170-E4BD90E7ABB9E7BEA9E5AEA3
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
1:人間七七四年:2008/03/08(土) 20:08:53 ID:5YkPWQKJ.net
「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、
「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。

<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/


引用元
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1204974533


2:人間七七四年:2008/03/08(土) 20:11:18 ID:5YkPWQKJ.net
家を任せる息子だと気苦労が絶えないが(笑)、
友としては最高の漢だと思うがどうだろう?
4:人間七七四年:2008/03/08(土) 21:17:55 ID:Sgs8gipH.net
関ヶ原後に藩政を担うブレーンを自身の側近(梅津憲忠や渋江内膳)に
シフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う
あらすじ(雪の峠)
戦国時代末期、常陸国を領土としていた大大名の佐竹氏は、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方についたため、敗戦後、当時の僻地である出羽国へ追いやられてしまった。そこで新しい城を建築することになったが、築城場所を決める際、当主の佐竹義宣は新参者で若手の渋江内膳の意見を重視し、古参の重臣たちを蔑ろにする素振りを見せる。反発した老臣たちは、大軍略家と名高い梶原美濃守を立て、自分たちの居場所を守るために対抗案を出すことにする。そして群議の際、渋江内膳は港町・土崎にほど近い「窪田の丘」に新築する[1]商都としての城地を提案し、梶原美濃守は穀倉地帯・仙北の中心にある「金沢城」を拡張する軍都としての城地を提案する。

5:人間七七四年:2008/03/08(土) 21:35:22 ID:5YkPWQKJ.net
>>4
「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。
402:人間七七四年:2010/05/28(金) 00:08:08 ID:iZ6ZzQyq.net
>>4-5
マンガ「雪の峠」読んだよ。面白かった。
義宣よりも、渋江内膳や梶原政景が主役の内容だったね。
渋江内膳(しぶえ ないぜん)
佐竹家近習頭。合理的な思考の持ち主でかなりの切れ者だが、何事も理屈で判断しようとするきらいがあり、また喧嘩が嫌いでのんびりした性格をしている。当主・義宣の腹心として、築城場所に窪田を推す。関ヶ原の合戦に際しては、重臣たちの間で東軍支持の声が高まる中、戦後に常陸領が徳川からどう扱われるか懸念を表明し、川井から「訳の分からんことを」と一蹴された。まだ年若い上に、元々は素性の知れない食いつめ者であるため、家柄を重んじる重臣たちからは快く思われていない[2]。

梶原美濃守(かじわら みののかみ)
佐竹家重臣(客分)。穏やかながらも隙のない物腰の老臣で、頭は切れる。若い頃、上杉謙信から目をかけられたことがあり、同僚たちに請われてその頃の逸話を何度となく語っている。内膳の案に対抗するため川井たちから頼られ、旧世代の代表として築城場所に金沢を推す(のち義重の挙げた横手案に切り替える)。行きがかりで川井の誘いに乗ってしまい、義宣・内膳の主従との「喧嘩」に加担はしたものの、合理的思考の持ち主であり、関ヶ原の戦いの際の義宣の判断を、「東軍に与していたら戦後徳川から危険視され、却って悲惨なことになったかもしれない」と、全面的ではないにせよ内心で支持していた。後に出奔して越前松平家に仕える[3]。

6:人間七七四年:2008/03/09(日) 01:36:55 ID:ywOKQjoS.net
家康から隠居を申し渡された三成を佐和山まで護衛したのは佐竹勢で本当?
8:人間七七四年:2008/03/09(日) 03:05:15 ID:9zftFmnb.net
>>6
それって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか
9:人間七七四年:2008/03/09(日) 03:38:27 ID:ywOKQjoS.net
>>8
勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。

義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。
14:人間七七四年:2008/03/10(月) 04:31:32 ID:FvxH7bh5.net
「もとより諸将に対して悪意は無いが、公命に背いていない治部少輪を討つのは私怨。危急を見過ごせず救援したまで」


やっぱり格好良い!
15:人間七七四年:2008/03/11(火) 19:15:24 ID:9ta/11fm.net
野戦指揮官としてはどうかな? さすがに親父殿にはおよばないはずだが。
16:人間七七四年:2008/03/11(火) 19:42:22 ID:OPKuXIBy.net
>>15
義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?
18:人間七七四年:2008/03/12(水) 15:59:13 ID:lVPNVqKq.net
>>15-16
そもそも初陣っていつだ?
17:人間七七四年:2008/03/12(水) 10:43:48 ID:tnv/5N18.net
困るほどの律義者の従兄弟は困るほどの不義理者。
本当に同じDNAが含まれてるのか?
19:奥七郡の人:2008/03/12(水) 23:12:08 ID:5Dh/0FsL.net
義宣の初陣は天正13年と言われる
天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した
20:人間七七四年:2008/03/13(木) 04:41:01 ID:k6XoqFlO.net
>>19
家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが
22:奥七郡の人:2008/03/13(木) 17:47:11 ID:Sg5EWhgu.net
>>20
天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14~15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている
23:人間七七四年:2008/03/13(木) 18:47:59 ID:k6XoqFlO.net
>>22
なるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。
24:人間七七四年:2008/03/13(木) 22:53:04 ID:JAmbFwqM.net
弟達とは仲良かったの?
25:人間七七四年:2008/03/14(金) 14:16:48 ID:+qwIl/ww.net
末弟以外は10歳にも満たない頃に養家に入ってしまったから兄弟の仲を感じる暇もなかったんじゃないかな?
末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ
27:人間七七四年:2008/03/14(金) 20:22:58 ID:gVy2lZVF.net
朝鮮出兵時の出陣式では、佐竹は伊達政宗の後を行進している。
当時の両者の力量を端的に示している。
29:人間七七四年:2008/03/15(土) 02:15:34 ID:oY6AXpyD.net
伊達はおだてて朝鮮に送り込む気だったんだからしゃーないわ
30:人間七七四年:2008/03/15(土) 04:52:27 ID:9WDBdA11.net
煽てるも何も命令が出たら嫌でも海渡る事になるだろ‥
44:人間七七四年:2008/03/17(月) 07:27:59 ID:21P34qHc.net
佐竹には実弟の芦名・岩城・多賀谷の三大名や相馬が寄騎に付けられた。
佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。
45:人間七七四年:2008/03/17(月) 08:53:04 ID:/7vkqP+V.net
>>44
相馬と佐竹って血縁関係があった?
地理的に近く懇意だから寄騎になっただけ?
46:人間七七四年:2008/03/17(月) 12:01:45 ID:X0R3g9vU.net
相馬利胤の最初の妻が芦名氏だし、東北の大名なんてほとんどが何かしらの形で親族になっている。
また、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。
49:人間七七四年:2008/03/17(月) 18:02:42 ID:FBB7o3EV.net
まあ昔は相馬も佐竹も一貫して北朝だったからな
しかも周りを結城伊達北畠に囲まれて
50:人間七七四年:2008/03/19(水) 02:10:55 ID:KTDCj3Iw.net
相馬の場合は、元々は伊達家から嫁を貰っているから。
大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。

それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。

その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。
52:人間七七四年:2008/03/19(水) 18:18:34 ID:rDokS0Iw.net
愛姫の母親の実家だし複雑なんだよ
愛姫(めごひめ、永禄11年(1568年) - 承応2年1月24日(1653年2月21日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。三春城主・田村清顕[1]と正室於北(相馬顕胤の娘)の一人娘で、伊達政宗の正室。

54:人間七七四年:2008/03/25(火) 17:15:29 ID:jvzTbumq.net
徳川期には徳川から
姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?
55:人間七七四年:2008/03/28(金) 17:25:32 ID:Xu/nsa2T.net
>>54
山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。
61:人間七七四年:2008/05/08(木) 15:42:49 ID:JggcDJ+5.net
関ヶ原後に領地を没収されることになった相馬を、新領・出羽の1万石で引き取ろうとしたのはいい話だな。
62:人間七七四年:2008/05/19(月) 23:13:18 ID:TZ7OKaSK.net
親父の義重は義広の白川入嗣の際、白川義親の婿養子(大関)晴増がとばっちりで廃嫡となったのを申し訳なく思い常陸で5万石を与え客将として遇した…って逸話を思い出した。

親子揃って義理堅いなぁ。
64:人間七七四年:2008/05/23(金) 02:35:31 ID:fWYzbyT+.net
放浪の末に…だったか?

秀吉への贈り物を政宗に託したが改易…

佐竹を裏切って伊達に鞍替えした大名家は秀吉に潰されてるな…
石川昭光とかも。
65:人間七七四年:2008/05/29(木) 00:48:23 ID:XHfNcqho.net
豊臣政権下で佐竹氏は優遇され佐竹与党の諸候は生き残れたが、唯一宇都宮氏の改易は残念だったと思う。

与力しかも従兄弟の宇都宮国綱が改易…。
佐竹氏も連座で危なかったとか…。

この危機を三成のお陰で助かった…って事だが、具体的に三成はどの様な働きをしたのか?

又、宇都宮改易の真実とは?
浅野からの養子を断わったからとか、検地(石高)に不正があったとか…。
本当だろうか?
66:(´ω`):2008/05/29(木) 01:15:27 ID:rlxd6W6O.net
>>65
惣無事令違反。
国綱と近臣らは浅野養子を認める方向で動いていたらしいが、芳賀高武がこれに反対。
勝手に養子の件は無理と三成に報告。養子肯定派のひとり北条何某を四条河原で斬首。
そのうえ下野に戻って肯定派の今泉高光の上三川城を攻めた。思いっきり私闘。
そんで大名の国綱が責任を取らされて改易。

石高は多分全く関係ないし、養子の件も間接的な原因であって直接の理由ではない。
おそらくこういう非常に恥ずかしいことから改易されたため、
それを糊塗するために石高とか養子とかが理由だと後付けされたのだと思う。
67:人間七七四年:2008/05/29(木) 02:23:22 ID:XHfNcqho.net
>>66
サンクス!

しかし惣無事令は九州や関東奥羽の地域限定…。
関東奥羽惣無事令は1587年発令で、1590年の小田原征伐そして奥羽仕置での天下統一後で法令自体の目的は達せられたはず。
宇都宮改易は1597年、発令から10年後…。
それでも惣無事令は廃止されず生きてたのか?

秀吉が出した切支丹禁令が徳川幕府成立後再び持ち出されようなものか?

それにしても芳賀高武、よく切腹や斬首させられなかったな。不思議。
72:(´ω`):2008/06/05(木) 11:24:27 ID:1bFy986Z.net
あんた、てどお氏だね(゚д゚)9m
それは兎も角、この「宇都宮氏改易事件は芳賀高武の私闘のせいだった説」は実証できない。
つまりオイラの推測に過ぎないのだ。というのもそれに関する史料がなく、
よく探せば見つかるのかもしれないけど(あれば実証されてるので多分無いんだろう)、
オイラもめんどくさいのでそこまではしたくないからなのだ。
じゃあ何でそう思ったのか、ということを説明する。

まず宇都宮氏改易の原因とされるものには概ね次のようなものがある。
1.初めの検地で18万石だったにも関わらず、あとの太閤検地で39万石も出てきたので、
石高を詐称していると指摘されたため。
2.浅野長重が養子に入ることを断ったため。
3.(2)をしたために長重の不興を買い、(1)であると讒言されたため。

まず(1)だが、これは有り得ない。これは他のスレでもオイラが何度も言っていることだけど、
初めの検地は差出検地なので国人や家臣からの申告から導き出された数字であり、
過小に申告されるのは当り前だからだ。秀吉が検地をしたのは関東が初めてじゃない。
長浜時代からきちんと官僚たちが実測した検地を行っていて、実測の太閤検地を行えば
必ず差出のときより大きな数字が出てくるのは分かり過ぎるほど分かりきっていた事なのだ。
秀吉は以前高野山金剛峯寺を検地したことがあって、その時には差出から実測の検地で
17倍もの違いが出てきた。しかし金剛峯寺は刀狩を厳命されただけだった。
従って、たかだか18万→39万で2.2倍ほどの宇都宮が、それが原因で改易されるならば、
「公儀豊臣」が成り立たず、(3)も含めるならば、全くの私怨で裁定されたことになる。
もちろんそういうことがあったかもしれないことを否定するわけじゃないが、
オイラとしてはそう考えることはあまりにも馬鹿馬鹿しいので(だって私怨で公儀が
捻じ曲げられることがあるというなら、もはや法令なんて必要ないし、何でもありじゃないか)、
この説は消さざるを得ないのだ。当然(3)も無くなる。
また太閤検地は文禄四年(1595)であり、宇都宮改易は慶長二年(1597)。
なんで石高詐称が発覚してから改易まで二年も要するのかも説明できない。

(2)は所謂謀略説で、その後浅野長重は(3)を行ったとされる。
(3)は上記のことから無いので(2)だけ見る。
実は宇都宮国綱は長重が養子に入ることを一度了承している。
しかしこのことは宇都宮の家宰にあたる芳賀高武を通さず、国綱が北条何某と今泉高光の
間で決めたことであり、その為に高武は激怒して、養子の件を破棄することを石田三成に
告げて、北条を京都の四条河原で斬首、次いで国許に逃げた今泉を追って下野に帰り、
慶長二年(1597)五月頃に今泉の居城上三川城を攻め高光を自刃させた。
以上のことはぶっちゃけ史料を見たわけじゃなく、ネット上から拾った情報だが、
別に否定する根拠も無いので実際にあったことなんだろう。多分上三川町市あたりでも
見ればそれなりの史料付きで載っていることだと思われる。
さてこれが事実だとすると、仮に(2)が有り得たとしても、それ以前の問題となってしまう。
79:人間七七四年:2008/06/25(水) 03:01:20 ID:TGbwMteD.net
義宣は西軍に通じてたせいで秋田に飛ばされた訳だけど
結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう
87:人間七七四年:2008/06/26(木) 14:29:02 ID:YQyzfRRG.net
佐竹も関東にいる限りは危険視されてどうせ大減封や遠国飛ばしは間違いないんだから
野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを

戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。
92:人間七七四年:2008/07/08(火) 21:03:13 ID:DLIGlDtO.net
>>87
結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?

家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ
95:人間七七四年:2008/07/13(日) 18:38:43 ID:tN0b/nUr.net
佐竹がハッピーエンドを迎えるには関東に政権がない事が条件だな
清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ

関連記事
石田三成・直江兼続・佐竹義宣wwwww
全盛期の尼子氏、全盛期の六角氏、全盛期の佐竹氏