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加賀藩前田家100万石の存在感のなさは異常
1:日本@名無史さん:2014/02/18(火) 17:51:52.24 ID:.net
幕末とか何してたのか


引用元
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1392713512


2:日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:04:16.33 ID:.net
・1862年に島津久光が引きだした勅命として、五大老案が出され、
薩摩長州土佐仙台加賀と列挙されるも、実現せず
→参与会議として後に実行されるが、加賀藩の名前はいつの間にか解消w

・天狗党の乱で助命を嘆願して却下

以上でござる
3:日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:25:43.54 ID:.net
福井は何だかんだで存在感あるのに…
4:日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:37:08.52 ID:.net
そうか?
福井(越前松平)は存在感あるといっても
お家騒動内紛だらけって印象だけどあ
8:日本@名無史さん:2014/02/18(火) 22:22:12.13 ID:.net
岡山藩池田家とか広島の浅野家とかも何もしてないだろ
あと長州の毛利家も実は何もしとらん
てか、幕末だけで決めるなや~
31:日本@名無史さん:2014/06/03(火) 11:06:59.46 ID:.net
>>8
かといって幕末以前にも大活躍というわけではないしな・・・
12:日本@名無史さん:2014/02/22(土) 22:46:24.90 ID:.net
福岡黒田藩や熊本細川藩も幕末は何にもしてない
関ヶ原の勝ち組は幕藩体制に不満はなかったと言える
13:日本@名無史さん:2014/02/22(土) 22:56:37.86 ID:.net
>>12
佐賀藩も土佐藩も勝ち組だっつーの。
関ヶ原と結びつけること自体君の無知を晒してるのと一緒だぞ

だいたい水戸藩の存在は何なんだよ
15:日本@名無史さん:2014/02/23(日) 03:17:34.63 ID:.net
肥前鍋島藩や土佐山内藩は、率先した倒幕派というより薩長のおこぼれに預かっのが実態ではなかろうか
事実、土佐藩主の山内容堂は大政奉還後の徳川家について寛大な処置を求めている
水戸藩は天狗党の乱以後、藩論がまとまらず薩長体制には絡めないまま維新を迎える
16:日本@名無史さん:2014/02/23(日) 11:12:36.21 ID:.net
>>15
水戸藩が主体的に行動していたことを完全に無視してるな。
典型的な、結果から歴史を遡ってみようとする、一番やってはいけない姿勢。

薩長が維新の主役になったのなんて、ちょっと歴史調べればものすごい偶然の産物でしか無いって解るだろうに、
不勉強な人間にはそれが見えないんだなあ
17:日本@名無史さん:2014/02/23(日) 12:19:04.65 ID:.net
水戸黄門「助さん、角さんやっておしまいなさい」
18:日本@名無史さん:2014/02/23(日) 12:29:15.82 ID:.net
徳川光圀が明の儒学者、朱舜水を招聘しなければ朱子学に基づく水戸史観、尊皇思想は発展しなかったかも知れない
明朝の遺臣、江戸前期の儒者。浙江省余姚の人。名は之瑜、字は魯嶼、楚嶼、謚は文恭。明末清初の変乱に際し、明朝の復興をはかり四度来日。国姓爺鄭成功と相談し援兵を求めたが成就しなかった。万治2年帰化。後、徳川光圀に招かれ賓師となり、水戸学派成立に大きな影響を与えた。その学徳を敬慕した光圀により私謚されている。天和2年(1682)歿、83才。

19:日本@名無史さん:2014/02/23(日) 15:46:05.37 ID:.net
朱子学や水戸学は、実際には幕末の混乱にはあんまり関係ない。
アレは結局、どこの勢力が開国・近代化路線を主導するかという争いでしか無い。
朱子学も天皇も将軍も、はっきり言って装飾でしかない
25:日本@名無史さん:2014/03/15(土) 21:10:18.38 ID:.net
大久保利通を暗殺して名をあげた元加賀藩士
26:日本@名無史さん:2014/03/30(日) 14:22:13.95 ID:.net
>>25
当時でも半分ぐらいの人はまだ過去ひきずってるのかって思ってたんかね?
卒族の人は恨んでたとは思うけど
27:日本@名無史さん:2014/04/07(月) 22:21:54.12 ID:.net
あの連中は西郷に心酔してたんじやなかったっけ
33:日本@名無史さん:2014/08/15(金) 20:20:48.32 ID:.net
金沢には旧藩士の子孫は一軒も残っていない。
士族の没落ぶりをよく表している。
38:日本@名無史さん:2014/08/17(日) 08:57:39.08 ID:.net
>>33
兼六園近くの「藩老本多蔵品館」の館長は加賀藩家老・本多氏の子孫

また、明治時代に金沢名物は警官と言われたほど旧加賀藩士を大量に警官に雇い入れた
35:日本@名無史さん:2014/08/16(土) 20:34:10.41 ID:.net
>>33
もとは皆尾張人だと思うけど
どこに行ったんだろう
39:日本@名無史さん:2014/08/17(日) 21:10:53.05 ID:.net
>>35
有能な奴は維新の後
東京に行ったんじゃないの?
旧金沢藩士で海軍士官になる人も多かったし
武士の家計簿で有名な猪山家とか
42:日本@名無史さん:2014/08/20(水) 00:03:41.92 ID:.net
前田家に限った事ではないが、ある程度の士分は東京へ引っ越してるね
金沢と完全に縁が切れたわけじゃなくて、家老格の八家の直系傍系はわりといるし、猪山も金沢にも家を持ってた
44:日本@名無史さん:2014/11/20(木) 18:03:28.83 ID:.net
江戸時代が始まる前にも
関ヶ原も始まらないうちに人質だして家康に恭順だし
幕末も幕府に蟄居命じられておとなしくしてて
どこまでもパッとしないな前田って
徳川に次ぐ石高を誇りながら
同じ外様の3番手島津にすら遅れとりまくり
45:日本@名無史さん:2014/11/20(木) 19:06:52.52 ID:.net
でも、以前、金沢の武家屋敷で観光客に案内・解説している人が、
いまでも旧藩士の子孫の方はお住まいですかという質問に対して、
いまでは一軒も残っていませんと言ってたのを聞いた記憶がある。
46:日本@名無史さん:2014/11/20(木) 19:18:22.89 ID:.net
加賀藩は伝統的に大勢に従うんだよ。
幕末も鳥羽伏見で幕府軍が敗北したら手のひら返したし。
大勝もない代わりに大敗もしないのが前田家の伝統。
関が原で西軍が勝ってたらいきなり秀忠軍を攻撃してたはずw
47:日本@名無史さん:2014/11/20(木) 20:37:05.76 ID:.net
>>46
前田は関が原のとき北陸から一歩も出ず小さな城1つ2つ攻めてただけ
利長は母親のまつを江戸へ人質にやってるのだから無茶はできないししないだろ
西軍が勝っても秀忠攻めるなんて無茶はやらないし北陸から出ない
これ以上領土がほしいという野心もないし本領安堵してもらえば十分
48:日本@名無史さん:2014/11/20(木) 20:45:38.28 ID:.net
旧藩士の子孫が残っていないと断言するのはどうかと思うけど
明治時代にかなり大勢が東京と北海道に行ってる
51:日本@名無史さん:2014/11/21(金) 12:22:28.33 ID:.net
存在感ありありだったんじゃない当初は

前田利長(利長くん)の高岡城に行ってきてみなよ

次の代が築いた小松城の古図とかも見てみたらいいよ

あんな巨大な城を領内に何個も何個も持てたのは巨大な存在感があったから

島津や伊達でも、前田の支城と同じ大きさの支城は皆無
52:日本@名無史さん:2014/11/21(金) 13:58:47.60 ID:.net
>>51
存在感があったせいじゃなくて立ち回りがうまくて加賀百万石を守れたから
金だけはあってあちこちに城持ってただけだろ

島津や伊達は前田ほどの石高がない
53:日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:09:33.45 ID:.net
前田の百万石は秀吉の広大な領地のおさがりって感じで、
伊達や島津のように独力で切り取ったという感じが薄い。

柴田勝家を倒して加賀を手に入れたときの前田の功績といえば、柴田を裏切ったことくらい。

総大将というよりは豊臣の部将という感じをぬぐえない。
63:日本@名無史さん:2014/11/21(金) 19:00:28.69 ID:.net
前田さんは維新後も侯爵で華族でも有数の資産家。
戦後も没落せず上流階級としてしぶとく生き残ってるな。
ほんと保身に長けた一族。
71:日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:41:35.71 ID:.net
存在感のなさ
スカウター(ドラゴンボールの)に探知されないよう
上手に気配を消し
生き残るサバイバル術

五大老筆頭大納言 → 加賀100万石中納言 → 大日本帝國侯爵

これが賢い人生というもの
争いを避けつつも実利を得る・・日本型教育によい模範例

処世術は
歴史の偉人に学べ!

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