柴田勝家とかいう一回の合戦で親戚以外の武将に裏切られた武将wwwww
1:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:36:11 TXW
おいおい嘗められすぎw
2:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:37:52 RqO
突出したバカ一人押さえきれないから仕方ないね
3:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:38:20 TXW
>>2
まぁ…残当だよな。
まぁ…残当だよな。
4:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:40:53 TXW
実際さどんな心境なのかガチ気になるわw
5:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:43:38 TXW
だって昔から一緒の前田利家に敵前逃亡され、どんな心境なのか気にならないか?
6:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:45:40 Gjj
謀反人やししゃーない
8:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:53:52 yeC
悪いが最後の飲み水が入った瓶を
叩き割るのはNG
叩き割るのはNG
10:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)18:43:45 jEv
>>8
死活問題だよなw
死活問題だよなw
16:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)19:17:29 Msl
>>8
あれは成功してるんだよなあ
あれは成功してるんだよなあ
野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事紀』が初出であり、事実ではないと見られている。『武家事紀』によると、元亀元年(1570年)6月に六角義賢父子は長光寺城を囲んだ。義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取ったという。ここでは、これより勝家を俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。
9:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)02:57:07 0nt
酒飲むと毎度自身の武勇伝メッチャ語ってそうなメンドくさい上司なイメージ
11:名無しさん@おーぷん:2017/02/12(日)18:44:03 jEv
>>9
勝家って寡黙なイメージ
勝家って寡黙なイメージ
12:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)00:11:57 iTZ
前田利家は信長の小姓出身だから出世が約束されていたとは言わないまでも
かなり有望視されていて周りからチヤホヤされてた
ただ信長のお気に入りの茶坊主を斬り殺したせいで追い出されて何年も無職生活を送ってた
本来は茶坊主を斬り殺した時点で信長は利家を殺す気だったんだが
柴田勝家や森可成がなんとか助けようと信長に懇願したお陰で追放処分で済んだ
追放されたら当然無職になるわけでそうするとチヤホヤしてた連中もみんな利家から離れていった
それでも利家を心配して訪ねてくれたのが前述した柴田や森で
この時に利家は自分が苦しい時でも手を差し伸べてくれるのが真の友人なんだなと思ったそうで
晩年もよくこの時の話をしたそうな
かなり有望視されていて周りからチヤホヤされてた
ただ信長のお気に入りの茶坊主を斬り殺したせいで追い出されて何年も無職生活を送ってた
本来は茶坊主を斬り殺した時点で信長は利家を殺す気だったんだが
柴田勝家や森可成がなんとか助けようと信長に懇願したお陰で追放処分で済んだ
追放されたら当然無職になるわけでそうするとチヤホヤしてた連中もみんな利家から離れていった
それでも利家を心配して訪ねてくれたのが前述した柴田や森で
この時に利家は自分が苦しい時でも手を差し伸べてくれるのが真の友人なんだなと思ったそうで
晩年もよくこの時の話をしたそうな
15:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)19:16:53 7AE
>>12
なお、子作りはする模様
なお、子作りはする模様
13:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)06:52:17 LV7
>>12
前田利家は罪悪感を抱かない性格か…ヒェ
前田利家は罪悪感を抱かない性格か…ヒェ
18:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)19:19:00 7AE
>>13
一々罪悪感抱いてたら戦国大名やってられんやろ
一々罪悪感抱いてたら戦国大名やってられんやろ
14:名無しさん@おーぷん:2017/02/13(月)19:03:57 iTZ
この話だけ聞くといい話なんだけど
柴田の末路を知ってると別の話になる不思議
関連記事柴田勝家←時勢を読めない脳筋バカ、石田三成←豊臣に尽くした忠義の臣織田信長の部下で一番有能なのは柴田だろ?柴田勝家が無能だとかいう事実無根の中傷やめろ柴田の末路を知ってると別の話になる不思議
コメント一覧
利家の裏切りでさえも、歴史ファンから仕方がない
扱いまでされる始末。
実際、勝家の武功や実績は「信長ありき」なんだよな
譜代だった織田家でなければ、そもそもあそこまでの身分になれてない
だから佐々だの前田だの譜代の、有力な与力を付けたんでしょう
斯波氏に仕える守護代家の分家の家臣だから確かにその当時は史料に残されるような立場ではなかったけど、信長躍進のときにもうちょい記録が作られて残ってもおかしくなさそうなんだけどね。
ぱっと見で「平野だ」からの「相木市兵衛もだったな」という近藤さん感
悪いけど、柴田みたいな豪傑なイメージとはほど遠いなぁ
この人も戦国大河2年連続なんだよな
大谷→直江の村上新悟
小早川→小早川の浅利陽介は結構話題になったのにね
そういやなんで信長初期から筆頭格だったんだろう
初期の分は信秀信長の功績に吸収されてしまったのかね
桶狭間や美濃でも事績が無いしと明智羽柴と並べられるような功績があるとは思えない
戦に関しても強さの質がよくわからない。かかれ柴田と言われてたくらいだから小~中規模や先駆けとして光るタイプだったのかもしれない
ただそれだと秀吉の物量戦には歯が立たなそうでもある
知名度の割には実態が良くわからん武将だ
であれば後見人となって信長の妹を妻に迎えた上、秀吉の当時の根拠地だった上に政庁になっていた安土に近い北近江を拝領してる勝家の政治的な圧勝のようにも思える
清州会議から賤ヶ岳の戦いに至る秀吉の行動は完全に下克上だよな
清州会議の時点で織田家はどうでも良くなったのだろうか
いきなり信孝を攻めて三法師を強奪
秀吉許さんと挙兵した滝川、柴田、信孝を一つづつ潰して完全に織田家を掌握
まぁ血縁のない養子だが
信長死んだ時点で、野心に火が付いたんだと思う。天下取れるかもって、次々計画が頭に出来たんだと思うな。
四天王ポジまで復活した理由が気になる
某大河のこの流れ好き。平和主義の末路よなぁ
織田家当主の後見人となった勝家に根拠地たる北近江まで押さえられて完全にマークされてた点を鑑みると
秀吉はクーデター起こしてでも状況打開しないと自身が排除されると思ったのかなぁ
筆頭格は林や佐久間であって柴田は全然でしょ
林や佐久間の追放で繰り上がりで筆頭格になってるだけだから人もいまいち着いて来ない感じにみえる
それなのに、秀吉が勝ったのが本当に不思議。勝家の政権構想がよっぽど不評だったのかもしれんね
いや、勝家有利だったのを、秀吉が運と才覚でひっくり返したんよ。
信長や家康もそうだけど、やっぱ英傑になる奴は才覚も運も持ってるよ。
賤ヶ岳の秀吉は、たまたま川が氾濫して美濃に深入りできずに、大垣から主戦場に5時間で大返しとかだもん。
秀吉が賤ヶ岳に戻れなかったら、利家の離脱もなく、賤ヶ岳は勝家が押し切ってたと思うわ。
そいや利家が隻眼の作品てほぼ無いな
反逆者扱いされてもおかしくないくらいの行為なのに
織田家臣団も当たり前のようについていくし
関ヶ原で敗退後に毛利輝元が秀頼のいる大坂城で籠城すれば
向こうは攻められないってのを聞いたことあるが
多分余裕で攻めてくるだろうな
もう完全な当て推量になりますが、勝家はまさか秀吉がここまで強引な手段を取るとは思わなかったのではないでしょうか
賤ヶ岳での開戦に至る前に勝家は秀吉相手に和睦を行っていたと記憶しておりますし、
まさか政治的敗北に武力で巻き返しを図るとは思わなかったのかなと
こう考えると秀吉死後の石田三成ってまんまこの時の秀吉の真似したのかなとか邪推までしたり
淀が西軍正当、東軍賊軍と断言していればその手があるが…
関ケ原当時は西軍の方が賊軍扱いだったようだしな
仰られる通り三法師と同じように秀頼を確保しても大野や淀は三成支持に回らなかったですし雪で動けなかった勝家と違い家康はすぐに踵を返したので賤ヶ岳と丸々一緒にはならなかったですよね
つまり、石田三成当人が真似しても周りが賤ヶ岳当時の状況とは異なったから三成は敗死したのかなと
マイナーな説だからねぇ
確かに秀頼確保、西軍挙兵、一気に攻め込むって流れは似てるな
これ一番大事なのは勢いなんだろうな
勢いで敵味方中立に考える隙を与えずに流れ込む
それで相手を撃破出来たら後はもうそういう流れになる
西軍は伏見城でもたつき過ぎたと思うわ
鳥居が伏見城で時間稼ぎしたのは無駄ではなかったということだな。
その辺の政治センスがある印象はないけど。
佐久間盛政の背後をとる形で羽柴軍に割って入り
かなりの戦死者を出してるんだよな。
勝ち目がある方に一気にひっくり返りますわ。
あと勝家の場合は年を食ってるくせに後継が固まってなかったのも痛い。
同じ家中だけに秀吉の実力と性格を知り尽くしてるので勝家配下にそもそも戦意があったのかどうか。
一部以外は半ば勝家への義理で戦場に来ただけだろ。
勝家が積極的攻勢に出れなかったのもそういう理由かも。
やはり賤ヶ岳の時との大きな状況の違いの一つに「構成員のやる気」はあるでしょうね
勝ち馬に乗るつもりの人たちが構成員の大多数だった当時の秀吉の軍と、家康指揮下に入るつもりで来たのに無理やり西軍に組み込まれた人たち多数の西軍ではそりゃあやる気も勢いも雲泥の差になるかなと
そんな勢いのない状況で勢いが必要な戦略を立てたからこそ早々に三成の計画は破たんしたのではないでしょうか
勝ち馬に乗るつもりの人たちが構成員の大多数だったのが家康軍でしたからね。
勝ち馬に乗るつもりの人たちが構成員の大多数だったのが当時の家康軍でしたからね。
領地が拡大できそうな方につくのが、当時の大名。
西軍奉行衆は、なるべく領地を出し渋りたかったからね。(加増すればするほど豊臣は弱体化する)本音はすぐ、和睦したかったし、総大将毛利輝元は味方の大名そっちのけで自分の領地の拡大に夢中だったし。
誰でも自分の欲望に忠実なんだよ。加増させてくれそうな勢力につくのが当然。(秀吉も家康も、そのあとえげつなく味方となった大名の領土削ってくけどね・・・・・。)
えげつないか?
領土を削られるってことは信頼されてないんやろ
または遠すぎたり抗戦の意思を示したせいで降伏に領土を削らない条件だったり
秀吉や家康がえげつないという訳でなく、統一国家になった以上分け与えるべき領土などないので削るしかないのではないかと
ましてや今後国家を運営する上で最高権力たる自分に逆らう可能性のあるものや統治能力に問題のあるものを残す訳にはいかないですし
これは何も戦国時代に限ったことでなく鎌倉幕府やらも行っているのでむしろ自然とそうなるのではないでしょうか
まあ息子の代でだけど
初耳ですがソースはありますか?
「えげつない」ってのは、別に批判で書いているんじゃないよ。むしろ、政権の安定のためには削るべきで、結局秀吉最大の失敗は、一大名に250万石なんて大領を与えて放置していることで、そんな事やっている政権が長続きした例はないってことだね。
※33
秀吉→家康のように信頼しても裏切られる訳なので、「はじめから信頼しない、よって削る、もしくは改易」が正しい選択肢。だから、逆にいうと秀吉はえげつなくないのかもしれない。
なるほど、えげつない=やり手、という意味で使ってらしたんですね、悪い意味で用いられやすい言葉ですので勘違いしておりました
私的には家康はかなり最後の段階までおそらく秀吉が希望したであろう信頼に対し忠実に履行していたと思っております故に秀吉の信頼に対し家康が裏切ったととるのはいささか違和感を覚えます
※33だが最後は裏切ってると思いますぞ
方広寺はクレームの内容はもっともだが条件がふっかけだし
そもそも大坂の陣という戦が起きてる時点で秀頼の命を大切にしてはいない
大坂の陣起こしたのは片桐を追放し攻撃した秀頼であって家康ではないよ。
方広寺鐘銘事件よりも前に秀頼は大坂城に兵や兵糧を集め、当時の外交官とも言える取次役であった片桐且元の勝手な追放を行っており、またこの間徳川が出す融和策も全て蹴っております
ここまで武力などによる脅迫的態度を取っている相手にはさすがに徳川も武力対抗せざるを得ない状況だと推論できます
大坂の陣の性質は裏切りというより江戸時代期の主君押し込めに近いように感じます
私的には君臨すれども統治せずのはずの君主の武力的暴走を政治と軍事を司る幕府が止めた案件と見ており、かなり際どい問題ではありますが裏切り行為と見なすべきでないと考えております
利家の裏切りもそもそも勝家の直属の部下じゃなかったからだし
まあ、方広寺事件が家康の難癖と思うか、思わないかが家康評価の境目でしょう。
正直、これを難癖だと思わない人間は(五山の僧だって家康に賛同してるよ!とか。何が悲しくて当時の僧たちが権力者家康の異見に反することを言うと思っているのだろう?)ちょっとヤバい人間だと思いますので、つきあっちゃいけない人物判定に丁度いいかも。
いや、そもそも秀頼は全国政権の豊臣公議の後継者で、家康は秀吉の遺言を受けて、豊臣公議の後継者秀頼を豊臣公議筆頭家老(つまりは部下として)として補佐します、違背したら無間地獄に堕ちますと、誓約した訳なんだよね。
で、結果は豊臣公議から天下を簒奪して、秀頼を自害に追い込んでいるよね。こーいうのをまともな感覚では裏切り、背信という。これが裏切り・背信でなかったら、世の中に裏切り・背信なんてものは存在しないことになる。「かなり最後の段階までおそらく秀吉が希望したであろう信頼に対し忠実に履行していた」なんてどこがどうしたらそういう理解になるのか不明。
おそらく、家康の魂は無間地獄に堕ちているだろうね。まあ、あの世のことなんて誰にも分からないが。
国の松枯れひろむ徳川
レッテル張りはやめてもらいたい
それならこちらも書かせてもらおう、
同じことを現代でやって許されると思う方がヤバい人間だ
数百文字の一部だからといって大統領や総理の名前を分断して、いいと思うか?
近くに豊臣を逆さにしてあったから問題ない!で通るのか?
その通り、裏切りだ
だが強制的に誓わされたものである
そういうものを破って無限地獄に落ちるなら、いじめられた人間が同じことをしたら全員無限地獄行きなのか
片桐且元はどうなるのか
いや、裏切りだと自分で認めるならいいのよ。あるいは「秀吉に強制的に誓わされていたんだ、俺は」と事後的にも表明するのでもいい。
家康は、裏切りを認めた訳でも(まあ、認める訳がないのは理解できる)、「強制的に誓わされていたんだ、俺は」とも言っていない。事後的にも。天下人になっても。
「強制的に誓わされていたんだ、俺は」となれば、臥薪嘗胆、にっくき秀吉のあんちくしょうめ、って話になり、それなりに同情できる。
しかし、家康は関ヶ原の戦いで自分は豊臣の忠臣で、西軍の敵方を豊臣の奸臣だと言って戦って、勝った。そして戦後も相手は奸臣だというレッテルを張り続けた。相手に奸臣のレッテルを張ったてことは、自分は豊臣の忠臣である、という主張を続けたってことになってしまうんだよ。
自分で豊臣の忠臣を叫んで、自分は豊臣を滅ぼすという大逆行為を行う人間はまあ矛盾しているし、腐っているな。控えめに言って狂っている。別に無間地獄があるか知らんが、まあこんな人間が無間地獄に堕ちないなら、そもそも無間地獄は存在しないのだろう。(私はまあ、無間地獄なんてないと思う。しかし、人間誓いを立ててそれを破るって、まあ罪深いことなんだよ。)
えーと、許されないの?最終的に自害に追い込まれるほどの罪なの?例えば「一晋二三」とか書くと
「現代でやって許されると思う方がヤバい人間だ」という世の中に現在の日本はなってしまったの?
ぎゃー、知らないうちに、日本がオーウェルの「1984年」の世界に運ばれてしまったのか?
怖い、怖い。
豊臣公儀はそもそも秀吉の死直後から家康が運営しております、簒奪と呼ぶべきではないかと
次に、先にファイティングポーズを取ったのは秀頼です、また夏の陣直前まで家康は和解案を出しており、まるで殺意は見受けられません
簡単に説明するなら恩義ある相手の子がこちらに非は全くないのに刃物抜いて切りかかってきている状態です、しかも制止も譲歩も効かないで刃物振り回してるような状態です
これで殺してしまってもそれは正当な防衛と認められるべきでは?
正当な防衛を裏切りと呼ぶのはいかがなものかと
「強制的に誓わされてたんだ」って後で騒いで、なにか家康に得があるか?
ないな、周囲の大半が強制的に誓わされてたことくらいわかる
騒いでも名を落とすだけでしかない
※50
公的な場でやっちゃいかんだろ
そしてあなたのような露骨な煽り文面だとまずいし、
あなたには日本の首相だから許されるという甘えがあるね
それに方広寺の文書いたやつは謝罪してるぞ
それが秀頼まで責任押し付けられてるのは事実だが
家康が裏切り言い出すと、
秀吉も三法師を洗脳してちっぽけな立場で満足させている裏切りがあるんだよな
この点俺は同レベルだと思う
なぜなら豊臣を滅ぼした後も、鐘は破棄されなかったからだ。
つまり、鐘自体はとっかかりでしかなく、
幕府は始めから豊臣公儀へ恭順か抗戦の2択を迫るのが目的で
問題を大きくしたのだと解釈している。
だが、その難癖をうまく捌けずに浪人を招集した豊臣方にも問題がある。
挑発に乗って政治的不利を軍事で巻き返そうとしてしまった。
秀頼公は武士としての矜持があったのかもしれないが、この際おとなしく従って
公家大名として生き残る選択もあったはずだと思う。家康が寿命で亡くなるまで
待ってから蜂起しても遅くはないし。
和解案って城明け渡しだし
方広寺もクレームはもっともだが賠償がふっかけで秀頼にまで巻き込まれてるから
そこまで家康が正しいとは思わないが
※50
怖いか…日本以外で同じこと(解釈によっては権力者をバカにしたと取られても仕方ない文)やって大丈夫か?
日本でもTVなどで皇室、外国の王室や中韓台湾など隣国をあざけるともしかたない表現して、許されると思うか?
「証拠保全」という考えもあるらしい
書いた人間は謝罪させられてるのに
寺に協力しただけの豊臣が賠償責任を負うのはさすがに問題だが
>秀頼生き残り策
しかし、秀忠も一応参勤交代を制度化以前にやらせてたらしいし大名妻子人質提出など命じるのではないだろうか
「私は偉い、将軍が命令とは何事だ!」とはねつければ討伐される
それが城明け渡しに直接結び付くのは徳川からの要求が大きすぎる
まあ証拠として残すなら、京都所司代が鐘を回収して保管すると思うけどね。
本気で呪詛返しを主張するなら、そのまま釣るして放置しないでしょう。少なくとも文言の部分を修正か削除するだろう。
政治的価値がなくなりほっといたんじゃないかな?「証拠保全」説は一理あるけれど、
やはりきっかけとして利用して放置したように思えるよ。
>>秀頼生き残り策
確かに秀忠の代になっても無理難題を押し付けられると思う。
ただ、片桐且元を擁したまま恭順すれば公家大名としてワンチャンあるし、
抗戦するにしても徳川家康や本多正信が存命中より
いない方が豊臣方は戦いやすいのではないか?
確かに名前を割ることは関東では不吉なことで、家康もその点に不快を示していますがこれは挙兵の原因ではない
この事件の解決のために動いていた且元が内通者だという噂が流れて且元が暗殺の危険にあったにも関わらず出仕か追放かを選ばせ、追放した点が挙兵の原因です
この時点で且元は徳川との取次、いわば両家から雇われている外交官でありこれを片方の家が勝手に追放することは外交関係の断絶を指し、宣戦布告とほぼ同義なのです
また冬の陣前に徳川から城の明け渡しにを条件に提示したことは一切なく、あれは且元の私案です
諱の扱いが西国と東国で文化が違っただけであり、企業の公式ツイッターで人の名前使った不謹慎ともとれるギャグをツイッターに書いたら思いっきり炎上してあわや訴訟問題がどうかにまで発展したと思えばいいのではないかと
この東西の諱の文化の違いについてきちんと説明を行えばよかったのですが、ある意味且元が空回ってしまったともいえます
ですがまぁ方広寺の造営に関しての鐘銘を含んだ家康からの修正案を秀頼が全部蹴っているので、家康がブちぎれていると且元が早合点してしまうのも無理からぬ話かと取れます
えー!、えー!本当に公的にやっちゃ死に追い込まれる時代になったんだ。
うわー、本当に今の日本は昔のソ連や、北朝鮮のような時代なんだな。
怖いわ。もちろん昔の家康も怖いわ。
あと謝罪にしてるって、相手が時の権力者で、秀頼を死に追い込むような人間なんだから、謝罪に追い込まれて当然でしょ。
こんな状況で、謝罪に追い込まれているだから、やっぱり本人が悪かったんだ!でおめでたすぎでしょ。
現代は、家康も死んで、徳川幕府も滅んでいるのに何を怯えてるの?怖すぎ。
安倍さんは、長州の出身だから徳川に肩入れしなくても安全だよ。
「ですがまぁ方広寺の造営に関しての鐘銘を含んだ家康からの修正案を秀頼が全部蹴っているので」というのは初耳だわ。
もっと詳しく。
いや、まあ且元がそもそも、方広寺の総奉行で、方広寺事件の失態=且元の失態だろ。
且元の失態のせいで、豊臣家が危機状態になっているんだから、本来且元は自発的に腹切って豊臣家に詫びなきゃいけない立場だよな。
しかし、徳川家の交渉以前に家康に会わせてもくれず(これで「取次」なんだあ。これって、徳川方からも明白に且元は取次失格の烙印を押されったってことになるよな)、あげくのはてに徳川と交渉したわけでもない且元が自分で考えて、豊臣に不利な案を、徳川の案と偽って条件として示すって・・・・・、こんなことやってれば裏切者と思われ追放されて当たり前だろ。その当たり前のことをしたら、宣戦布告になるというのは、徳川幕府の屁理屈で、その屁理屈を当時の全国政権である徳川幕府がやっているから、「それは当時の常識」と現代の人たちの一部がそう解釈しているだけ。
徳川幕府というのは非常識なことをやっている政権なんだけど、当時の全国政権で、勝者だとそれが非常識でも、当時の「常識」なってしまう訳だ。その当時はな。まさに「無理が通れば道理が引っ込む」ってやつだな。
もう徳川幕府は滅んでいるんだから、彼らが作った屁理屈を「常識」と解釈してあげる義理は、誰にもないはずなんだがなあ。
むろん、※55の例では
「怒る方が怖い」論も成り立つかもしれん
しかし、※50の発言はsなにか意味があるか?
怖いわ~とかいうのも煽りにしか思えない
別の例だが大統領と猿を執拗に並べるのが
煽り以外に意図があるだろうか?
申し訳ない、調べたはずなのですがそれほどしっかりと覚えておりません
ですが丸島和洋先生がこのあたり詳しく記述されていたと記憶しているので先生の著書等を調べていただけるとわかるやも知れません、力足らずで申し訳ない
※63
どうやら且元は家康に会えなかったのでなく会わなかった、会わないことによって徳川の態度が硬いものであると秀頼に思わせたかったようです
且元の考えは豊臣の現状の立場を守るのは無理だから徳川傘下に入ることで家の存続を図るであったのでしょう
秀頼の非常識な点は徳川の家臣でもある且元を「独断で」処罰しようとした点です
何度も言うように且元は取次です、双方から給料をもらっている豊臣・徳川双方から雇われた人物なのです
そんな人物であるのにあらかじめ処罰理由を徳川に伝えるといった最低限のこともしなければ、そりゃ大事な家臣勝手に傷つけようとした相手になるわけで、組織として許す訳にはいかないでしょう
こういった組織の長として最低限の報告連絡相談もできない秀頼を常識と考えるのはちと徳川悪玉論にとらわれ過ぎではないでしょうか
※50は煽る口調が得意なようでそちらは徳川は悪と決めつけたがるようだが
恐れ入りますがなぜ、徳川善玉論にとらわれ過ぎなのかを理由を以て説明していただきたいなと
ここまで論ずるにあたって当時の価値観や秀頼方が大坂に方広寺の事件前からの兵と兵糧を集める行為なども踏まえた上で徳川の行為の正当性を述べたはずですが
さすがに理由もなしに徳川善玉論でしょと断じられては快くはないです
且元の落ち度であっても通告なしに取次を排するのが宣戦布告と同義、というのは他からぬ豊臣家が織田信雄相手に出兵した小牧長久手の戦の開戦理由なのですが、これもまさか非常識な出兵と断ずるのでしょうか
また方広寺の事件前から兵と兵糧を集めていた秀頼の行為は常識的な行動でしょうか
ここ十年くらいで大坂の陣に関しては歴史研究が進み、通説との差が広がっているので確認したほうがいいよ
大坂の陣開戦は豊臣秀頼による片桐且元追放と茨木城攻めによるもの。鐘銘事件から棟札・牢人など諸問題に関してはあくまで穏当に済ませようと交渉していることが判明している。
取次の片桐且元追放が意味する事に関しては、丸島和洋先生の『戦国大名武田氏の権力構造』と『戦国大名の外交』を参照にするといいかも。
かなりかわいそうではあるな
明治政府が封印としてこの二人を配置してから現在までだからな
遅くなったが
そもそも家康が征夷大将軍になる行為、数年で秀忠に譲る行為、関白を輩出している豊臣家にとってどうなのか?
というのがありますね
まあこれは任命した方が悪いともいえますが
力関係がすでにそうなってて朝廷は徳川に逆らえません
※67
臣下である徳川が関白様の行動を疑ってよろしいのか?
もう臣下でないつもりならよろしいが
そういう状況でしょう
※65
片桐且元が家康の臣下?
それ自体が豊臣家に対する裏切りではないでしょうか?
五大老は豊臣の部下であり それがでしゃばるのがおかしい
秀吉が「生きていれば」そうキレたでしょうな
第一の意見に関しては研究者内でも説の分かれるところですがそもそも、征夷大将軍となれば天下を統べたことになるわけではありません、たまたま天下を治めた武家の棟梁が征夷大将軍になったゆえ後からそう思われるようになっただけと考えます
あなたのおっしゃる臣下というのは主君の誤った考えに一切忠言も行わない、否定的な言動をしないものを指すというのであればそれならば裏切りでしょう
ですが、それはむしろ世の中では佞臣、君側の奸と呼ばれるものです
また、何度も何度も言うように片桐且元は取次です、取次は交渉相手の家からも知行を受け取るのが通例なので且元を責めるならば戦国時代で取次役だった者全てが裏切り者になりますね
68コメでもありました通り少しあなたの知識が古い情報に基づきすぎていますので、丸島先生の著本を読むことをおすすめ致します
取次というのがそもそも謎です
豊臣は惣無事令を出して全大名が従いました。
それに片桐は関ケ原以前から豊臣の家臣であったはずです。
あと私は片桐且元を一切せめた記憶はありません
家康が片桐を取り込むことはどうなのか?ということです
私の認識では徳川家康は一時的に豊臣に屈して敵が弱くなったら反抗しただけで、無理やり取らされた念書を破ろうが後で裏切りと騒ぎたてるつもりはありません
否定的な言動うんぬんはそもそも秀頼と戦になってしまうのは忠言ではないでしょう
68で書いたけど取次論に関する本を読めば解決するって
「取次役給」って制度があって大名間の「取次」役は交渉あいてからも給与を貰う。「取次」を一方的に廃止するのはダメ。変更後に知行を引き継ぐ。また取次は独自の裁量権を保有する。など決まりがある
豊臣奉行である三成たちが島津など大名家の領内に飛び地の知行地があるのはこの辺の理由
片山正彦先生の『豊臣政権の東国政策と徳川氏』。丸島先生の『郡内小山田氏―武田二十四将の系譜』。平山先生の『穴山武田氏』などもおすすめ。
取次に関しては74コメントの方が仰っている通り本をお読みください
否定的な言動に関しては戦そのものを否定的な言動と言っているのでなく
さんざん忠告しているにも関わらず秀頼が兵を解散させなかったりまた且元を追放したから合戦になってる訳で、そういった戦になる前に散々やった忠告であったり和平案のことを指しております
ここまで融和案を設けたにも拘わらずそれらすべてを蹴った上で起きた戦はもはや秀頼の責任と考えます
71コメントで書かれた「臣下である徳川が関白様の行動を疑ってよろしいのか?
もう臣下でないつもりならよろしいが」という書き方からは徳川が臣下としての行為を逸脱しているのでは、という考えであろうと読み取れたために、そもそも臣下としての行為を逸脱していないと述べているのです
「逸脱してるのでは?」に対して「そもそも逸脱していない」とは思いませんな
「さんざん忠告しているにも」その姿勢がすでに徳川が豊臣の上に立ってしまっている
「ここまで融和案を」これも徳川側の立場で徳川が豊臣秀頼にすごく譲歩してるような書き方だが、
前関白の息子であり右大臣である秀頼に対してこの態度をとること自体がおかしいのです
1603年 家康右大臣辞任
1607年 秀頼右大臣辞任
1614年 秀忠右大臣就任(征夷大将軍兼任)
いつ頃主従が逆転したのか意見は分かれるが、遅くとも1614年の段階で秀頼よりも秀忠の方が官位は上。
ちなみに家康は大阪の陣後に太政大臣に就任している
秀信に対して最後まで臣下の礼を取ってれば、※76はある程度説得力を持つと思います。
しかし、戦国時代後期といえども突き詰めれば「実力主義」です。
実際、秀吉は関白に就き下剋上を果たし、秀信には岐阜13万石与えただけです。
自分の旧主を臣下に落としておいて、部下には息子を裏切るなとは大いなる矛盾じゃないでしょうか。
大坂の陣で毛利も前田も上杉も立花も徳川方に付きました。
豊臣家は戦うことを選んだ以上、実力不足で見限られたとしても他家の忠義や裏切りをどうこう言える立場ではないのです。
別に忠告や融和案くらい、臣下から主君に対して普通に行う行為だと考えますが
世の中には再三の忠告を無視した君主とガチ喧嘩した挙げ句屋敷に引きこもって門の前に盛り土までした臣下だっていますし
忠告や融和案といった言葉を取り上げて臣下の礼を逸脱しているとは言いがたいと思いますが
官位についてなのですが、右大臣だった人間が右大臣をやめたらどれほど権威がなくなるのか、という話が肝だと思うのです
さすがに元右大臣のただの人といった扱いな訳はないので権威は残りますよね
ただ現職の右大臣と前右大臣でどれほど権威に差があるのかというのは一概に断じにくいですし想像の範疇レベルになるかと思うのですが天皇と上皇の関係に近いように前右大臣の権威を強いとする見方もできるのではないかなと
またそれとは別に秀吉が関白になってから作った豊臣の氏を秀頼が自刃するまで名乗り続けられている点からも徳川家は秀頼を関白の継承者とみなしていると考えるべきではないかと
こういった点を踏まえて私的には秀頼存命時の間は主従逆転してはいないのではないかと考えます
もちろん実力の面では完全に徳川が上ですが、非常にきわどいところですが実的な官職としての上下は守っているのではないか、といった考えです
私は※76ですが
それには同意しますが※67当たりのやりとりを見てくれるとありがたい、
※80殿は「徳川家康は大坂の陣の時でも亡き秀吉に忠義を尽くしていた」と主張したいようなので
違いますか?
※79
五大老という臣下が秀頼や淀のいる大坂城を攻撃するのも忠義ですか?
かなり最後の段階まで忠義を尽くしていたと考えますね、夏の陣の直前まで和平交渉を行っておりますし
そういった忠義を全部無下にして徳川家への挑発や威圧といった行為をやめなかったのが秀頼だと申しているのです
それともまさか徳川家康に忠義の証として腹を切るなり秀頼に殺されろとでもおっしゃりたいのでしょうか
大阪城への攻撃ばかりを取り上げて徳川を加害者と見られているようですが、私的には思いっきり被害者ですね
主君の方から攻撃されての反撃を不忠であるとは考えないです
それと、この時期の徳川家と徳川家康の方針は分けて考えるべきとも考えますね、当時徳川家の実権を握っていたのは秀忠のようですし
豊臣家の滅亡への決定を行ったのは秀忠と考えるべきでしょう
そうは思いませんね
和平交渉にしては内容がふっかけです
次は大御所という呼称が現代でもたとえとして使われるほどのように
秀忠よりも家康の方に実験があったと思いますし、
家康と秀忠の思想に乖離があったとも思いません
そりゃ話がまとまらないわw
恐れ入りますがどのあたりをふっかけと思ってらっしゃるのか書いていただけないとコメントのしようがないのですが
印象論で語るにしたってせめてその理由を述べるなりしていただかないと妄言としか断じようがないのですが
ちなみに冬の陣の際、徳川から出された和睦条件は「牢人はどこに居住しようがお構いなし」「国替えを望むのであれば、秀吉時代と同じ石高を用意する」、「もし淀殿か秀頼が江戸に来るならば、丁重に遇する」であり、
よく無理なふっかけと世間で言われる「大坂の惣堀を埋める」、「牢人は召し抱えない」は豊臣側からの提案なのです。
この自ら出した提案すら守れなかったために夏の陣につながっていく訳ですが、そのあたりの流れはご理解いただいてますでしょうか?
また、4月19日段階で徳川からの正式な出陣命令が出ている訳ですが、その後22日以後に家康は独自の書状にて「秀頼が主張している摂津の冬の陣での荒廃は事実と認めるが、河内は同様とは認定できない」、「約束通り牢人を召し放て」、「大和郡山城に移り住むがよい。7年かけて、摂津や大坂城を復興させる。その後、大坂への帰城を認める」と甘々な条件まで出しているようであることもご存じでしょうか?
勉強になるけれど収拾がつかないよ。
個人的に柴田勝家は好きな武将だな
ウィキペディアによると、「和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年3月15日(1615年4月12日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。」とある。(ウィキペディアが信用できるかは知らん。)
なので、ウィキペディアの記載通りなら「牢人はどこに居住しようがお構いなし」じゃなくて、「牢人を解雇せよ」、または「国替えを望むのであれば、秀吉時代と同じ石高を用意する」ではなくて、「「牢人を解雇せよ」ができなければ、移封に応じよ」では?
元のソースが不明なんで(書いてる本人には自明なのか知らんが)、断言するだけじゃなくて、ソースを示しててくれよ。検証しようがない。