【歴史】下剋上?素浪人から戦国大名…北条早雲の出自 “戦国幕開け”の高越山城
引用元http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515947386
1:泥ン ★:2018/01/15(月) 01:29:46.77 ID:CAP_USER9.net
北条早雲(伊勢宗瑞)画像(岡山県井原市・法泉寺蔵)
高越山城に建つ早雲生誕之地碑
北条早雲の出自とされる高越山城(岡山県井原氏地域創生課提供)
http://www.sankei.com/life/news/180114/lif1801140023-n1.html
高越山城に建つ早雲生誕之地碑
北条早雲の出自とされる高越山城(岡山県井原氏地域創生課提供)
戦国時代の関東覇者で、小田原に本拠を置いた北条氏五代100年の祖である北条早雲の出自は、伊勢の一介の素浪人から戦国大名となった下剋上の始まりで、戦国時代の幕開けとなった人物とされている。
近年の追究で、室町幕府の政所執事伊勢家の庶流で、父・盛定は備中国荏原荘(岡山県井原市)の備中高越山城主である。早雲も室町幕府(足利義視)の申次衆(将軍への取り次ぎ)に抜擢されている。政所執事とは、幕府の徴税責任者である。
ところで早雲は生涯、北条早雲とは名乗ってはいない。実名は「伊勢新九郎盛時」といい、嫡子の氏綱は相模国の支配者であった管領・上杉氏に対抗するため、名高い鎌倉幕府執権、北条氏の後裔であることを主張し、2代目から「北条」と改名することになる。よって新九郎は「北条早雲」の俗称があてられ、先学では法名の「伊勢宗瑞(そうずい)」と表記することが多い。それでも以後、一般的な呼称のため「北条早雲」を用いる。
早雲と今川義忠との関係は、京都において応仁の乱(1467~77年)が勃発する時期、優柔不断な8代将軍、義政の弟・義視が将軍候補に迎えられたが、京が動乱の中、将軍の花の御所(室町亭)を警護したのが今川勢を率いる駿河守護の義忠であった。
このとき、危険が迫った義視と近習の早雲は伊勢に逃れている。2年後、義視は京へ戻っているが、早雲の足取りが不明だったこともあり、伊勢の素浪人説の契機になったといわれる。
この乱期に、幕府内での地位が高かった早雲の父の影響もあり、妹(姉の説もあり)が文明元(1469)年に義忠の正室として嫁ぎ北川殿といわれた。今川氏と姻戚を深めた早雲と四代北条氏にわたり、今年はその史跡を訪ねる。(静岡古城研究会会長 水野茂)
産経ニュース 2018.1.14 10:41
近年の追究で、室町幕府の政所執事伊勢家の庶流で、父・盛定は備中国荏原荘(岡山県井原市)の備中高越山城主である。早雲も室町幕府(足利義視)の申次衆(将軍への取り次ぎ)に抜擢されている。政所執事とは、幕府の徴税責任者である。
ところで早雲は生涯、北条早雲とは名乗ってはいない。実名は「伊勢新九郎盛時」といい、嫡子の氏綱は相模国の支配者であった管領・上杉氏に対抗するため、名高い鎌倉幕府執権、北条氏の後裔であることを主張し、2代目から「北条」と改名することになる。よって新九郎は「北条早雲」の俗称があてられ、先学では法名の「伊勢宗瑞(そうずい)」と表記することが多い。それでも以後、一般的な呼称のため「北条早雲」を用いる。
早雲と今川義忠との関係は、京都において応仁の乱(1467~77年)が勃発する時期、優柔不断な8代将軍、義政の弟・義視が将軍候補に迎えられたが、京が動乱の中、将軍の花の御所(室町亭)を警護したのが今川勢を率いる駿河守護の義忠であった。
このとき、危険が迫った義視と近習の早雲は伊勢に逃れている。2年後、義視は京へ戻っているが、早雲の足取りが不明だったこともあり、伊勢の素浪人説の契機になったといわれる。
この乱期に、幕府内での地位が高かった早雲の父の影響もあり、妹(姉の説もあり)が文明元(1469)年に義忠の正室として嫁ぎ北川殿といわれた。今川氏と姻戚を深めた早雲と四代北条氏にわたり、今年はその史跡を訪ねる。(静岡古城研究会会長 水野茂)
産経ニュース 2018.1.14 10:41
http://www.sankei.com/life/news/180114/lif1801140023-n1.html
6:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 01:44:03.61 ID:OTcQqyRG0.net
..▲←カ
▲▲←勇気
↑知恵
▲▲←勇気
↑知恵
7:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 01:50:12.94 ID:VRojghLn0.net
やれ日本を洗濯しただの初代関東覇者だのそんな法螺吹いてんのはお前ら関西人しかいないんだよ
8:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 01:55:00.35 ID:skVjeQ9s0.net
下克上なら斎藤道三のイメージ
12:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 02:28:02.63 ID:evRuAnSb0.net
最大の成り上がりは池田輝政か前田利家
14:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 02:42:41.47 ID:VDzxHq690.net
>>12
秀吉じゃないの?
秀吉じゃないの?
13:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 02:41:18.62 ID:GFqfk0zM0.net
へうげものに出てきた北条幻庵がキモかっこ良かった
16:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 02:47:25.99 ID:2sLZLJxV0.net
息子の飯の食べ方で滅びを予感するエピソードが
何故か忘れられない
何故か忘れられない
18:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:10:51.30 ID:TigWWBUP0.net
ゼルダのトライフォースをパクったのは有名
19:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:11:07.11 ID:su1VzuW60.net
某大河で上杉憲政(宝田明)「北条ではない伊勢じゃ!」しつこかったな
20:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:17:13.09 ID:TigWWBUP0.net
鎌倉公方は鎌倉公方で幕府に従わないで独自に関東牛耳ろうとして古河公方と堀越公方に別れるし
上杉は上杉で長年、古河公方と対峙して享徳の乱とか永享の乱とか起こしてたし
北条ばかりが下克上と言えるのかねぇ
すでに裏切りの連鎖が水面下にあって、応仁の乱でそれが表面化した感じ
上杉は上杉で長年、古河公方と対峙して享徳の乱とか永享の乱とか起こしてたし
北条ばかりが下克上と言えるのかねぇ
すでに裏切りの連鎖が水面下にあって、応仁の乱でそれが表面化した感じ
25:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:27:46.66 ID:vSui02Ng0.net
>>20
応仁の乱当時の関東もしちめんどくさい事になってたみたいだね
公方家の分裂と山内・扇谷の両上杉家による争い。そこに関東の豪族が加わってワケわからん事になってたし
応仁の乱当時の関東もしちめんどくさい事になってたみたいだね
公方家の分裂と山内・扇谷の両上杉家による争い。そこに関東の豪族が加わってワケわからん事になってたし
27:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:41:37.01 ID:TigWWBUP0.net
>>25
あの混乱を一人で対応してた扇谷上杉の家宰太田道灌は逸材だなと思う
トライフォース掲げて伊豆に乗り込んだ北条よりもすごい
あの混乱を一人で対応してた扇谷上杉の家宰太田道灌は逸材だなと思う
トライフォース掲げて伊豆に乗り込んだ北条よりもすごい
30:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 03:58:35.73 ID:vSui02Ng0.net
>>27
確かに。
もし道灌の暗殺が無かったら長享の乱も起こらなかったかもしれないしね
確かに。
もし道灌の暗殺が無かったら長享の乱も起こらなかったかもしれないしね
49:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 08:23:05.20 ID:GIMxFI8j0.net
昔の信長の野望だと高齢ですぐ死ぬイメージ
52:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 09:03:31.07 ID:ltyg7COG0.net
>>14
秀吉ももう少しマシな家の出だったのではないのか?
一応読み書きは出来たのだから。
今の時代で例えると中卒のDQNが天下を取ったのではなしに、三流私大の
人間が天下を取ったようなもので、
むしろ角栄や伊藤博文のほうが成り上がり度は高いのではないかネェ
秀吉ももう少しマシな家の出だったのではないのか?
一応読み書きは出来たのだから。
今の時代で例えると中卒のDQNが天下を取ったのではなしに、三流私大の
人間が天下を取ったようなもので、
むしろ角栄や伊藤博文のほうが成り上がり度は高いのではないかネェ
54:名無しさん@13周年:2018/01/15(月) 09:14:52.66 ID:resz2gTNz
>>52
秀吉は現在残っている書状から字の間違いが多いし
言い回しにも教養の高さを感じさせないから
低い身分の出に間違いない
秀吉は現在残っている書状から字の間違いが多いし
言い回しにも教養の高さを感じさせないから
低い身分の出に間違いない
57:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 09:22:23.18 ID:wcKLRVd10.net
この人おからが大好きだったんだよね
66:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 09:57:51.18 ID:Z5RfSk260.net
中国地方出身の武将
毛利元就
尼子経久
宇喜多直家
北条早雲
希代の謀将ばかりw
中国地方の名産は謀将
毛利元就
尼子経久
宇喜多直家
北条早雲
希代の謀将ばかりw
中国地方の名産は謀将
67:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 10:02:47.77 ID:BQ0cC86n0.net
いつも斎藤道三と区別できなくて勘違いする
71:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 10:21:43.77 ID:VDzxHq690.net
そういや俺の家も昔の北條領だな。
小田原までロマンスカーで30分はかかると思うんだが。
八王子のほうも北條領だったらしいし凄いわ。
小田原までロマンスカーで30分はかかると思うんだが。
八王子のほうも北條領だったらしいし凄いわ。
72:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 10:22:20.71 ID:uD7h/EVg0.net
伊勢氏の領地が、まあ岡山なんだけどさ。
早雲が生まれ育ったのは、
京都だろ。
早雲が生まれ育ったのは、
京都だろ。
80:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 12:24:09.34 ID:9xbL8Dwr0.net
あとは年齢だな
あんなに長生きできたかっていう
あんなに長生きできたかっていう
81:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 12:39:36.22 ID:7sox+3Kk0.net
>>80
それも諸説ある
それも諸説ある
84:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 13:25:04.13 ID:9ykR1Y2C0.net
>>80
伊東潤は64歳死亡説で小説書いてた
面白かったけど、最後に三浦道寸とタイマンで決着は白けた
伊東潤は64歳死亡説で小説書いてた
面白かったけど、最後に三浦道寸とタイマンで決着は白けた
88:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 14:17:05.62 ID:CZlpog040.net
氏綱→強そう
氏康→英明そう
氏政→一癖ありそう
氏直→布団で寝てそう
氏康→英明そう
氏政→一癖ありそう
氏直→布団で寝てそう
94:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 15:06:26.06 ID:XyW3Tdvp0.net
でも、いかに名門とはいえ
権威しかない伊勢家らしく備中高越山の所領は300貫ほどだろ
これだけじゃ軍事的には土豪クラスだな
権威しかない伊勢家らしく備中高越山の所領は300貫ほどだろ
これだけじゃ軍事的には土豪クラスだな
95:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 15:11:48.55 ID:uIY53Ojt0.net
>>94
その備中の所領は分家の早雲の家のだけどな
その備中の所領は分家の早雲の家のだけどな
96:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 16:31:57.28 ID:XyW3Tdvp0.net
そうなんだよ
本家当主の娘を娶れる傍流有力家でも土豪クラスなんだよ
本家当主の娘を娶れる傍流有力家でも土豪クラスなんだよ
98:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 18:19:35.10 ID:gLEVhwr60.net
俺も戦国時代に生まれてたらなぁ。天下統一は無理でも城を持てるくらいの武将になれたかもしれない。
99:名無しさん@1周年:2018/01/15(月) 18:49:37.17 ID:3DmYZ4TI0.net
俺は総人口の上位千人に食い込める自身は無いな
関連記事伊勢盛時「北条早雲って誰や」北条氏政とかいう無能のエピソードで打線組んだwwwwwwwww【朗報】秀吉「北条よ、上洛せよ、上洛すればみんな幸せや」
コメント一覧
藤堂高虎を一番におしたい。
ただし信長死後、織田家にも嫌われた秀吉はガチだと思うわ
早雲の活躍がなければ遠江戦線での斯波家勝利もあり得たか?
それに勝った結果が義元のお父さんやし、北条今川って血縁関係よな?
あの無茶苦茶で強引なやりっぷりは秀吉自身も笑ってたろうなw低い身分なの周知の事実だしw
やっぱ上杉って同じ七頭の伊勢をライバル視してたりするのかな
もちろん上杉憲政と後北条なら家格も全く違うけど
伊豆に攻め込んだ頃はまだ北条ではないし三鱗じゃないだろ対い蝶じゃね?
父親は織田信秀の元足軽で戦で負傷して帰農したと
太閤素生記に書いてるから
後北条もパクっただけだしオリジナルは誰が使い出したんだろうな
オカリナで過去に戻ったリンクが三つ鱗をパクった可能性がある???
あんまり触れられないけど領地欲しさに東軍首脳無視して私戦しかけた挙げ句返り討ちで
殺られてお家のピンチ、とか同じ戦死でも義元より何倍も迷惑な死に方してるよな
蜂須賀も本当は国人領主なのに明治では明治天皇まで小六を太閤記に出てくるような盗賊の首魁だと認識してるし
あれはウィットの効いた冗談だと思っている
言った方の明治天皇が祖父仁孝天皇経由で小六の女系の血を引いてる模様
>何で一応大名家として存続した家の素性がここまで誤解されたんだろうな
関東情勢において、太田道灌と並び立つ直前の状態がまさに浪人だから。
一時的にとはいえ何もできず伊豆で足止めくらったのは、伊勢九郎のまま行かせた幕府が悪いよ
・元々関東人はそこまで戦争は強くない。団結して相手を引きずり落とすときは強力なだけ。
・山内上杉と扇谷上杉の争いや鎌倉公方と関東管領の確執からまとまりが無く、内ゲバで弱っていた。
・単純に伊勢新九郎が他大名より抜けて優秀だった。
のどれかじゃね
信長があっさり京に進出したのと同じ構図だよな、有力者達が争った末の共倒れ
織田信友、主君殺してくれて大義名分ゲット
難敵斎藤、義龍病死でガタガタ
名門六角、観音寺騒動でガタガタ
覇者三好、長慶病没で内紛勃発してガタガタ
もちろん、そのチャンスを逃さず、確実に物にした信長の実力を否定するものではないけど
北関東人は主君第一で、よそ者を受け入れない気質があるとあった
秀吉が北条の後に家康を関東入りさせたのは
南関東人がよそ者の家康に従わず内乱を起こすと目論んでいたからだが
秀吉は南関東人の気質を見誤ったと言うレスを見て納得した
頼朝の頃からそうなのにな。秀吉も気づかなかったんかね。ましてや関東人は中央で敗れてきた有力者を担ぐような判官びいきな感じあるのにね
それが姉の伝で段々と軍事力を蓄えていくってのが戦国時代の走りっぽいんじゃないの。
中央官僚が地方に出向土着して一代で軍閥になった。