵味方の重臣や使者がどういう内容だったか日記や同僚への手紙に書いていることが多いし。
人伝に聞いた噂をわざわざ書き残してる輩すら大勢いるのに、それを全て抹殺とか神様でもなきゃ無理だろ
最上は?
政宗が家臣に出した「読み終わったら燃やせ」って書いてある手紙も現存してるくらいだし
訴えてない
直江状を見ても堀しか出てこない
直江状はあくまでも上杉家と堀家の事案だから公平な裁量をしてくれとか、謀叛の訴えに対する弁明状だったみたいだね
実際堀家と上杉家は上杉家が国替えの慣例で置いとかなきゃいけなかった年貢を勝手に持って行ってそれを訴えたけど、無視されたりで仲が悪かったみたいだし
もっとも内容は堀を讒人呼ばわりする等、読んだらキレるだろうって内容だったみたいだけど・・・
年貢のことは直江状や西笑承兌の書状に載ってないから、そういう事件は存在しなかったか、問題になるほどの量の持ち逃げじゃなかったんじゃないかな?
黒田と細川も年貢でもめて家康に仲裁を依頼するまでの大事にしてたし、もしそんな問題があったなら家康は使ってたと思う
西笑承兌の書状で問題にされてることを見ると上杉が奉行たちに不信感を持つのもわからないでもないんだよね
道や橋を作るのは謀反の証拠なんて言われたらおちおち内政できないし
誓紙のやり取りが禁じられてたのは大老奉行の10人が
他の大名に対してだと思ってたけど全部禁止だったっけ?
御掟5ヶ条の
一、大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止之事
(大名小名に関わらず誓紙を交わすことを固く禁じる)
大老と奉行間は知らないけど、大老間では秀吉の遺言で縁組が推奨されてたはずだよ
春に上洛すると決定しおさまった事を、自ら蒸し返して上洛拒否し始める辺り詮議されたら負けると自覚してたんだろうな。藤田の出奔で内情がばれたのも大きい要素か
明朝との外交を石田.小西が担ってたのでそこで毛利.宇喜多を責任者として徳川を抜いた外交ライン構想してたらわかりやすいのだけれど
春に上洛する予定なんてあったっけ?
武具購入と浪人雇い入れは石高が増えたんだから普通だと思うけど、特に会津は前の領主である蒲生氏の家臣がおおくいただろうし
知ってるよ?
御掟5ヶ条では「大名間の婚姻は秀吉の許可を取れ」だから遺言で許可されてるなら問題ないだろ。
でも誓紙のやり取りは遺言でも許可されてなかったと思うけど?
藤田は、景勝の代理として新年の祝賀を行うレベルの重臣だしな。
こいつが追放されて「景勝謀反は事実」なんて言い出したら中央政府としては流石になあなあにはできん
景勝が手紙で「秋中令延引之趣、奉行衆へ令返答候処」と言ってる
それは直江状以降の奉行衆とのやりとりの結果、上杉が上洛はするけど秋まで待ってくれれって書いた話でしょ
それ以前は上洛の予定は決まってなかったと思うけど
直江状で
「一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候」
って言った後の
「秋中令延引之趣、奉行衆へ令返答候処」
だから、延期要請じゃないの?
夏に上洛する予定って書いてあるじゃない
個人的に上杉が私戦を企んでいたってのはないと思うんだよね
毛利とは逆に上杉は西軍との繋がりが薄いから、何かやるとすると上杉単独でことを起こすってことになると思うんだけど、上杉単独で東国で何かできるとは思えないし
確かに※115の「春に上洛する」は勘違いだろうね。
上杉が約束したのは「夏に上洛する」。
ただし景勝の手紙の中で「秋中令延引之趣」って言ってるから
あとから「やっぱ秋にしてくれ」って言い出したんだろ。
多分※115の言った「上洛約束引き伸ばし」はそういうこと。
使者の西笑承兌も直江宛の手紙の中で「笑止なこと」と言ってる。
但し、
・築城や橋掛けはよくない。(中略)そのように油断していては家康が不審を持つのも尤もです。
・景勝が律儀であることは太閤以来家康もご存じの事です。釈明が認められればなんら問題ありません。
・近国の堀が再三景勝の謀叛の報告をしているので、
しっかりと陳謝しなければ釈明は認められないと思います。誠意をきちんと示す事です。
とも言ってる。
が、上杉がやったことは、誓紙拒否、上洛約束引き伸ばし→上洛拒否、対徳川穏健派の藤田追放。
で、その藤田が上杉謀反は真実なんて主張したから試合終了。
原田眞人って時点で期待できない。のぼうの城の足元にも及ばないだろう
上洛の条件を、讒人の糾明の条件ひとつにのみに絞ったのに、無条件上洛を突き付けらたからね。
多分「上洛すると詰み=改易」と景勝に思われたのだろう。それぐらいこの間の交渉で景勝の家康に対する信用度は下がっている。
なんの条件もなしに上洛して、まな板の鯉になるバカはあまりこの時代にいなかったというこだろう。
上杉家に何の非も無ければその理論は通用するけど、法度と掟を破っておいて家康が信用できないので詮議受けたくありませんって盗人猛々しいよね。
それだけ秀吉死後の中央政権が軽視されていたってことなんだろうけど。
上杉に外交能力がないということだな
これに対して、上杉家は何の掟を破ったの?家康は破りまくっているよ?具体的に書いてみ?
別に景勝が浪人雇おうと、城つくろうと、掟違反じゃないよ?具体的に何の掟に違反してんの?しかも景勝の築城は秀忠は「もっとも」と書状送っているよ?
家康は私婚違約するは、遺言に反して勝手に大阪城に乗り込むは、掟に反して勝手に(豊臣の領地から削って)好きな大名に加増するわ、明らかに違約・掟違反だらけじゃん。家康は非だらけだよな。
「豊臣側近」が三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)。三奉行は家康が大坂離れないと糾弾できないヘタレだった。のか、実際大坂にいる間は、家康に逆らうと生命の危機だった。まあ、どっちにしても簡単に解決する話じゃなかったのだろう。
いやすげーな、その三奉行が正に西軍の中心だってことは当然の前提で皆知っているにもかかわらず、出してくるとは頭おかしすぎるわ。ちょっとどうしようもねえわ。コメントのしようもないわ。
景勝にしてみりゃ、加増とはいえ、争乱の地の統治を押し付けられ、その(争乱の地防護のために)措置に従って兵士も増やして、治安維持のために(失業者の)浪人を雇って、東北の治安のために努力していたら(石高が上がれば軍役の人数も上がるので浪人雇うのも、軍備整えるのも当たり前。というか、それが履行できなかったら改易の理由になりかねない。)、「反逆の疑いだ!」とか家康に言われたら「はあ?!」とかなるわ。それで、こんなことを言っている「讒人」の糾明に条件を一点に絞ったら、「グダグダ言わず上洛しろ、お前の言い分なんか知るか」というのが、家康の最後通告だったわけで、お人好しの景勝でも「ああ、家康は最初から自分を嵌める気だったんだ」と理解したんだろうね。
前田玄以が西軍の中心とか何言ってるんだこいつ?
どうみても巻き込まれたから嫌々付き合ってるような行動しかしてないが。東軍にも早々につながってるし。何か積極的に西軍として動いた実績あるか?
関ヶ原の戦の西軍の敗因として西軍は兵を集めたやり方がむごすぎたため輝元中心に纏まるわけなかった。
関東の発展速度と内府の狂犬ぶりは警戒されても仕方なかったと思う
というか内府さん移封の時点ではもう一度ガチる気満々だったんじゃないかな
あらゆる干渉を撥ねつけながら信長のやり方で兵力確保のために動いてるし
どうも関が原は豊臣政権下の内部争いというより
家康がもう一度ガチった結果にしか見えない
かわいそうなのは輝元で
豊臣政権の内部争いだと思ってたのに
家康が「あ゛? オメー何言ってくれちゃってんの?」って戦後処理したとこが関ヶ原の解釈の焦点に思える
内府狂犬すぎんよ、マジで
内府違いの条々すら知らないバカが何を語っているのだろうか・・・・・・。
「豊臣政権内」の中に家康も当然入っているので、それで輝元がかわいそうという事はない。
家康軍は、「この戦(当初は上杉征伐)に勝って所領獲得するぞ!」ってギラギラしていた連中だったのに対し、毛利軍は無理やり集められた感が半端なくて、この戦に勝ったら所領が増えるのかもはっきりしなかったからな。毛利は毛利でこの機会に自領を拡大したい意思だけが丸見えだったし。これじゃ誰もついてこんわ。
「内府違いの条々」に署名したとされているけど、一人だけ黒印で本人の署名じゃないんだよ
複数の史料に2奉行での書類とされていて玄以の名前がなく、付け加えられたっぽい
病気とする説もあったんだけど同時期に本人が文書の発給をしていて、東軍細川の助命に積極的に動いているので成り立たない
つーか、前田玄以が中心って言ってんのは、※126だけで、そいつに言ってくれ。三奉行(前田・増田・長束)が中心って話で、前田はその当時病気だったし(そういう記述もある。あるいは仮病?)し、そこから実際には内府違いの条々は前田の本意じゃないけど、他の2奉行に押し切られたって話が、その黒印(署名できないほど重病というアピール?)から想像できるってだけの話。結局黒印でも内府違いの条々に名を連ねている以上、公的には西軍の中心人物になってしまうし、それを許容した事実は変わらない。
元々の話は、当時の豊臣公議が三成を謀反人にしてたかって話。内府違いの条々が豊臣公議を代表する三奉行の公的な意思表明である以上、、当時の豊臣公議が三成を謀反人にしてたなんつー話はありえないよってこと。こんなもん議論する以前の明白な話。ちょっと話が拡散しすぎだな。
三奉行は家康打倒する気はなくて、様子見て和睦するつもりだったんだよ。(中央政権から追放するが、所領は安堵するあたりが落としどころか?)だから、交渉してんのは当たり前。
”ここで籠城してりゃ負けないけどしてる意味なくねえか?
本拠に乗り込まれて勝たれたら返す刀で敵が襲ってくるしな”
って思うわな。たしかに三方ヶ原の家康の立場を逆にしたようなもんだ
三方原を経験した家康は大垣城の三成の心理が手に取るようにわかったと