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【最後の】足利義昭vs徳川慶喜【将軍】
1:日本@名無史さん:2015/02/03(火) 18:10:03.83 ID:.net
殆ど人生の最後まで幕府再興を夢見て将軍職を辞さなかった義昭と、
ひとまずの状況不利を悟ってあっさりと大政奉還し、明治維新の影の功労者とも言える慶喜。
どちらが将軍として、そして為政者として正しかったのか?


引用元
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1422954603


2:日本@名無史さん:2015/02/04(水) 13:45:17.84 ID:.net
徳川慶喜なんて傍系から養子の養子で(水戸家→一橋家→宗家)で将軍になったし
大政奉還すると徳川宗家の座も家達に譲ってしまっている
他に徳川一門男子が大勢いて自分が宗家を守る必要もなかった慶喜と
父も兄も死に足利宗家を最後まで守らざるを得なかった義昭とは事情が違うのでは
6:日本@名無史さん:2015/02/05(木) 15:04:18.02 ID:.net
>>2
俺が読んだ『足利義昭』では「義昭は、やはり京を追われた時点で将軍職を辞すべきであった。」
と著者が結んでたけど、それは結果論だろうと。義稙のように復帰できる可能性もあるんだから
義稙みたく解任されたわけでもないし将軍職辞任する必要はない。本人はやる気まんまんだし。
まぁ義稙は再度解任されて義昭の父、義晴が将軍になったけどねw
3:日本@名無史さん:2015/02/04(水) 21:32:07.71 ID:.net
徳川一門男子は確かに大勢いたが
将軍継承資格を持っている成人となるとそれほど多くはなかったのでは?
7:日本@名無史さん:2015/02/17(火) 14:06:40.57 ID:.net
江戸末期には松平春嶽らが唱える公議政体論があり
君主の座にだけ明治天皇を座らせて後は徳川慶喜を議長とする議会を開き
各藩主を議員とする幕藩体制維持で政治を行おうと言う画策があった
ヨーロッパで革命が起こっているのを見れば日本も武力で将軍が民を治めていれば今に民が爆発する
形の上だけでも議会制が必要だという認識があったため

義昭の頃にはそういう考えがないしな
別の将軍がまた武力で日本を統治するだけなら足利一門の私が、と思う
8:吉良義功:2015/02/18(水) 20:33:50.27 ID:.net
天皇(公家)に政権を取り返されたれた慶喜より
同じ武家(豊臣)に形式的にも政権を譲った義昭のほうが武家としては上だ。
義昭は織田と対立し備後に遷座したあとも将軍職として執務し続けたのだから
政権を投げ出した慶喜よりはるかに責任感がある。
人柄も遙かに義昭のほうが明るい感じで好感がもてる。
義昭を裏切った近しい幕臣は長岡藤孝だけではないのかなと思われる。
幕臣の主要な人物は明智の家臣として世を忍び最終的に逆賊の織田を屠った。
9:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 00:59:27.74 ID:.net
>>8
まぁ確かに理由はどうあれ、慶喜は家定にも家茂にも勝海舟にも大奥にも嫌われてたしなw
10:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 06:55:27.74 ID:.net
勝海舟は慶喜の子を養子に貰ってるし、嫌ってたというのは司馬あたりの創作だろうね
11:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 08:20:17.95 ID:.net
大奥に好かれる=金の無駄遣いをする
12:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 17:17:28.48 ID:.net
同じ最後の将軍と言っても
最後の最後まで圧倒的な軍事力財力を保有していた徳川幕府と形だけになっていた
室町幕府では意味合いが違う
義昭があっさり政権放り出して逃げ切り、慶喜は最後まで抵抗する
ならまだ分かるがなぜ逆なのか
13:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 18:48:38.68 ID:.net
第二次長征失敗、大政奉還と幕府権威の低下は士気の低下をもたらして
たんだろうね。見てくれは大きくても維持できるもんじゃなかった。
慶喜も感じていたんじゃないかと思う。

清朝、ロマノフ朝も同じ感じ。
14:日本@名無史さん:2015/02/19(木) 18:51:03.04 ID:.net
義昭は個人の意地レベル。
15:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 13:38:54.26 ID:.net
応仁の乱から百年間次の天下人が定まらず
義昭に「征夷大将軍を返還しろ」と命令する奴がいないから
名乗ってただけだよな
秀吉に言われてようやく征夷大将軍を辞したが
16:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 15:41:03.88 ID:.net
なんで朝廷は信長に本能寺の変前に征夷大将軍を打診したのに、
秀吉にはそうしなかったのよ。家康が服従した時点で将軍宣下すりゃ良かったのに。
29:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 12:12:16.61 ID:.net
>>16
朝廷が信長に提示したのは関白、太政大臣、征夷大将軍、お好きなものをどれか選んで頂戴

武家の棟梁が征夷大将軍と決まってたわけじゃないんだよね。
はっきり言って大臣クラス以上の官職ならなんだってよかった。
17:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 17:45:52.13 ID:.net
秀吉は関白になりたかったから

鎌倉幕府は征夷大将軍の血筋がどんどん変わっていったし
室町幕府は応仁の乱以降100年ぐらい将軍が幕府所在地離れて転々とする政権で
当時は征夷大将軍にそれほど魅力がなかった
20:日本@名無史さん:2015/02/20(金) 22:02:52.85 ID:.net
どーみても慶喜
21:日本@名無史さん:2015/02/23(月) 16:27:17.40 ID:.net
義昭は征夷大将軍(もしくは候補者)であり続けたから
若狭武田→朝倉→織田→毛利
と大名たちのところを転々とできたけど
征夷大将軍を返上したらもう匿ってくれる大名もないよね
秀吉にそこそこの待遇で京都に迎え取られることになったから
ようやく征夷大将軍を辞したけど
慶喜だって官位返上してもそこそこの待遇が得られるからそうしただけで
切腹ならば徹底抗戦したでしょ
22:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 18:13:39.90 ID:.net
>>21
慶喜は朝廷の沙汰が出るまでの謹慎中、薩長の中には切腹を唱える者もいたんじゃなかったっけ?
23:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 18:51:58.54 ID:.net
薩摩を主導する西郷は強硬派だったが
長州を主導する桂は慶喜に寛容論だった
この時期の朝廷を主導していた三条実美や岩倉具視は
幕末から長州と行動を共にしていた
24:日本@名無史さん:2015/02/27(金) 20:11:53.44 ID:.net
江戸後期の日本人(士族)」には、「殿様」は別格として扱うべきという
理解があったからと思う。
二百数十年の婚姻養子縁組で大名家は皆親類な状態になってた
ことが背景にあるんじゃないか。

その上、長州は皇国史観。
慶喜の母は皇族。こりゃ殺せないよw
25:日本@名無史さん:2015/02/28(土) 15:49:21.89 ID:.net
別に慶喜が別格だから殺さなかったのではなく
さっさと欧米列強並の軍事力をつけなければならないのに
日本国内で内紛やってる時間がなかったんだよ

とりあえず恭順示す奴は放置
いちいち息の根止めるまでやっていたら明治維新が遅れてしまう
26:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 01:46:24.72 ID:.net
慶喜って大阪城からよく脱出できたな。
それも守護職だの所次第だの老中だの足手まといを連れて。
28:日本@名無史さん:2015/03/01(日) 12:09:01.97 ID:.net
>>26
当時の幕府首脳は慶喜の完全独裁状態だぞ。
慶喜について来いと言われて逆らえるような奴は存在しとらん。
30:日本@名無史さん:2015/03/15(日) 15:50:37.76 ID:.net
血統と名門意識だけの義昭 名護屋に参陣、完全に秀吉の軍門に下る
運と実力の慶喜 名誉回復され、宗家とは別に公爵となる
32:日本@名無史さん:2015/03/17(火) 15:39:43.35 ID:.net
>>30
それを言ったら慶喜も血統と名門でしょ
母親は皇族
戊辰戦争の東征大総督で後に元老院議長となった
有栖川宮熾仁親王はいとこの子
34:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 08:48:02.57 ID:.net
>>32
家康の男系男子だから将軍になったわけで、
母方の血統で将軍になったわけではないでしょうが
38:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 17:46:13.89 ID:.net
>>34
慶喜は実力で名誉回復されたわけじゃないでしょ
明治になってから公爵にまで戻れているのは
親族に皇族がいたことも考慮されたはず
37:日本@名無史さん:2015/03/18(水) 16:27:49.23 ID:.net
慶喜の行動はきわめて予測しにくい
何を考えてんだか周囲に分からん
独裁者というより個人プレー好き

政治家で言うと菅直人のわけの分からなさに似ている
小政党から成り上がった権力者ってああいう個人プレー行動が多い
45:日本@名無史さん:2015/04/17(金) 14:10:03.67 ID:.net
義昭が将軍職に拘り続けたのは野心よりもっと現実的な、生きていく為の
唯一の術だっただけって気もするけどな・・・
室町幕府15代将軍と言う肩書きが有ったからこそ実質的に幕府が潰れた後
でも諸大名などが世話をした。
義昭と言う貴種を抱え込むのは名物珍宝を手にするのと変わらない感覚
だったような気もするけど。。。
51:日本@名無史さん:2015/05/24(日) 19:02:22.22 ID:.net
>>45
あっちこっちの大名が手を焼いてたし「名物珍宝」は違うだろ
織田も毛利も義昭を上洛の理由にしたかっただけ
天下は自分が欲しかっただろうから
55:日本@名無史さん:2015/05/29(金) 11:34:12.85 ID:.net
慶喜はもう幕府が日本を支配していてはダメだということが
根底で分かっていたからな。
だからあんな負け方をしたんだと思う。
マジで戦っていれば、数年間の内戦になるのは間違いない。
でもそうなっていたら、間違いなくイギリスに介入されて占領されていたと思う。
56:日本@名無史さん:2015/06/12(金) 20:33:35.90 ID:.net
>>55
倒幕・イギリスと佐幕・フランスで大混乱、今の日本は無かったかもな
57:日本@名無史さん:2015/06/16(火) 17:50:19.78 ID:.net
>>56
いまだにそんな図式を持ってるのは無知の証拠
日本における列強の力関係はイギリスが断然優位にありロッシュは危機感を持ち個人的に幕府に接近しただけ
だから本国から更迭されウトレー公使は再び英仏協調路線に戻ってる

慶喜が大政奉還を行った意図は色々あるが政令一途という目的が一番大きいだろ
何とか兵庫開港までは個人プレーで乗り切ったものの、ガチャガチャ議論してたら対外政策の一元化ができなくなる
その後の政体でも慶喜の個人的能力や声望にかなう人物はいないわけで、徳川家による世襲継続という目的は希薄だろうね
58:日本@名無史さん:2015/10/20(火) 23:05:40.31 ID:.net
あっさり身を引いた慶喜
未練たらたらの義昭
59:日本@名無史さん:2015/10/23(金) 03:09:54.11 ID:.net
朝敵・逆賊認定されて一気に萎えたという
60:日本@名無史さん:2015/10/26(月) 22:39:53.34 ID:.net
足利幕府の最盛期より、徳川幕府の末期の方が勢力としては大きかった。
61:日本@名無史さん:2015/11/05(木) 04:43:44.82 ID:.net
>>60
足利幕府は直接的に領土はほとんど無く、自分の家来の守護大名が支配し
その上に君臨している将軍だったが
徳川幕府は自分も直轄地という、家来の大名よりも大きな領土を支配し
さらに上に君臨する将軍で

その支配構造を見ると、そう思ってしまうが
幕末の徳川は長州藩を攻めたが負けてしまった
しかし足利全盛期の義満は、長州以上の領土であった大内や山名を討ち取った
これを考えると、支配力という点においては足利全盛期の方が上でしょう

日本の歴史上足利幕府ほど頼りない支配者はいなかった
設立当初から南北朝の動乱で、ようやく治まっても戦争多発
真ん中当たりから戦国時代になり、日本中のほとんどが足利幕府の言う事を聞かない状態
将軍は京にいる事も稀になり、多くが放浪将軍
ようやく義昭が信長というパトロンを頼り京へ上洛できたが
住むとこもなく信長に二条城をつくってもらいながらも信長に反抗
支配者としてのノウハウやモラルもあったもんじゃない将軍であるが
歴代足利将軍も、兄弟や父息子た争い似たようなのばかり
こんなんでも徳川幕府と同じく15代続き、年数もほぼ同じ
ある意味凄い幕府だったと思ってしまう
65:日本@名無史さん:2015/11/05(木) 20:52:03.41 ID:.net
義昭は根性とプライドはすごかったろうねえ
仕えた家臣が大変そう

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