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石田三成は関が原の戦いが正義の行いなのかも知れないが、正義の行いで家を滅ぼしたく無い人多かった
1:名無しさん@涙目です。:NG NG BE:194767121-PLT(13001).net
関ケ原勝てる錯覚するほど… 岡田准一、石田三成に没入
http://www.asahi.com/articles/ASK8L7DZDK8LPTFC00M.html


引用元
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1503472707

2:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:19:07.25 ID:zlIqAZHU0.net
3:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:19:47.99 ID:ziZ/DQLL0.net
秀吉死後の単なる権力争いだろ
4:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:19:54.33 ID:ovFAY2Oy0.net
最初にぬるいお茶を出してって話あるじゃん
あれ急に来たからお湯沸くの間に合わなかっただけだよ
やべーやべー言ってたし
10:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:22:15.05 ID:MV5UtEU30.net

 一
大 大
万 吉
13:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:25:40.47 ID:reJtKP+x0.net
>>10
Only江戸
Go Crack 浄土
15:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:27:55.91 ID:FiedvvEH0.net
>>13
前から気になってたんだけど江戸と穢土が同じ音なのって偶然?
27:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:36:18.41 ID:reJtKP+x0.net
>>15
江戸の地名自体は家康よりかなり昔からあった
馬印にしたのはいつからか知らんが厭離穢土欣求浄土って説かれたのは桶狭間の直後
偶然か後付じゃね
江戸
地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注 2][5]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が現在では今戸・亀戸・奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[4]もある。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)とは、浄土教の用語。欣求浄土と対句で使われることが多い。読みは、[おんりえど]が一般的だが[要出典]、辞書によっては[えんり‐]を採用しており、逆に[おんり-]は誤りとするものもある。この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。語源は、源信の『往生要集』冒頭の章名に由来するが、その内容は「欣求浄土(ごんぐじょうど)」とともに、浄土教思想の基本的特質を表している。

「厭離穢土欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられたことで知られる。松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味であった。

250:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 20:29:30.73 ID:wL8A7+8t0.net
>>15
秀吉「エドを嫌い離れたいか......よっしゃ家康さん江戸行ってちょ!」
281:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 21:43:20.40 ID:GiumA+gmO.net
>>250
家康の旗印「欣求浄土 遠離穢土」に対する秀吉の当て付け転封だったのか
秀吉て、上杉を越後から会津、織田家当主を尾張から美濃へと本人達が嫌がる転封を気分次第でやってる
303:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 22:10:39.37 ID:7OCzHqCs0.net
>>281
家康が江戸を整備して発展させたのは
秀吉の想定を越えていたのでは

ちなみに名古屋を作ったのも家康

家康は内政も一流だな
12:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:25:04.35 ID:nFwpGPEo0.net
司馬遼太郎の本を今読むと、「おまえが家康嫌いなだけだろ」って表現が鼻についてちょっとしんどい
関が原はまだそうでもないけど、城塞はひどかった
なんで当時の人物を描写するのに、いちいち後代からの印象を付け足す必要があるんだ
54:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:52:28.58 ID:5O++VLnQ0.net
>>12
俺の家康嫌いはたぶん司馬遼太郎の影響
100:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 17:18:25.83 ID:Nnyj8oM90.net
>>12
歴史研究の成果が漫画にも反映されるようになり
ネットで史観の是非も様々な意見を目にできるように
なり、ようやく司馬史観から日本は離脱できるように
なったのかもしれん
165:名無しさんがお送りします:2017/08/23(水) 18:44:06.71 ID:H0lpY1lHl
>>12
それが小説なんだよ
文句あるのなら大河ドラマ観るなよ
あれは主人公が極悪人でも善人になるからな
308:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 22:19:03.42 ID:IgrvrgwQ0.net
>>12
小説なんだからどちらかに肩入れして書いてる方が自然だろ
どちらかに肩入れして記事書いて中立公平を騙ってるマスコミは狂ってるがな
447:名無しさん@涙目です。:2017/08/25(金) 11:42:50.21 ID:g5ZhbXVq0.net
>>12
日本人は判官贔屓やからしゃーない
家康を悪者にした方が売れたんでしょ
17:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:28:31.18 ID:ZkI1w0T+0.net
加藤清正が熊本城で日和ってたのが何より痛かったな
彼がいれば安国寺恵瓊→毛利家を動かすことができたかもしれない
結局、世渡り上手になろうとしたわけだったと思う
28:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:36:37.13 ID:ETwfk6Oj0.net
>>17
その場合、もう一人の岡田准一(黒田官兵衛)と戦わなければならないがどうか。
35:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:42:21.35 ID:ZkI1w0T+0.net
>>28
分からん
加藤清正が背中を見せれば、黒田官兵衛の思う壺だっただろう

ところで、加藤清正と黒田官兵衛が組む可能性は全く無かったのだろうか?
九州の勢力だけでもかなりのものである程度団結すれば、毛利を動かせたと思うが…
166:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 18:39:19.91 ID:ETwfk6Oj0.net
>>35
官兵衛の狙いはソコだろう。ぶっちゃけ輝元も同じような事考えていたのでは。
関ヶ原現地に参戦してない連中は皆、半日で終わるなんて思って無かっただろうからね。
176:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 18:49:04.43 ID:epsC28kw0.net
>>35
柳川の立花を攻める時に組んでいたよ
ついでに鍋島も
494:名無しさん@涙目です。:2017/08/26(土) 02:20:57.56 ID:DLM3guiG0.net
>>35
毛利に無茶振りして色好い返事が来ればと思っていた清正も、思った通りの渋い反応で開戦前には西軍に与する気はハナからなかったんじゃないの
37:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:43:09.80 ID:ANLFuj/n0.net
>>28
クロカンは清正を推し立てて上方に上るって言ってたろw
170:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 18:41:40.63 ID:ETwfk6Oj0.net
>>37
だから、三成が家康に勝つには加藤清正を味方に付けるのが最低条件だったって話してんだよ。
19:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:31:00.90 ID:/UYEJFxm0.net
武将なんてどれも同じでしょ?
60:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:55:15.09 ID:VVixOJTJ0.net
城塞を読んでると、さっさと滅びろ豊臣と思ってしまう
61:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 16:55:32.39 ID:OfYkxPZ+0.net
筋が通ってる正しい人間が勝てる訳じゃないからな大部分の人間は自分可愛さの利で動く
まあ少数派だよなそれでも一応戦えるだけ集まったんだから大したもんだよ思うよ

今なら信義だ正義だと言ってその通りでも実際動ける人間なんてほぼ皆無だろ
103:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 17:22:40.58 ID:JXj7urDA0.net
岡田准一の西田敏行化に期待
187:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 18:56:44.70 ID:T7taUleL0.net
藤堂高虎だよ。彼の主君であった秀長が死んだ後そこを潰しにかかって彼に見限られた事が豊臣が滅んだ理由だよ
高虎を敵にまわさなければ子飼いの清正正則が家康側につくこともなかった
188:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 18:57:06.30 ID:wyNEU2z00.net
毛利輝元の無能ぶり
192:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 19:01:00.19 ID:jurBVjeN0.net
>>188
毛利はハッキリしとけばどっちに付いても勝ててたのにな
219:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 19:27:30.52 ID:5SdX8+2K0.net
なぜ長宗我部だけが冷遇を受けたのか、説明できる者はおるか?
243:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 20:13:18.49 ID:ETwfk6Oj0.net
>>219
わからん。
だが、元々九州(島津)征伐で長男死亡後、後継者問題で揉めた上での盛親だった上に、
関ヶ原直後に勝手に家臣何人か成敗しちゃってんだよね。
だからって取り潰しはおかしいけど。
高知県はじめ四国各所の古くから伝わる心霊スポットには、実は長宗我部がらみの逸話が多く、
その中には全く現代には伝わっていない謎のエピソードも多いので、
元々関ヶ原後の取り潰し以外にも何かと謎の多い長宗我部家のミッシングリンクを繋ぐ秘話の可能性もある。
344:名無しさん@涙目です。:2017/08/24(木) 05:11:19.77 ID:nf86TLgO0.net
>>219
盛親が徳川との交渉を担当していた
実の兄を殺して家康の怒りを買った
345:名無しさん@涙目です。:2017/08/24(木) 08:18:14.88 ID:nFkCUa3w0.net
>>219
長曽我部は豊臣政権下では土佐一条家の家臣扱いで元々かなり扱い悪い
征伐された上での臣従だし、豊臣政権の一条本家への配慮があった可能性も
信親が信長を烏帽子親にしてるのに比べて、盛親の烏帽子親が増田長盛というのも象徴的
231:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 19:46:08.88 ID:GkU3vzjW0.net
石田三成も柴田勝家も勝ってたらその後何したか分からんのにな
後の簒奪者に負けたから忠臣扱いされてるだけだろ
290:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 21:53:56.77 ID:MWCVPtEj0.net
>>231
柴田は頑張って良い戦国時代を継続したろう
石田は、、秀吉のための寺をいっぱい建てるため年貢を上げたろうね
297:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 22:04:45.99 ID:1HXL5Rro0.net
>>290
三成は佐和山では名君だったんやで
戦後も落ち武者狩りに遭わず、領民に匿われてた
自分を匿う事で領民に害が及ぶ事を危惧して、三成は自ら出頭した
ってのが司馬小説の流れ
史実は知らんけど
289:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 21:50:54.14 ID:0JwDgtEv0.net
前田は利家の嫁を家康に人質にだしたから日和見してても安泰
292:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 22:00:41.47 ID:ndPLR56Q0.net
>>289
アレは利長の大失態を母親を人質に出す、利長を隠居させる、とか徳川側の切り崩しの策略にハマっただけ
利長の跡を受けた利常の妻が徳川秀忠の娘だったから安泰だっただけ
293:名無しさん@涙目です。:2017/08/23(水) 22:01:20.34 ID:1HXL5Rro0.net
>>289
前田家は信長家臣団で唯一の大成功例だな