関ヶ原で豊臣家って没落したよね
1:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 18:54:00.71
前スレ
なぜ優秀な武将を持つ豊臣家が滅亡したのか [無断転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1493760322/
4:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 18:58:55.02
関ヶ原の敗戦の原因は
朝鮮の役での主力武将の粛清が原因だな
しかも誰一人腹を切ってないのも怒りを増長させたな
朝鮮の役での主力武将の粛清が原因だな
しかも誰一人腹を切ってないのも怒りを増長させたな
5:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 18:59:30.69
大友氏とかを改易とかは明らかに酷すぎる
8:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:04:47.65
>>5
それだけ秀吉の権力が絶大だってことだな
信長の時とは比べ物にならんくらい
それだけ秀吉の権力が絶大だってことだな
信長の時とは比べ物にならんくらい
9:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:06:49.20
>>8
九州平定戦で早くから豊臣家に服従した大友氏を
無理難題ともいえる朝鮮出兵の失敗を理由に改易だぜ
もし関ヶ原に大友氏がいれば戦局は変わってたと思う
九州平定戦で早くから豊臣家に服従した大友氏を
無理難題ともいえる朝鮮出兵の失敗を理由に改易だぜ
もし関ヶ原に大友氏がいれば戦局は変わってたと思う
10:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:08:48.44
関ヶ原を起こさず家康の老衰と秀頼の成長を待つという手段はなかったのか?
159:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:49:59.64
>>10
三成は家康政権になったら冷や飯食わされるの解ってるから事を起こすことばかり考えてた
豊臣家の忠義だけに生きてるわけじゃないよ
三成は家康政権になったら冷や飯食わされるの解ってるから事を起こすことばかり考えてた
豊臣家の忠義だけに生きてるわけじゃないよ
160:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:50:58.64
>>159
家康もそれがわかってて謹慎処分にしたんだと思う
家康もそれがわかってて謹慎処分にしたんだと思う
163:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:53:39.93
>>159
冷や飯を食わされるじゃなくて政権無いに入る気も無いだろ
冷や飯を食わされるじゃなくて政権無いに入る気も無いだろ
11:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:10:34.89
大友と言えばあの宗麟の大友
それが秀吉の一言で改易だからな
それが秀吉の一言で改易だからな
12:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:10:55.02
上杉遠征が泥沼化した頃に旗揚げすりゃよかった
14:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:14:17.64
>>12上杉遠征は結城秀康や伊達最上にまかせて
家康は結構物見遊山だったぽいな
家康は結構物見遊山だったぽいな
31:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:27:54.92
>>14
何が起きるかわかってたからだろう
何が起きるかわかってたからだろう
13:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:14:02.62
前田利長がヘタレだからなあ
15:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:14:59.44
>>13
いやこれは最善の策だと思うよ
あの当時家康に戦おうとすること自体おかしいから
いやこれは最善の策だと思うよ
あの当時家康に戦おうとすること自体おかしいから
16:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:16:47.57
百万石もらって反乱起こす理由がない
17:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:18:47.11
家康は力を誇示することはできても4大老が存在する限り
秀頼の上にはいけないからな
秀頼の上にはいけないからな
20:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:22:24.74
豊臣家を滅亡させたのは石田三成だよ
誰が何と言おうと結果的にそうなってるんだから
誰が何と言おうと結果的にそうなってるんだから
24:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:25:00.51
石田三成は出家でもしてろ
25:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:25:01.48
そもそもなんで上杉は逆らったの?
104:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:13:40.97
>>25
「うひょー おめー強そうだな オラわくわくしてきたぞ」
っていう家風
「うひょー おめー強そうだな オラわくわくしてきたぞ」
っていう家風
27:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:26:19.72
上杉が何考えてたのかいまいちわからん
三成決起後も最上攻めてるしな
三成決起後も最上攻めてるしな
28:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:27:03.31
>>27
越後に戻りたい
越後に戻りたい
32:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:28:23.67
景勝は家康を追いかけろよ
39:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:31:52.20
>>32
結城秀康が残ってるから無理
あと会津を空にしたら伊達が攻め込んでくるし
結城秀康が残ってるから無理
あと会津を空にしたら伊達が攻め込んでくるし
34:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:28:50.47
家康もこのままみんな服従だと秀頼の上にいけないから
上杉反逆はしてやったりなんだろな
上杉反逆はしてやったりなんだろな
35:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:29:20.28
最上攻めは分かるよ火事場泥棒だよ
最上領を併呑すれば飛び飛びになってた領地が一つに繋がるんんだよね
ほんで煽動してた越後の一揆が成功したらそこも併せてとてつもない巨大国家が成立する
最上領を併呑すれば飛び飛びになってた領地が一つに繋がるんんだよね
ほんで煽動してた越後の一揆が成功したらそこも併せてとてつもない巨大国家が成立する
36:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:30:50.93
景勝は中央政界の争いには一切興味なかったのか
42:.@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:33:34.27
没落したのは大阪冬の陣だよ
関ヶ原から14年後な
関ヶ原の段階ではまだまだ分からなかったほどの勢力があったよ
没落とは言えない
関ヶ原から14年後な
関ヶ原の段階ではまだまだ分からなかったほどの勢力があったよ
没落とは言えない
45:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:35:11.26
>>42
豊臣家は60万石まで減ったし
何より譜代の大名が粛清・家康に服従だからな
豊臣家は60万石まで減ったし
何より譜代の大名が粛清・家康に服従だからな
44:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:34:23.76
だってまだ会津に全然到達してないでしょ討伐軍
追いかけるっっていう状況じゃないんじゃないか
追いかけるっっていう状況じゃないんじゃないか
46:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 19:35:12.11
結城秀康は佐竹がなんとかする
60:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:11:49.81
関ヶ原っていうよりも秀吉死亡で没落だろ
秀吉は一兵卒から取り立ててくれた主家の織田家から天下を取ったんだから
徳川に文句を言う筋合いはないわ
秀吉は一兵卒から取り立ててくれた主家の織田家から天下を取ったんだから
徳川に文句を言う筋合いはないわ
70:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:35:07.68
清洲会議で三法師を担いだ秀吉に付いた連中と同じ
71:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:37:13.67
>>70
秀吉が三法師を担いだってのは俗説で
信雄=馬鹿だからダメ
信孝=3男なのに後継者にしたら信雄激怒の可能性
ってことで
三法師=跡継ぎ
信孝=後見
は全会一致だったみたいだな
揉めたのはその後の領土分配
秀吉が三法師を担いだってのは俗説で
信雄=馬鹿だからダメ
信孝=3男なのに後継者にしたら信雄激怒の可能性
ってことで
三法師=跡継ぎ
信孝=後見
は全会一致だったみたいだな
揉めたのはその後の領土分配
72:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:38:51.57
結局徳川家と双璧だった毛利が一枚岩じゃなかったから
秀吉の分断政策のせい
それでいて徳川家には何の手も打ってない
秀吉の分断政策のせい
それでいて徳川家には何の手も打ってない
73:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:39:58.45
>>72
そのくせ身内の秀秋を減俸にするからな
そのくせ身内の秀秋を減俸にするからな
87:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 20:58:09.92
関ヶ原前の家康は事実上の秀頼の後見人だからな
110:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:16:27.70
上杉は逆らってないよ
忙しくて上阪は無理だし武器集めは田舎武士の趣味だしって言ったら勝手に家康が切れた
忙しくて上阪は無理だし武器集めは田舎武士の趣味だしって言ったら勝手に家康が切れた
114:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:19:29.86
>>110
家康は豊臣家への反逆だという建前をつけた
江戸に人質送るからごめんちゃいと上杉が言ったらそれで矛は収まったと思う
家康は豊臣家への反逆だという建前をつけた
江戸に人質送るからごめんちゃいと上杉が言ったらそれで矛は収まったと思う
112:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:17:49.88
家康は直江状にブチ切れたふりをしたって説もあるね
そうすれば三成の謀反を誘発できるから
そうすれば三成の謀反を誘発できるから
118:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:21:16.18
最近会津に引っ越したばかりで領内整備してただけなのに家康が難癖付けてきてキレた直江が直江状を家康に送ったら家康がキレて上杉討伐をしに行ったんだよ
132:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:35:25.66
どうして小早川は寝返ったの
133:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:37:00.63
>>132
テレビ用
石田三成=次の関白を頼む
↓
秀秋”やばい俺が次の秀次になる”
実際は
石田三成のせいで朝鮮の役で減俸になったから
テレビ用
石田三成=次の関白を頼む
↓
秀秋”やばい俺が次の秀次になる”
実際は
石田三成のせいで朝鮮の役で減俸になったから
139:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:39:53.38
>>133
では最初から家康に降伏する腹だったんだ
では最初から家康に降伏する腹だったんだ
141:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:40:39.43
>>139
そもそも秀秋は伏見城攻めの時も鳥居元忠につこうとしてたからな
そもそも秀秋は伏見城攻めの時も鳥居元忠につこうとしてたからな
156:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:47:53.50
本当は大垣城が主戦場になるはずだった
小早川は極力関わりたくないので入城せずに離れた関ヶ原に勝手に布陣
したらあれよあれよといつの間にか自分がキーマンに
小早川は極力関わりたくないので入城せずに離れた関ヶ原に勝手に布陣
したらあれよあれよといつの間にか自分がキーマンに
158:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:49:23.96
>>156
あれは家康が三方が原で信玄にやられたことと一緒の事をやったんだよな
で近江に抜けられたら困る三成が布陣したと
あれは家康が三方が原で信玄にやられたことと一緒の事をやったんだよな
で近江に抜けられたら困る三成が布陣したと
157:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 21:48:41.97
小早川秀秋って関ヶ原時点ではまだ20そこらの若造だったのな
175:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:00:15.33
大津で手間取った西軍ってどれだけの戦力だったの
秀忠が温存なら彼らや大阪城の輝元もでしょ
秀忠が温存なら彼らや大阪城の輝元もでしょ
177:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:01:34.55
>>175
5万とかいうけどおそらくそれは嘘だと思う
大津城ごときに5万は割きすぎだろと思うのだが
5万とかいうけどおそらくそれは嘘だと思う
大津城ごときに5万は割きすぎだろと思うのだが
179:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:03:12.97
三成の畿内の城をしらみつぶしに潰してったのも敗因の一つだよな
岐阜城が落ちる前に援軍に行けば戦局は変わったと思うのだが
岐阜城にたてこもったら家康秀忠が合流しても落とせなかった思う
岐阜城が落ちる前に援軍に行けば戦局は変わったと思うのだが
岐阜城にたてこもったら家康秀忠が合流しても落とせなかった思う
181:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:04:07.65
大津城攻め 15000
田辺城攻め 15000
秀忠軍 38000
田辺城攻め 15000
秀忠軍 38000
245:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/05(金) 01:13:18.86
>>181
イラネー
何だよ田辺城って
石田に腹立ってきたわ
イラネー
何だよ田辺城って
石田に腹立ってきたわ
201:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:52:16.33
黒田長政のファインプレーが光る関が原
202:名無し募集中。。。@\(^o^)/:2017/05/04(木) 22:55:23.54
官兵衛には怒られたけどね
関連記事豊臣三中老 堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正西軍「小早川秀秋の裏切りが敗因」石田三成って大谷吉継以外に友達おらんかったん?
コメント一覧
戸次川の敗戦だって大友自身の問題なのにまるで士気低いから強引に攻めざるを得なかった故の部分あるし、挙げ句府内城まで落とされてるし
豊臣家を滅亡させたのは徳川家康だよ
誰が何と言おうと結果的にそうなってるんだから
三成のせいで秀秋が減俸になったことを示す一次史料はない。結局、秀吉自身の指示。
江戸時代の「三成ガー」は、「秀吉ガー」の隠語。秀吉の人望がいかになかったを反映しているが、日本にはなぜか部下がボスを批判するのは(それに死後に)みっともない風潮があるので、秀吉以外のスケープゴートが必要だった。
それに死後に×→それも死後に
秀吉の遺命を守るように動いていれば
史実よりは豊臣家も長持ちしたかもな
その分不安定な時代が続いたかも知れないが
エピソードも結構面白いのに
いや、そもそも家康が遺命を破りまくったのが関ヶ原の原因なんだから、どうしようもないでしょ。
三成が秀吉の遺命を守らなかったって、毛利との密約以外なんかあったっけ?
・関東入封
→成功
・朝鮮出兵
→なし
・関ヶ原
→大勝利
・大阪の陣
→大勝利
後は諸大名の誰が大坂の政権で覇権を握れるか争っただけ
そしてトドメが秀次
家康は別に遺命破りはしてないでしょ
私婚問題も「遺命破り」って追求はされてないし。
明確な遺命破りって何かあったっけ?
家康はずーとグレーゾーンを攻めていただけだと思うけど。
勿論褒められた事では無いけどさ。
三成は秀元の領地分配問題で
輝元と結託して秀吉の裁定をねじまげてるね。
あと関ヶ原の挙兵は
「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと、 被成 御意候事」
への明確な遺命違反だね
私婚問題→「掟」破り。これで、両派一触即発。七将襲撃事件以後なしくずし。追求されていないって認識の時点で、大丈夫か?って感じがする。
伏見在住遺言破り→大坂城に居座る。
細川、森らに勝手に加増。その他云々。
なんかさ、掟・遺言のそもそもの制定主旨が豊臣公議を守るためだという大前提を無視して議論しても全く無意味なんだよ。
家康は掟・遺言破りまくって、それは三奉行の「内府違いの条々」で全大名宛てに明確に文章にされて告発されている。もう一回「内府違いの条々」を熟読しなよ。そして、家康は違約しまくったおかげをもちまして、自分の仲間を増やして豊臣家を滅ぼした。これが明確な事実。
現代人が、家康がグレーだの、明確に違反していないなど言われても、「ハ?」って感じなんだよね。違約を持ちまして自分の仲間を増やして、豊臣家を家康を滅ぼしましとさ、という明確な史実を突きつけられて、なおかつ擁護しようという神経が意味不明。
豊臣家を家康を×→豊臣家を家康が
それとも、利家は家康とグルなんですか?
それと関ヶ原前の加増は基本奉行とともに行ってるんですけど。
奉行も家康とグルなんですか?
大体豊臣公儀とやらを守りたいんだったら、豊臣政権の正式な事業である
上杉征伐の邪魔するなよ。
公儀の邪魔をすることが正しいとでもいうのか。
当の利家も三成もそう主張していて、
掟・遺命違反とは誰も言っていない。
だから大老奉行だけで手打ちにできたし、
家康の謝罪だけでことは済んでる。
掟・遺命違反なら婚姻取り消しにならないはずないからな。
蜂須賀なんて婚姻が実際に成立したのは利家との和解の翌年だし。
現代人が家康は明確に違反してるって言われても「ハ?」って感じだわな
秀吉の作った五大老五奉行体制の豊臣公儀ごと
葬ろうとしたのが三成ってこどだな
丹羽は可哀想だが、蒲生は残当じゃないかな・・、徳川と伊達の抑えとして配置したのに当主が死んでグダグダの御家騒動してるんだもん
寧ろ元のサイズに戻ったって感じ
陣頭指揮執ってるのにな。
家康が勝手に加増したって言われても「ハ?」って感じだわな
私婚事件が大事件だったとする軍記物でさえ家康襲撃計画の露呈による騒動だったとしていて、婚姻が違反だとかは主題になってない
んなことは誰でもわかってる
それを深化させたであろう人物や事件
滅亡を防ぐ手立てをスレ民やコメ民で話してるのをみたい
っていう戦国にわかな俺
成功者だから妬まれているだけか?
三成が我慢してれば豊臣は史実よりマシな道をたどったと思うとなんとも言えない
同意だわ 関ヶ原なければ豊臣完全滅亡はなかったと思う
毛利や宇喜多のような大大名までもが積極的に参加してるんだから
こうした家康の政権運営に不満を持つ大大名を処分するか家康が処分されるかでしか道はないんだ
いや、「掟違反」だろ。「一 諸大名縁辺の儀、御意を得、その上をもって申し定むえき事」
第一条だぞ。つーか、七将襲撃事件以降、ほぼ家康独裁になって、家康は掟・遺言破りまくりなんだから、
「蜂須賀なんて婚姻が実際に成立したのは利家との和解の翌年だし。」ってむしろ、当たり前だろ。
あのさあ、その豊臣公議を代表している三奉行が、「内府違いの条々」家康の上杉征伐を糾弾して、上杉征伐は家康の「私戦」になってしまっているんだが。つまりは、家康軍は公議の軍の正当性を三奉行によって剥奪されてる。
しかしさあ、なんだろ、意味不明なコメントが並ぶな。家康を擁護している奴は頭の中が1600年で止まっているのか?
1600年当時は家康が、豊臣家を滅ぼす意思があったか否か、西軍の家康糾弾が正当か、ただの言いがかりか、客観的には不明で確定してなかったんだよ。
関が腹の戦い以後、実際に家康が豊臣家を簒奪して滅ぼして、家康自身が「西軍の糾弾は全く正しく、私が間違っています。豊臣公議を滅ぼすために違背しまくりました。徳川擁護者の言う事は間違い。」とその行動で表明しているんだよ。本当にバカバカしい。こんなアホな説明をなんで現代にしなきゃいけないんだ?
でも三成の独力で起こせた戦じゃないから家康を討つと言う気運自体は有ったんだろうな
上杉家にしたって豊臣に反乱した訳じゃないし
上杉征伐時に仲裁して戦を止めなかった秀頼サイドに見切りを付けた武将も多かったのでは
関ヶ原が関が腹になってしまった。
おつかれさん。
多分上杉家は豊臣政権と戦うつもりだったはずだよ
景勝の書状に奉行衆が無理難題を押し付ける上に一切譲歩しないから、上方勢と戦うことを決意したってあるから
上杉家の認識が反豊臣ではなく反家康になったのは西軍挙兵以降のことじゃないかな
豊臣公議と戦うつもりというより、理不尽なことを言って恫喝してくる相手(それが豊臣公議の意思と言いつのった豊臣公議筆頭家老家康の意思決定)と戦うということだね。三奉行が家康の言いなりを続けるなら、当然「家康の言いなりの」豊臣公議と戦う形にになる。理不尽なことを言われて従う義理はない。
三奉行は、最終的に理不尽なことを言っている豊臣公議筆頭家老家康を排除した。これが「内府違いの条々」。これが最終的な豊臣公議の意思だった。
軍事クーデター側の声明文鵜呑みにするのってどうなん?
筆頭家老と奉行の意見が分かれたなら豊臣家当主およびその母の意見を豊臣公儀の意思決定と考えるべきでは?
それって意思なのか?
奉行衆が風見鶏で、徳川がいた時は徳川寄りで、毛利がいた時は毛利寄りへと靡いただけじゃね?
奉行衆が七将に襲撃された時は、
北政所(豊臣家)の仲裁の元、五大老連名の上で、
襲撃者の無罪と三成更迭が決定されてるし。
奉行衆≒豊臣公儀なら襲撃者が無罪で済むはずがない。
公儀に逆らった逆賊になるんだから。
襲撃者がそういう扱いされてないことが奉行衆≠豊臣公儀のなによりもの証
府内には城はなく有事の際は放棄して高崎城とかに籠るのが大友家の通常の対応だよ
家康は行動の節々に老獪な面こそ見えるけど豊臣の代理としての立場は崩してないし
三成は敗戦の責任を全て負わされているようにしか思えない。立場も追われた二十万石程度の大名一人で起こせる大乱じゃないし、仮に全てが一人の計画なら物凄い手腕でそこは認める必要があるだろう
正直あの時期の東西双方の動きに瑕疵を探したらキリがないし、その多寡で競う話でもない
結局どっちが嫌いかで貶し合ってるだけじゃないか
いわゆる諫言的をしたのはこの福原達で
三成は福原の親戚で奉行の中心的存在だったので諸将に敵と見なされた
・小早川が処分された時
秀吉は三成にその領土を与えようとして三成は辞退するが代官に任じられた
・偽装講和で罰せられそうになった小西行長を庇ってお咎め無しにした
諸将からすれば活躍したのに罰せられるという理不尽な扱いの中
三成が得をしているようにしか見えず
三成自身にその気がなくとも恨みを一身に受けることになった
調整役を突き通すなら福原・小西を庇うべきではなかった
・秀吉死後の政権は「家康派vs反家康派」の単純な二極では無く、
「徳川派vs石田派(+毛利)vs前田派」の三派が各々の思惑で動いていた。
・三成襲撃事件の主体は「石田派vs前田派」。家康は中立の立場として介入している。
・襲撃事件後は徳川派と(三成自身を含む)石田派が接近。一方前田派と石田派の溝は深まる。
・利長謀反疑惑事件は「徳川派+石田派vs前田派」の構図。
・利長謀反疑惑事件中の時点で「次は会津」という噂が諸侯の間に流れていた。
(それでも徳川派と石田派は対前田で協力関係にあった)
・三成が徳川派と協力関係に有ったのを「擬態」と見なすのは、
後の結果を知る人間の穿ちすぎた見方。
・会津征伐のタイミングで三成が逆らったのは、秀頼に軍資金を貰って「公儀の軍」を標榜したから。
つまり三成にとっては、「公儀の命令」として軍を招集した会津征伐はNGで、
「大老 徳川家康」として参集を依頼した前田征伐はOK、と言う理屈。
つまり三成は別に秀吉の死直後から「一貫した反徳川」で動いていた原理主義者では無く、
家康とも是々非々で対応する現実主義者だったって論じてるね
そりゃ家康も豊臣家の代表という建前で合戦に臨んでるとは言え
前田と増田はモロにそうだね
五大老が内閣閣僚、五奉行はその下で働く副大臣もしくは官僚みたいなモンなんだから
奉行衆≒豊臣の総意と思い込むのがそもそも間違ってる
「五大老が内閣閣僚、五奉行はその下で働く副大臣もしくは官僚みたいなモンなんだから
奉行衆≒豊臣の総意と思い込むのがそもそも間違ってる」
という視点がそもそも間違っている。
五大老・五奉行の十人衆が豊臣内閣官僚なんだよ。家康も豊臣公議を代表しています、という意思表示のために奉行衆の名前を使って書状を出させている。「上杉征伐」の命令自体も「三奉行」の名前で出している。家康自身が「三奉行=豊臣公議」として扱っている。 その「上杉征伐」は「内府違いの条々」で三奉行の名前で撤回している。「内府違いの条々」は公文書で、各大名に示されたもの。
あと、五大老・五奉行で意見が割れたら多数決で決することになっている。(これは秀吉死後の誓紙取り交わしでそうなっている)三奉行・毛利・宇喜多 5vs 家康1(浅野・石田・上杉はこの時点で大老・奉行から外されている)なので、多数決なら三奉行・毛利・宇喜多の勝ちということになる。戦国時代なのだから、最終的に戦に勝たないと結着つかんが。
奉行をただの官僚だという視点で考えている(ただの官僚なら三奉行の文書が公議を代表することにならんだろう?)から、そりゃ話がかみ合うはずもない。「総意」ってのもよく分からん。五大老・五奉行の「総意」が一致したことなんてほとんどない(朝鮮出兵の撤兵くらいか?)のだから、それが「総意」なのか?ってのは誰も問題していない。内閣不一致しまくってる内閣ということだ。
いや、分かっていない方がコメ欄にちらほら。
西軍の行動が最適解ではなかったのは、実際に負けたからその通りなんだが、じゃあ、「もっとよい解」はなかったのか?という話に議論が深まらないのだね。
「関ヶ原決起」が間違いだと否定するのはたやすい。実際負けているし。しかし、あの時点で決起しなければ、更に潜在的反家康派は個別に粛清されていって、家康がより楽に豊臣公議を簒奪できただけの話。コメントでも「より悪い解」しか並ばないから議論が深まらない。
結局、問題は秀吉が家康の対抗馬に(病がちですぐ死んでしまう)利家を指名したのが間違いだという話からというと、根が深い。
個人的には、秀頼の後見役に従兄弟の福島正則を指名して、家格も五大老並みに引き上げ、五大老の中に入れればよかった(六大老?)のだろうと思う。そこまで福島正則の家格を引き上げるには時間が必要なので、死ぬ間際にぱっと思いついても実行できないが・・・・・。
行き過ぎた徳川叩きで住民から総スカン食らってた
あの江戸暗黒豊臣黄金期論者は間違いなく彼ですね・・・
ホントあいつどこにでも湧いて出るんだな・・・
脆弱な政権運営、まとまらない家臣、後継者問題、唐入り、秀吉の方が罪は大きい。
法案決める時、大臣でも野党の平議員でも一票の価値は同じだよ
でも「大臣=野党の平議員」って思ってる人は居ないよね
乗るバカはいないだろうが、かんけいのない荒れるような名は出さないことだ
まあ、その当時議会ないからねえ。五大老・五奉行しか存在しない。平議員というものが存在しないのに比較するのが意味わからん。
関係のないことは持ち出さないほうがいいですよ?
ニコニコはそもそもコメントしたことないので、その人の事は知らんわ。
私は、江戸暗黒なんてことも言ってないし、豊臣黄金とも言ってないわな。
まあ、混同されて藁人形にされてもしょうがないので、念のため。(ニコニコの人が何を言っているのか知らんし、知る気もないので、関知しません。)
けどしっかりコメントしてると思うで?
妄想で決めつけて語るファンよりよっぽど良い。
最初からそう言えば良いのになんでわざわざ喰い付いて>>50みたいな長文でレスしたの?
??官僚じゃないよ、(比較するなら)閣僚だよ?ってコメントしたら、※56が平議員とかはじめて持ち出したから、それに反論したら、「最初からそう言えば」って言われても・・・・・。※56のようなコメントがつくことを事前に予想して書くべきだった?私はエスパーじゃないよ?
??その当時議会なんてないから比較する意味が解らないってコメントしてその言い分は何?
(これは秀吉死後の誓紙取り交わしでそうなっている)
具体的なソースは?
いや、※56が
「法案決める時、大臣でも野党の平議員でも一票の価値は同じだよ
でも「大臣=野党の平議員」って思ってる人は居ないよね」
って言っているよね。そのコメントが意味不明なら、※56に反論しなよ。他人のコメントまでフォローできんわ。
まぁ起請文なら
「如何様之中説候共 御直ニ御断申入可相濟候 其上切ゞ得 御意」
(どんな意見があっても、直接報告いたします。その上で折々に御意を得ます)
って起請文を奉行衆が「徳川」と「前田」に提出しているんだけどね。
ま、※47にある三成の「こだわり」に野心のある増田や輝元が乗っかったてのが
関ヶ原の真相だろうけどなw
家康が秀頼に軍資金を貰ってなかったら、三成もじっとしていただろうw
慶長三年九月三日付五大老・五奉行全員が連署花押した起請文にある。「諸事御仕置等之儀、其経(軽)重をけつし、十人之衆中多分二付而可相究事、」とある。
私が今引用したのは、矢部健太郎『関ヶ原合戦と石田三成』吉川弘文館の144ページからだけど、有名な文書なので、他の研究書でも引用されてているのを見たことがある。参照されたし。
昔だと映画「天と地と」の川中島、大河だと「葵徳川三代」の関ヶ原
この辺はガッツリ人が多くて迫力あったが近年はダメダメやね・・・去年の真田丸も
予算の関係か知らんがスカスカだったし・・・もう無理なんかなあ
人海戦術は無理なのかね・・・・・。CGに頼るにも金がない・・・・・・。なんで、こんなもんのかね。
まあ、時代劇に金かける時代じゃないのかもね。映画版「関ヶ原」には期待したい。
今秋に「関ケ原」を上映するだろ
いや、確認したら、あなたが※56自身なのね。ますます、意味不明なので、このような方にどう説明すれば理解できるのかちょっと困る。
その「関ヶ原」に期待したいという意味。
豊臣家のためなど思うならそんなことはしない
しかしどうも極端な人が多い
家康は豊臣秀吉に戦いの結果無理やり従わされたのは事実なので 「約束破りだ!仁義がない!」と叩くのもどうだろうな
公儀の軍に凄い反発する理由は何なんだろう?
※74氏の解説だと
石田は「徳川が公儀の名を借りる」ことが許せないのでは
「家康個人の名なら許す」わけで
当時前田と敵対してたような事情もあるだろうけど
戦国の習いならその通り。ややこしいのは、家康が、徳川政権を安定させるために、儒教思想を日本に普及させて、その儒教の思想からすると、家康は「逆臣」以外の何物でもないから、歴史を改ざんしまくったこと。
歴史改ざんするなら、「西軍が秀頼様を滅ぼしたのだ!」ぐらいまでパーフェクトに改ざんすればいいのに、さすがにそれは隠し通せないとおもったらしいので、中途半端な改ざんになっている。
家康以外は烏合の衆で、それぞれが自分の野心のために動いただろううけど。
その通りだと石田派は、駄目すぎる。関ヶ原の結果以前に、家康を強大にしてしまっている。
前田征伐の件で、松を人質で江戸に送るのでなく、大阪や伏見に送るべき。
大老として上杉討伐OKで、公儀として上杉討伐NGだと、徳川は敵対する大名に討伐できるので、徳川が強大化してしまう。
秀吉の惣無事令で、大名が勝手に戦争できなくなったのが、豊臣の権力強化の1つのはずなのに、骨抜きになる。
確かに林羅山を幕府に招いたのは家康だが、別に儒教思想に傾倒したわけではなくて
あくまで幕府のお抱えの学者として召し抱えただけだ。
家康はむしろ仏教に帰依している。
大体家康は林に坊主になるよう命じている。儒教に傾倒していたらこんな事はありえん。
儒教を普及させたっていうと水戸光圀や保科正之、徳川綱吉辺りじゃないのか。
後、長生きした林自身か。
なるほど、儒教思想を普及させたのは家康ではなくて、その後の秀忠・家光等の歴代将軍だと。
確かに徳川初期は西軍の評価は「敵ながらあっぱれ」だったが、その後「奸臣・佞臣という評価」になった、いう説を聞いたことがあるが、それと符合するな。ちょっと日本儒教史を勉強しなおす必要があるか。
考えてみれば凄いことだよな
※47に沿うなら、三成が守りたかったのは「豊臣を頂点とした公儀機構」であって、
五大老五奉行制度(秀吉の遺命)ではないってことなんだろな。
三成個人としては秀吉への忠誠持ちつつも、
奉行としては「秀吉の遺命」も「掟」も公儀を守る「ツール」に過ぎない。
だから「豊臣公儀」さえ守られているなら
「前田征伐」も「大老 家康一強状態」も許容範囲内だったんだろう。
けど家康が「徳川≒豊臣公儀」と振る舞うのは許せなかったと。
ただ三成に近しい人間なら問題ないだろうが、さほど親しくない人間には
家康と同等かそれ以上に「秀吉の遺命」を軽視する人間に見えるし、
その辺が関ヶ原で徳川弾劾の効果がさほど上がらず、
反徳川を糾合しきれずに、豊臣家の支持も得られなかった要因だろうな
秀吉死後の上杉の行動がよくわからんかったが
そりゃ上杉も欲を出すわ
西軍挙兵前から他国侵攻を考えたかはよくわからないね
最上領や越後に対する欲はあっただろうけど徳川がしっかり東を見張ってる状況で上杉にできることはないと思うし
朝鮮出兵して、秀吉が死ぬ年に国替え、翌年に城の建設開始。その1月後に家康からの呼びだし、会津征伐。
中央での政争の余裕ないはず。
自分の本城も建設途中で、他国侵攻している場合でないはず。
秀吉も上杉の領地を飛び地でバラバラにして、石高増加するが、内陸で貿易収入激減するようなことするくらいなら、
家康に対しても同様にすれば良かったのに。
秀政の代役の蒲生の後釜で想定外だししゃーない
というか景勝は何で会津征伐を迎え撃つことにしたんだろうな?
武門の意地を張るにしては、本戦が決着した途端、長谷堂から撤退して
徳川と戦わずに頭下げてるし。
徳川と一戦交えずに頭下げられるなら、
奉行衆の要請通りさっさと上洛しとけば良かったのに
フリだけよ
徳川と戦ったら取返しがつかない
誰も得しない
結局は想像するしか無いんだけどね。
確認できるのは
「三成は秀吉の遺言にさほど固執せずに動いていた」
「家康と仲良く前田を追い込んでいた」
とかの事実だけで、実は本当に自身の野望のために
五奉行五大老体制崩壊を目指していただけかも知れないし
分かりやすい下克上の構図なのにな。
「戦争で負けたんだから、原因は軍部以外に無い。
分かりやすい軍国主義の末路なのにな」
って主張するのと一緒だなそりゃ。
そこに至るまでの
「近衛内閣の無軌道さ」とか「犬養毅の統帥権問題化」とかに相当するのが
「三成の派閥抗争」だってだけの話。
曹一族と魏が晋に取って代わられたのは司馬一族に原因はないよって言ってるに等しい。
秀吉死後の状況であえて一人に原因を求めるなら家康以外にないでしょってことだよ。
魏の場合は曹氏から人心が離れ群臣がこぞって司馬氏への権力集中を望んだ結果でもある。司馬氏も曹爽等と違い権力を独占せず公平に調整したのでさらに人望を得た
司馬氏が簒奪したことは事実ではなるが、彼らに原因があるかは別
歴史学であえて一つの原因を求める必要もないし、簡略化して理解した振りはあまりよくない
91の人がいってるのもそういうことでしょ
豊臣には最初から面従腹背だったのか、秀吉が亡くなってからなのか、関ヶ原で勝ってからなのか
これ以外にもあるかもしれないし、そこら辺まで言及してから徳川のせいだった!って言ってもらいたいものですな
逆に家康はそれを反面教師にして自分が生きてるうちに意地でも豊臣家を断絶させた
豊臣家を滅ぼした翌年に死ぬとかまさに執念を感じる
何で極論して敢えて家康一人だけに原因を求める人間がいるのか不思議だったが、
タブロイド思考なんて言葉あるんだな
石田方につかなかったのは三成が嫌われていたということなんだろうけど
そういうところが淀君に政治センスが無いところなんだろう。
関ヶ原後も徳川の天下はもう決まってるのに頭下げないところとか。
関ヶ原にどちらかに味方するか明確化しなかったのは、淀殿にそもそも政治感覚がないから。愛人の大野治長が家康に人質に取られているから、家康に反する行動はとりえず、どうしようもなかったのだろう。
石田方につかないというより、西軍は毛利方だから、縁もゆかりもない毛利より、妹が家康の息子に輿入れしているとか、秀吉の遺言で秀頼が家康の孫娘と婚約している徳川方の方が淀殿には実際には近い。
しかし、関ヶ原の戦い前に淀殿と家康の婚姻を徳川方は画策していて、大野治長と淀殿の醜聞でこれは立ち消えになったが、淀殿としては、年とっても淀殿との婚姻を目指すセクハラエロ親父家康は個人的には嫌悪の対象以外でもなかっただろう。(家康の後家好きは有名。)そうした個人的な嫌悪感を表に出せるほど、その当時の淀殿にはそもそも政治力がなかったが、関ヶ原の戦い以降は、豊臣家の存続はどこへやら、家康に対する嫌悪感をむき出しにしていく。(関ヶ原の戦い以降は、(豊臣家存続に反する)淀殿の意向を事前にふさぐ(冷静な)豊臣方政治勢力は消失した。)
これ、※98へのレスです。すいません。
うーん、三成が(中心に)動いていた」というのが違和感。中井俊一郎氏はかなりコアな三成ファンで、三成謹慎後も三成が中心に中央政界が動いているかのように書いてしまう。しかし、すいませんが、三成は謹慎中ですよ、だから少なくとも表だった動きはできませんよ(この時期に何か三成が画策しているか否かは、史料の裏付けはなく、すべて陰謀論になってしまう)ってことを完全に忘れている記述が目立つので、ちょっと信用性を欠く。
実際の中央政界である三奉行(前田・増田・長束)の意思を、再検討すべき。
君は多分もうちょい最近の研究読んだ方がいいと思うというか、思い込みが強すぎるんちゃうやろか
そもそも上で書かれてる「三成派」って
前田派、徳川派と違って「盟主がいるトップダウン型」でなく
「方向性の一致によって結ばれた横のつながり」だと思うんだけど。
「(謹慎後も)三成が中心に動いていた」なら違和感有るが
「(謹慎後も)三成と奉行衆の方向性は一致していた」なら違和感は感じない
三成蟄居後も大坂には石田正澄が秀頼近侍として健在だし、
三成の意思疎通役としては十分だろう。
(三成蟄居後の石田一族にとって正澄の存在が
重要だったことは水野伍貴氏も指摘してる)
あとは鹿苑日録にも
石田正澄が家康の安全確保ために自分の屋敷を提供した
って記載があるけど、
正澄が三成の意思に反して態々こんなことをするとは思えないし、
徳川派と奉行衆の連携を三成が歓迎していたのは十分推察できる
中井俊一郎氏や水野伍貴氏の説の解説としては、その通り。ただ、私はこれに疑問を呈している。
「三成と石田一族が常に一致している、三成とその他三奉行が常に一致している」、という仮説を元にしているのが中井氏や水野氏の説。
三成は七将襲撃事件で失権しているが、事件当時の毛利輝元の書状では、三成は七将襲撃事件の黒幕を家康とみなしている。
ところが、当時三成は仲間たちに家康方へ反撃を呼びかけるも、仲間は既に大阪が内府方に抑えられているので勝ち目なしとして、内府方と和睦してしまった。(これを表面上は「仲裁」としているからややこしい。)和睦の条件が三成の佐和山隠遁。つまりは、この時西軍派は三成一人に責任を押し付けて、家康と和睦してしまった。この時点で当時の三成と三奉行らの意思は相反している。しかし、残りの石田一族もこの条件を受け入れたので、三成もやむを得ず従うしかなかった。
表面上は、家康の「仲裁」を受けて、なのだが実質的には石田一族は黒幕家康に「屈服」したといえる。当主三成の隠居・隠遁を条件に。この時点で三成は、石田家当主としても失権している。(これを失権していないとみなすのが中井氏・水野氏の説なので、ここから食い違うわけだが。)
三奉行と三成の意思は秀吉の生前から常に一致していたわけではない(二十六聖人殉教事件でも増田長盛と三成の判断は相反している)し、特に七将襲撃事件では三奉行は三成一人をスケープゴートにしている。
以上から、三成とその他三奉行が常に一致しているわけではないし、七将襲撃事件以後は、三成は石田家当主から隠居・失権しているので、この時期の石田家の行動が必ずしも三成の意思を反映しているはいえない、というのが私の説。(そして、この時期石田一族は家康に「屈服」している。)こちらの方が流れとして自然と思う。
上杉討伐は、朝廷にも淀殿にも許しを得て、関東へ立っている
天皇からも淀殿からも軍資金を与えられて出立してる
つまり、家康軍こそ豊臣正規軍なわけだ
それに対して兵をあげると言うことは、豊臣への蜂起とみられる
大坂で三成が挙兵した時、淀殿は関東にいる家康に向けて
「三成が兵を上げました、早く戻ってきてください」と手紙を出しているんだぞ
どっちが豊臣側だと思われていたのか明白だろう
淀殿=秀頼代行だから、家康の上方帰還、西軍討伐は秀頼の命ということだ
家康に助けを求める傍ら、淀は西軍の要求を全て拒み
毅然と反西軍の意思表示をしている
面白い仮説だとは思うけど、どっちにしろ史料的裏付けがない分、
中井氏や水野氏の説とどっちが正しいかは水掛け論にしかならなそうだな。
>>三奉行と三成の意思は秀吉の生前から常に一致していたわけではない
これは確かに仰るとおり。奉行衆の纏まりが徳川派、前田派に比べて劣るのは確か。
(これは明確な派閥の盟主が存在しないことによる弊害だろう)
しかし一方で輝元との起請文~家康私婚問題あたりでは「奉行衆派(石田派)」として
ある程度纏まって行動できていることも確かだろう。
この瞬間だけ奉行間の意思が100%完全に一致していたとも考えにくい。
対家康という「大事」の為に「小事」を脇に置いての団結だったと思われる。
要は、対家康という「方向性」の一致。
で有れば、対前田という「大事」の前で、スケープゴートにされた蟠りという「小事」を捨てて
三奉行と再度協力関係になっても不思議では無いと思う。
(100%意思の一致はしてないだろうが、求める着地点は一致していた。)
慶長年中卜斎記に佐和山を訪問した柴田左近を心から歓待する記載が有るが、
私はこれは擬態ではなく、三成の本心であり、三成と家康の接近を示す一端だと考える。
また、関ヶ原合戦の際も三成は福島正則相手に寝返り工作を行っている。
自身を蟄居に追い込んだ正則に思うところは当然有っただろうが、
対徳川という「大事」を優先した結果だろう。
こういう「私」より「公」を重んじる行動が徹底できるのが三成の凄さの一つだと思う
三成の縁戚である真田信幸は、家康養女の婿だし、信幸宛ての書状に、実父本多忠勝を通して、「彼の方(家康)」に伝えてほしいというのもある。(逆にこのような形で、間接的にしか付き合いえないところが縁が薄いともいえるが。)
三成と家康の次男結城秀康は交友があったといわれる。
また、三成の長女の婿山田隼人は、家康の側室であり、松平忠輝の母である茶阿局の甥。縁戚というには、ちょっと遠縁だが。
三成は、伊達政宗とも交流があり、秀吉の死の直前には、政宗は「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」という書状を送っている。
そして、私婚違約事件のあった慶長三年二月九日、三成と宇喜多秀家らは伊達政宗を招いて茶会を開いている。私婚違約事件のひとつは、松平忠輝と政宗娘の婚姻なのであり、この婚姻が成り立てば、徳川家・伊達家・石田家が縁戚として繋がることになる。
こうした経緯を見ると、三成は私婚違約事件に対して反対の急先鋒(反家康派の急先鋒)だったという仮説(というか、これが従来からの通説なのだが)は成り立たず、むしろ、この時期、この婚儀がなんとか公議(十人の衆)の許可が得られるように動いていたようにみえる。
後の時代に三成のひ孫娘が徳川家光の側室になっているなど、石田家と徳川家の関係は調べれば調べるほど、わけわからんことになっている。
慶長五年七月十七日の「内府違いの条々」は、豊臣公議である二大老・三奉行が、家康を弾劾して、豊臣公議から追放した政変劇。
政変劇は「勝者が正しく、敗者が間違っている」と遡って確定する。だから、二大老・三奉行が勝利すれば、これは豊臣公議の意思として遡って正当化するし、家康が勝てば、これも家康こそが豊臣公議の意思だと遡って正当化される。そして、家康が勝ち、家康の意思が豊臣公議の意思として遡って確定した。
ややこしいのは、家康が勝者で豊臣公議の意思として正当化されたにも関わらず、二大老・三奉行の弾劾通りに、秀頼を見捨て、豊臣公議を簒奪し、豊臣家を滅ぼし、秀頼・淀殿を死に追い込んだことだ。せっかく勝利で、正当化された家康の立場を「自分は間違っていて、相手(西軍)の主張の方が正しかった」と自ら否定してしまったのだ。
勝者である家康が、その後も豊臣公議を代表し続ければ、家康の行為は正当化され続けられたが、自ら主張した正当化に完全に反する行為をしているので擁護しようがない。
慶長三年二月九日×→慶長四年二月九日〇
関ヶ原からすぐに豊臣が滅んだと思ってそう
1603年に徳川家康が征夷大将軍になる、
これこそが豊臣秀吉存命時ではありえない行動だった
勝てば西軍を正当化できたも何も、当時の認識も
西軍は逆賊軍で、西軍(家康)は豊臣正規軍なんだよ
秀頼代行の淀が支持してるんだから
政変劇だからなんだ?主君に支持されない政変劇の末路がどうなるか
2・24事変を見れば一目瞭然だろう
若手将校たちは首謀者に天皇は我々の味方であると言われ信じて挙兵したが
何も知らなかったクーデターの報に天皇は怒り、首謀者に厳しい処罰を与えると発表されると
混乱し士気は低下した
奉行や西軍諸将は、この若手将校らと同じで、豊臣のためにと言われ協力したが
豊臣家には通達されておらず、逆賊となったわけだ
なんで、そうなる?どこをどう読めばそんな感想になるのだろう。
??その豊臣正規軍(東軍)が、自分たちが豊臣正規軍であることをかなぐり捨てて、豊臣公議を滅ぼして、「今まで私らが言ったたことは、全部嘘だったんですよー」とその行動で表明したことは、擁護しようのない事実でしょ。
1+1=2なんだよ。そこから説明しなきゃいけない?
その間の変遷をまるで無視して関ケ原時の東軍がそのまま豊臣公儀を滅ぼしたって書き方はちといただけない
言ったたこと×→言ってたこと〇
あのさ、同一人物だろ。あなたは人間て物は、年単位で短期的に人格が分裂して、継続しないって思考なのか?
1600年以前は、家康Aという人物で、1600年以降は家康は死んでて影武者Bなんちゃらさんみたいな。
まあ、妄想歴史物語なら面白いけどな。それはファンタジーだろ。悪いけど。
本気で糾弾するなら、本人がいる間にやればええやん
それを公務でいない間に公儀が云々ってwww
だから、こうした政変劇は、本来は勝てば官軍、負ければ賊軍。
家康が不在だったから出せたのは事実だろ。それほど、家康の軍事力が圧倒的だったんだろ。
あのさ、公議云々って意味ないんだよ。
幕末で例えるなら、討幕軍が、「尊王攘夷!」って叫んで、幕府軍に勝利して、幕府軍(って徳川軍なんだけどね)を逆賊にしたにもかかわらず、討幕軍が天皇家を滅ぼしちゃったようなもんなのよ。家康の所業は。
そうでもあるにも関わらず「家康は、豊臣公議!」「家康は豊臣公議!」って叫ばれても、「その豊臣公議を滅ぼしたのは家康さんに他ならないのですが、何か?」以外の答えがないのですが・・・・・。
よくわからんわw
内府違いの条々がどうのこうの言ってるのが、チャンチャラおかしいからこんなこといっただけ
只の政争なんだから、どっちも豊臣軍だしね
のちに徳川が豊臣滅ぼしたからって、それを知ってる俺らは
徳川が当時から豊臣に害意があったと推察するけど
関ヶ原時点で断定できるもんなの?
とこういう話題みるたびに思ってる
俺は関ヶ原の始末直後だと時期尚早と考えてるけどね
鎌倉幕府、室町幕府とあるように「征夷大将軍」はかなりの意味を持つ位
豊臣秀吉存命中に家康がつくなどありえないほどの
甥だからなあ。身内争い。
自分の息子殺している家康と一緒。
いや、チャンチャラおかしいんじゃなくて、歴史研究界でおおまじめに議論されているだろ。
白峰旬氏あたりに、「お前の説はチャンチャラおかしい」と批判すれば。理路整然とな。
※122は、さぞ高い見識をお持ちなんだろな。ご高説を承りたい。
家康にとって関ヶ原は想定外だっただろうしな。
大きなイベントで行動の方向性を根本から変えるなんて良くあることだろう。
秀吉だって最終的に織田から権力を簒奪してるけど
別に信長生存時から一心に簒奪を目指してた分けじゃ無いだろうし。
本能寺の変で大きく方向変換したと容易に想像できる。
まぁこう書くと誰かさんは、
「あのさ、同一人物だろ?あなたは人間て物は、年単位で短期的に人格が分裂して、継続しないって思考なの?そんなことは有り得ない」
って言うんだろうけどw
まあ高慢ちきでどんな高説ぶっても反感買う書き方してる時点で人柄が知れるってもんだけれど
信康は明確に疑われて配下も擁護しないほどなんだよな
秀次も確かに疑われてるが どうも殺生関白の噂はタイミングができすぎな気が…
秀吉は、信長の生前から簒奪狙ってないのは多分大部分がそう思っているのだろう。まあ、本能寺の変秀吉黒幕論者というのはいるが、陰謀論の類だな。
家康にとって、関ヶ原は想定外だったとして、それから初めて豊臣家簒奪に向かうのかどうかは理屈的によくわからん。
つまりは関ヶ原までは、家康は豊臣家を支えていこうと思っていたが、関ヶ原以降、「こりゃ天下が取れるかも?」といって心変わりしたということか。まあ、そうかもしれんが。
あるいは、西軍が言ったとおり、家康は秀吉死後から既に豊臣公議を乗っ取ろうと考えていたのか。どちらにしても、最終的には家康は豊臣家を簒奪したことに変わらないから、あまり重要な話じゃないような気がする。どっちの場合でも簒奪は酷いと思うなら、酷いし、戦国の習いだといえば、そうともいえる。むしろ、なぜこの論点にこだわっている人がいるのか不明。どうでもいい気がする。
秀次の「謀反」の噂ってのは、(秀頼ではなく)自分の息子を関白にしようという計画。その頃、秀次の息子は子どもで年齢的に今すぐ関白になれる訳もない。秀吉死後をにらんだ将来的な計画。
実際秀次が将来的にそうしようと側近と相談していたのか、無根拠な噂がひとりあるきしたのか不明。
単に自分の意見をよく分からない理屈で全否定されたから反論してるだけじゃ無い?
上にある「年単位で短期的に人格が分裂して~」だの
「1600年以前は、家康Aという人物で~」だの
関ヶ原~大坂の陣間の思考、方針の変化があった説を
「ファンタジー」って言い切る考え方は俺も理屈的に本気で分からん。
「私はそうは思わない」なら別に構わないんだよ。そういう意見もあるだろうさ。所詮推察だから。
けど、「年単位で思考が変化」すること自体を「ファンタジー」って言い切って全否定してるからな。
※128と同じく、俺も「最初に考えていたことが外的要因で変更」って体験を数多く経験してる。
そんな人間からしたら、それを「ファンタジー」って言い切る考え方もそんな人生もちょっと理解できない
まあ、どっちともいえんわな。家康の内心の記録書いた日記とかあるわけじゃないし。
別にどっちの意見かを確定する記録などないから決めつけようがないけど、家康の結果的な行動には変わりがないのだし、そもそもこれがその当時家康の内心がAだったBだったということ議論することで、なんか家康の評価に変わりがあるのか?
史料からは行動したことしか分からんのだから
それだけじゃどんなどんな人間だったか分からないからな。
明智光秀が良い例だろ。
史料から分かることは「本能寺で信長を討って簒奪を狙った」ことだけだ。
そこに至るまでの内心が「長年の怨恨」なのか「信長の政策への義憤」なのか
「降って湧いた幸運に掛けた野望」なのかで
各々の評価する光秀像がガラリと変わる。
別に「主君を討った逆賊」だけで評価して思考停止するのもいいけどさ、
本能寺の変時の光秀の内心について、それこそ江戸時代から現代まで
数多の歴史家や好事家が多種多様に持論を展開しているのは
「結果的な行動」だけで思考停止せずに、もっと光秀を理解した上で
評価したいと思うからじゃ無いの?
家康の行動の内心を想像するのも同じ事でしょ
関が原以降の諸大名への手紙が上から目線になってるから
関が原以降じゃないかと言ってた人がいたが
それなら三成挙兵は負の面もあったと思う
あれで反家康勢力が一掃されてしまい
元々一強状態だった家康が更に権力を持つきっかけとなったわけで
関ヶ原が起きなかったifだと、家康の天下取りも長引いて
寿命が来て、戦国期に戻るなんて予想もあったが
確かに、関が原なしで天下取りは難易度上がると思う
大坂の陣まで滅ぼそうと思ってなかったら、いずれかの時点で臣従してたら、一大名として存続できたかも
っていう、正しくこのスレにうってつけの考察ができる話だと思います
関ケ原挙兵がなかった場合だが、上杉征伐は確実に行われ、上杉は滅んでいただろう。そして、豊臣家から多大な恩賞・領地が徳川及び従軍した大名に支給され、ますます豊臣家弱体化。ここまでは普通に予想できる。
問題はその後だ。これで家康が満足して、秀頼の後見を続けてそのまま死去。豊臣家は安泰ってシチュエーションになるかって話だ。
家康は、これまで二大老・二奉行を排除しているから、その後もその他の大老・奉行を排除することが予想される。
「いや、そんなことはない」と果たしていえるのか。少なくとも、当事者である二大老・三奉行はそのようには感じなかった。これまで家康は、二大老・二奉行を排除している訳だから、上杉が滅んだ後の次の標的は自分たちだと思うのが自然だろう。
三成挙兵(というか二大老・三奉行+三成挙兵)は、マイナスだったというのは、現代から見た結果論である。(負けたのだから結果マイナスにしかならない。)その後残った二大老・三奉行が、その後個別に排除された可能性は極めて高いと思うし、個別に排除する方が家康も楽だったろう。まあ、起こったこと以外は全部予想するしかないので、水掛け論になってしまうが。
秀頼が徳川家にある時点で臣従していたら、豊臣家は残っていただろうね。まあ、大坂城は退去になって、淀殿は江戸で人質になって、どっかの小国大名になっていただろうけど。結局秀頼・淀殿のプライドがそれを許さなかったんだろう。
ただ、家康も秀頼を自害に追い込まんで、どっかに遠島とか、高野山に追放とかしとけば、ここまで評判が悪くならんかったと思うよ。子孫は高家旗本とかにして引き立てれば、むしろ仁君として名声が上がったと思う。
初心者質問ながら淀殿ってほんとに関ヶ原後から大坂の陣前にかけてそんな家康に反発しまくりウーマンだったんですかね
毛利も宇喜多も三成襲撃事件直後に家康に起請文提出して家康を上位者と認識している。
毛利なんて家康を父兄とまで表現するくらい謙って屈服している。
その点で、曲がりなりにも対等だった加賀征伐時の前田、会津征伐時の上杉とは立ち位置が異なる。
加賀征伐未遂で前田も徳川を上位者として認めてるから、
会津征伐時点で徳川に屈服していない大老は上杉のみ。
関ケ原挙兵が無ければ、会津征伐完遂をもって家康の豊臣公儀首班の地位は確立できる。
毛利と宇喜多には前田に倣った人質の提出くらいは求めるだろうが、
前田家への処置をみる限りそれで終わりだろうな。
既に屈服している毛利も宇喜多もそこは逆らわないだろう。前田に倣うだけ。
まあ、その毛利も宇喜多も結局は家康打倒に決起したのだから、毛利・宇喜多は※143のようには予想しなかったのだろう。
どちらにしても、予想は予想。※143の予想通りになるとは限らんし、毛利・宇喜多は※143のようには予想しなかった。
反発というより、「臣従」することを認めなかったということだと思う。
(二条城会見は笠谷 和比古氏によると臣従ではないとされている。)
豊臣公議と徳川公議は「対等」。これが秀頼、淀殿の最低ラインのように見受けられる。(他の大名が徳川に従うのは認める。)
徳川としては「臣従」を求めているので、「講和」交渉の出発点が違う。
142のコメントをした者です
非常に面白い説だと思いますし家康が大坂の陣前には豊臣に臣従を求めていたことは確実だと私も考えるのですが、淀殿が対等な立場を求める思考だったということがわかる書状などって現存するのでしょうか?
もしあればぜひ読んでみたいなと思いまして、不躾な質問で申し訳ないです
家康に潰されるのを恐れたからなのか
勢力拡大のチャンスに野心を発揮したからなのかは分からんのだから、
「毛利と宇喜多はそうは思わなかった」って決め付けるのは無理があると思うわ。
何か彼らがその時の心境を書き残しているなら別だけどさ。
なんつーか、自分の想像に反する意見を
「彼らはそう考えていない」とか「ファンタジー」とか
決めつけるのはやめた方がいいよ?
アナタの言っていることも所詮想像でしかないんだから
>毛利も宇喜多も結局は家康打倒に決起したのだから
西軍が一つの団体で家康妥当を目的として決起とする考え自体古い通説に基づいたものだね。奉行でも前田・長束・増田とバラバラで一つの意志ではない
なるほど、「勢力拡大のチャンスに野心を発揮したから」とはそもそも思いもしなかったわ。全然チャンスとは見えず、追い詰められている状況にしか見えなかったのでね。ただ、これも現代的な結果論からの視点か。
少なくとも宇喜多は、家康から追い詰められているから野心を発揮してではなく、家康が「豊臣を乗っ取るかも」と敵視してだと思う。
毛利は、確かにこの時に勢力拡大しようと思ったのかもな。かなり無謀な作戦だが、輝元はアホだからそう思ったかもしれん。
まず、慶長十(1605)年、秀吉の将軍宣下に伴い、家康は秀忠の将軍襲職を祝うために上洛するよう秀頼に求めます。これに対して淀殿はこれを頑なに拒否し、もし強要されるなら秀頼を殺害し、みずからも命を絶つと主張します。この訴えは徳川方が折れ、家康の息子の忠輝が秀頼を見舞っています。このエピソードが淀殿=強硬派のイメージを生んでいるのでしょう。
その後慶長十六(1611)年、二条城での秀頼・家康会見となりますが、前述したようにこれは臣従会見ではないことは、笠谷和比古氏の『歴史の虚像を衝く』に詳しいです。(この会見は事前に双方で綿密な打ち合わせがされたかと思います。)少なくとも、この時点までは秀頼・淀殿は臣従容認派ではありません。
慶長十九(1614)年十一月に大坂冬の陣が始まります。戦は膠着状態となり、十二月に和睦交渉が行われます。徳川の条件は「淀殿が江戸に人質に行くこと、または大坂の石壁を壊して堀を埋めるか」になります。これに対して、豊臣方は淀殿が江戸に下ることは了承しました。当時の状況からいって、淀殿自身の了承がない限りこの条件はありえません。この時点では淀殿自身は講和派といえます。(人質に行くという事はこの時点に至っては、淀殿は豊臣家の徳川臣従を認めたということでしょうか。)
問題はこの時に豊臣家が集めた牢人の扱いです。徳川方は牢人の速やかな召し放ちを命じるのに対して、豊臣方はかえって牢人の扶持に近国での加増を要求しています。徳川方は当然拒絶します。
結局、牢人の召し放ち要求の拒絶が、大坂夏の陣となった理由でしょう。
大坂の冬の陣で「真田信繁ら牢人たちが大活躍して、引き分けに持ち込んだ」という事態が、豊臣家の足かせになるという皮肉な結果になったのです。
参考文献としては福田千鶴氏の『淀殿』を参照しました。是非ご一読ください。
詳しい説明と参考文献の提示までしていただき恐悦です!
大坂の陣直前から冬の陣後にかけてはなんとなくは知っていたのですが、それでも詳しく知れたのは非常にありがたく、また秀頼への上洛要請に対し淀が強硬な態度をとったのは知らず非常に勉強になりました
秀頼と淀共に不臣従では意見一致していても、そのために戦闘を行うかという点で意見が分かれていた感じなのですね
参考文献、ぜひ読ませていただきます
自害に追い込まないのは大坂夏の陣が開戦した時点で無理でしょう
どう処分するか
配下も大勢死んで許すでは示しがつかない
まあ、信長は将軍足利義昭と戦っているけど殺さずに追放しているし、秀吉は小田原城戦でも、北条と戦っても当主氏直は殺さずに高野山に追放しているし(隠居氏政は切腹させられているが)というわけで、「無理」ということはない。
幕末でも徳川慶喜は殺されてないし、今でも恨みをかっているらしい会津戦でも松平容保は殺されていない。
三国志なら、残虐非道と言われる曹操すら、暗殺計画立てられても時の皇帝(献帝)は殺していない。
それと比べるとね・・・・・・。特に家康は歴史に詳しいので、自分がやっている事がどういう行為かわかっていたはずなのに・・・・・。
ヤッス「清盛の轍は踏まないンゴ」
でもあの時点では家康が仮に助命するといっても勝手に自害してそうな気がした
どういう行為かというと
信長も倒幕も曹操も家康も殺す相手は選んでる
信長だって浅井の男児は殺しています。どうも家康だけ「「どういう行為か」と叩き前提で見てませんかね?
浅井は裏切者だからなあ、信長にとって。というか、浅井の男児殺しも残虐だって現代人で批判している人は、いるんじゃないの?
秀頼は、秀吉から遺言で後を頼むと頼まれた存在。孫娘も輿入れさせている。
遺言で後見を託された子供、義理の孫を普通殺すか?って話。
まあ、これが普通だと思うなら、それは、その人の考えだ。ああ、そういう考えですか、て話。特に同意しないが。
失策であったという批判も含めて
それとも各大名の悪行を並べて満足したいの?
それにしたってスマートじゃないとは思うけど
見たことない。
秀吉が遺言で後は頼むって拒否権ないからなあ 拒否すれば当然
無理矢理やっておいて「裏切った、せこい!」というのはどうか
まあ徳川も後々秀吉配下筆頭の立場を利用した点はむろんあるが、そもそものきっかけは一度豊臣に降ったことだし
まあ、臣従した時点で拒否権ないから仕方ないかなあ。その後冷遇されれば、かえって良かったね。
実際には、150万石から250万石に加増されたし、内大臣に引き上げてくれたとか恩恵を受けちゃったからね。
まあ、その「恩恵」も断れないだろうといっても(断ったら逆ギレするからな、秀吉は)、これだけ恩恵を受けて
「恩恵だって、断れなかったんだよお」って、言い訳したら、ちょっと大人としてみっともないわなあ。
下二行がどうも嫌味ったらしいな
それに二行目、天下を取れればもっと上望めたからな 取れればの話といったらそれまでだが
つーか一般的にはど田舎への左遷て言われてる
第一どんだけ恩恵受ければ裏切ってもしょうがないとかお前だけの線引きやん
そこはどうにも動かしようがない。簒奪者とか言い換えても良かろうが、基本的には永楽帝とか李世民、日本なら足利尊氏とかと似たようなタイプだね。権力を奪って天下を取った。
謀反は「時の為政者に反逆すること。」
秀吉死後から家康の将軍任官までの間、秀頼を為政者と見なすとしても、家康はその間「反逆」してない。
実態がどうであったかとは関係なく、戦後処理により『「関ヶ原」は豊臣家の謀反人を家康達が成敗した戦い』であると豊臣家自身が認定している。
簒奪でいうなら信長も斯波相手に、秀吉も織田相手にやってるよね
家康だけを取り上げていう必要ってあるの?
いや、信長も秀吉の戦国の人な訳よ。「下剋上は戦国の習い」。
家康さんというか、その子孫の将軍家も、「下剋上は戦国の習い」ってのを自分自身にあてはめて、公式に認めちゃったら、要は他の大名が幕府に対していつ反乱を起こされても、、
「お前もそうやって、天下とったんじゃねーか。お前がやったことと同じことやってんだけだよ」
と言われちゃうわな。だから、徳川家としては「下剋上は戦国の習い」というのを認める訳にはいかなかったんよ。そんなの認めたら反乱頻発しちゃう。だから儒教道徳を日本に広めた。
あと、この理屈を共有したら、大名自身も危ういよな。自分が家臣に裏切られて乗っ取られても「だって将軍様だって、そうやって天下とったんでしょ。自分がやってなんで悪いの?」って話になる。この理屈は認められない。
大名の皆さまも、その徳川家の屁理屈を認めるしかなかったし、それが自分の利益にもなった。
で、徳川時代も終わって、100年以上たちまして、「徳川の言い分って、やっぱり屁理屈だよね」とやっとおおっぴらに言えるようになりましたとさ、という話。
他の大名が×→他の大名に〇
秀吉は、自業自得なんじゃね?織田家に天下を返すべきだった。養子の秀勝が生きていれば、綺麗に返せたのにね。残念。
ただ、家康がをその論点で、秀吉を批判しちゃうと、家康も織田に返すべき、って理屈になっちゃうから、
家康はその主張は(本気で織田家に返すわけでない限り)できない。残念。
自作自演じゃなくて、補足だよ。
結局家康も戦国の習いの下克上したまでってことで終わりですね!
儒教どうのこうのは子孫がやったまでの話ですから
「やったまで」じゃなくて、徳川幕府200年以上通じて、自分達が奸臣・簒奪者のくせして、史実を捏造してまで、西軍こそ奸臣・佞臣だと貶めすぎたからねえ。
今となれば「いや、お前らの方が奸臣・簒奪者だろ」と当たり前のことを言われても仕方ない。
結局、必要以上に敵を貶め続けたことが今になって、はねかえっているだけ。
何の話ですか?というか結局それ子孫の話ですよね?なんで家康だけ主語が急に徳川家になるんですか?
史実を捏造とか具体的になんのことやねん
軽々しく捏造だとか言うべきじゃないとか歴史を学ぶ上で最低限の良識やぞ
しかし結果として秀吉も叩いてしまうという
徳川時代には関ケ原の戦いは、「石田治部少輔の乱」と言われていたんだよ。これぐらいの短いフレーズにすら、江戸時代の捏造が仕込まれている。
まず、石田三成は西軍の総大将ではない。西軍の総大証は毛利輝元。もっというと、西軍の首脳とは、「三大老(毛利・宇喜多・上杉)・四奉行(前田・増田・長束・石田)」のこと。つまりは失脚した前田利長・浅野長政以外の全部の大老・奉行。当時豊臣公議は、五大老・五奉行のことを指すので、大老家康が、他の現役の大老・奉行全員にダメ出しされた戦いな訳だ。三成は、二大老・三奉行の決起後に奉行に復帰しているから、この意味でも総大将ではありえない。
第二に「乱」とはなんだ?ということ。この当時、公議とは豊臣公議しかない(徳川公議は存在しない)から三成は、豊臣公議に反乱を起こしたってことになってしまうが、前述したように西軍とは、「大老・奉行のうち、家康以外全部」を指すので、すなわち「豊臣公議」」そのものなんだね。だから、三成が豊臣公議に反乱を起こしたというのは、そもそもありえない話になる。
上記の説を、現代でもそもそも取る人なんていないよね。だって史実じゃないから。ところが、徳川時代においては、関ケ原の戦いは「石田治部少輔の乱」が公的な史実でそれを前提に史料が作られているので、もう出だしからおかしい訳だ。偽物の史実を公的な史実として、史料を編纂しているから、書いてあること自体が捏造なんだよ。
ということで、江戸時代の関ケ原の戦い前後を描いた史料は、前提から歪んでるのよ。だから、今の歴史学者さんが、必死に粗悪な江戸時代の史料に頼らず、当時の一次史料を使って史実の洗い出しをしているのよ。彼らの努力に幸あれ。
なんで、家康だけ叩かれるのか、という話か。
別に信長も秀吉も叩かれているんじゃない?
同じように叩かれているだけだよ。安心しろ、家康だけじゃない。
上記の説×→上記のフレーズ(「石田治部少輔の乱」)
都合の悪い資料は偽書扱いという、話にならん話をするやつだろ
「こういう考え方もあるよね」程度ですませればいいのに
結局のところ自分の気に食わない相手を家康擁護者()とレッテル張りしてサイコパスだの子供だのと中傷に走るからな
自覚してないだろうがマウンティングの口実にしてるだけ、荒らしにつける薬はない
いや、あなたが、史料で「これは史実だ」と考えているものを具体的に提示してみれば?
提示してくれれば、具体的に、どこがどう間違っているか指摘できると思う。あるいは、「特に疑義はない」かもしれない。
全般的に江戸時代における「豊臣時代」を扱った歴史書は、(当然徳川寄りの)政治的バイアスがかかっているので、信用ならないし、扱うにしても政治的バイアスを考えて扱うのが常識だ。上では、その一般論を述べた。
しかし、「偽書」とまでは私は言っていない。(「偽書」云々言い出したのは※186。)「偽書」とは、そもそも史書ですらない、というスタンスだからな。1から100まで創作の文書を「偽書」という。まがりなりにも江戸時代の関係者の誰かさんが書いた文書なのだから、「嘘」や「間違い」「捏造」も含めて史料として、それを批判的に検証するのが史料批判であり歴史学。
しかし徳川を悪とするなら豊臣も三法師のぼっちゃま洗脳してちっさな領土で満足させてるから同じなんだよね
秀吉の方が、三法師ぼっちゃっまを洗脳しているから、より悪どいよなあ(笑)。関ヶ原の戦いでも、なんでか知らんが西軍ついているし。しかし、ぼっちゃまの暴走で、予想より早く堅城岐阜城が陥落しているから、結果として西軍敗北の大きな原因となっているのが面白い。歴史の皮肉という奴だ。
家康も、秀頼をうまく操縦できていればよかったのにな。操縦できなくても、秀家と同じく遠島でよかったんじゃないのと思うよ。それだけで、現代の家康株は多分相当上がったと思う。
三成の子孫には家康は鷹揚なんだよな。家康は面白い人だ。
違います。
信長と秀吉は本人に対しての評価の話をして、
家康だけなぜか子孫のことまで含めて徳川家の評価する話になってることが意味不明なんです。
むしろ家康を執拗に叩きたい意思を感じますがね?
いやそんな単なる歴史解釈の部類じゃなくてさ…
なんか誤魔化してるように見えるんだけどはっきりした捏造の根拠やエピソードはないの?
そもそも石田治部少輔の乱と呼ばれてたって当たり前やん
毛利が総大将なんて庶民が把握してたのかもわからんじゃないか
実際戦った雑兵も知ってたかどうか怪しいのに庶民はなおさらじゃね
それに比べて三成は失脚中なのに先に大阪城に軍勢入れて関ヶ原で戦って首切られてるんだぞ
総大将かどうかはともかく首謀者だと庶民は思うわ
わざわざ幕府なり大名なりが「総大将は毛利輝元だ」なんて喧伝しなけりゃ自然に三成が主体になるって
乱と呼ばれてるのも気に入らんみたいだけど平成の世でコメ欄で議論しあってるようなことを江戸幕府の治世で乱てよんだら捏造だとか世の中捏造だらけになるわ
かっこつけて今の歴史学者さんが、必死に粗悪な江戸時代の史料に頼らずとか言ってるけど石田治部少輔の乱と呼ばれてたことを「捏造」だって表現した日本語のあやしい学者さんはホントに存在するの?
まあ学者と名乗れば学者にはなるからいないとは言い切れないけど著作とか出版してると人だとしたらビックリなんだけど
名前とか著作とか教えてくれない?
ならねーよ何言ってんの?
普通に本人のやったことで評価すりゃいいじゃん
何も家康1人だけの功績で続いたわけじゃあるめーし
むしろ政権安定の功績は秀忠のほうが大って意見あるけどそしたら秀忠が罪かぶるの?
そもそも功罪を問うにも三成関連の罪とやらがしょっぱすぎるけど
あの、庶民が歴史書書いたと思ってます?大丈夫ですか?幕府や大名お抱えの学者とかが書いているんですよ。
石田治部の乱って捏造も何も、現在誰も使ってないじゃないですか。
ないのか?じゃなくて、枚挙に暇がないから一例として挙げたら、この反応なので、結局、何挙げてもケチつけたいだけでしょ。
具体的にあなたが史実と考える逸話・史実を挙げて、個別に検討しましょう。けんか腰にならずに。
「戦国の習い」って誉め言葉ではない。つまりは、「戦国大名なんて、下剋上・裏切り・簒奪なんでもありのろくでなし共だ」というとにすぎない。信長・秀吉はこのろくでなしリストに当然入るし、家康も入る。
信長・秀吉は、「信長・秀吉はろくでもない」という話をしても反論されることはほとんどない。「信長・秀吉はろくでもない」というのは歴史に詳しい人間なら共通認識だから。
家康だけ叩いているのではなくて、信長・秀吉と同じ調子で、家康のろくでもなさを説明すると、家康の場合だけ反論されることが多い。家康を持ち上げたい人、擁護したい人が、いかに家康に幻想を抱いているか分かる。
なんか、話ずれてきてますね。「子孫の罪」なんて、※193さんは以外は話題にしていません。(少なくとも私はそんな話はしていません。)
現代の家康擁護者の論理は、徳川時代に作られた徳川擁護の論理に非常に似通っている(というか、それが源流でしょう)
ので、そこを指摘しているだけのことです。
※198をご覧ください。
なんで俺が挙げなきゃいかんねん
相反する資料があったとしてどっちの資料が正しいかなんて断定する気なんてさらさらないわ
捏造の根拠が下らないから突っ込んどるだけじゃ
最初から軽々しく捏造というべきじゃないといってるだろうが
(ID変わってるけど※179も俺な)
第一どの部分を捏造だと断じてるかがわからんのだから関ヶ原前後の経緯を全部挙げなきゃいかんだろうが
捏造だと断じてる側が個別に挙げるべきだろ
別に庶民が歴史書書いたなんぞいっとらんわ
当時の共通認識の話じゃ
当時その言葉を使うのが正しけりゃ捏造という表現にならんわい
いや仮に少数派でも解釈の問題なんだから捏造ではないわな
今使ってないとかなんの根拠になんねん
受け取ってる情報も立場も違うんやから当たり前やん
逆に関ヶ原の戦いが正しいとか何の根拠もないし
俺はいま現在石田治部の乱とか言われても変わった表現するなと思うだけで間違ってるなんぞ言わんぞ
んで学者の名前は挙がらんの?
いや、「石田治部の乱」について、書いただけであの反応じゃあな。
そもそも、二大老・三奉行が決起してんのが、三成だけの反乱のようにしている時点で「捏造」じゃないのか?と言っているんだが。
それを「庶民からそう見えた」なんて書いている時点で・・・・・。
学者の名前ってアホとしか。誰も「石田治部の乱」なんて言っていない時点で察しろとしか。
で、個別の話はしないの?
そういう学者がいるとか、アホなことを言っているのはお前※201自身。誰もそんなこと言っていないだろ?
本当にアホだな。お前が自分で言って、自分で否定するとかどうしようもないな。話ににならんわ。
結局は捏造の可能性の問題かよ下らねえ
説を主張したいならもっと説得力のある根拠持ってくんじゃねーの?
捏造ってのはない事実をでっちあげたりすることだろ?
例えば殺生関白のエピソードが嘘と照明されれば捏造にあたるだろうな
今ですら西軍の主要人物は三成だって認識が強いのに当時の人間がその認識もってるのがでっちあげか?
どんな情報を受け取っていたかも不明なのに?
まあ共通認識にこだわったから庶民って表現を使ったのは適切でなかったな 悪かったよ
もっとましな根拠だったら突っ込まなかったよ
それと俺は史実をつらつら述べてけばいいのか?講談師じゃねーんだぞ
※203
※183で明らかに解釈の問題を捏造だって自信満々に挙げたあとでかっこつけて学者がどうこう言ったから万が一学者の意見に基づくものだったらビックリだと思っただけだよ
いないならいないでいーよ
どうやら1人だけの考えみたいだな
徳川系の史料で「石田治部少輔の乱」ってみた覚えないけど何の史料なんだろ
>公的な史実
ってことは徳川実紀にあるのかね
別に家康がろくでもないはありえないとか評価することに触れてません。
他の二人と比べて家康の評価の仕方に対しておかしいと言ってるだけです。
>>家康だけ叩いているのではなくて、信長・秀吉と同じ調子で、家康のろくでもなさを説明すると、家康の場合だけ反論されること>>>が多い。家康を持ち上げたい人、擁護したい人が、いかに家康に幻想を抱いているか分かる。
反論してる人に言ってください。
徳川実記の「石田三成佐和山蟄居の前より。上杉佐竹等と深く はかりかはし。時を得て上杉佐竹と牒し合せ。東國に謀反の色をあらはさんには。 內府みづからこれを征せられんとて。打て下られん事必定なり。其時三成 大坂へ馳參し秀賴仰せと稱し。毛利浮田をはじめ西國諸大名をかたらひあつめ西より軍をすゝめ。 內府を中途にさしはさみ討奉らんには。勝利疑なしと謀を 決しける。景勝が家司直江山城守兼續これもさるふるつはものにて。三成と謀を合せたがひに其事をくはだてしが。今は時こそよけれと景勝をすすめ。領內砦々 を取立て壘を高くし溝を深くし。」とかの記述をもちろん読んでいるのだよね。徳川実記に言及しているということは。これ読んで、なお石田治部が首謀者だと徳川はみなしていないという認識なのか?まあ、その認識なら話すことはない。(なんとかにつける薬はない。)
「石田治部少輔の乱」は、「霜女覚書」から。霜女の認識が当時の一般的な認識でないという認識なら、それはそれで、もう話すことはないわ。
分かった。信長・秀吉・家康ともにろくでもない。これが私の認識。
あなたと同じということでよい?
なんか、他の人のコメントと混ざってしまって反論してしまったな。
あまり口ぎたない言葉を使うべきではなかった。すいません。
なるほど、「捏造」っていう言葉は、ある人にとっては、すごいインパクトがあるみたいだな。
例えば、「西軍総大将である石田三成が」、「蒲生氏郷を毒殺したってのも、讒言で加藤清正が蟄居に追い込んだってのも、讒言して豊臣秀次を切腹に追い込んだのも、伊達政宗を秀次事件で讒言で三成が追い込もうとしたのも、黒田如水を讒言で隠居に追い込んだってのも」(全部江戸時代の二次史料によるものだが)全部現在の歴史学では否定されているが、「たまたま」全部江戸時代の二次史料では間違えただけで、「捏造」というには、もっと証拠が必要だと。
捏造というには、書いた人が捏造の意図で書きましたという証拠が必要ってか。もう悪魔の証明だな。
まあ、そこまで証拠が必要なら、別に「捏造」と言わんでも虚偽とか虚構とかでいいわ。
まあ、君が好男子、いや間違えた、講談師だと自分で言うなら、逆にこれ以上突っ込まんわ。
(言ってないけど、講談師なら逆に許すという意味。)
そもそも「石田治部の乱」を現代で採用している学者などいないのだから、これを「捏造」だ、そうでないか、という論文自体が存在しないのだ、とさっき説明した。なんで、この論点が突っ込まれるのか意味不明だった。
君のこと?
北政所が大坂から追放されたのが痛かったと思うな。(これで、北政所は豊臣を代表する人物ではなくなった。)
江戸時代の二次史料では、北政所が自ら申し出て、大坂城からでていったとあるけど、時期的にみて、浅野長政の逼塞が理由だと思われる。
むしろ家康信者のほうが250年の天下泰平を築いたとか子孫の事まで家康の手柄にしている気がする。
家康は死ぬ寸前まで戦に明け暮れ、最後まで難癖つけて戦争しまくっていたってのにね。
もっとも江戸時代なんてろくな時代じゃないので手柄でもなんでもないんだが。