【歴史】「関ケ原」の研究 石田三成、西軍敗北へ3つの戦略ミス
引用元http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534319248
1:樽悶 ★:2018/08/15(水) 16:47:28.14 ID:CAP_USER9.net
※総踊りスレ
(続きはソース)
8/13(月) 13:40配信
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841583022032018000000
「怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。中野等・九州大学教授はこう言い切る。中野教授は「石田三成伝」(吉川弘文館)で同時代の一次史料を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。
反転攻勢読み切れず兵力分散
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。
その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。
中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。
得意の情報戦で大きく後れ
「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。
それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。
堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。
三成は西軍のリーダーではなかった
最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。
反転攻勢読み切れず兵力分散
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。
その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。
中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。
得意の情報戦で大きく後れ
「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。
それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。
堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。
三成は西軍のリーダーではなかった
最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。
(続きはソース)
8/13(月) 13:40配信
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841583022032018000000
3:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:50:15.08 ID:WfzVbQJv0.net
調略されまくったからだろ
脇の下が甘いんだよ
脇の下が甘いんだよ
4:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:50:47.98 ID:f+YPPOs60.net
毛利軍の食事が遅いことを計算に入れてなかったのは痛いよねw
108:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:33:41.94 ID:W89Ylusd0.net
>>4
空なのにいつまでも食ってるぐらいだからなw
空なのにいつまでも食ってるぐらいだからなw
6:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:52:13.83 ID:QYw9C2t60.net
武将と言えばみつなり~
7:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:53:36.04 ID:esJazNce0.net
最近この関ヶ原の合戦は新しい説があるんだってな?
なんか大谷がすぐやられ昼前には終わってたとかのやつ
なんか大谷がすぐやられ昼前には終わってたとかのやつ
34:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:06:57.80 ID:kTH3aRae0.net
>>7
新しい説というかこれまでの説は明治時代に作られた出鱈目とされただけ
新しい説というかこれまでの説は明治時代に作られた出鱈目とされただけ
8:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:54:03.28 ID:A5GHG+UR0.net
秀吉恩顧の福島正則も加藤清正も徳川方に付くって
石田三成ってどんだけ嫌われてたんだ
石田三成ってどんだけ嫌われてたんだ
21:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:01:59.25 ID:O/H85zAe0.net
>>8
武将が好き嫌いのみでどちらかに着くことは無い。
人を抱えてみたらわかる。
武将が好き嫌いのみでどちらかに着くことは無い。
人を抱えてみたらわかる。
98:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:31:00.77 ID:ACMImr1+0.net
>>8
朝鮮から命からがら戻ってきた直後に
茶会においでなさいとか言うから・・・(´・ω・`)
朝鮮から命からがら戻ってきた直後に
茶会においでなさいとか言うから・・・(´・ω・`)
997:名無しさん@1周年:2018/08/16(木) 00:07:27.38 ID:y4ad5Urf0.net
>>8
福島正則も加藤清正も関ケ原の戦いが終わってから
徳川政権ではすごい冷遇されて
東軍に付いた事を死ぬまで後悔してたらしいぞ
やっぱり裏切りは駄目なんだよ
福島正則も加藤清正も関ケ原の戦いが終わってから
徳川政権ではすごい冷遇されて
東軍に付いた事を死ぬまで後悔してたらしいぞ
やっぱり裏切りは駄目なんだよ
186:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:54:21.13 ID:ZUL5VvGB0.net
>>8
秀吉正妻の北政所が、あえて東軍に付くよう口利きしたと言う説がある。
北政所にすれば三成では到底家康に勝てるとは思えず、豊臣系大名が西軍に全張りして
万一負けたらそれこそ豊臣家滅亡に直結するので、東軍側にも適度に恩顧大名を配置して
どっちが勝ってもいいよう画策したとか。
結果、大阪の陣まで約15年は豊臣家ももった訳だから、ある意味この読み自体は間違っていなかった。
秀吉正妻の北政所が、あえて東軍に付くよう口利きしたと言う説がある。
北政所にすれば三成では到底家康に勝てるとは思えず、豊臣系大名が西軍に全張りして
万一負けたらそれこそ豊臣家滅亡に直結するので、東軍側にも適度に恩顧大名を配置して
どっちが勝ってもいいよう画策したとか。
結果、大阪の陣まで約15年は豊臣家ももった訳だから、ある意味この読み自体は間違っていなかった。
189:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:55:27.65 ID:0XK+iLwE0.net
>>186
有能ババアやな
有能ババアやな
616:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 20:24:05.83 ID:0FskbeHK0.net
>>186
北政所が家康派、淀殿が三成派という図式は司馬遼の創作らしいぞ
実際には北政所は西軍よりだったという話
北政所が家康派、淀殿が三成派という図式は司馬遼の創作らしいぞ
実際には北政所は西軍よりだったという話
198:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:58:19.07 ID:zDNZP2nH0.net
>>186
そこら辺微妙で東軍勝利の報聞いて
内裏に裸足で逃げ込むとかおかしな動きしてたり>北政所
そこら辺微妙で東軍勝利の報聞いて
内裏に裸足で逃げ込むとかおかしな動きしてたり>北政所
205:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 18:01:25.25 ID:S/qwYvId0.net
>>198
そもそも北政所の身内が西軍で活動しているしなあ。ほんとに東軍寄りだったのかってかなり眉唾だよな
そもそも北政所の身内が西軍で活動しているしなあ。ほんとに東軍寄りだったのかってかなり眉唾だよな
9:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:55:24.82 ID:8N61iOOn0.net
後からならどうとでも言える
例えば今買いな株の銘柄を言ってみな?
できないだろ?
例えば今買いな株の銘柄を言ってみな?
できないだろ?
241:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 18:10:14.92 ID:MX8Gk+uK0.net
>>9
フルッタフルッタ一択ばい!
フルッタフルッタ一択ばい!
721:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 21:27:08.68 ID:6puKgWzR0.net
>>9 秩父セメント
10:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:55:25.13 ID:P2b40/Fq0.net
関ヶ原は結果にすぎず、家康は遥か前から着々と手を打っていた。
武将としての能力は大人と子供だよ。
マスゴミはこういう駄目な記事書くからバカにされる。
武将としての能力は大人と子供だよ。
マスゴミはこういう駄目な記事書くからバカにされる。
11:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:55:28.87 ID:XDBBzxXy0.net
他人に嫌われやすい(誤解されやすい)性分
これがすべて
これがすべて
12:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:55:59.44 ID:3Ma5ogY10.net
徳川は毛利と島津を退治できなかったため、270年後に幕府をひっくり返された
14:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:57:36.24 ID:mXVNd7xi0.net
数年前に主力扱いの毛利軍で事実上の指揮官だった吉川元春が
“三成は人間の屑です、あいつのために無駄死になどありえません。仕方なく毛利家は貴方に逆らいますが私が絶対に直接の交戦をさせません”
て内容の密書を家康に当ててたのが判明してなかったか
“三成は人間の屑です、あいつのために無駄死になどありえません。仕方なく毛利家は貴方に逆らいますが私が絶対に直接の交戦をさせません”
て内容の密書を家康に当ててたのが判明してなかったか
19:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:59:08.93 ID:5Og2Kksv0.net
>>14
吉川広家な
元春は親父
吉川広家な
元春は親父
765:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 22:00:25.34 ID:FhtJxjC+0.net
>>14
それなのに大減封w広家も身内から裏切り者扱いで散々だな
それなのに大減封w広家も身内から裏切り者扱いで散々だな
16:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:58:31.75 ID:P2b40/Fq0.net
自分の利口さを言いたくて仕方ない。
と同時に他人が馬鹿に見えて仕方ない。
ホリエモンによく似てる。
と同時に他人が馬鹿に見えて仕方ない。
ホリエモンによく似てる。
17:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 16:58:46.36 ID:mU+vgjCd0.net
ほんで結局、小早川は最初から東軍だったん?
最近こういう話をチラホラ見聞きするよね。
最近こういう話をチラホラ見聞きするよね。
464:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 19:04:43.72 ID:f/8QcA2i0.net
>>17
元々小早川の気持ちは東軍
でも、西軍に囲まれた中でいきなり東軍にはなれない
なので、一旦西軍に参加し、伊勢攻めへ
その後、西軍を離脱し、三成の大垣城から西軍参加の要請を無視
街道を望む要衝の関が原における天王山とも言える松尾山に勝手に陣取る
この時点で家康は、小早川の東軍参加を革新し部下を小早川陣に派遣し、
秀忠の到着を待たずに関ヶ原への進軍を決断
大谷吉継は小早川が東軍についたと考え、小早川の正面に布陣し対抗
関ヶ原当日は、中央で戦闘が始まったあと、
少し遅れて小早川が大谷陣へ向けて山を下る
山を下って大谷陣を壊滅させ、それが伝令で伝わるまで時間が掛かる
結構距離があるので東軍本陣との連絡にも時間が掛かる
なので東軍の本陣はやきもきする間が長かったと思うが、
実際には割と早めに自分の意志で東軍に参加していた
元々小早川の気持ちは東軍
でも、西軍に囲まれた中でいきなり東軍にはなれない
なので、一旦西軍に参加し、伊勢攻めへ
その後、西軍を離脱し、三成の大垣城から西軍参加の要請を無視
街道を望む要衝の関が原における天王山とも言える松尾山に勝手に陣取る
この時点で家康は、小早川の東軍参加を革新し部下を小早川陣に派遣し、
秀忠の到着を待たずに関ヶ原への進軍を決断
大谷吉継は小早川が東軍についたと考え、小早川の正面に布陣し対抗
関ヶ原当日は、中央で戦闘が始まったあと、
少し遅れて小早川が大谷陣へ向けて山を下る
山を下って大谷陣を壊滅させ、それが伝令で伝わるまで時間が掛かる
結構距離があるので東軍本陣との連絡にも時間が掛かる
なので東軍の本陣はやきもきする間が長かったと思うが、
実際には割と早めに自分の意志で東軍に参加していた
22:wo:2018/08/15(水) 17:02:04.89 ID:ZaKivRdm0.net
秀頼・三成より家康はほぼ確実に早死にするんだから
その時を待ってじっとしていれば良かったろうに
その時を待ってじっとしていれば良かったろうに
229:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 18:07:05.93 ID:ZUL5VvGB0.net
>>22
それを誰よりも痛感していたのが家康だったからこそ、後の方広寺の鐘銘事件で
豊臣家を挑発してまで大阪の陣を起こさせた訳だし。
そもそも関ヶ原自体、家康の挑発に三成が乗った側面がある。
秀吉の死後勝手に他大名家と縁組みを進めるなど工作を行って日に日に徳川閥を強化。
その上でさも挙兵して下さいと言わんばかりに上杉討伐を名目に西国を手薄にする。
無論これでも挙兵しなければ反徳川勢力が1つずつ潰されていく訳で、
持久戦に持ち込めば持ち込むほど西軍が不利になる。
とうてい家康の死を待っては居られない、と三成が焦ったのも無理からぬ事情がある。
それを誰よりも痛感していたのが家康だったからこそ、後の方広寺の鐘銘事件で
豊臣家を挑発してまで大阪の陣を起こさせた訳だし。
そもそも関ヶ原自体、家康の挑発に三成が乗った側面がある。
秀吉の死後勝手に他大名家と縁組みを進めるなど工作を行って日に日に徳川閥を強化。
その上でさも挙兵して下さいと言わんばかりに上杉討伐を名目に西国を手薄にする。
無論これでも挙兵しなければ反徳川勢力が1つずつ潰されていく訳で、
持久戦に持ち込めば持ち込むほど西軍が不利になる。
とうてい家康の死を待っては居られない、と三成が焦ったのも無理からぬ事情がある。
23:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:02:48.11 ID:ucaTfJjD0.net
今でも幽霊が出るとか
373:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 18:40:22.44 ID:SozuUqKE0.net
>>23
関ヶ原に住んでるけど知り合い含めて誰も幽霊見たことないよ
現実は非常である
関ヶ原に住んでるけど知り合い含めて誰も幽霊見たことないよ
現実は非常である
24:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:03:06.95 ID:l5CNoinZ0.net
秀次やその側近粛正でガタガタになり
立て直中に秀吉死亡
有力親族がいない幼君と有力大大名、という清洲会議と同じ状況ができた
織田にやったことを徳川にやられただけ
立て直中に秀吉死亡
有力親族がいない幼君と有力大大名、という清洲会議と同じ状況ができた
織田にやったことを徳川にやられただけ
27:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:03:23.18 ID:jRO5e9Fz0.net
石田三成見てると戦国時代の石破茂
人望があれば黙ってても人がついてきたよ
人望があれば黙ってても人がついてきたよ
853:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 22:49:13.22 ID:tBYEkEXe0.net
>>27
豊臣の影の部分うけおった面あるとはいえ
嫌われすぎだわな
豊臣側の文献すらあれだし
まあ官僚だろ
豊臣の影の部分うけおった面あるとはいえ
嫌われすぎだわな
豊臣側の文献すらあれだし
まあ官僚だろ
28:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:03:32.11 ID:78oF9qcN0.net
秀頼を出陣させるべきだったな
30:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:05:19.40 ID:/Tv0zsvF0.net
半日で終わる…と予想していた当時の人
一人でも居たのか
一人でも居たのか
38:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:09:08.05 ID:NF2FRldc0.net
家康を叩くなら「関ケ原」ではなく、「小牧・長久手の戦い」 あそこで全軍投入して仕留めておけば
よかったのに、つくづく悔やまれる。
よかったのに、つくづく悔やまれる。
41:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:11:47.22 ID:6VvZdiyc0.net
>>38
小牧・長久手の戦いは秀吉にとって初めての敗北らしい敗北だしな
小牧・長久手の戦いは秀吉にとって初めての敗北らしい敗北だしな
521:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 19:30:16.53 ID:J9wVq5z40.net
>>41
戦闘では秀吉は家康に負けたが外交で家康と同盟の織田信雄と和睦に成功させて家康を孤立させた外交戦争では秀吉の勝ち
戦闘では秀吉は家康に負けたが外交で家康と同盟の織田信雄と和睦に成功させて家康を孤立させた外交戦争では秀吉の勝ち
44:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:14:13.56 ID:4p4j3to10.net
>>38
大地震でそれどころじゃなかったから
仕方ない
大地震でそれどころじゃなかったから
仕方ない
618:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 20:26:25.18 ID:3yiSZ87m0.net
>>44
最近の研究は地震が秀吉、家康を繋いだという見解だよな。
秀吉は小牧長久手の後も、家康叩くつもりだったが地震でそんな余裕がなくなって講和の運びになった。
最近の研究は地震が秀吉、家康を繋いだという見解だよな。
秀吉は小牧長久手の後も、家康叩くつもりだったが地震でそんな余裕がなくなって講和の運びになった。
39:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:10:21.33 ID:zDNZP2nH0.net
全責任押し付けられただけで実態は西軍の一有力者にすぎなかった、って説もあったような?
47:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:15:19.06 ID:9O4mO5Q70.net
家康の年の功
48:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:15:35.63 ID:hKH+vvMo0.net
大河の葵徳川三代で江守徹の演じた
石田三成は完璧だったな
石田三成は完璧だったな
296:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 18:22:49.17 ID:1XrQbQg10.net
>>48
TBS版の加藤剛も捨て難い。
TBS版の加藤剛も捨て難い。
52:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:17:59.05 ID:mY8BearZ0.net
こういう話がある。
秀吉が死んで家康が残り、天下簒奪の策謀を巡らせ関ヶ原でまんまと横取りした。(完成は大坂の陣の後)
じゃあ家康が先に死んでいたら、秀吉はどうしたか??
ヒントは蒲生家。
秀吉が死んで家康が残り、天下簒奪の策謀を巡らせ関ヶ原でまんまと横取りした。(完成は大坂の陣の後)
じゃあ家康が先に死んでいたら、秀吉はどうしたか??
ヒントは蒲生家。
55:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:18:42.26 ID:IWuFyh/60.net
徳川幕府成立の最大の功労者
三成が居なかったら、家康が天下を取る事は無かったかもしれん
仮に徳川の世に成るにしろ、家康存命の間では厳しい
三成が居なかったら、家康が天下を取る事は無かったかもしれん
仮に徳川の世に成るにしろ、家康存命の間では厳しい
60:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:21:14.56 ID:whUYCMx70.net
福島正則と加藤清正も散々秀吉の世話になりながら裏切り家康についたのに
家康死後は徳川にがっつり潰された
千利休、秀次、秀吉に世話になったコイツラを嵌めたのって家康だよね
秀長が死んで、残る頭脳は三成だけ
ただでさえ少ない秀吉の周りの人間を一つ一つ引きはがして関ケ原では小早川秀秋の東軍寝返り
こんな謀略まみれ、おかげでクソつまらん江戸時代に
殺し合いの果ての結末がこれじゃあね
家康死後は徳川にがっつり潰された
千利休、秀次、秀吉に世話になったコイツラを嵌めたのって家康だよね
秀長が死んで、残る頭脳は三成だけ
ただでさえ少ない秀吉の周りの人間を一つ一つ引きはがして関ケ原では小早川秀秋の東軍寝返り
こんな謀略まみれ、おかげでクソつまらん江戸時代に
殺し合いの果ての結末がこれじゃあね
81:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:27:02.36 ID:6VvZdiyc0.net
>>60
出生がどこの誰だか分からんのはあっさり改易されたが、
平安ぐらいまでさかのぼれるような名家は家康のおかげ生き残れてる
出生がどこの誰だか分からんのはあっさり改易されたが、
平安ぐらいまでさかのぼれるような名家は家康のおかげ生き残れてる
109:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:33:57.54 ID:S/qwYvId0.net
>>60
清正は本人死後の息子の行状から改易やむなし。
正則も明らかに法度違反で改易は本人の自業自得。
とういか、家康・秀忠の代での改易に元豊臣家中云々が働いた形跡は実は一切ない。
譜代もおんなじような理由で改易されてるし、いたって公平に裁かれてる。
清正は本人死後の息子の行状から改易やむなし。
正則も明らかに法度違反で改易は本人の自業自得。
とういか、家康・秀忠の代での改易に元豊臣家中云々が働いた形跡は実は一切ない。
譜代もおんなじような理由で改易されてるし、いたって公平に裁かれてる。
188:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:55:17.04 ID:5Og2Kksv0.net
>>109
まあ福島さんは
幕府の権力争いに巻き込まれた不運もあるから
ちょっとかわいそうではある
まあ福島さんは
幕府の権力争いに巻き込まれた不運もあるから
ちょっとかわいそうではある
82:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:27:13.26 ID:WOUajJ1m0.net
実は関ヶ原最大のキーマンは佐竹なんだよね
佐竹は大大名であり3万の軍勢を保持しながら全く動かず
東西どっちにも付かずに関ヶ原は終了wwwww
佐竹がどっちに付くかで決まってた。
佐竹は大大名であり3万の軍勢を保持しながら全く動かず
東西どっちにも付かずに関ヶ原は終了wwwww
佐竹がどっちに付くかで決まってた。
90:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:28:42.95 ID:mY8BearZ0.net
>>82
どっちつかずで家康に恨まれて先祖伝来の土地を没収され秋田に左遷されたけどな。 w
どっちつかずで家康に恨まれて先祖伝来の土地を没収され秋田に左遷されたけどな。 w
101:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:31:45.90 ID:PIS4Tws20.net
>>82
伊達政宗のほら吹きを家光の前で一緒に聞かされるという拷問が待ってるけどなw
伊達政宗のほら吹きを家光の前で一緒に聞かされるという拷問が待ってるけどなw
93:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:29:11.38 ID:WOUajJ1m0.net
佐竹のポジション
1の案
上杉に味方して伊達を挟み撃ち
2の案
西に向かう家康軍団を背後から追撃
3の案
伊達と最上に味方して上杉討伐
4の案
家康留守の江戸を総攻撃
1の案
上杉に味方して伊達を挟み撃ち
2の案
西に向かう家康軍団を背後から追撃
3の案
伊達と最上に味方して上杉討伐
4の案
家康留守の江戸を総攻撃
104:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:32:19.72 ID:IWuFyh/60.net
>>93
西軍の先行きが乏しいのが見えてたんじゃね?
それでも、心情的に東軍に付きたくなかったと
西軍の先行きが乏しいのが見えてたんじゃね?
それでも、心情的に東軍に付きたくなかったと
119:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:36:17.10 ID:WOUajJ1m0.net
>>104
佐竹の謎の行動は恐らく、東西大激突を見届けその勝敗結果で勝った方に付く予定だったのかと
佐竹の謎の行動は恐らく、東西大激突を見届けその勝敗結果で勝った方に付く予定だったのかと
128:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:38:46.41 ID:0XK+iLwE0.net
最後は農民の竹槍に倒れたんだっけ?
133:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:40:09.28 ID:ACMImr1+0.net
>>128
それ光秀さんや(´・ω・`)
それ光秀さんや(´・ω・`)
147:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:44:19.51 ID:0XK+iLwE0.net
>>133
せやったかすまんな
最後柿食わされてやられたんだっけ?
せやったかすまんな
最後柿食わされてやられたんだっけ?
710:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 21:18:56.44 ID:ck2dHl5o0.net
>>147
柿は食ってないでしょ
柿は食ってないでしょ
146:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:44:06.72 ID:6Hfqo4kU0.net
>>128
その竹やりで十兵衛くんをぶち殺した農民が
何故か天草の乱にも名前が出てくるっていうねw
その竹やりで十兵衛くんをぶち殺した農民が
何故か天草の乱にも名前が出てくるっていうねw
149:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:45:04.16 ID:IWuFyh/60.net
>>146
そんなに識別出来るような名前なの?
そんなに識別出来るような名前なの?
170:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:49:43.62 ID:6Hfqo4kU0.net
>>149
うん
名前は忘れちゃったけどちゃんと苗字と名前が出てた
何か文庫本サイズの歴史ミステリーみたいな本だけどw
うん
名前は忘れちゃったけどちゃんと苗字と名前が出てた
何か文庫本サイズの歴史ミステリーみたいな本だけどw
155:名無しさん@1周年:2018/08/15(水) 17:47:15.86 ID:a7y/dIws0.net
総大将は毛利。
大将にやる気がないのに、勝てるわけ無いだろ。
石田は勝つ気なら総大将になってみろ。
関連記事関が原の「永久戦犯」 宇喜多秀家がなぜ殺されなかったのかもしも関ヶ原で家康が西軍に寝返ったら大将にやる気がないのに、勝てるわけ無いだろ。
石田は勝つ気なら総大将になってみろ。
コメント一覧
当時の加賀の情勢から考えて宇喜多騒動の二の舞になりそうだけどな。
東軍の清洲帰還前の8/10に数万の軍勢で大垣入城していながら、
クソの役にもたってない三成と小西が無能。
せめて秀信敗走後に後詰めする素振りくらいはしとけよ。
尾張犬山城、大垣城、岐阜城ともに確固撃破されたいんか?
って聞きたいくらいの相互連携の無さ。まるで本戦の西軍の様。
これ落城したこと気づいてないんだっけ?
全てはこれに尽きる
事実できなかったから負けた。
松尾山だって小早川が無理矢理取ったけど本当は輝元が入る予定で要塞化したんだろ?
どちらかというと、毛利輝元は、なぜ負けたのか?という視点から分析すべきだろう。
松尾山を無理やりとったというのは、江戸時代に小早川遺臣が言ってるだけで、実際には輝元が入らないから、代理の西軍重要人物として小早川を入れたという話だろ。小早川離反の噂が立ったのは関ヶ原の戦いの前日(9月14日)で、その時以前に小早川は松尾山に入っている。
離反の噂については「寛永諸家系図伝」に、
「関地蔵より引き返して江州高宮に陣とる。是によりて三成等、秀秋をもつて二心ありとす。」
との記述もある。
因みに「小早川の松尾山着陣」自体が寛永諸家系図伝のような
江戸時代以降の書物にしか記載されてない出来事だったりする。
小早川離反の噂は奉行の指示を無視し始めた8月4日以降、安国寺たちの間で雑説と言う形で広まっている。9月12日には三成たちが柏原を占拠した秀秋を味方と認識していないことが分かる。三成はいち早く離反に気づいたのか秀秋が佐和山付近に居る時点で徳川との内通を書状で知らせている
以前から西軍は秀秋を疑っているのに交通の要衝の松尾山に布陣させるかね?12日毛利勢を松尾山へとの書状の後に味方離反の噂を書いてるんだけどな
14日ってのは松尾山の小早川が明確に敵だと史料に現れる時期
なんだかんだ三成は淀君にも嫌われていたのだろう
大垣から石田、宇喜多、島津、小西が小早川迎撃に出て、後から大谷も出撃
対峙中に福島、黒田、その他徳川勢に横槍入れられて石田らが応戦するも、挟撃されてた大谷が最初に戦死
残りも追いやられてそれぞれ撤退
岐阜城陥落の時点で勝敗決してる
伏見城攻めに参加してて東軍とかねーからw
そもそも、秀頼の命令で上杉征伐に行っている家康を三成が襲った
秀頼の命令を受けた家臣を、三成は襲ったんだぞ?
この状況では、豊臣に弓引いたのは三成の方だよ
豊臣に対する敵対行動したのに、説得もクソもない
大義名分は東軍にある、豊臣側からしてもね
当時の秀頼がまだ六歳?くらいの子供で、大阪城が徳川に武装占拠されていた状況で出されたものだから、
その正統性があるかどうかという問題があるんだよ
6歳の子供だろうが何だろうが、秀頼の名前で出された命令なんでしょ?
それに武装占拠というが、当時の家康は豊臣家臣のはずだが
裏側がいくら汚くかろうが、建前がそうなっている以上は、三成の挙兵は豊臣への敵対行為と言わざるを得ない気がするけど
家康の政治力の勝ちやね、三成も家康に負けないくらいに裏工作やら政治的な駆け引きをするべきだったが
立場が違いすぎたからなぁ
公儀としての会津討伐の正統性は揺るがんよ。
内心は兎も角、前田も毛利も宇喜多も賛同して討伐軍を動員してるから形式的にも問題ない。
(後ろ2人は決起のカモフラージュだったが)
だからこそ三成はクーデターで盤ごとひっくり返えそうとした訳で
勝てば官軍で正統性の獲得にもなったろうが負けたからな。
全部政権の多数側として行動してるんだよね。
勿論、各大老奉行の賛同理由は忖度とか保身とか打算とかだろうけど、最低限多数決の形式は整えてる。
無断婚姻事件の以降は1対他全員の構図を絶対に避けていて隙を見せてない。
三成が武力に頼ったのも結局は政治力では勝てないからで、
家康の政治力の恐ろしさが分かる。
その家康の強引な工作が反発を産んで関ケ原となったわけで、
でも大義名分は東軍というか、家康にあるよね
いくら家康憎しでも、豊臣の命令を遂行中を襲うのはマズイやり方と言わざるを得ない、豊臣への敵対にも捉えられかねないからね
強引なやりかた、というのがどういうのかはわからんが、それによって敵を作っても豊臣側、体制側で大義名分があるという強みがあるからね
大義名分というのは思っている以上に大事なものだと俺は思うし、これが無ければ例え勝っても逆賊になりかねない、本能寺で信長を襲った明智のようにね
明智も本能寺の変という戦いには勝ったが、結局逆賊として秀吉に討伐された、大義名分が無かったからね
西軍にも同じように大義名分が無い
いくら政権中枢にいて他大名と繋がりがあったからといって、その立場から失脚した大名がそんな図面を引けるものなのかね
それでいて関ヶ原でどうとか言ってもなぁ
きっと家康は地震兵器で秀吉の目論見を崩したんだな!
家康は会津征伐の出征に際し
後陽成天皇から晒布の100反を下賜されており
朝廷の承認を取り付けている
豊臣家の大老としてだけでなく内大臣としての正統性も具備している
270年だともうただのこじつけ
いわゆる関ケ原の合戦はなかった、石田三成は西軍の首謀者的武将ではなかったという異論を検討してもらいたいネ。
決起構想の最初期から毛利が加担してたのは間違い無さそうだけどな。
家康排除で最も恩恵を得るのも毛利だし。
ネットで読むとどれも信用できないからな~
親戚のおじさんが言ってた
関ヶ原は豊臣内部の家臣同士の争いで豊臣は関与せず、その前の前田征伐では知らんぷりしてきた。
関ヶ原の際に、豊臣の領地が50万石まで減らされて、淀や加藤、福島は黙っていたの何故なのか疑問。
関ヶ原後は全国の直轄地を東軍で活躍した諸大名に与えた
だから豊臣はともかく加藤と福島は文句言えない。
御恩と奉公、御恩である領土をもらっているのに奉公しないの?
光成準治・白峰旬・高橋陽介・本多隆成
あたりがネットで参照されてる研究者かな、最近だと※15が話してるような高橋さんの説が有名になったね
本多先生以外は関ヶ原系の一般書が手に入り安いから参考にしやすいと思う
実際は、慶長九年 讃州内御蔵米御勘定状事で生駒領内の蔵入地を勘定していたり、
慶長十七年 豊臣秀頼知行宛行状写で備中の知行を采配している他、
関ヶ原後でも秀頼の所領は大和・伊勢・美濃・丹波・讃岐・伊予まで広がっているのが確認できる。
清正も領内の蔵入地分の収入を献上し続けてたらしいし、
元々豊臣蔵入地の多くは大名預地型だったから
蔵入地据え置きの名目で領地配分したけど戦後処理のドサクサで
徐々に諸大名が横領し初めていったってのが真相じゃ無いかね?
横領しても取り締まる奴(奉行衆)ももう居ないし。
最初からって、伏見城攻めに参加していて最初から?ちょっと意味不明。
家康が、その当時から正当性があると主張したいなら、「悪逆非道の豊臣政権を我らは打倒するのだ!悪逆の豊臣公議を打倒する、正義の我々徳川軍に皆集え!」以外しかない。しかし、そんな事は実際には家康は主張していない。
どうあがいても家康に正当性なんてかけらもないし、家康が「正当性」に拘りたいなら、豊臣家を滅ぼすべきではなく、豊臣家の忠臣として仕え続けるしかない。でも、家康は正当性なんてクソくらえなんだよ。天下取りたいんだから。これは戦国大名の本能みたいなもんだから、こういうまっすぐな野心を家康ファンはみとめてあげれば?家康自身が正当性クソくらえって自ら体現しているのに、未だになんで400年以上たった今でも家康に正当性があるかのように擁護している人がいるのか訳分からん。
淀「西軍は賊軍じゃ」
関ケ原は豊臣西軍vs豊臣東軍
不人気なら関ケ原で天下分け目の決戦できないよ。
「これからは徳川じゃね」という雰囲気の中で、西軍についた大名が多かったことを考えると家康の方が不人気。
前田利家と家康が一触即発だった時に家康側に付いた奴等が、関ケ原本戦で東軍側。
利家側に付いた大名は東軍として本戦には参加していない。
体育会系の強い者に従う福島タイプや黒田のような腹黒系の豊臣系の大名を上手く使い、秀忠をわざと遅参させ徳川本体は
温存する老獪なやり方。宇喜多や三成では敵わない。輝元は論外・・公表できない汚い裏取引があったと思う。