征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
引用元http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1323356985
1:日本@名無史さん:2011/12/09(金) 00:09:45.62 ID:.net
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。
3:坂上田村麻呂:2011/12/18(日) 19:52:01.43 ID:.net
清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。
18:日本@名無史さん:2011/12/23(金) 12:57:00.73 ID:.net
>>3
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。
6:日本@名無史さん:2011/12/18(日) 23:39:14.17 ID:.net
家康の場合、祖父の清康の時から新田流源氏(世良田)を称しているという
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。
新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。
世良田(せらた、せらだ)氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田郡(新田荘)世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。
得川氏(えがわし、とくがわし)は、平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族。清和源氏新田氏の一族。新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする。
10:日本@名無史さん:2011/12/19(月) 15:11:26.84 ID:.net
>>6
家康の親父の代には藤原姓だったんじゃなかったっけ。
家康も初期には藤原姓を名乗ってるんだよな。
家康の親父の代には藤原姓だったんじゃなかったっけ。
家康も初期には藤原姓を名乗ってるんだよな。
12:日本@名無史さん:2011/12/20(火) 00:23:13.96 ID:.net
>>10
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。
7:日本@名無史さん:2011/12/19(月) 05:46:34.27 ID:.net
頼朝は伊豆~鎌倉拠点、尊氏は鎌倉の御家人、家康は関東の太守だったけど、
東国を制してない秀吉が征夷大将軍はないだろ。
信長もそうか。
秀吉は中央を押さえたからすばやく関白になっておくほうがよかった。
家康が将軍になることはかまわないが、源氏を私称するのはなぁ。
東国を制してない秀吉が征夷大将軍はないだろ。
信長もそうか。
秀吉は中央を押さえたからすばやく関白になっておくほうがよかった。
家康が将軍になることはかまわないが、源氏を私称するのはなぁ。
8:日本@名無史さん:2011/12/19(月) 09:15:15.41 ID:.net
江戸時代に宮将軍擁立計画があったと聞いたが。
9:日本@名無史さん:2011/12/19(月) 10:50:32.86 ID:.net
>>8
家綱が死んだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。
家綱が死んだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。
13:日本@名無史さん:2011/12/20(火) 01:23:30.26 ID:.net
家康の氏素性については三河物語の通りでいいだろ
14:日本@名無史さん:2011/12/21(水) 20:05:30.42 ID:.net
いつから源氏だけなんて説がはやりだしたんだ?
15:日本@名無史さん:2011/12/21(水) 22:20:24.68 ID:.net
律令的には根拠がないけど、足利義満が征夷大将軍と共に
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。
源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初であり、足利将軍家と徳川家康に始まる徳川将軍家(清和源氏の新田氏の流れを汲むと自称)は武家のまま源氏長者になっている。ただし、義満以後、源氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある)義尚を含めても5名であり、実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており(在任は前者の方が長い)、他の源氏系公家の就任を排除することになった。戦国時代にはいると再び村上源氏久我家から源氏長者が任ぜられている。この背景としては足利将軍の地位が不安定となり、官位の昇進が停滞したことや公家社会との関係の希薄化によって足利家の源氏長者への関心が低下したことがあったとみられている。徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。ただし、岡野友彦は、幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったのではないかと推測している。
16:日本@名無史さん:2011/12/22(木) 08:44:36.81 ID:.net
>>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。
17:日本@名無史さん:2011/12/23(金) 01:03:51.86 ID:.net
>>15-16
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。
19:日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:04:08.33 ID:.net
秀吉が近衛家の養子になったことからの派生なのかな。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。
20:日本@名無史さん:2011/12/24(土) 11:00:45.40 ID:.net
関白になった後に征夷大将軍になる必要てある?
義昭は、88年まで将軍だったし。
仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。
義昭は、88年まで将軍だったし。
仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。
22:日本@名無史さん:2011/12/25(日) 00:20:12.32 ID:.net
征夷大将軍
摂政
関白
太政大臣
偉さ(格式)の序列は?
摂政
関白
太政大臣
偉さ(格式)の序列は?
23:日本@名無史さん:2011/12/25(日) 11:25:34.19 ID:.net
摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。
25:日本@名無史さん:2011/12/25(日) 18:54:51.40 ID:.net
家康は死の一月前に太政大臣になってるね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。
26:日本@名無史さん:2011/12/25(日) 20:00:03.04 ID:.net
木曽義仲から
27:日本@名無史さん:2011/12/25(日) 21:23:37.84 ID:.net
ところが義仲は征夷大将軍ではなく征東大将軍だった
征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)は、かつて中国と日本で用いられた将軍の称号の一つで東夷を征する将軍の意であるが、常に任命されるとは限らない。
源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
28:日本@名無史さん:2011/12/26(月) 07:51:33.95 ID:.net
田村麻呂から
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
29:日本@名無史さん:2011/12/26(月) 16:20:32.55 ID:.net
大伴弟麻呂から
30:日本@名無史さん:2011/12/26(月) 21:04:53.48 ID:.net
田村麻呂は清和源氏
33:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 12:35:02.64 ID:.net
>>30
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。
31:日本@名無史さん:2011/12/26(月) 23:46:18.96 ID:.net
なんでやねん
32:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 09:27:40.46 ID:.net
>>31
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。
33:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 12:35:02.64 ID:.net
>>32
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。
34:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 14:09:13.26 ID:.net
最初に源姓を名乗ったのは嵯峨天皇の子供。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。
35:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 19:01:16.78 ID:.net
>>34
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。
37:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:26:36.34 ID:.net
征夷大将軍自体には、摂関同様官職としての格があるわけじゃないんで、
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。
42:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 21:36:04.61 ID:.net
>>37
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか?
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか?
45:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:19:14.05 ID:.net
>>42
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。
46:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:58:14.43 ID:.net
>>45
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。
38:日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:43:44.98 ID:.net
征夷大将軍はそもそも令外の官、いわば称号みたいなもの。
41:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 09:37:01.72 ID:.net
歴代征夷大将軍
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂
そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂
そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。
43:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 21:45:44.24 ID:.net
源氏長者と源氏の征夷代将軍って全く別の物なんだが・・・
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる
44:日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:13:01.59 ID:.net
武家の棟梁が征夷代将軍
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか?
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか?
47:日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:12:12.51 ID:.net
信長が天皇を超えるためには、海外進出が必要では?
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。
49:日本@名無史さん:2011/12/31(土) 17:49:27.80 ID:.net
>>47
それ、普通に秀吉の政権構想じゃん
それ、普通に秀吉の政権構想じゃん
48:日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:36:30.72 ID:.net
国内の統一さえできない奴に、
どうやって海外進出ができるのか。
どうやって海外進出ができるのか。
50:日本@名無史さん:2011/12/31(土) 19:19:27.43 ID:.net
いや、秀吉は唐入りのあと天皇を北京に遷すつもりじゃなかったかな
51: 【大吉】 【516円】 【東電 71.9 %】 株価【E】 :2012/01/01(日) 01:18:49.99 ID:.net
家康が藤原から源に変えたから、将軍は源氏ってイメージになったのでは?
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。
53:日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:41:49.47 ID:.net
山名豊国を交代寄合に取り立てたのも、新田源氏だったから?
58:日本@名無史さん:2012/01/03(火) 10:54:35.60 ID:.net
>>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
59:日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:24:36.58 ID:.net
幕末の源氏長者って誰なの?
61:日本@名無史さん:2012/01/04(水) 07:26:44.90 ID:.net
>>59
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。
62:日本@名無史さん:2012/01/06(金) 16:00:45.70 ID:.net
源氏長者を任命するのは朝廷?
63:日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:13:09.41 ID:.net
>>62
そう。宣旨による。
そう。宣旨による。
70:日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:34:27.46 ID:.net
源氏だけになったのは足利からだろ?
71:日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:24:15.88 ID:.net
>>70
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった
76:日本@名無史さん:2012/02/23(木) 15:38:41.64 ID:.net
征夷大将軍職そのものが本来大した役職じゃないのに、
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ
78:日本@名無史さん:2012/03/14(水) 23:54:44.42 ID:.net
>>76
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない
79:日本@名無史さん:2012/03/15(木) 09:17:04.35 ID:.net
>>76
頼朝が征夷大将軍という名前の響きに漬かれたからとしか言いようがない
ただの将軍だけより、ずっとサマになるからな
別に征夷大将軍にならなくても既に政権の体をなしていたし
頼朝が征夷大将軍という名前の響きに漬かれたからとしか言いようがない
ただの将軍だけより、ずっとサマになるからな
別に征夷大将軍にならなくても既に政権の体をなしていたし
81:日本@名無史さん:2012/03/15(木) 14:44:01.69 ID:.net
宗良親王は征夷大将軍じゃなくて征東将軍
宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。宗良親王の皇子としては興良親王と尹良親王がいたとされ、興良親王は『新葉和歌集』でその夭折が詠まれているが、興良親王は護良親王の子で後醍醐天皇皇孫ともされており矛盾がある。尹良親王についても歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多いが、南朝方として父の後を継いで各地を転戦、源氏姓を賜る(後醍醐源氏の祖)と共に征夷大将軍に任じられたと伝えられる。
183:日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:47:11.42 ID:.net
なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったORならなかったのか?
184:日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:24:10.94 ID:.net
>>183
関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから
征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね
関連記事なぜ秀吉は征夷大将軍になって幕府を開かなかったのか室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく室町幕府に一人無能な将軍がいるよな関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから
征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね
コメント一覧
息子の頼家は頼朝の死後直ぐに家督を継いでいるのに将軍に宣下されたのは3年後。
このことから、
・頼朝は奥州征伐の名目目的で征夷大将軍職を欲した。(征伐は不要と感じた)
しかも重視したのは「征夷」ではなく「大将軍」の方。
・当時の「鎌倉殿」の権威は総追撫使・総地頭の地位によって担保されるものだった。
・征夷大将軍が意味を持つようになったのは執権北条氏が「鎌倉殿」と「征夷大将軍」を結びつけてから。
つまり摂家将軍や宮将軍の正当性主張のため。
って説もあるね。
実は昔は将軍って役職が複数あってどれもこれもいつの間にか消えていった結果が
武家トップの象徴征夷大将軍なんだって知って軽くショックだったよ
秀吉が関白を世襲にする制度が成功してたら征夷大将軍も同じ運命を辿っていたかもしれんよね
「大将軍」が春秋戦国時代からある程古い
征東大将軍でも鎮西大将軍はまだ大義名分になるけど近衛はいらんよな
※5
いくらでもいるが半分以上怪しい。先祖伝来の遺品自慢してくるけど怪しいわ
※6
カタカナだと中国人経営のレストランみたい
そうそう
幕府を意味するショーグネットって感じの単語まで出来るくらいの
独特の組織なんだろうね
帝国じゃないからエンパイアじゃない
王国じゃないからキングダムじゃない
共和国でもない
じゃあなんなんだ?って考えた結果生まれたのがショーグネットだから
他には類がないだろうな
藩がそれぞれ自治してたからイメージ的には合衆国や連邦が近い感じもするけど
トップの称号の英訳がないだけで、大まかな体制としてはごく普通の中央集権よりの封建国家やで
諸藩の財政的負担と軍事力低下は幕府にとってもデメリットでしかなかったという
最近ようやく認知されだした事実
認知も何もデメリットが大きくても反乱の目を摘むことを優先させた、普通にそれが目的じゃないの?
朝廷と田舎侍たちの意識のずれ?
過去の偉い人が征夷大将軍になったからだろ
冷戦期の東側諸国の党代表の肩書きが「総書記」だったのと同じ
参勤交代の諸藩の甚大な財政的負担については、幕府の想定外も良いとこだったろ。
そもそも参勤交代を明文化した武家諸法度ですら、
「近頃の参勤は人員多すぎて民の負担になるってるから分相応に減らせ」っていってる。
その後も再三にわたって「人員削減しろ」「装飾に金掛けるの止めろ」って指示出してるし。
更には、享保六年に、
「石高20万石以上の諸侯は騎士20騎まで、 足軽120~130人、雑兵300人どまりの計450人を上限にしろ」
と方針指示してる。
加賀藩を筆頭に守る気は更々無く、あの手この手で3倍近い人員を動員してるけど。
しかし、親藩の水戸藩が脱藩浪士という形で(形だけ、コントロールしていただろう)井伊直弼を害するような
荒れ模様じゃあ その前に井伊が徳川斉昭謹慎にした報復ではあるが
結局荒れれば外様だろうが親藩だろうが譜代だろうがダメだな
源氏長者は代々一人やぞ
何人もいたら半分どころか一人を除いて全員偽物やろ
豊臣家の存在のせいで、家康は征夷大将軍にしかなれなかったことのごまかしで。
そのことが回り回って、幕末の徳川家の日本統治の正当性の否定になるんだから面白いね。
大老暗殺するし
徳川は内部から穴があったな