1200px-Boshin_war.svg
戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
1:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/01(木) 15:22:02.20 ID:4Zvnaal60.net
みんなで検証しよう


引用元
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1541053322


2:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/01(木) 17:17:08.00 ID:ihi+L9zo0.net
簡単なことやん
錦旗かかげられてもそのまま戦えば勝てた

慶喜が江戸に逃げ帰った後でさえも箱根で正面を幕府陸軍、後方を幕府海軍を使い部隊を上陸させ挟み撃ち
オマケに中腹を艦砲射撃
これで完勝

鳥羽伏見の最中に幕府海軍で薩摩に上陸しても勝てる

つかまともに戦ってさえいたら幕府が負けることなんてない
3:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/01(木) 17:35:06.40 ID:4Zvnaal60.net
>>2
確かに幕府海軍をうまく使えば勝てたと俺も思う
慶喜が錦の御旗を掲げられて怖気づいちゃったってのが一番の敗因かな
だとしたら錦の御旗を上げられる前に勝負をつけるべきだったかもな

思うに勝敗のポイントは


1.錦の御旗が上がる前に京都御所を抑える


2.大阪城で徹底抗戦→江戸から幕府海軍を呼ぶ


3.小栗上野介の箱根決戦案を受け入れる


この辺にあったと思う
おまえらの意見を聞きたい
7:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/01(木) 21:26:10.89 ID:3dFxkaBo0.net
>>3
それ幕府神話じゃね
幕府軍は別に錦の御旗で撤退したわけでなく戦況不利を悟って撤退したんで
大阪城に籠っても周りの諸藩は続々寝返って不利になる
小栗上野介の箱根決戦案も箱根に来る官軍に対してはやれても他方面から進んでくる官軍には何の策もないし
12:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 10:49:29.27 ID:Ye8ylsFn0.net
>>7
幕府がちゃんと組織だって抵抗抗戦したら新政府側は軍資金がつきて終わり

寝返った諸藩どころこか朝廷までテノヒラクルーでそうなったら薩長見捨てて幕府につく

そもそも鳥羽方面の撤退は幕府軍がそこで戦闘する気もない行軍モードで勃発したものだからもともな指揮官が現場にまだいないとき

しかも鳥羽伏見に参戦した幕府陸軍は全体の一部にすぎず
幕府近代陸軍部隊は江戸開城までほぼ無傷で残ってる
8:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/01(木) 22:10:59.72 ID:tRvn2qsZ0.net
幕府海軍って悪天候と勝手に沈んでるイメージしかないんだけどな・・・
9:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 01:50:13.77 ID:v2KDG4vT0.net
戊辰戦争はさすがに無理だろ。仮にプロイセンに北海道割譲して
資金・武器援助を受けたとしても間に合わないよ。
11:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 07:11:02.67 ID:r7IiUNDI0.net
幕府軍の指揮官がへたれだったから負けたんだよな
有能な指揮官がいたらな
20:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 12:53:36.67 ID:zU1WvN3C0.net
>>11
指揮官って徳川慶喜のこと?
21:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 18:22:39.24 ID:zM3z27RA0.net
>>20
竹中重固とかの現場指揮官だよ
人数の上では有利なのに人数を活かした戦術が取れなかったってことよ
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いでは主戦派として伏見奉行所へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、彰義隊の支部隊として新政府と交戦した。彰義隊の敗退後は輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦し、のちに蝦夷共和国の海陸裁判所頭取に就任した。明治2年(1869年)、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、5月28日、養父竹中図書の薦めにより投降した。

維新後は領地没収・除族のうえ、福岡藩預り、のちに竹中家預りに処される。明治4年(1871年)、養父重明とともに北海道に入植する。明治5年(1872年)、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出。明治6年(1873年)に東京府に出仕したが、明治8年(1875年)に辞職。その後は実弟元賀が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力した。

13:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 20:12:17.64 ID:3DeKBjMd0.net
その幕府近代陸軍部隊はどのくらいの戦力だったんだろうな
箱根で尾張やら東海諸藩を取り込んで膨れ上がった新政府軍を迎え撃ったとして勝てるのか?
14:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 23:25:35.20 ID:7cBYbcSC0.net
肥前さえ味方に引き入れられたら、割と簡単に勝てたと思っている武器廚はけっこういるはず。
17:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 04:35:09.48 ID:XZuL9mX20.net
>>14
長州征伐で少しはやる気のあった肥前が
幕府の無能な指揮官のせいでやる気なくしたからな
長州征伐で愛想をつかしてるだろう
16:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/02(金) 23:42:15.19 ID:4qRPNAf00.net
慶喜が幕府を一枚岩にして手足のごとく指示が出せたなら勝てただろうし
そうでないから負けたとしか言いようがない
18:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 12:23:56.37 ID:n7uHKL8w0.net
そもそも慶喜本人が改革派で守旧派嫌いなのにその慶喜を頭に守旧派を率いて改革派打倒とか土台無理だろ
井伊のクソバカがやらかした時点で幕府は信望も権威も失墜して事実上崩壊幕臣ですら三遠駿三州以外返上して退くべきと言い出してるのに
19:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 12:29:02.39 ID:n7uHKL8w0.net
どうせやるならペリー相手に旗本八万騎(笑)でバンザイ突撃したほうがマシ
朝廷には攘夷しましたと言い訳できるし無能な守旧派は敗戦の責任とらせて全部改易切腹させれば改革開放の障害もなくなる
23:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 19:40:34.68 ID:J0uEfPyA0.net
官軍もやる気ない軍隊だったけど先鋒に薩長土の軍隊使ってたから強かったんだよな
24:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 21:20:15.94 ID:NL1BaQ1h0.net
戦術論なのか戦略論なのか。
それとも、そもそも論を展開していけばよいのか。
前提条件なしに論ずるのは難しくない?
話を絞るなら鳥羽伏見の戦いだけにした方が分かりやすいし、話易くない?
25:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 21:32:42.44 ID:eZj0sbIr0.net
兵隊なんか敵から攻撃されたらビビッて逃げ出すもんだし
味方が攻勢だとしれば調子にのって飛び出すもんだよ
精鋭部隊でもなきゃ個々の兵員のやる気など大した差ではない
26:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 21:47:19.02 ID:J0uEfPyA0.net
結局は兵の強さは指揮官次第だよな
指揮官が的確な戦術や補給をとれるかどうか
27:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 22:20:10.58 ID:gw9VG8a20.net
そもそもアンチ長州だった薩摩をコントロール出来なかった時点で終わり
京都守護職を言い出しっぺの薩摩に押し付けられていれば歴史は変わっていた
29:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 00:28:42.82 ID:f8KRmJiK0.net
最初の長州征伐の処分が甘かった
10万石くらいに減封してれば
さすがに幕府軍が勝てただろ
36:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 13:20:30.10 ID:YaRyWPUc0.net
>>29
たしか最初の長征で10万石減封されてるよな長州は
形式上は

実行はされてないようだが
つか幕府がそれをやれる力すらもはやなかったので形式上の取り決めとしてあるだけで実行できなかったとか
30:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 02:36:21.21 ID:MsEstZ3z0.net
大阪までの撤退遅延戦は割と頑張ったと思う。
33:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 07:30:56.58 ID:dXsQzxGy0.net
>>30
何がなんでも京都を出るべきではなかったと思うわ
帝を取られたから錦の御旗を上げられたしな
薩摩に容易に御所を抑えられたのが問題だわ
34:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 08:11:48.63 ID:rNPXjMJp0.net
幕府が追い詰められてじゃなく、最初から大政奉還して一諸侯に戻れば良かった
そうすれば薩長や諸藩の心証も良くなったろうし
将軍ではなくなるが領地が削られるわけでもなんでもないから、幕府は無くなるが別に害はない
35:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 12:33:16.22 ID:xIVeNujC0.net
ふと気付いた
「幕府が史実より早く降伏しても、薩長が会津をボコりたい限り戊辰戦争は発生する」
37:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 13:33:15.47 ID:dXsQzxGy0.net
実行できないって
幕府直轄領の石高が400万石
旗本領が約400万石で合計800万石って言われてるのに
旗本八万騎はどうしてたんだろうな
40:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 15:33:59.93 ID:MsEstZ3z0.net
旗本8万騎も江戸中期以降は官僚や事務処理集団に変貌を遂げてしまったから...
41:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 19:22:53.20 ID:dXsQzxGy0.net
小栗上野介を鳥羽伏見の現場指揮官にしてれば勝てたかもな
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある[45][46]。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたが[47]、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採った。

42:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/04(日) 19:31:31.56 ID:rNPXjMJp0.net
小栗逸話も嘘くさいけどね
箱根で待ち伏せ→勝海舟にも同じ様な逸話がある
小栗の策が入れられれば自分の首は無かったと大村が言った→大村はそもそも江戸攻めの時官軍に居ないから言うはずがない
48:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/05(月) 08:37:01.37 ID:fh1/tA3J0.net
なんとなくだけど鳥羽伏見の戦端が開かれなければ慶喜の勝ちが確定みたいな
50:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/05(月) 14:27:12.21 ID:uBxYMpfY0.net
>>48

その発想はなかった
51:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/05(月) 14:39:25.12 ID:UU0zWjws0.net
>>48
引き伸ばしが過ぎても
薩摩が密貿易で資金と軍備蓄えてくからなぁ…
53:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/05(月) 19:56:28.35 ID:grfoNI050.net
>>48
慶喜は新政府入り確定
薩摩の強硬論は孤立していた
長州でさえ引いてた位
52:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/05(月) 19:50:06.10 ID:Iwn30HpF0.net
八重の桜見て思ったんだが
山本覚馬が長崎で購入を約束した新式銃が届いてれば大分違ったんじゃないの?
会津・桑名に1300挺、紀州に3000挺らしいから
薩長に負けない火力で鳥羽伏見を有利に進められたんじゃないかと思う
1867年3月に購入の約束して届かないなんてどんだけ待たされてんだよ
55:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 03:24:39.84 ID:SVgJ86620.net
>>52
つかそれって史実なん?
57:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 03:38:03.04 ID:8KIz5yTy0.net
>>55
史実だよ
結局この銃は明治2年になって神戸に届くけど
明治政府が買い取ってる
スペンサー銃って言って元込め式で射程も800mあって7連発できる代物だわ
薩長の銃よりも数段格上
スペンサー銃(スペンサーじゅう)、スペンサー連発銃(スペンサーれんぱつじゅう、英:Spencer repeating rifle)は、管状弾倉装填式のレバーアクションライフルである。

南北戦争中の北軍、特に騎兵隊に採用された。しかし当時の標準装備である前装式ライフルマスケットを置き換えることはなかった。 設計は、1860年にクリストファー・スペンサーによって完成した。それは.56-56スペンサーリムファイアカートリッジを使用する、レバーアクション式連発ライフルのための設計だった。後のカートリッジ表示と異なって、最初の数は薬莢後部(リムの直前部分)の直径について、2番目の数が薬莢前部の直径について言及していた。実際の弾丸直径は0.52インチだった。カートリッジには45グレイン(2.9g)の黒色火薬を充填していた。

カートリッジには.56-52、.56-50もあり、.56-46のバージョンさえ少数が作られた。それらはオリジナルの56-56のネックダウンバージョンであった。カートリッジの長さは作動機構によって約1.75インチに制限された。 そして後期の口径は、オリジナルの.56-56以上に威力と射程を増すために、より小さい直径、より軽い弾丸、より多い装薬量を用いた。それらは当時の口径0.58インチのライフルマスケットとおおよそ同じくらい強力であったが、.45-70と.50-70ガバメント弾のような他の初期の実包の規格によっては威力不足だった。





エンフィールド銃(エンフィールドじゅう、Enfield Rifle Musket)とはイギリスのエンフィールド造兵廠で開発されたパーカッションロック式の前装式小銃(施条銃)である。弾丸の形状が若干異なるがミニエー銃に分類される。1853年から1866年までイギリス軍の制式小銃として使用され、53年型、58年型、61年型などのバージョンが存在するほか、銃身長の異なるタイプ(2バンド・3バンド)が製造された。1866年以降は一体型の実包を使うスナイドル銃(Snider-Enfield)への改造が進められた。日本では幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。

58:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 08:03:13.18 ID:gy3IUJ2J0.net
>>57
調べてみると欠点かなり多いぞ
59:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 08:15:53.79 ID:YDdQWi5p0.net
連射ができても実包まで輸入だから弾薬供給が
足りないというのが最大のネックだったみたいね
61:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 20:14:28.21 ID:UiaRo6060.net
スペンサー銃って騎兵銃だから寝転がって撃てないしな
薩長より優れたシャスポー銃持ってた旧幕府軍が負けてるんだから銃器の差は意味ないわ
シャスポー銃(シャスポーじゅう、Chassepot、正式にはFusil modele 1866)は、1870-1871年の普仏戦争で使用されたフランス軍のボルトアクション後装式歩兵銃である。

軍用ライフルの歴史において大きな進歩を残した先発のドライゼ銃を参考に、第二帝政を象徴する先進的な技術を用いて製造され、前装式のミニエー銃を旧式化させて取って替わったが、紙製薬莢を使用する技術的な限界のために金属薬莢の登場で旧式化し、金属薬莢を使用するグラース銃 (Fusil Gras mle 1874) へ改造された。

幕末の日本においても、シャスポー銃が(旧日本軍の記録には“シヤスポー”と記されている)ナポレオン3世から徳川幕府に贈呈され、当時最新鋭の銃器とされた経緯や、金属薬莢式へ改造されたシャスポー/グラース銃を国産化する計画が進められた結果、日本初の国産小銃となった13年式村田銃が誕生した事などから、倒幕派の主力だったエンフィールド銃・スナイドル銃と並んで、日本とも縁の深い銃である。

62:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 21:50:46.05 ID:Zay6b/mW0.net
シャスポーの紙薬莢が湿気るとかゴム部品不足で函館に着く頃には相当数破棄されたとか
63:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/06(火) 22:15:21.39 ID:8KIz5yTy0.net
やっぱり兵の練度と指揮官の差かね
65:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 00:36:08.87 ID:VslufSov0.net
長州の桂太郎とか、薩摩の大山格之助が庄内藩に連戦連敗だったのは、庄内藩がスペンサー銃を持っていたからなのかもね。

このスペンサー銃だけど、200挺と弾薬1万発以上を津軽藩に渡して奥羽列藩同盟から離脱しないでね…とやったけど
結局ぶんどられて、新政府側の秋田藩とかで使われた。

ところが、秋田藩は上手く活用できないんだよ。やはり、戦闘訓練加味で運用しないとねえ。
66:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 01:23:09.63 ID:VslufSov0.net
スペンサー銃なら、長崎振遠隊もスペンサー銃だな。
秋田の角間川で長崎振遠隊と庄内軍のスペンサー銃同士の戦いになる訳か。

この戦いでは、結果的に囮作戦みたいな形になって、新政府側が大打撃を受けて負けてしまうんだけどね。
振遠隊(しんえんたい)は、明治時代の初期、長崎裁判所に所属した官軍の部隊[1]。その前身は、江戸時代末期に長崎の町の治安を守るために組織された警備隊である。明治維新後に改称され、明治政府の指揮下に入った

74:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 20:23:57.00 ID:JjVi9S4+0.net
庄内藩みたいな強い藩が鳥羽伏見に参加してれば状況も変わっただろうな
75:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 23:39:48.03 ID:SVEal4S60.net
そうやって大事な戦いを他藩任せにするような根性が幕府を滅亡に追いやったんだゾ
76:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/08(木) 01:10:10.49 ID:3gTzrZNS0.net
うーん。一応庄内藩は譜代大名だからなあ。

つーか、庄内藩が挑発に乗らず薩摩江戸藩邸焼き討ちをしなきゃ、鳥羽伏見は無かった訳で…
まあ、敗戦後の西郷の庄内藩に対する寛大な処置にも繋がるんだけどね。
78:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/08(木) 09:15:15.76 ID:AhshICq90.net
焦土戦術とフランスへの介入要請。

植民地化される可能性が高まるが。
86:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/09(金) 21:26:34.32 ID:o3Gt5nGm0.net
家康亡きあとの徳川家はじつは圧倒的に戦に弱い最弱軍団。
長州か薩摩かどちらかを味方にしないと勝てないんじゃないか?w

第二次上田合戦
徳川(秀忠)3万8千 対 上田城(真田)2千5百
敗北

島原の乱
徳川 13万  対  原城(天草四郎以下農民) 3万7千
農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝

第二次長州征伐
徳川 15万  対 長州 3千
敗北

鳥羽伏見の戦い
徳川 1万5千  対 薩長土 5千
敗北
106:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 20:52:39.52 ID:qjZQzUIK0.net
>>86
流石に大塩平八郎の乱には勝ったか。
107:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 21:32:40.37 ID:L0Zzgvy20.net
>>86
天狗党にも判定負けしてません?敦賀までの進軍許してるし
95:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 18:54:51.97 ID:lWMqV6Br0.net
実際、尾張とかってどのくらいやる気があったんだろうな
代々将軍家とはあまり仲良くないから
こういうチャンスがあれば朝廷側につくつもりだったんだろうか
勤皇派を粛清してるし
96:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 21:52:59.00 ID:Vqd3ZDX20.net
>>95
それどころか尾張江戸間の大名や神社仏閣に新政府軍に逆らわないように書状送って進軍の助けをするという
山内一豊みたいな事やってんぞ
102:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 18:50:07.26 ID:MnfyNsol0.net
大政奉還の後に朝廷の決定待ってれば良かっただけ
そうすれば岩倉が出した慶喜の議定就任は確定的だった
それが朝廷の命令無視して大軍で上洛し鳥羽伏見起こして朝敵になった
103:名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 18:56:28.84 ID:L0Zzgvy20.net
>>102
まさにそれ