上杉謙信でも和睦するしかなかった加賀一向一揆って…

1:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:29:38 EaD
キチガイ並みの強さやんwwwww


引用元
上杉謙信でも和睦するしかなかった加賀一向一揆って…
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1494847778
2:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:32:32 UMF
1万の兵で30万人の加賀一向一揆に勝った朝倉宗滴って凄いわ
4:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:34:08 EaD
>>2
宗滴ちゃんは一揆キラー
7:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:38:57 mqC
>>2
当時の加賀の推定人口八万やで(小声)
8:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:40:10 EaD
>>7
あっ…(察し)
3:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:33:04 bFn
お、佐久間ガイジか?
12:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:42:26 I2C
佐久間ガイジのせいでマトモな戦国スレが建たなくなったのは哀しいなあ…
14:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:43:08 EaD
>>12
それな
15:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:44:00 L6y
結局瓦解するしかなかった山城国一揆って……
ただのグダグダやん
山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で厳密には国一揆ではなく惣国一揆とでも言うべきものである。

応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。南山城でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。本来、山城には名目上の守護しか置かれていなかったものの、文明10年(1478年)の畠山政長の任命後は本格的な領国化を目指す動きが盛んになっていた。その中で繰り広げられた両畠山氏の長年にわたる戦いで国人衆や農民は疲弊し、山城国一揆の土壌が整った。文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。

国人衆による政治は、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、惣国は崩壊の兆しを見せ始めた。特に明応の政変による幕府内部の混乱は幕府有力者達による山城国人衆への切り崩し工作となって現れた。これまでは半ば名目上の守護であった伊勢貞陸は京都から追放された前将軍足利義材の支持者の京都侵攻に対抗することを名目に山城全域の一円知行化を目指すようになり、国内の寺社本所領の接収を進めた(『後法興院記』明応2年閏4月27日条)。更に貞陸が大和の有力者で畠山基家の被官でもあった古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に任じて支援を仰いだことで、伊勢・古市の支配を認めて従来の地位を維持しようとする国人達と「他国者」の古市の侵入を認めず細川氏などと結んでこれを排除しようとする国人の動きに分かれた。

明応2年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲屋妻城に立てこもって抵抗する。だが、義材追放の中心人物であった細川政元は、義材方勢力の反抗に対抗するという伊勢氏の主張を拒むことが出来ず、表だって一揆側を支援することが出来なかった。また、政元や畠山基家は古市澄胤に兵の引き上げを命じたが、守護伊勢貞陸の支援を受けていた古市はこれを拒否して国人衆の抵抗の鎮圧にあたった(『大乗院寺社雑事記』明応2年12月9日条)。翌年11月には古市軍によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結を見ることとなった。

16:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:44:27 EaD
>>15
細川が最強やっただけ
20:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:48:04 L6y
戦国時代の北陸のベールに包まれてる感じ好き
21:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:48:43 EaD
>>20
無法地帯やな…
22:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:51:09 tpI
>>20
畠山と本願寺がかなり安定してたからな 畠山には京や全国から貴族が逃げてきたくらいや
24:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:51:44 EaD
>>22
そんな畠山も上杉謙信に滅ぼされた
33:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:55:56 tpI
>>24
しゃーないやろ義総死んでまとめ役欠いたんやし
27:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:52:25 L6y
>>22
周防? 長門?にも逃げとったんやっけ
大内さんとこに
33:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:55:56 tpI
>>27
大内、畠山、山名が主な潜伏先と聞いたけど全部滅びたから確証に欠けるとかなんとか
35:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:58:10 EaD
>>33
今川とかもじゃなかったけ?
39:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:59:18 uy3
>>33
大内に行ってるのは陶の謀反かなんかの時に巻き添え食らってるから間違いないやろ
三条 公頼(さんじょう きんより、1495年(明応4年) - 1551年9月30日(天文20年9月1日))は、戦国時代の公卿。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流の三条家の当主。太政大臣三条実香の子。官位は従一位左大臣。後龍翔院左大臣を号す。天文20年(1551年)8月には、周防国(山口)の大内義隆を頼り下向している。三条家と大内家は古いつきあいで、文明11年(1479年)4月には公頼の祖父三条公敦が周防の大内家を頼り下向している。しかし、公頼は天文20年(1551年)9月1日、大内家臣の陶隆房の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害された。


大宮 伊治(おおみや これはる)は、戦国時代の官人。大宮官務家最後の当主。左大史・大宮時元の子。伊治は天文15年(1546年)には在官中にも関わらず、周防国の守護大名・大内義隆を頼って下向した。この時、壬生家も官務を出すことが出来ず(天文10年の于恒没後、当主が決定できず、この年僧籍にあった登辰を強引に還俗させて当主としていた)、天文17年(1548年)に登辰が官務に任ぜられるまで官務が事実上空席であった。周防においては伊治の娘が義隆の寵愛を受けて側室となり、大内氏の跡継ぎとなる義尊を儲けた。だが、天文21年(1551年)、主君・義隆に対して挙兵した陶隆房の軍に襲撃されて殺害されてしまった(大寧寺の変)。

50:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:03:09 tpI
>>39
山名が確証に欠けるんや 大規模な此隅山移住キャンペーンを文化人達に対して行なってはいたらしいが結果は不明
25:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:51:58 I2C
>>20
国を奪われた富樫が悪いよ富樫がー
26:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:52:21 uy3
>>25
マジかよそら休載するな
28:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:52:55 EaD
>>25
富樫はビビるんじゃなくて弾圧始めたのが悪い
23:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:51:36 L6y
加賀の一向宗って朝倉とは敵対してたみたいやけど、能登畠山とか越中神保? 椎名?とかとは仲良くしてたん?
29:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:54:38 UUR
戦国シュミレーションゲームで扱いをどうするかが作品によって変わりまくる加賀
本願寺顕如が加賀におることになっとるゲームもあったな
30:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:55:15 EaD
>>29
のぶやぼ
32:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:55:50 I2C
>>29
武将風雲録「さぁてなあ?」スットボケ
34:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:57:00 L6y
>>29
太閤立志伝5
本願寺降したら顕如以下頼廉雑賀を長島に配置させてたわ
36:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:58:22 UUR
本願寺勢は鉄砲の扱い美味いからゲームで使うぶんにはとても楽しい
38:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:59:02 L6y
>>36
大砲持たせるのもええなぁ
40:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:59:41 EaD
>>36
鉄砲上手いのは雑賀衆
43:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:00:56 uy3
>>40
言うて一向一揆と雑賀はズブズブだからしゃーない
あとゲームだと本願寺もまとめて強かったりする
46:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:01:46 EaD
>>43
持ちつ持たれずの関係やな
37:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)20:58:51 hWo
あの当時、僧兵強かったよな
45:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:01:41 I2C
>>37
富田長繁「弱いぞ」ヒャッハー!
52:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:04:10 L6y
もしかしたら蝦夷まで逃げた公家とかおるかな?
55:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:06:28 bVx
のぶやぼでもたいこーでも本願寺勢みんな斬首しちゃうんだよなあ

カルト狂信者も宗教幹部も嫌いやから
59:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:07:39 EaD
>>55
当時の本願寺はキチガイやからな
60:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:08:11 L6y
>>55
ワイは配下にしてたわ
あと太閤立志伝やとオリジナル武将になって本願寺で天下統一とかいう真宗国家日本の幕開けやで
62:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:08:55 EaD
>>60
恐ろしいなw
64:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:09:19 Z5n
>>60
ええなそれ今晩からやろかな
78:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:18:24 L6y
>>64
ワイがやった時、オリジナル武将の説明欄の通りに行ってニヤリ

長島配属するも、織田に攻められて敗北。石山に戻って証恵様の仇討ちを誓う
織田が近畿に出兵。ワイ岸和田城城主、大筒騎馬鉄砲で近畿から駆逐(&京都以外を自領地に)
以後、この繰り返し。試しに一回謀反したらワイの領地が太政大臣エンド行ける規模で草生える


楽しかったわ
57:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:07:18 Z5n
斬首したくないけど登用もしたくないんよなぁ…
なお勝手に軍団長が部下にしてる模様
61:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:08:22 EaD
>>57
軍団長を放逐するわw
63:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:09:15 tpI
七里とかのぶやぼやとかなりヘイト集めそう
顔のせいで
もとは本願寺の青侍(下級武士)だったが、顕如に見込まれて坊官となり、加賀一向一揆の指導を命じられた。織田信長との石山合戦が始まると、顕如の命で加賀の一向門徒を指導し、織田軍とたびたび争う。このことから一向門徒から「加州大将」と呼ばれた。

天正2年(1574年)越前国では桂田長俊が暴政を行い国人や民衆の不満は頂点に達していた。そして長俊に敵対していた富田長繁は民衆に働きかけて土一揆を起こし、自ら大将となって長俊が籠もる一乗谷を攻め、長俊を滅ぼした。長繁は続けて魚住景固も殺害した。が、特に敵対してはいなかった魚住一族を滅ぼしたことに一揆衆は反発し、無策な長繁と手を切ることとした。

そして一揆衆は長繁を大将の座から降ろし、他の誰かを自分たちの指導者に迎えることとしたのであるが、そこに白羽の矢が立ったのが頼周である。一揆衆には相当数の本願寺門徒がいたため、彼らの推薦があったのだ。こうして富田長繁を指導者とする土一揆は頼周を指導者とする一向一揆に変わり、長繁とその与党、そして土橋信鏡、平泉寺と敵対するものを次々に滅ぼしていった。この後、越前一国は本願寺から派遣されてきた下間頼照の支配を受け、頼周も彼の指揮下に入った。

この時の2月半ばには、滅ぼした国衆黒坂一族の首を差し出した一向門徒を「自分の命令もなく勝手に武士を殺したのは軍律違反」と激怒して処刑した。しかし、頼周は権力と信任を得ていることをいいことに、先述した処刑といった非道で粗暴な振る舞いも少なくなく、そのために門徒からは人望が無いどころか、石山本願寺の坊官・下間頼廉のもとに頼周を弾劾する門徒たちの弾劾状が送りつけられているほどであった。このような越前や加賀の一向門徒の分裂(一揆内一揆)を見た信長は、翌天正3年(1575年)8月、大軍を越前に送り込んだ。門徒に人望が無かった頼照や頼周は全く統率が取れずに大敗北を喫した。頼照が逃亡先で殺害された一方、頼周は加賀まで逃げ切った。 翌年、頼周は加賀の司令の座を下間頼純に交代させられた他、一揆の拠点である加賀松任城主で味方であった鏑木頼信を叛意ありとして討ち取ったとも織田軍に敗退して討ち取られたとも言われている。

65:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:10:38 EaD
>>63
七里は能力あるやろけど仕える勢力間違えたやろw勝手な言い分やけど
66:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:12:24 tpI
>>65
元が本願寺の下級僧兵なんやから本願寺に仕える以外無理やろ
68:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:13:28 EaD
>>66
他の良宗派に仕えれば…という話や
72:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:15:29 tpI
>>68
そしたら全く名前は残らなかったやろなあ どっちのが幸せなんかは分からん
69:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:13:34 UUR
下間頼廉くんすこなんだ
70:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:14:17 EaD
>>69
意外と長生きなんだよな…
71:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:14:43 I2C
>>69
太閤だと万能過ぎて浪人で居たら必ずスカウトするわ
73:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:15:31 Z5n
>>69
強過ぎて嫌い
74:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:15:38 mqC


センゴクの本願寺さん
77:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:17:05 EaD
>>74
ワロタwどの口が言うんや
75:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:15:46 vxl
どうでもいいけど謙信は最終的に一向一揆に勝ってたような
76:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:16:16 EaD
>>75
最終的には対織田で和睦したんやで
79:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:19:16 4XP
謙信って信長の野望やとあんなに強いんやろ
武田、北条 に勝てないし
87:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:18 L6y
>>79
太閤やと、日本海下ってきた南部に負けてたンゴねぇ
81:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:20:09 EaD
>>79
織田四天王のうち三人に勝ったから
82:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:20:51 4XP
>>81
柴田とあとだれや?
羽柴はやる気なしなやし
86:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:14 EaD
>>82
丹羽、滝川
84:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:08 I2C
>>79
ちょっぴり城攻め苦手なだけで野戦は最強やし
89:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:46 vxl
>>84
城攻めも七尾とか割とえぐい手使うよな
90:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:55 4XP
>>84
川中島以外なんかある?
92:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:22:09 EaD
>>90
手取川
94:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:22:39 4XP
>>92
空中分解のやつか
96:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:22:50 L6y
>>92
手取川の戦いほんまにあったんか説あるみたいやね
99:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:24:04 EaD
>>96
でもあったやろ…手取川の地元では信長が敗走したっていう伝承あるみたいやし
85:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:08 bVx
そういや三河のタヌキさまは一向一揆で家臣に裏切られるっつう間抜けっぷりさらしとったな
91:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:21:58 L6y
>>85
本多正信「三河武士は忠義の代名詞やぞ」
98:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:23:52 tpI
秀吉の軍師=黒田官兵衛
上杉の軍師=宇佐美定満 直江兼続
武田の軍師=山本勘助
伊達の軍師=片倉景綱
佐竹の軍師=太田三楽斎
長宗我部の軍師=香宗我部親泰
徳川の軍師=高力清長 本多正信


織田の軍師=??
101:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:24:51 EaD
>>98
信長自身やぞ
106:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:26:20 tpI
>>101
そういうイメージもないんよな
102:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:25:29 akD
>>98
平手政秀
109:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:27:05 UUR
>>98
なんか坊さんおらんかったっけ
軍師ってほどでもなかった気がするけど
113:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:28:18 uy3
>>109
岐阜のあの人?
沢彦宗恩だっけ?
沢彦 宗恩(たくげん そうおん、生年不詳 - 天正15年10月2日(1587年11月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。後に大住持。

織田氏家臣・平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となった。また、自刃した平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めた。信長が美濃国を攻略した際には稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国・周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある[1]。また、信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるともいわれる。その後、妙心寺第39世住持となり、それを辞した後は瑞龍寺に住んだ。天正15年(1587年)10月2日示寂。貞享3年(1686年)、「円通無礙禅師」の号が下賜された。快川紹喜と兄弟の契りを結んでいたとされる。なお、愛知県図書館所蔵『政秀寺古記』がほとんど唯一の資料である。

114:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:29:02 UUR
>>113
あーそいつそいつ
まあ軍師でもないけどな
117:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:30:37 tpI
よくよく考えたら>>98は佐竹の太田より今川の太原崇孚のが適しとるか
123:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:32:03 UUR
>>117
大友宗麟のとこの立花道雪も加え入れろ~
130:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:33:47 tpI
>>123
アレはどちらかと言えば武将もこなす万能派のイメージやな どちらかと言えば角隈石宗とかやないか?
122:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:31:40 vxl
>>98
宇佐美定満の功績は江戸時代の捏造やで
130:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:33:47 tpI
>>122
存在自体が実際危ういらしいな
100:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:24:11 4XP
なんか冷静見ると謙信って案外大したことないな
112:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:28:08 vxl
>>100
手取川は小規模の夜戦だろうと言われてるけど、尻垂坂は倍以上の一向一揆軍を敗走させてる
関東遠征も北条の関東支配を十分に妨害した
103:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:25:33 L6y
???「親の仇の前やけど蹴鞠したろ! これも戦国の習い」
105:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:26:18 EaD
>>103
氏真は生まれる時代間違えたなw
107:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:26:33 vAs
>>103
うーんこの芸能全振りマン
104:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:26:14 UUR
謙信の人生で一番かっこいいのは兄貴倒して家督とるところだから
110:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:27:23 EaD
>>104
は?全盛期の織田軍を壊滅させた時やぞ
116:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:29:48 4XP
>>110
空中分解やん
柴田が仙谷の戸次川の合戦と同じやんけ
まだ沖田畷もある島津が強い
118:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:30:45 EaD
>>116
手取川の戦い 真実 で検索するとええで
120:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:31:20 4XP
>>118
なんやその陰謀論みたいなワードは?
129:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:33:46 uy3
>>120
かいつまむと秀吉は勝家を孤立させるため逃げたんじゃないかって話だった
126:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:33:03 EaD
>>120
信長も手取川に来てた説もあるんやで
119:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:30:58 uy3
>>116
いや謙信は手取川以外にもあるやろ…
125:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:32:18 4XP
>>119
川中島→勝負がつかないンゴ
小田原→勝負がつかないンゴ

こればっかりや
135:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:35:25 vxl
>>125
謙信の目標は達せられなかったけど、武田北条に何度も痛い目を見せてるんやから十分強いってことでええやん
108:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:26:55 IKv
一揆勢は恐れを知らんから怖いンゴねぇ

ワイも殿で抑えきれず討ち取られたわ
111:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:27:50 EaD
>>108
死兵やからな
121:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:31:38 L6y
宗義智「はぁ~、本州は大変な事になっとるやねぇ」
大石智久「若様~! 魚獲れたで~!」

戦国時代の対馬はこんなイメージ。平和やったんここぐらいか? 地侍の強奪とかは抜きにして
128:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:33:26 AIL
>>121
「ちょっと海賊してくる」
やないか?それか
「お!海賊ゥー!殺しにいくでー!」
やろな
136:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:35:34 tpI
>>128
宇喜多直家「海賊に苦しむなら城主配下皆海賊になって逆に略奪すればええんやで」
140:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:36:18 L6y
>>128
確かに離島やと海賊の拠点化がやばいな
淡路島とかモロにそれやし
133:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:34:29 L6y
越後国人の独立志向が他より凄くて草

北条(きたじょう)とか裏切り過ぎやろ
139:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:36:15 I2C
>>133
そんなハンデをものともせずに関東北陸を暴れまわる謙信さんやっぱ最強やんけ
134:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:35:09 uy3
>>133
しかもそのきたじょうがほうじょうに裏切ったこともあるとかややこし杉内
138:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:36:10 EaD
>>134
本庄繁長とかなw
141:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:36:43 vxl
>>133
そいつらとの面倒な関係はほとんど景勝時代にならんと解決できないという
144:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:38:10 tpI
>>141
景勝とかいう負けても滅亡しない当主すこ
147:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:39:12 EaD
>>144
兼続・繁長が頑張ったからや
146:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:38:51 L6y
>>144
小田氏治「ワイは?」
148:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:39:25 tpI
>>146
最終的に滅亡したからNG

あと領地狭過ぎ
149:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:39:43 vxl
>>144
最近は御館の乱の研究でイメージが若干変わったな
161:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:43:44 tpI
>>149
大坂の陣もやが景勝は初手が速いからな
謙信由来の判子や側近を早くに抑えたりやり方は上手い
162:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:44:42 uy3
>>161
新発田重家「ワイは早くに景勝についたしたくさん恩賞もらえるやろなあ…」
164:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:46:06 tpI
>>162
内戦やから勝っても渡す領地もなく更に後方から織田が迫ってるのにむしろ何故貰えると思ったのか
165:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:47:01 uy3
>>164
大規模に景虎派が粛清されると思ったんやろ(テキトー)
168:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:48:06 vxl
>>164
実際死んだ兄貴の領土を貰えたから領土は増えたんやで
170:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:51:00 tpI
>>168
そうなんか 知らんかったわ
171:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:53:25 L6y
足利義氏「関東の覇者と言えば、ワイら古河足利氏やのに……喜連川藩立てて、藩主がみずから出迎える人格者の家系やのに……これも時代の流れかなぁ」
174:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:56:56 tpI
>>171
足利義輝「よう田舎もん」
176:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:58:05 L6y
そういや御館の乱の時、北条武田が狙ってる描写はたまに創作で見るけど最上はどうしとったんや? 伊達キチに手焼いてたんか?
177:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)21:58:50 EaD
>>176
領内のいざこざに手を焼いていた
179:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:00:11 uy3
>>176
そもそも大宝寺が間に挟まっとるからなあ…
間接的に景虎方?
181:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:01:49 L6y
>>177
>>179
サンガツ
そういやあそこもってか東北は国人無双の認識でOK?
182:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:03:12 EaD
>>181
守護と国人の争い
183:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:03:23 tpI
>>181
伊達稙宗が火種植え付けまくってどこも冷戦状態や
184:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:03:57 Lhe
>>183
奥州のハプスブルク
188:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:06:52 L6y
>>184
欧州でも奥州でも似たような家はあんねんな
203:名無しさん@おーぷん:2017/05/15(月)22:13:44 F3B
通常の大名の戦やと、農民動員するから
戦死者が増えるとそのまま畑耕せる国力がなくなるし、
遺族にはちゃんと保証してやらんと求心力下がる
それに結局権力者と被支配者の関係やから、
やりすぎると反乱起きたりするから加減が意外と難しい

宗教勢力は教祖と信者の関係やから絶対的な上下関係あるし、
そもそも死んだら極楽に行けるので保障とか必要ない
税とかがっつり取らんでも向こうから寄進してくれる
武士側もゆるく信仰してたりするのでイマイチ本気出しづらい
そらなまじの世俗勢力じゃ勝てんわ