豊臣三中老 堀尾良晴・中村一氏・生駒親正
1:人間七七四年:2009/11/17(火) 14:34:22 ID:zBXrve37.net
名高い「五大老」「五奉行」に挟まれた豊臣政権の調整役(小年寄)の三氏一族を語れ。
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)
生駒親正(讃岐高松17万石)
■関連スレ
豊臣政権の五奉行を語れ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171727569/
【内助の功】 山内一豊 【功名が辻】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154004772/
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)
生駒親正(讃岐高松17万石)
■関連スレ
豊臣政権の五奉行を語れ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171727569/
【内助の功】 山内一豊 【功名が辻】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154004772/
3:人間七七四年:2009/11/17(火) 14:39:46 ID:zBXrve37.net
三家とも幕末まで大名家としては残れなかった(´・ω・`)
5:人間七七四年:2009/11/17(火) 17:26:02 ID:InWDENGi.net
実際は中老職ってなかったんでしょ?
6:人間七七四年:2009/11/17(火) 17:45:56 ID:bw6/qIwr.net
この3人と福島が豊臣について死ぬ気で抵抗したら家康は困っただろうね
13:人間七七四年:2009/11/18(水) 16:40:05 ID:K28A7+tl.net
>>6
駿河はともかく遠江浜松なんかまさしく家康のお膝元だったんだから、蟷螂の斧にもならない気がするがなあ。
駿河はともかく遠江浜松なんかまさしく家康のお膝元だったんだから、蟷螂の斧にもならない気がするがなあ。
7:人間七七四年:2009/11/17(火) 19:52:15 ID:qDxyyBgr.net
堀尾 家康に懐柔されて隠居
中村 もう死にかけ
生駒 二股膏薬
中村 もう死にかけ
生駒 二股膏薬
8:人間七七四年:2009/11/17(火) 21:27:42 ID:FVS8dPTv.net
生駒は十河家滅亡の暗躍者と言われているな
9:人間七七四年:2009/11/17(火) 23:37:47 ID:2qNsO4Y5.net
堀尾は即家康の犬になりましたとさ
10:人間七七四年:2009/11/17(火) 23:40:34 ID:2CXzq1MA.net
つーか、関ヶ原前に既に、家康は豊臣政権の運営者そのものだったんだから、
それに付かないほうが異常だろ。
それに付かないほうが異常だろ。
11:人間七七四年:2009/11/18(水) 01:24:51 ID:YRFR2zFW.net
3家ともお家騒動を起こしたが堀尾だけは吉晴が生きていたので穏便に収まった
12:人間七七四年:2009/11/18(水) 16:21:28 ID:RkAeDRhb.net
伯耆時代の中村家で御家騒動(しかも市街戦有りw)が起きた時、
出雲の堀尾吉晴が手勢を率いて助けに来てくれたんだよな(・∀・)イイ!!
出雲の堀尾吉晴が手勢を率いて助けに来てくれたんだよな(・∀・)イイ!!
豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である父・一氏は、嫡子・一忠の将来と中村家の存続を願う家老・横田村詮の意見を聞き、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めた。しかし重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去した。
関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石に移封した。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされた。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。
村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るった。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせた。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を誅殺した。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧した。
後日事件の報告を受けた家康は、自ら任じた村詮の殺害に激怒し、江戸幕府は首謀者の安井、天野を吟味も無く即刻切腹に処した。また、側近の道上長兵衛、道上長衛門にも事件を阻止出来なかった理由により江戸において切腹に処した。一忠には品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした。慶長13年(1608年)には家康から松平姓を与えられた[1]が、叔父・村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、慶長14年(1609年)5月11日、20歳で急死した。
関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石に移封した。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされた。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。
村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るった。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせた。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を誅殺した。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧した。
後日事件の報告を受けた家康は、自ら任じた村詮の殺害に激怒し、江戸幕府は首謀者の安井、天野を吟味も無く即刻切腹に処した。また、側近の道上長兵衛、道上長衛門にも事件を阻止出来なかった理由により江戸において切腹に処した。一忠には品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした。慶長13年(1608年)には家康から松平姓を与えられた[1]が、叔父・村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、慶長14年(1609年)5月11日、20歳で急死した。
14:人間七七四年:2009/11/18(水) 16:48:07 ID:FE+WyjWu.net
本気で抵抗なんかしようとしたら、それこそ領内で壮絶な一揆が起こって
追い出されただけだろうしな。
追い出されただけだろうしな。
15:人間七七四年:2009/11/18(水) 21:34:52 ID:xNI883ot.net
堀尾忠晴
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶
中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶
生駒高俊
11歳で家督相続、母方の祖父にあたる藤堂高虎の後見を受ける
高虎死後の成人した後も政務を顧みず美少年を集めてホモ踊りにはまる
家臣らが諍いを起こし(生駒騒動)、改易される
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶
中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶
生駒高俊
11歳で家督相続、母方の祖父にあたる藤堂高虎の後見を受ける
高虎死後の成人した後も政務を顧みず美少年を集めてホモ踊りにはまる
家臣らが諍いを起こし(生駒騒動)、改易される
18:人間七七四年:2009/11/19(木) 00:09:38 ID:t88inZMP.net
>>15
>讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
>村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
家康が送り込んだに等しい家老だったから、印象が最悪だわな。
>讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
>村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
家康が送り込んだに等しい家老だったから、印象が最悪だわな。
30:人間七七四年:2009/12/08(火) 23:44:12 ID:aI08Qe1I.net
>>15
山内一豊の方が優秀だったよね。
幕末まで雄藩として残り、小説や大河で高評価!
山内一豊の方が優秀だったよね。
幕末まで雄藩として残り、小説や大河で高評価!
46:人間七七四年:2010/11/16(火) 16:20:37 ID:4RXgxec1.net
>>15
こんなんなら家康と一戦した方が圧倒的にマシだったなあ
徳川は自分たちになびいても親豊臣には厳しいしさあ(加藤福島の末路とか)
この三家が本気で兵を総動員したら15000くらいにはなるんじゃねえの
こんなんなら家康と一戦した方が圧倒的にマシだったなあ
徳川は自分たちになびいても親豊臣には厳しいしさあ(加藤福島の末路とか)
この三家が本気で兵を総動員したら15000くらいにはなるんじゃねえの
48:人間七七四年:2010/11/16(火) 21:06:52 ID:1bo331D+.net
>>46
浅野とか池田とか黒田とか細川とか前田とか大繁栄してるが?
浅野とか池田とか黒田とか細川とか前田とか大繁栄してるが?
47:人間七七四年:2010/11/16(火) 18:34:32 ID:xMMqogb3.net
>>46
おそらく三成派が政権取ったら真っ先につぶされるだろう
秀吉存命時には秀秋でさえ左遷させるくらいのやつだからな
おそらく三成派が政権取ったら真っ先につぶされるだろう
秀吉存命時には秀秋でさえ左遷させるくらいのやつだからな
52:人間七七四年:2010/11/19(金) 17:37:02 ID:qdJPrqLT.net
>>15
無嗣断絶、大杉。
徳川家に泣きついて、どっかから養子もらえなかったもんかね?
無嗣断絶、大杉。
徳川家に泣きついて、どっかから養子もらえなかったもんかね?
53:人間七七四年:2010/11/19(金) 17:41:32 ID:4a5suRdh.net
>>52
結局当主が自分の子供が出来ることを諦めなけりゃ、家臣にはどうにも出来ないことだからな。
下手に養子つくるとそれはそれで家中が動揺するし。
そんなんばっかりだったからしょうがなく末期養子の制度が出来たわけだ。
結局当主が自分の子供が出来ることを諦めなけりゃ、家臣にはどうにも出来ないことだからな。
下手に養子つくるとそれはそれで家中が動揺するし。
そんなんばっかりだったからしょうがなく末期養子の制度が出来たわけだ。
末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。
62:人間七七四年:2013/02/20(水) 10:42:26.45 ID:tOdDxjs6.net
>>52
時は武断政治だからな難しいだろうな
時は武断政治だからな難しいだろうな
16:人間七七四年:2009/11/18(水) 21:49:13 ID:FE+WyjWu.net
どいつもこいつも…
17:人間七七四年:2009/11/19(木) 00:02:54 ID:BZ5GkoFm.net
吉晴が1番優秀だな
19:人間七七四年:2009/11/19(木) 00:38:39 ID:yE7qhOa5.net
中核ができてない新興大名家にある
家中統制の難しさだのう
家中統制の難しさだのう
20:人間七七四年:2009/11/20(金) 02:14:42 ID:FTHaSVJb.net
生駒は三好・十河の残党にひどいことをしたね(´・ω・`)
21:人間七七四年:2009/11/20(金) 02:34:15 ID:TH3NhUky.net
ま、水に流せや
22:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/11/20(金) 02:56:40 ID:U1guE79R.net
三好が十河にひどいことしてないか。
23:人間七七四年:2009/11/20(金) 19:53:27 ID:PEsWabIK.net
横田内膳って三好の生き残りなんだ
24:人間七七四年:2009/11/20(金) 23:16:19 ID:jt+/Nivb.net
三家とも改易か
25:人間七七四年:2009/11/23(月) 04:33:30 ID:D6nyNVv/.net
生駒氏ね
26:人間七七四年:2009/11/23(月) 06:58:46 ID:Z5Ti8YGv.net
堀尾良晴は不運だったな。長男金助は小田原攻めで陣没。後継者となった忠氏も不遇の若死。息子が一人だったのに家が続いた大名はいくらでもあるのに。
全国的にはあまり知られていないが、金助母が、息子の33回忌の菩提を弔うため作った橋の擬宝珠に彫られた銘文は、名古屋地方では有名。興味ある向きはwiki裁断橋で。
全国的にはあまり知られていないが、金助母が、息子の33回忌の菩提を弔うため作った橋の擬宝珠に彫られた銘文は、名古屋地方では有名。興味ある向きはwiki裁断橋で。
28:人間七七四年:2009/12/05(土) 06:30:50 ID:pvhdhJ85.net
そもそも、中老職は実際に存在したのかしてないのか。
そこをハッキリさせるべき。
そこをハッキリさせるべき。
29:人間七七四年:2009/12/08(火) 22:36:33 ID:UXGzfjnC.net
「中老」って名前は、やはり明治以降に付けられたのか?
35:人間七七四年:2010/07/24(土) 13:15:50 ID:wLXqCdF5.net
秀吉死後に秀次政権があったらどうなった
36:人間七七四年:2010/07/24(土) 23:08:37 ID:/eA63TDX.net
割といい地位にありつけれたんじゃない?
小田原以前に付けられてたんだから、疎まれてなければ
小田原以前に付けられてたんだから、疎まれてなければ
38:人間七七四年:2010/08/11(水) 15:26:11 ID:7geCJaDf.net
秀次を擁護しなかったのがあれだけど秀次政権が続けば
政権の中枢に居たのが間違い無いだけに秀次事件の被害者とも云えるか。
政権の中枢に居たのが間違い無いだけに秀次事件の被害者とも云えるか。
39:人間七七四年:2010/08/17(火) 07:00:25 ID:cdP74ykE.net
かばった木村常陸介は切腹になったしね
木村 重茲(きむら しげこれ、生年未詳 - 文禄4年7月15日(1595年8月20日))は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。 別名に定光、重隆、重高。通称は隼人正、常陸介。子に高成、重成。千利休の弟子で、台子七人衆の1人。文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、秀吉より秀次の与党として連座の罪に問われ、同年7月15日(8月20日)、摂津国茨木の大門寺において自害を命じられた。大門寺に血染めの経帷子が保存され、常陸大明神と記された墓碑がある。長男の高成(重武、重光、志摩守)も法花堂で切腹させられ梟首されたほか、娘も磔にかけられたという(「兼見卿記」)。戒名は常照院殿重高大居士。子の木村重成(異説もある)は、幼年のために罪に問われることなく、豊臣秀頼の家臣として仕え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死した。
40:人間七七四年:2010/11/11(木) 22:13:01 ID:G37D+vaF.net
これだけ出世させてもらったのにみんな徳川になびいてるやん
秀吉は見る目がなさすぎる
1人でも徳川なにするものぞで戦っていたら評価も違うのに
秀吉は見る目がなさすぎる
1人でも徳川なにするものぞで戦っていたら評価も違うのに
42:人間七七四年:2010/11/13(土) 08:11:22 ID:b60xM4mI.net
>>40
秀吉の下にいたからこそ
家康に付くのが前田なんかが通った道で
秀頼に付くのが佐々が通った道に見えたんじゃないの
秀吉の下にいたからこそ
家康に付くのが前田なんかが通った道で
秀頼に付くのが佐々が通った道に見えたんじゃないの
41:人間七七四年:2010/11/11(木) 23:09:56 ID:SfrKXaQM.net
堀尾帯刀先生忠晴
堀尾家は、出雲松江18万石になるも、無嗣につき断絶。
中村式部少輔一忠
中村家は、伯耆米子19万石になるも、やはり無嗣断絶
生駒雅楽頭親正
生駒家は、讃岐18万石より、出羽國内矢島に8000石の堪忍料を与えられ、大名の座から、転落。讃州
堀尾家は、出雲松江18万石になるも、無嗣につき断絶。
中村式部少輔一忠
中村家は、伯耆米子19万石になるも、やはり無嗣断絶
生駒雅楽頭親正
生駒家は、讃岐18万石より、出羽國内矢島に8000石の堪忍料を与えられ、大名の座から、転落。讃州
43:人間七七四年:2010/11/15(月) 04:58:08 ID:JsAnxxbn.net
別に秀頼には恩はないしな
44:人間七七四年:2010/11/15(月) 19:47:18 ID:R1WgEdc8.net
この3人は秀吉が若いころからの戦友じゃなかったのか?
だから秀吉も三中老という役職を用意してくれたんじゃないの?
徳川と組むとは思いもしなかったのでは?
だから秀吉も三中老という役職を用意してくれたんじゃないの?
徳川と組むとは思いもしなかったのでは?
45:人間七七四年:2010/11/16(火) 12:33:26 ID:1bo331D+.net
>>44
お前は会社の上司と運命をともにするのか。
お前は会社の上司と運命をともにするのか。
50:人間七七四年:2010/11/18(木) 18:49:09 ID:Zg/zfzU9.net
秀次失脚は三成じゃなくて秀吉の暴走だと思う
あと、生駒はともかく堀尾、中村は領地の場所から言って徳川につかざるをえない
あと、生駒はともかく堀尾、中村は領地の場所から言って徳川につかざるをえない
54:人間七七四年:2011/03/11(金) 21:15:07.60 ID:I/WKhq4F.net
中村家は一氏の病があったがそれがなくとも東か
55:松江市民:2011/03/16(水) 12:03:04.90 ID:g+VBcw2b.net
堀尾は出雲一国をもらった時に、富田城をすてて、松江城を作ったけど、あんなふうに水辺に城を作るのは小田・豊臣時代の影響だよね。
60:人間七七四年:2012/06/11(月) 05:46:18.28 ID:fvxs281x.net
寛永10年(1633年)、堀尾忠晴は死去するが、嗣子が無く堀尾氏嫡系は3代で改易とな
る。子孫は熊本藩や松江藩に仕えて名跡を存続させた。元NHKアナウンサーで現在フ
リーアナウンサーとして活躍している堀尾正明は子孫であると称しているが、堀尾氏の
子孫を自称する会、堀尾顕彰会では認められていない。
る。子孫は熊本藩や松江藩に仕えて名跡を存続させた。元NHKアナウンサーで現在フ
リーアナウンサーとして活躍している堀尾正明は子孫であると称しているが、堀尾氏の
子孫を自称する会、堀尾顕彰会では認められていない。
61:人間七七四年:2012/06/13(水) 23:41:21.96 ID:vQpNanRp.net
生駒親正
自分は西軍として行動
嫡男は東軍として行動
嫡男が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵された
自分は西軍として行動
嫡男は東軍として行動
嫡男が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵された
64:人間七七四年:2013/02/21(木) 07:22:37.23 ID:ZKD2zQw0.net
島津に関しては島津義弘は有名な三成派だからそんなもん入城させられるわけがない
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
66:人間七七四年:2013/02/21(木) 17:33:48.84 ID:ZKD2zQw0.net
あと長宗我部も盛親は奉行の増田長盛の偏諱もらってるんだから、
きちんと西軍と対決する姿勢見せないと信用されるわけがない。
きちんと西軍と対決する姿勢見せないと信用されるわけがない。
67:人間七七四年:2013/02/24(日) 20:13:31.12 ID:lAc9dHIo.net
>>1
>堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
>中村一氏(駿河府中14万石)
>生駒親正(讃岐高松17万石)
石高や国の位置からして、生駒氏が三中老筆頭なのか?
>堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
>中村一氏(駿河府中14万石)
>生駒親正(讃岐高松17万石)
石高や国の位置からして、生駒氏が三中老筆頭なのか?
73:人間七七四年:2013/05/10(金) 19:05:59.79 ID:Ww+Yb/Ns.net
>>67
遅レスだが
讃岐は大阪の目と鼻の先だろ ?
遅レスだが
讃岐は大阪の目と鼻の先だろ ?
68:人間七七四年:2013/02/24(日) 21:54:36.51 ID:KfCYJF5t.net
>>67
堀尾と生駒はほぼ同格でいいと思うぞ。中村一氏は一格下がるな
堀尾と生駒はほぼ同格でいいと思うぞ。中村一氏は一格下がるな
71:人間七七四年:2013/05/08(水) 20:19:57.10 ID:4D1J6nh/.net
>>68
堀尾は織田の中老の家格だしな。
堀尾は織田の中老の家格だしな。
70:人間七七四年:2013/05/02(木) 07:36:58.74 ID:nMhAYc/2.net
>>1の石高見ると、五奉行の方が大身なケースもあるのか。
浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
石田三成(近江佐和山19万石)
増田長盛(大和郡山22万石)
長束正家(近江水口5万石)
前田玄以(丹波亀岡5万石)
三中老や五奉行ってのは、本当に後世付けられた名称であるな。
浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
石田三成(近江佐和山19万石)
増田長盛(大和郡山22万石)
長束正家(近江水口5万石)
前田玄以(丹波亀岡5万石)
三中老や五奉行ってのは、本当に後世付けられた名称であるな。
72:人間七七四年:2013/05/10(金) 13:02:29.41 ID:3HKlC7ne.net
わたしは、三中老が家康を詰問した際に、なぜか山内一豊が同席していたのが腑に落ちません。
81:人間七七四年:2016/06/16(木) 23:54:06.09 ID:rxzNe5GT.net
この3家にあって山内、一柳、田中などになかったものはなんだったんだろう
後世3中老言われてるが
後世3中老言われてるが
83:人間七七四年:2016/06/24(金) 18:06:45.27 ID:lpJ4pwsn.net
三中老は実在しない後世に作られた架空の制度。
三中老を後代に創作されたものと具体例を挙げて指摘をしているのが宮本義己である。宮本は、直江状を偽文書ではないが、後世に大幅に改ざんされた可能性があるとする論文[7]の中で、直江状に対する家康の怒りをなだめる内容(すなわち直江状を真筆と裏づける内容)の上記の奉行連署条書も疑わしいとした。三中老の三人が、奉行衆の三人と連署するのが解せないと主張、奉行衆の上位に三中老の三人が位置付けられるのも穏当ではないとした。また宛所が、この頃の上杉家に対する取次であった榊原康政とされるべきところ、井伊直政というのも相応しくないと指摘している。このようなことから三中老の存在は豊臣政権の基本史料では確認できないものであり、『甫庵太閤記』などによったもので、後世の創作と主張している。
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コメント一覧
どっちも本人の行動に問題があったみたいだしなぁ
特に加藤は二代目、三代目が本当に馬鹿殿だったみたいだし。
ドラマも作られたし
それを抜きに考えても難しいわ
越後の堀みたいに何されるかわかったもんじゃないし
秀吉はそれを踏まえて東海道に信頼出来るのを置いたけど
結局機能しなかった
監視とか牽制目的に置かれた藩って、笑っちゃうくらい機能しないよな。
幕末の譜代とか見てても思う。
上杉でさえあれだけの事になったけど、徳川が本気で一揆を起こしたらどうなるか見てみたい
とんとん拍子に出世した鈴鳴り武者さんには敵いませんて