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藤原鎌足 藤原道長 藤原冬嗣 藤原隆家 藤原清衡←こいつら

1:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:53:31 p6G
だれが誰なんかわけわからん


引用元
藤原鎌足 藤原道長 藤原冬嗣 藤原隆家 藤原清衡←こいつら
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1499759611
2:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:55:38 g9j
藤原四兄弟とかいう一斉に病死した奴ら
藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。
藤原武智麻呂(680年 - 737年)(藤原南家開祖)
藤原房前(681年 - 737年)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 - 737年)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 - 737年)(藤原京家開祖)

律令編纂や平城京遷都などに関わった不比等亡き後、四兄弟は元正天皇・聖武天皇の時代に渡り長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を追い落とした後、すでに公卿となっていた武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、官人の推挙により宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿の内四兄弟で4人を占め729年から737年までの間朝廷の政治を担った。これを藤原四子政権と呼ぶ。
四子政権時代には律令財政が確立され、天平6年(734年)に官稲混合による正税が成立し、天平8年(736年)には公田地子の京進が開始された。また、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化した。対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。
四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。その後四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として担うことになった。その後は、四兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に乱を起こし討伐された(藤原広嗣の乱)こともあり、孝謙朝に武智麻呂の子豊成次いで仲麻呂が台頭するまで、藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになる。
藤原四兄弟の子の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれ、それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残している。

3:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:56:00 p6G
藤原秀郷
藤原純友
藤原時平
藤原不比等←お、なんやこいつ
藤原鎌足
藤原道長
藤原冬嗣
藤原隆家
藤原清衡
藤原信西
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

4:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:56:43 v3j
>>3
それ藤原の開祖やなかった?
7:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:56:57 p6G
>>4
開祖は鎌足やろ
8:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:57:12 v3j
>>7
それなかとみのかまたりやろ
9:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:57:43 6GM
>>8
藤原姓賜ったやん
10:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:59:05 v3j
>>9
そうやっけか
11:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:00:04 6GM
>>10
死んだときにな
12:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:00:22 v3j
藤原清衡が東北藤原氏なのは覚えてる
>>11
ファー
5:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:56:50 EPl
藤原鎌足 怨霊 藤原冬嗣 藤原隆家 藤原清衡
6:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)16:56:53 2RP
信西は藤原じゃないやろ
13:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:01:27 xgL
藤原純友「海賊王になるンゴ!」
14:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:01:58 g1l
日大〇〇とか東海大〇〇みたいや
15:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:02:07 x7G
かまたんとかみっちーとかあだ名付けたらええで
16:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:07:07 2RP
>>15
みっちーいっぱいおるで
18:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:10:29 iMJ
>>17
清原で草 奥州藤原氏の祖なんだよなあ
19:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:15:26 g9j
>>17
秀郷はドラゴンライダーで平将門ぶっ殺した人やで
25:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:26:09 2RP
>>17
信西は高階やろ
22:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:19:14 c7J
>>17
藤原公任「ワイもいるで!」
23:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:24:07 Vtc
>>17
秀郷は将門討ち取ったやつと覚えとけば大体OK
冬嗣と隆家はまあなんちゅうか政治家や
34:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)19:58:06 xgL
>>23
藤原秀郷って百足退治の俵藤太やんな?
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。

35:名無しさん@おーぷん:2017/07/12(水)12:11:52 K7Z
>>34
せやで
20:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:15:56 IF2
藤原拓海
24:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:25:31 rkF
元命(小声)
当時、日本の地方行政は国司の筆頭官である受領に権力が集中し、百姓による受領に対する訴えや武力闘争(国司苛政上訴)が頻発していた。尾張国でも永延2年(988年)11月8日に朝廷に訴えが起こされたが、このとき太政官に提出された「尾張国郡司百姓等解文」(尾張国申文)は国司苛政上訴の詳細を示す史料として有名である。藤原元命はこの時の尾張守で、解文において非法を訴えられ、永祚元年(989年)2月5日朝議においてこの問題が審議され、同年4月5日の除目で守を停止された。尾張国郡司百姓等解文」により、元命は私欲に基づき貧しい農民から苛烈な収奪を行う受領の代名詞とされ、また後世の説話の世界でもその評判は非常に悪い。

27:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:28:08 g9j
>>24
農民から訴えられたのずっと記録に残っててかわいそう
こいつだけじゃないのに、訴文が無駄に美文だったから…
26:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:26:51 Yx0
中央藤原氏きらい東北藤原氏大好き
28:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:31:45 v3j
清衡は苦労人やしな
パッパは生まれてすぐ死んどる
マッマは別のとこに嫁いでそこで異母アッニと同母オトウットと義父と生活する青年期
家族が出来たと思ったら全員一回殺されとるし
29:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:32:29 92h
この辺の奴クッソ覚えやすくてすき
30:■忍法帖【Lv=1,バンパイア,fpu】:2017/07/11(火)17:32:49 sLH
藤原竜也は?
31:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:36:02 y9N
藤原喜明
33:名無しさん@おーぷん:2017/07/11(火)17:38:25 G26
左遷ポストを好む異端児
38:名無しさん@おーぷん:2017/07/12(水)12:18:17 KbV
藤原竜也はよく叫んでるヤツやで
39:名無しさん@おーぷん:2017/07/12(水)12:18:27 LGH
鎌足の息子が不比等で不比等の息子が藤原四子や
四子から北家とか南家とか式家、京家かできたんや
最も栄えるのが北家で冬嗣や道長も出て来て摂関家になるんや

ただ時代が下ると地方でもそこらじゅう藤原さんだらけになるからそれぞれ地名なんかをを名乗ったりするんや(近藤、結城、龍造寺…)
40:名無しさん@おーぷん:2017/07/12(水)12:19:28 btr
近衛家九条家として近代まで名門を維持しとるのは凄い

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