【最後の】足利義昭vs徳川慶喜【将軍】
1:日本@名無史さん:2015/02/03(火) 18:10:03.83 ID:.net
殆ど人生の最後まで幕府再興を夢見て将軍職を辞さなかった義昭と、
ひとまずの状況不利を悟ってあっさりと大政奉還し、明治維新の影の功労者とも言える慶喜。
どちらが将軍として、そして為政者として正しかったのか?
ひとまずの状況不利を悟ってあっさりと大政奉還し、明治維新の影の功労者とも言える慶喜。
どちらが将軍として、そして為政者として正しかったのか?
2:日本@名無史さん:2015/02/04(水) 13:45:17.84 ID:.net
徳川慶喜なんて傍系から養子の養子で(水戸家→一橋家→宗家)で将軍になったし
大政奉還すると徳川宗家の座も家達に譲ってしまっている
他に徳川一門男子が大勢いて自分が宗家を守る必要もなかった慶喜と
父も兄も死に足利宗家を最後まで守らざるを得なかった義昭とは事情が違うのでは
大政奉還すると徳川宗家の座も家達に譲ってしまっている
他に徳川一門男子が大勢いて自分が宗家を守る必要もなかった慶喜と
父も兄も死に足利宗家を最後まで守らざるを得なかった義昭とは事情が違うのでは
6:日本@名無史さん:2015/02/05(木) 15:04:18.02 ID:.net
>>2
俺が読んだ『足利義昭』では「義昭は、やはり京を追われた時点で将軍職を辞すべきであった。」
と著者が結んでたけど、それは結果論だろうと。義稙のように復帰できる可能性もあるんだから
義稙みたく解任されたわけでもないし将軍職辞任する必要はない。本人はやる気まんまんだし。
まぁ義稙は再度解任されて義昭の父、義晴が将軍になったけどねw
俺が読んだ『足利義昭』では「義昭は、やはり京を追われた時点で将軍職を辞すべきであった。」
と著者が結んでたけど、それは結果論だろうと。義稙のように復帰できる可能性もあるんだから
義稙みたく解任されたわけでもないし将軍職辞任する必要はない。本人はやる気まんまんだし。
まぁ義稙は再度解任されて義昭の父、義晴が将軍になったけどねw
3:日本@名無史さん:2015/02/04(水) 21:32:07.71 ID:.net
徳川一門男子は確かに大勢いたが
将軍継承資格を持っている成人となるとそれほど多くはなかったのでは?
将軍継承資格を持っている成人となるとそれほど多くはなかったのでは?
7:日本@名無史さん:2015/02/17(火) 14:06:40.57 ID:.net
江戸末期には松平春嶽らが唱える公議政体論があり
君主の座にだけ明治天皇を座らせて後は徳川慶喜を議長とする議会を開き
各藩主を議員とする幕藩体制維持で政治を行おうと言う画策があった
ヨーロッパで革命が起こっているのを見れば日本も武力で将軍が民を治めていれば今に民が爆発する
形の上だけでも議会制が必要だという認識があったため
義昭の頃にはそういう考えがないしな
別の将軍がまた武力で日本を統治するだけなら足利一門の私が、と思う
君主の座にだけ明治天皇を座らせて後は徳川慶喜を議長とする議会を開き
各藩主を議員とする幕藩体制維持で政治を行おうと言う画策があった
ヨーロッパで革命が起こっているのを見れば日本も武力で将軍が民を治めていれば今に民が爆発する
形の上だけでも議会制が必要だという認識があったため
義昭の頃にはそういう考えがないしな
別の将軍がまた武力で日本を統治するだけなら足利一門の私が、と思う
8:吉良義功:2015/02/18(水) 20:33:50.27 ID:.net
天皇(公家)に政権を取り返されたれた慶喜より
同じ武家(豊臣)に形式的にも政権を譲った義昭のほうが武家としては上だ。
義昭は織田と対立し備後に遷座したあとも将軍職として執務し続けたのだから
政権を投げ出した慶喜よりはるかに責任感がある。
人柄も遙かに義昭のほうが明るい感じで好感がもてる。
義昭を裏切った近しい幕臣は長岡藤孝だけではないのかなと思われる。
幕臣の主要な人物は明智の家臣として世を忍び最終的に逆賊の織田を屠った。
同じ武家(豊臣)に形式的にも政権を譲った義昭のほうが武家としては上だ。
義昭は織田と対立し備後に遷座したあとも将軍職として執務し続けたのだから
政権を投げ出した慶喜よりはるかに責任感がある。
人柄も遙かに義昭のほうが明るい感じで好感がもてる。
義昭を裏切った近しい幕臣は長岡藤孝だけではないのかなと思われる。
幕臣の主要な人物は明智の家臣として世を忍び最終的に逆賊の織田を屠った。
9:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 00:59:27.74 ID:.net
>>8
まぁ確かに理由はどうあれ、慶喜は家定にも家茂にも勝海舟にも大奥にも嫌われてたしなw
まぁ確かに理由はどうあれ、慶喜は家定にも家茂にも勝海舟にも大奥にも嫌われてたしなw
10:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 06:55:27.74 ID:.net
勝海舟は慶喜の子を養子に貰ってるし、嫌ってたというのは司馬あたりの創作だろうね
11:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 08:20:17.95 ID:.net
大奥に好かれる=金の無駄遣いをする
12:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 17:17:28.48 ID:.net
同じ最後の将軍と言っても
最後の最後まで圧倒的な軍事力財力を保有していた徳川幕府と形だけになっていた
室町幕府では意味合いが違う
義昭があっさり政権放り出して逃げ切り、慶喜は最後まで抵抗する
ならまだ分かるがなぜ逆なのか
最後の最後まで圧倒的な軍事力財力を保有していた徳川幕府と形だけになっていた
室町幕府では意味合いが違う
義昭があっさり政権放り出して逃げ切り、慶喜は最後まで抵抗する
ならまだ分かるがなぜ逆なのか
13:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 18:48:38.68 ID:.net
第二次長征失敗、大政奉還と幕府権威の低下は士気の低下をもたらして
たんだろうね。見てくれは大きくても維持できるもんじゃなかった。
慶喜も感じていたんじゃないかと思う。
清朝、ロマノフ朝も同じ感じ。
たんだろうね。見てくれは大きくても維持できるもんじゃなかった。
慶喜も感じていたんじゃないかと思う。
清朝、ロマノフ朝も同じ感じ。
14:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 18:51:03.04 ID:.net
義昭は個人の意地レベル。
15:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 13:38:54.26 ID:.net
応仁の乱から百年間次の天下人が定まらず
義昭に「征夷大将軍を返還しろ」と命令する奴がいないから
名乗ってただけだよな
秀吉に言われてようやく征夷大将軍を辞したが
義昭に「征夷大将軍を返還しろ」と命令する奴がいないから
名乗ってただけだよな
秀吉に言われてようやく征夷大将軍を辞したが
16:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 15:41:03.88 ID:.net
なんで朝廷は信長に本能寺の変前に征夷大将軍を打診したのに、
秀吉にはそうしなかったのよ。家康が服従した時点で将軍宣下すりゃ良かったのに。
秀吉にはそうしなかったのよ。家康が服従した時点で将軍宣下すりゃ良かったのに。
29:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 12:12:16.61 ID:.net
>>16
朝廷が信長に提示したのは関白、太政大臣、征夷大将軍、お好きなものをどれか選んで頂戴
武家の棟梁が征夷大将軍と決まってたわけじゃないんだよね。
はっきり言って大臣クラス以上の官職ならなんだってよかった。
朝廷が信長に提示したのは関白、太政大臣、征夷大将軍、お好きなものをどれか選んで頂戴
武家の棟梁が征夷大将軍と決まってたわけじゃないんだよね。
はっきり言って大臣クラス以上の官職ならなんだってよかった。
17:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 17:45:52.13 ID:.net
秀吉は関白になりたかったから
鎌倉幕府は征夷大将軍の血筋がどんどん変わっていったし
室町幕府は応仁の乱以降100年ぐらい将軍が幕府所在地離れて転々とする政権で
当時は征夷大将軍にそれほど魅力がなかった
鎌倉幕府は征夷大将軍の血筋がどんどん変わっていったし
室町幕府は応仁の乱以降100年ぐらい将軍が幕府所在地離れて転々とする政権で
当時は征夷大将軍にそれほど魅力がなかった
20:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 22:02:52.85 ID:.net
どーみても慶喜
21:日本@名無史さん:2015/02/23(月) 16:27:17.40 ID:.net
義昭は征夷大将軍(もしくは候補者)であり続けたから
若狭武田→朝倉→織田→毛利
と大名たちのところを転々とできたけど
征夷大将軍を返上したらもう匿ってくれる大名もないよね
秀吉にそこそこの待遇で京都に迎え取られることになったから
ようやく征夷大将軍を辞したけど
慶喜だって官位返上してもそこそこの待遇が得られるからそうしただけで
切腹ならば徹底抗戦したでしょ
若狭武田→朝倉→織田→毛利
と大名たちのところを転々とできたけど
征夷大将軍を返上したらもう匿ってくれる大名もないよね
秀吉にそこそこの待遇で京都に迎え取られることになったから
ようやく征夷大将軍を辞したけど
慶喜だって官位返上してもそこそこの待遇が得られるからそうしただけで
切腹ならば徹底抗戦したでしょ
22:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 18:13:39.90 ID:.net
>>21
慶喜は朝廷の沙汰が出るまでの謹慎中、薩長の中には切腹を唱える者もいたんじゃなかったっけ?
慶喜は朝廷の沙汰が出るまでの謹慎中、薩長の中には切腹を唱える者もいたんじゃなかったっけ?
23:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 18:51:58.54 ID:.net
薩摩を主導する西郷は強硬派だったが
長州を主導する桂は慶喜に寛容論だった
この時期の朝廷を主導していた三条実美や岩倉具視は
幕末から長州と行動を共にしていた
長州を主導する桂は慶喜に寛容論だった
この時期の朝廷を主導していた三条実美や岩倉具視は
幕末から長州と行動を共にしていた
24:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 20:11:53.44 ID:.net
江戸後期の日本人(士族)」には、「殿様」は別格として扱うべきという
理解があったからと思う。
二百数十年の婚姻養子縁組で大名家は皆親類な状態になってた
ことが背景にあるんじゃないか。
その上、長州は皇国史観。
慶喜の母は皇族。こりゃ殺せないよw
理解があったからと思う。
二百数十年の婚姻養子縁組で大名家は皆親類な状態になってた
ことが背景にあるんじゃないか。
その上、長州は皇国史観。
慶喜の母は皇族。こりゃ殺せないよw
25:日本@名無史さん:2015/02/28(土) 15:49:21.89 ID:.net
別に慶喜が別格だから殺さなかったのではなく
さっさと欧米列強並の軍事力をつけなければならないのに
日本国内で内紛やってる時間がなかったんだよ
とりあえず恭順示す奴は放置
いちいち息の根止めるまでやっていたら明治維新が遅れてしまう
さっさと欧米列強並の軍事力をつけなければならないのに
日本国内で内紛やってる時間がなかったんだよ
とりあえず恭順示す奴は放置
いちいち息の根止めるまでやっていたら明治維新が遅れてしまう
26:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 01:46:24.72 ID:.net
慶喜って大阪城からよく脱出できたな。
それも守護職だの所次第だの老中だの足手まといを連れて。
それも守護職だの所次第だの老中だの足手まといを連れて。
28:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 12:09:01.97 ID:.net
>>26
当時の幕府首脳は慶喜の完全独裁状態だぞ。
慶喜について来いと言われて逆らえるような奴は存在しとらん。
当時の幕府首脳は慶喜の完全独裁状態だぞ。
慶喜について来いと言われて逆らえるような奴は存在しとらん。
30:日本@名無史さん:2015/03/15(日) 15:50:37.76 ID:.net
血統と名門意識だけの義昭 名護屋に参陣、完全に秀吉の軍門に下る
運と実力の慶喜 名誉回復され、宗家とは別に公爵となる
運と実力の慶喜 名誉回復され、宗家とは別に公爵となる
32:日本@名無史さん:2015/03/17(火) 15:39:43.35 ID:.net
>>30
それを言ったら慶喜も血統と名門でしょ
母親は皇族
戊辰戦争の東征大総督で後に元老院議長となった
有栖川宮熾仁親王はいとこの子
それを言ったら慶喜も血統と名門でしょ
母親は皇族
戊辰戦争の東征大総督で後に元老院議長となった
有栖川宮熾仁親王はいとこの子
34:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 08:48:02.57 ID:.net
>>32
家康の男系男子だから将軍になったわけで、
母方の血統で将軍になったわけではないでしょうが
家康の男系男子だから将軍になったわけで、
母方の血統で将軍になったわけではないでしょうが
38:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 17:46:13.89 ID:.net
>>34
慶喜は実力で名誉回復されたわけじゃないでしょ
明治になってから公爵にまで戻れているのは
親族に皇族がいたことも考慮されたはず
慶喜は実力で名誉回復されたわけじゃないでしょ
明治になってから公爵にまで戻れているのは
親族に皇族がいたことも考慮されたはず
37:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 16:27:49.23 ID:.net
慶喜の行動はきわめて予測しにくい
何を考えてんだか周囲に分からん
独裁者というより個人プレー好き
政治家で言うと菅直人のわけの分からなさに似ている
小政党から成り上がった権力者ってああいう個人プレー行動が多い
何を考えてんだか周囲に分からん
独裁者というより個人プレー好き
政治家で言うと菅直人のわけの分からなさに似ている
小政党から成り上がった権力者ってああいう個人プレー行動が多い
45:日本@名無史さん:2015/04/17(金) 14:10:03.67 ID:.net
義昭が将軍職に拘り続けたのは野心よりもっと現実的な、生きていく為の
唯一の術だっただけって気もするけどな・・・
室町幕府15代将軍と言う肩書きが有ったからこそ実質的に幕府が潰れた後
でも諸大名などが世話をした。
義昭と言う貴種を抱え込むのは名物珍宝を手にするのと変わらない感覚
だったような気もするけど。。。
唯一の術だっただけって気もするけどな・・・
室町幕府15代将軍と言う肩書きが有ったからこそ実質的に幕府が潰れた後
でも諸大名などが世話をした。
義昭と言う貴種を抱え込むのは名物珍宝を手にするのと変わらない感覚
だったような気もするけど。。。
51:日本@名無史さん:2015/05/24(日) 19:02:22.22 ID:.net
>>45
あっちこっちの大名が手を焼いてたし「名物珍宝」は違うだろ
織田も毛利も義昭を上洛の理由にしたかっただけ
天下は自分が欲しかっただろうから
あっちこっちの大名が手を焼いてたし「名物珍宝」は違うだろ
織田も毛利も義昭を上洛の理由にしたかっただけ
天下は自分が欲しかっただろうから
55:日本@名無史さん:2015/05/29(金) 11:34:12.85 ID:.net
慶喜はもう幕府が日本を支配していてはダメだということが
根底で分かっていたからな。
だからあんな負け方をしたんだと思う。
マジで戦っていれば、数年間の内戦になるのは間違いない。
でもそうなっていたら、間違いなくイギリスに介入されて占領されていたと思う。
根底で分かっていたからな。
だからあんな負け方をしたんだと思う。
マジで戦っていれば、数年間の内戦になるのは間違いない。
でもそうなっていたら、間違いなくイギリスに介入されて占領されていたと思う。
56:日本@名無史さん:2015/06/12(金) 20:33:35.90 ID:.net
>>55
倒幕・イギリスと佐幕・フランスで大混乱、今の日本は無かったかもな
倒幕・イギリスと佐幕・フランスで大混乱、今の日本は無かったかもな
57:日本@名無史さん:2015/06/16(火) 17:50:19.78 ID:.net
>>56
いまだにそんな図式を持ってるのは無知の証拠
日本における列強の力関係はイギリスが断然優位にありロッシュは危機感を持ち個人的に幕府に接近しただけ
だから本国から更迭されウトレー公使は再び英仏協調路線に戻ってる
慶喜が大政奉還を行った意図は色々あるが政令一途という目的が一番大きいだろ
何とか兵庫開港までは個人プレーで乗り切ったものの、ガチャガチャ議論してたら対外政策の一元化ができなくなる
その後の政体でも慶喜の個人的能力や声望にかなう人物はいないわけで、徳川家による世襲継続という目的は希薄だろうね
いまだにそんな図式を持ってるのは無知の証拠
日本における列強の力関係はイギリスが断然優位にありロッシュは危機感を持ち個人的に幕府に接近しただけ
だから本国から更迭されウトレー公使は再び英仏協調路線に戻ってる
慶喜が大政奉還を行った意図は色々あるが政令一途という目的が一番大きいだろ
何とか兵庫開港までは個人プレーで乗り切ったものの、ガチャガチャ議論してたら対外政策の一元化ができなくなる
その後の政体でも慶喜の個人的能力や声望にかなう人物はいないわけで、徳川家による世襲継続という目的は希薄だろうね
58:日本@名無史さん:2015/10/20(火) 23:05:40.31 ID:.net
あっさり身を引いた慶喜
未練たらたらの義昭
未練たらたらの義昭
59:日本@名無史さん:2015/10/23(金) 03:09:54.11 ID:.net
朝敵・逆賊認定されて一気に萎えたという
60:日本@名無史さん:2015/10/26(月) 22:39:53.34 ID:.net
足利幕府の最盛期より、徳川幕府の末期の方が勢力としては大きかった。
61:日本@名無史さん:2015/11/05(木) 04:43:44.82 ID:.net
>>60
足利幕府は直接的に領土はほとんど無く、自分の家来の守護大名が支配し
その上に君臨している将軍だったが
徳川幕府は自分も直轄地という、家来の大名よりも大きな領土を支配し
さらに上に君臨する将軍で
その支配構造を見ると、そう思ってしまうが
幕末の徳川は長州藩を攻めたが負けてしまった
しかし足利全盛期の義満は、長州以上の領土であった大内や山名を討ち取った
これを考えると、支配力という点においては足利全盛期の方が上でしょう
日本の歴史上足利幕府ほど頼りない支配者はいなかった
設立当初から南北朝の動乱で、ようやく治まっても戦争多発
真ん中当たりから戦国時代になり、日本中のほとんどが足利幕府の言う事を聞かない状態
将軍は京にいる事も稀になり、多くが放浪将軍
ようやく義昭が信長というパトロンを頼り京へ上洛できたが
住むとこもなく信長に二条城をつくってもらいながらも信長に反抗
支配者としてのノウハウやモラルもあったもんじゃない将軍であるが
歴代足利将軍も、兄弟や父息子た争い似たようなのばかり
こんなんでも徳川幕府と同じく15代続き、年数もほぼ同じ
ある意味凄い幕府だったと思ってしまう
足利幕府は直接的に領土はほとんど無く、自分の家来の守護大名が支配し
その上に君臨している将軍だったが
徳川幕府は自分も直轄地という、家来の大名よりも大きな領土を支配し
さらに上に君臨する将軍で
その支配構造を見ると、そう思ってしまうが
幕末の徳川は長州藩を攻めたが負けてしまった
しかし足利全盛期の義満は、長州以上の領土であった大内や山名を討ち取った
これを考えると、支配力という点においては足利全盛期の方が上でしょう
日本の歴史上足利幕府ほど頼りない支配者はいなかった
設立当初から南北朝の動乱で、ようやく治まっても戦争多発
真ん中当たりから戦国時代になり、日本中のほとんどが足利幕府の言う事を聞かない状態
将軍は京にいる事も稀になり、多くが放浪将軍
ようやく義昭が信長というパトロンを頼り京へ上洛できたが
住むとこもなく信長に二条城をつくってもらいながらも信長に反抗
支配者としてのノウハウやモラルもあったもんじゃない将軍であるが
歴代足利将軍も、兄弟や父息子た争い似たようなのばかり
こんなんでも徳川幕府と同じく15代続き、年数もほぼ同じ
ある意味凄い幕府だったと思ってしまう
65:日本@名無史さん:2015/11/05(木) 20:52:03.41 ID:.net
義昭は根性とプライドはすごかったろうねえ
仕えた家臣が大変そう
関連記事足利義昭が身の程知らずの無能と言う風潮徳川家の子孫って特に特権とかないの?徳川15代将軍の中に1人無能がおるよな仕えた家臣が大変そう
コメント一覧
義輝は現実見てないし、義昭はその義輝よりは現実見てるけど現実的じゃ無い。
慶喜の立場からすりゃさんざん負けといてなにが作戦だよってなるわな
小栗自身の負けじゃなくてもそれまでに主戦派が負けたことに変わりない
権力なんてないっしょ
あるなら慶喜より二つ以上前で大奥縮小できてるはず
慶喜は一応多くの領土をもつ将軍としてスタートしているが、長州征伐で大敗した後なのでぶっちゃけ時間の問題なんだよねー
西国の大名の多くは幕府から離脱してる、どんなに頑張った所で滅亡を先延ばしにするのが限界
この敗戦で畿内の諸侯と越前や尾張紀州といった親藩譜代の大名全てに見限られた
関東東北だけ確保したところでどうやっても勝てない国力的にも勝てなくなる。
何倍もの兵力をもってしても勝てなかった相手に、兵力でも上回ってこられるともうどうしようもない
我が身大事に執着した慶喜
一会桑時代から
徳川の影響力を残したって意味では慶喜の負け方の方が良いかもね
あれ超大変だったと思うんだけどゲームだと義昭くんにこいつらの領土取っていいよって
大義名分もらえる感じで喜んじゃうんだよね
ゲームによってはホントに攻め込み名分だし次どうするか悩まなくて済むってのもある
「帰京してクレメンス」って懇願してるんだよな
義昭が人質を要求したから決裂してるけど。
佐久間折檻状と同じく頭に血が上って衝動的にキツいこと言っただけちゃうんかな?
でも義昭もなんだかんだ頑張った方だから許せる
そもそも歴代の足利将軍家がね・・・
相手の心の中なんてエスパーでもなけりゃ読めるわけがないから仕方が無いね。
徳川慶喜は最初の改革意識は良かったが大坂城で逃亡した時、兵をかなり犬死させたのが良くない
戦国時代の荒木村重の謀反後の逃亡レベル
最後まで抵抗するのは当たり前だろう
秀吉は権威主義的だからやられない可能性が高かっただろうし
権威主義的で気に入った相手には何度も帰属を求めるくらい寛容なのが信長。
三木城、鳥取城然り、敵対者を見せしめ含ませて厳罰するのを好み
基本方針を「一人も不残置、なてきりニ可申付候」って明言してるのが秀吉。
織田時代はまだ将軍の権威を利用する輩ばかりだったから自身のプライドも保ててたけど、本能寺後天下の趨勢を決める際に担ぎ上げられるのは自分ではなく織田一門、そんな蚊帳の外の中天下が秀吉のものになったら熱も冷める気がするわ
敵対者皆殺しは信長でしょ、秀吉は降伏すれば全員許す超甘々な人物
秀吉がなで斬りにするときは信長の命令くらいのもんですよ
三木城も鳥取城も相手が降伏しなかったからであって、すぐに降伏していれば全員助かっている。
信長だったら降伏した連中も皆殺しにしてるよ
伊勢長島、神吉城、高天神などなど
小田原攻めの時に鉢形城を降伏開城させた利家を「やり方が温い」と厳しく叱責して
続く八王子城で降伏を許さず、撫で切りを強硬させたのが秀吉だぞ。
秀吉は非常に優しい人物ですよ、敵味方双方を極力殺さないようにしています
秀吉本人も自分は人を殺すのが嫌いと小早川に送っています。
あとあなたは創作物の読み過ぎですよ
八王子城の城代横地吉信は公儀の降伏の使者を切り捨て徹底抗戦を主導しただけです、
降伏したものはみな救われています。
相即寺の記録によると120人、大善寺の記録によると130人、3000人は籠ったと言われている城でこの死者
なで斬り(笑)
漫画かネット創作物読んでそれを史実だと勘違いしたんじゃないのか君は
>秀吉がなで斬りにするときは信長の命令
信長の命令で行った秀吉のなで切りってどれのこと?
あと耳塚鼻塚 確かに首より軽いが子供や女でもわからん
信長は女中大量処刑はどうも怪しいからな
無礼な茶坊主はそりゃ処刑するわな
秀吉は畜生塚とか落書き犯の一族皆殺しとか見ても十分残酷
あっち系臭いなあ
秀吉は畜生塚とか落書き犯の一族皆殺しとか見ても十分残酷
本気で温情とか思ってるなら怖いわ
まあ非戦闘員だからって敵国民には変わりないから情けをかける必要がないという論ならそれは一理あるけどな
あんたのように秀吉をけなされるとなんでも相手を朝鮮人扱いするのはよくねーぞ
特ア板やハングル板なんぞにこもってないで
youtubeでもっと親日と接しろや
秀吉アンチはあっち系工作員で間違いないね。
助命してやったから許せとかいうのは侵略する側の傲慢だろ
それにあっち系とか逃げの言葉使うなよ
昔のことに謝罪とか賠償言い出すのは異常だがな
反論しなかったら
「都合が悪くなるとだんまりか」と言い出すタイプかね
話を義昭慶喜に戻すが慶喜は諦めグセが強いイメージがある分どちらが優れてるかの話になると不利よね
越前一向衆攻めや播磨上月城攻めの時、越前では織田全軍で徹底的な根切りが行われ、播磨の時も秀吉が攻めていない城でも信長から検死役の武将が派遣されて城兵のなで斬りが行われているかどうかが確認が行われている、
その結果三木城がなかなか降伏せず、秀吉は城主一族の首で城兵の助命をなんとか勝ち取っている
※35
なぜ駒姫が残酷なの?謀反人の係累は酷い事になるのは信長や家康をはじめみなやっているでしょ
秀吉はむしろ甘いほう。信長だったら荒木一族の時のように焼き殺しているし、家康は鋸引きにして一族皆殺しにしてる、最上義光も自分に背いた嫡男を殺す時はその妻とその一族寒河江氏まで滅ぼしている。
応仁の乱のようになり、民草を苦しめない為に処断し、その時も多くの血が流れないように最少にしている。秀吉の善性ともいえる
日本は民族の生存権拡大という正義の為に戦い、朝鮮人はそれから国を守る為に戦った、
戦士同士が戦い、敗者がその証を切り取られただけ、これは残酷ではないよ
※36
畜生塚は秀次があまりに畜生な事していたから、秀次とその一族の墓を京の民が罵倒するときに使われた蔑称ですよ
落書き犯?
秀吉は非常に寛大で甘い人間だから、奢れるものは久しからずなど落書きされても笑って許してますよ、逆に皮肉って奢らないものも久しからずと隣に書いてね。
命の代わりに鼻で済ますのは恩情だろ、当時なら首取るのが普通だからな。
※44
全く同じレスを一時間後に書き込むとか明らかに異常だから
信長の指示でな。
秀吉の独断で浅井家の親族の処刑なんてできるわけがない
責任者一人の耳鼻削いで許したるじゃあ恩情やけど全員の耳鼻削いだるは残酷じゃね?
それは置いといて危険残酷だから抵抗するって話が大元なんだから義昭目線で言えば耳鼻削がれるのも首切られるのも嫌なので抵抗しますで終わる話やんけ
史実義昭は帰ってこい?人質よこせやっていうぐらい図太い性格してるけど
普通に戦功の証明かと
つまり残酷でもなんでもない、兵士同士が戦い負けたほうが討たれたその証である
これを残酷とか言っちゃう人がいるのが信じられん
というか秀吉や信長残酷かどうかなんてどうでもいい話を延々と引き延ばすなや