応仁の乱が戦国時代の幕開けって言うけど、信長が台頭するまでの100年間は何やってたの?
1:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:26:57.03 ID:0.net
1467年 応仁の乱(~1477年)
1560年 桶狭間の戦い
1573年 室町幕府崩壊
1582年 本能寺の変
1590年 秀吉が天下統一
1600年 関ヶ原の戦い
1615年 大坂夏の陣
1560年 桶狭間の戦い
1573年 室町幕府崩壊
1582年 本能寺の変
1590年 秀吉が天下統一
1600年 関ヶ原の戦い
1615年 大坂夏の陣
2:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:29:06.20 ID:0.net
桶狭間の時点で戦国時代は大詰めで天下の大勢は今川義元で決まりつつあった
3:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:29:24.85 ID:O.net
各地方で覇権争いしたり下剋上したり
4:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:30:16.46 ID:0.net
無政府状態
5:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:30:34.69 ID:0.net
室町時代って最初っから最後までほとんど戦乱だよね
6:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:31:37.25 ID:0.net
明応の政変だろ
馬鹿かお前
馬鹿かお前
明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。
7:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:35:53.57 ID:0.net
尼子とか斎藤道三が元気だった
8:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:38:20.38 ID:O.net
毛利元就が中国地方の覇者となりつつあった頃に孫の輝元が元服するにあたって13代将軍足利義輝から偏諱することになり
最初は「義元」になる予定だったが『討ち死にした今川義元と同じでは縁起が悪い』となって「輝元」になった
なお史実かは疑問が残るところだがそういう時代の経過だったということ
最初は「義元」になる予定だったが『討ち死にした今川義元と同じでは縁起が悪い』となって「輝元」になった
なお史実かは疑問が残るところだがそういう時代の経過だったということ
9:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:42:21.43 ID:0.net
We're RAN of OUNING! 戦国時代の幕・開・け!
10:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:45:37.95 ID:0.net
ゆうきまさみがこの時代のマンガを描き始めたな
13:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 20:59:00.85 ID:0.net
応仁の乱は戦国時代のキッカケだろ
14:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 21:13:17.95 ID:0.net
信長がいなかったらその後の300年もずっと戦国時代だったろうな
18:名無し募集中。。。:2018/02/23(金) 22:38:55.63 ID:0.net
関東の永享の乱結城合戦
享徳の乱とか大河とか全く取り上げられたことがない
足利義教苛烈な信長イメージで強烈なんだけど
享徳の乱とか大河とか全く取り上げられたことがない
足利義教苛烈な信長イメージで強烈なんだけど
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。
結城合戦
永享7年(1435年)からの鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実の対立から永享10年(1438年)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。
幕府方は総大将上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。
永享7年(1435年)からの鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実の対立から永享10年(1438年)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。
幕府方は総大将上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。
20:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 07:57:14.32 ID:0.net
黄金の日々の主要な登場人物は孤児とか人身売買された人ばっかだったな
でも乱世はむしろ黄金の日々で世が治まりつつある中で処刑されたり国外追放されて去っていき物語は完結する
でも乱世はむしろ黄金の日々で世が治まりつつある中で処刑されたり国外追放されて去っていき物語は完結する
23:名無し:2018/02/24(土) 08:29:54.33 ID:0.net
京都の権威がなくなったんで各地の守護代が守護大名化
まずは領国内を治めるのに明け暮れて勢力を拡大していくうちに戦国大名化
当の京都周辺は三好長慶松永久秀コンビが色々してたんだっけ?
まずは領国内を治めるのに明け暮れて勢力を拡大していくうちに戦国大名化
当の京都周辺は三好長慶松永久秀コンビが色々してたんだっけ?
24:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 10:39:43.62 ID:0.net
守護代が守護大名化?
26:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 11:19:28.48 ID:0.net
京都に近い管領が兵力持ちすぎて揉める原因
27:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 13:14:39.31 ID:O.net
守護大名→戦国大名
伊達、佐竹、武田、今川、大内、大友、島津など
守護代→戦国大名
長尾(のちの上杉)、織田、朝倉、三好、尼子など
伊達、佐竹、武田、今川、大内、大友、島津など
守護代→戦国大名
長尾(のちの上杉)、織田、朝倉、三好、尼子など
29:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 14:06:02.59 ID:0.net
織田彈正忠家は守護代の家老
守護代織田と朝倉は共に斯波の家来だから朝倉から見た信長は陪臣
守護代織田と朝倉は共に斯波の家来だから朝倉から見た信長は陪臣
30:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 14:10:21.20 ID:0.net
陪臣は家来の家来
また家来のこと
また家来のこと
31:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 15:42:37.06 ID:0.net
本来の意味で言えば主君から見て家来の家来が陪臣に当たると言いたいのだろうが
家来(直臣)から見て他の家来(直臣)の家来も陪臣と呼ぶんだよ
例えば大名や旗本から見て他の大名や旗本の家来は陪臣
つまり朝倉から見て信長は陪臣
字義でしか理解せずに実際の用法に無知な馬鹿の典型
家来(直臣)から見て他の家来(直臣)の家来も陪臣と呼ぶんだよ
例えば大名や旗本から見て他の大名や旗本の家来は陪臣
つまり朝倉から見て信長は陪臣
字義でしか理解せずに実際の用法に無知な馬鹿の典型
32:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 15:50:58.23 ID:0.net
自分たちが斯波に下克上した成り上がりなのに
斯波の家中での序列でマウント取るというのもおかしな話だな
そりゃ信長も不愉快だろう
斯波の家中での序列でマウント取るというのもおかしな話だな
そりゃ信長も不愉快だろう
34:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 18:15:25.60 ID:0.net
明応の政変が戦国時代の始まりだという意見があるが日本史の教科書には出て来なかった件
36:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 22:00:01.48 ID:0.net
鎌倉室町幕府の政権をどう見るかでかわる。
武家政権はぶちゃけ貴族政権による荘園制の進展とみるのか
それ以前の地方豪族(豪農)たちの自治の連合調停機関と考えるかで
ちがう性質が見えてくる。
日本独自の国営というものがあるのか
近隣諸国の動乱の影響でそれに備えた体制変化と見るのか
最近では後者の視点で見る傾向が強くなっている。
つまり信長や秀吉という個人の問題ではないという事
武家政権はぶちゃけ貴族政権による荘園制の進展とみるのか
それ以前の地方豪族(豪農)たちの自治の連合調停機関と考えるかで
ちがう性質が見えてくる。
日本独自の国営というものがあるのか
近隣諸国の動乱の影響でそれに備えた体制変化と見るのか
最近では後者の視点で見る傾向が強くなっている。
つまり信長や秀吉という個人の問題ではないという事
37:名無し募集中。。。:2018/02/24(土) 22:54:20.28 ID:0.net
鎌倉幕府は朝廷の徴税権を武士が実力で奪い取ることで成立した
だから地頭の設置を武家政権の確立とみなす人がいるわけで
でも実際は北条政子が朝廷を〆た時が転機
だから地頭の設置を武家政権の確立とみなす人がいるわけで
でも実際は北条政子が朝廷を〆た時が転機
44:名無し募集中。。。:2018/02/25(日) 13:40:45.37 ID:0.net
朝廷からどんな役職に任命されても武家の棟梁の同意がなければ実際に権力や富は手に入らなくなったし
そのうち誰を何に任命するかも武家から命令されるようになった
そのうち誰を何に任命するかも武家から命令されるようになった
45:名無し募集中。。。:2018/02/25(日) 14:35:41.19 ID:O.net
家内のゴタゴタが無ければ三好はどこまで領土を広げていただろうか
関連記事■戦国初期を彩る名将たち■戦国時代って人気だけど初期はクッソ地味だよね
コメント一覧
大内政弘は勝ち組よな
鎌倉幕府の成立年もな
朝倉が一番得したかな
今川もなかなか
そもそも触れられないか良くてステレオタイプの無能旧体制としか扱われないことがほとんど
でも応仁の乱の勝者か、って言われると違うだろ?
長期在京したくせに乱後はむしろ勢力拡大してるから
「勝者」じゃなく「勝ち組」って表現はまぁ分かる
陪臣の使い方は合ってるのかな?
教科書に載ってないだけで結構畿内のイベントも豊富だよな、両細川の乱もあるし
息子や兄弟死んでやる気無くなったけど
あのまま息子が長じても細川のごとく揉めた可能性は十分にある
多くの人が語る戦国時代ってほぼ織豊時代で戦国時代でも後期の後期
時系列に沿ってみないと結果から逆算した歪な認識になって事実と齟齬がでる
結果後世に創られたストーリー上に歴史を当てはめちゃうってことが多い
あ、応仁の乱の勝者は普通に細川でしょ
勝者ッつーより最後まで立ってた、だが
まぁそれも政元のせいで・・・あのホモ野郎ォ・・・
地味に目的も完遂してるのな
細川=応仁の乱の実質勝者だがホモの政元のせいで分裂弱体化。分家が残るが本家京兆家は三好に乗っ取られ死亡
畠山=延々内ゲバの末、国人に追い出され家臣に乗っ取られ無事死亡。政長の家系だけ細々残る
斯波=朝倉に離反され織田に乗っ取られいいとこなし。いつの間にか死亡
山名=宗全死後は領国のゴタゴタにおわれ時代に取り残される。いちおう家は残るが影が薄い。応仁の乱が全盛期
京極=六角と浅井に翻弄されるも最後の最後でまさかの逆転満塁ホームラン。四職で唯一大大名として残る勝ち組に
赤松=苦労に苦労を重ね奔走するも最後にポカをやらかし無事死亡。京極と比べどうしてこうなった。慢心、環境の違い・・・
一色=応仁前から義教によって死刑宣告。しめやかに爆発四散。いたの?ってレベルに影薄い
おまけ
土岐=マムシに乗っ取られ死亡
上杉=北条に追いやられた末、家督を生け贄に軍神召喚マシーンと化す
大内=戦国前期の覇者。のはずがホモのせいで・・・。細川といいホモはお家を滅ぼす?
今川=ご存知第六天魔王召喚の生け贄に・・・。ノッブの最初の犠牲者
美形は男も女もみんな集めていたと言われるほどであり、断じてホモではない。
その後も細川と争ってる
んで中国で大喧嘩して相手の船に火つけて明から倭寇認定されて貿易できなくなって宋銭の輸入が滞って貨幣不足になって経済が大混乱する
疫病神かよコイツら・・・
今川が義忠戦死からの内輪揉めを抑えられず遠江を取られなかったらだいぶ勢力維持した状態で16世紀後半を迎えられたんじゃないか
信長と井伊直政が同じ軍隊にいるなんて展開もあったかもね
そりゃ大内の順番だったのに、細川の中国人の通訳が中国の役人に賄賂渡して順番ぬかした結果、
正式な使者であった大内のほうが貿易できなくなったんだから、そりゃ大内は切れるだろ。
当時は大陸まで渡るのは命がけ、膨大な金もかかっているのに相手の不正行為でおじゃんだもん。
日明貿易自体は寧波の乱の後も大寧寺の変まではなんとか続いてただろ
横紙破りをした細川高国が悪い。まあ明の官憲や紹興周辺にまで手をかけて官軍撃退とかやって外交問題までいってるのは正直どうかと思うが、結局は主犯と捕虜の引き渡しに倭寇の取り締まりを条件に再開されてるしな
明が激怒したのも大寧寺の変。強いて疫病神扱いをするなら陶-大内義長だろう
まぁ明から「お前ら簒奪者じゃん」って拒否されたらどうしようもないわなw
挙げ句に無能イメージの方が強いし
って思ったけど鎌倉も族滅アンド族滅で大して変わらんな
三好内紛ってソース何よ?
信長上洛後も同じ乗りでやってたら皆殲滅されてしまった。