室町幕府の存在意義
1:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 18:26:04 ID:.net
鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、
存在の薄い室町幕府。
マイナーな存在である室町幕府について語りましょう。
存在の薄い室町幕府。
マイナーな存在である室町幕府について語りましょう。
2:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:12:47 ID:.net
マイナーかな?
3:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 01:11:48 ID:.net
室町幕府は鎌倉幕府の体制に対する反動にしか過ぎなかったから
11:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 10:24:42 ID:.net
>>3
反動というより、得宗専制の事実上の簒奪を企んだ朝廷・足利家双方の企みが共に空中分解して挫折した政治的機能不全と言うべきではなかろうか。
反動というより、得宗専制の事実上の簒奪を企んだ朝廷・足利家双方の企みが共に空中分解して挫折した政治的機能不全と言うべきではなかろうか。
4:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 11:40:28 ID:.net
地方が好き勝手やってた時代
5:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 14:47:01 ID:.net
室町幕府がボロボロになって、かつそのままで引っ張ってくれなかったら、織田信長始め、近世の新たな担い手が現れなかった。
つまり、ダメダメでもしばらく存在だけがあったのが、日本の近世を開いたといえる。
さっさと滅びていたら、うまく信長・秀吉・家康に繋がらなかった。
つまり、ダメダメでもしばらく存在だけがあったのが、日本の近世を開いたといえる。
さっさと滅びていたら、うまく信長・秀吉・家康に繋がらなかった。
6:ザビエル(゜ゝ゜)つ†:2007/05/13(日) 22:01:30 ID:.net
義昭の存在は大きいですね
7:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 19:32:44 ID:.net
美術品とかよくない?
8:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 08:49:56 ID:.net
政治的な諍いが多い割には文化は花開いた時代だよね
10:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 05:49:59 ID:.net
文化面ではやっぱり義政が政治に興味失ったのがプラスになったよね
まあ応仁の乱のせいで貴重な文化遺産が灰燼に帰したけど・・・
まあ応仁の乱のせいで貴重な文化遺産が灰燼に帰したけど・・・
12:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 04:31:57 ID:.net
確かに尊氏はともかく、直義の理想は時頼・時宗時代の得宗専制だからなぁ・・・
でも義満や義教の時代には、持ち直すチャンスはあったんだよね
でも義満や義教の時代には、持ち直すチャンスはあったんだよね
13:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/05/21(月) 22:32:50 ID:.net
室町幕府にはな、国家財政を貯える金蔵が一個もなく直轄地も少なかったくせに
近代以前でもっとも貨幣流通に特化した財政構造と莫大な運用を可能にし
まがりなりにも200年にわたり幕府を維持できたのだがなぜかわかるか?
職能民の存在がキーポイントなんだよ
近代以前でもっとも貨幣流通に特化した財政構造と莫大な運用を可能にし
まがりなりにも200年にわたり幕府を維持できたのだがなぜかわかるか?
職能民の存在がキーポイントなんだよ
14:大内義隆:2007/06/04(月) 21:31:01 ID:.net
幕府の大黒柱は細川だ!
幕府直轄の兵は8000
細川方は12000
幕府とは細川、畠山、斯波、山名、赤松、京極、一色の物だ!
幕府直轄の兵は8000
細川方は12000
幕府とは細川、畠山、斯波、山名、赤松、京極、一色の物だ!
15:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/04(月) 22:08:54 ID:.net
あー、だから関東地方はいち早く戦国時代に突入した訳か…
16:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 04:51:04 ID:.net
古代天皇家とて、決して直轄の兵力は多くなかったはず。
蘇我、物部、有力豪族の専横に悩まされていた。
徳川政権が、例外的に巨大だったために少々矮小に見えるだけだとオモフ
蘇我、物部、有力豪族の専横に悩まされていた。
徳川政権が、例外的に巨大だったために少々矮小に見えるだけだとオモフ
17:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 09:09:27 ID:.net
徳川は鎌倉と室町 ついでに秀吉の失敗をみて体制をつくっているわけだから
尊氏だって鎌倉の失敗は教訓にしてるでしょうね
それが執権→管領・四職への権力分化なのかな
尊氏だって鎌倉の失敗は教訓にしてるでしょうね
それが執権→管領・四職への権力分化なのかな
18:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 18:46:23 ID:.net
関東には鎌倉公方なるものをおいて、
自分の息子を遣わし、
母方の親族上杉氏を関東管領なんかに任じて、
逆に争いの火種になってるな。
将軍争い、管領争い、いろんなのが絡まって、
応仁の乱に発展する。
自分の息子を遣わし、
母方の親族上杉氏を関東管領なんかに任じて、
逆に争いの火種になってるな。
将軍争い、管領争い、いろんなのが絡まって、
応仁の乱に発展する。
20:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 10:35:45 ID:.net
>>18
特定の一族に官職を任せたのが、結果的には混乱の原因に
それを見て江戸幕府は譜代全体に分散させた
鎌倉 執権・連署・六波羅など=北条
室町 管領・侍所頭人・関東管領など
=細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松・上杉など
江戸 老中・京都所司代・若年寄など=譜代各家
特定の一族に官職を任せたのが、結果的には混乱の原因に
それを見て江戸幕府は譜代全体に分散させた
鎌倉 執権・連署・六波羅など=北条
室町 管領・侍所頭人・関東管領など
=細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松・上杉など
江戸 老中・京都所司代・若年寄など=譜代各家
23:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 10:53:51 ID:.net
なかなか優秀だった義教が殺されてしまったのが最大の分岐点だったな
そのせいで義勝義政と子供将軍が続いて将軍の権力低下
そのせいで義勝義政と子供将軍が続いて将軍の権力低下
31:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 22:21:07 ID:.net
まあ神聖ローマ帝国のようなものだったのだろうね。
33:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 14:25:02 ID:.net
鎌倉 江戸 安土桃山は 地名からでしょうが
室町 って 何なの ?
室町 って 何なの ?
36:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 21:05:05 ID:.net
>>33
地名だよバカ
地名だよバカ
室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。
42:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:53:44 ID:.net
>>36
御所が室町に置かれたのは義満の時代ですから、語弊がありますね。
とはいえ、ひとまずはこれで通すしかない。
御所が室町に置かれたのは義満の時代ですから、語弊がありますね。
とはいえ、ひとまずはこれで通すしかない。
室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。この将軍の居所にちなんで足利将軍(家)の事を「室町殿(室町家)」と呼ぶ時もある。更に古くより将軍の居所は「幕府」と呼ばれる事があり、すなわち「室町幕府」である。江戸時代中期より武家政権の名前として幕府の用語が使われるようになり、足利家の政権を「室町幕府」と呼称するのはこれに由来している。また、北小路室町にあることから北小路亭とも呼ばれた。ちなみに北小路とは現在の今出川通のことである。南北朝時代、後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉[† 1]に住み、2代将軍の足利義詮は父の命で鎌倉から京都に戻った際に足利直義が住んでいた三条坊門第に入った。この時の邸宅は観応の擾乱で焼失したために近くに仮の邸宅を置いていたが、将軍就任後に元の三条坊門第は、直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のことである。花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まる。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。
38:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 13:11:26 ID:.net
古今、有名な武将は数多いが
楠木正成は別格だろう
湊川の戦いとかな
国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
皇居内に銅像が建立されたのはこの人だけだし
楠木正成は別格だろう
湊川の戦いとかな
国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
皇居内に銅像が建立されたのはこの人だけだし
42:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:53:44 ID:.net
>>38
>国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
こうしたイメージは後世の創作でしょうね。
田舎育ちで利益を考えないと生き残れない立場にいた男に、尊皇云々という
ご立派な概念が存在したとは、考えられません。
銅像が立つまでの間に、理屈が色々とついてきたようですが。
尊皇か否かを考えて陣営を決めていた者など、いなかったでしょう。
>国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
こうしたイメージは後世の創作でしょうね。
田舎育ちで利益を考えないと生き残れない立場にいた男に、尊皇云々という
ご立派な概念が存在したとは、考えられません。
銅像が立つまでの間に、理屈が色々とついてきたようですが。
尊皇か否かを考えて陣営を決めていた者など、いなかったでしょう。
39:ドン・ウーゴ ◆eaYqa3SeLE :2007/09/16(日) 20:19:55 ID:.net
鎌倉時代だったかもしれないけどなんでみんな急に烏帽子取るようになったの?
戦前カンカン帽被ってたのが戦後になって被らなくなった的な力が
当時の日本社会にも働いてたわけ?
戦前カンカン帽被ってたのが戦後になって被らなくなった的な力が
当時の日本社会にも働いてたわけ?
42:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:53:44 ID:.net
>>39
観応2年(1351)の時点で烏帽子を着用しない例が見えていますが、こ
れが広まるのは、15世紀以降ですね。
はっきりこれと言える訳ではありませんが、烏帽子を着用して兜を着用する
場合、兜の上にある天辺穴に烏帽子を差し込んでいました。
これが、時代が下ると縮小するようになっており、烏帽子をつけず、乱髪に
して兜を着用する習慣が広まりました。
『慕帰絵』に描かれている烏帽子を着用していない人々が高位には見えない
こと、下層階級は元々兜を着用する必要がなかったことがひっかかりますが、
上層がハレの場以外で烏帽子をつけなくなり、下層もそれに習って一般化し
たのかもしれませんね。
なお、九州の菊池氏は、鎌倉時代には烏帽子なしで兜をつけていました。
観応2年(1351)の時点で烏帽子を着用しない例が見えていますが、こ
れが広まるのは、15世紀以降ですね。
はっきりこれと言える訳ではありませんが、烏帽子を着用して兜を着用する
場合、兜の上にある天辺穴に烏帽子を差し込んでいました。
これが、時代が下ると縮小するようになっており、烏帽子をつけず、乱髪に
して兜を着用する習慣が広まりました。
『慕帰絵』に描かれている烏帽子を着用していない人々が高位には見えない
こと、下層階級は元々兜を着用する必要がなかったことがひっかかりますが、
上層がハレの場以外で烏帽子をつけなくなり、下層もそれに習って一般化し
たのかもしれませんね。
なお、九州の菊池氏は、鎌倉時代には烏帽子なしで兜をつけていました。
40:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 23:51:13 ID:.net
初めての切腹とか胸のお守りに命を救われるとか
いろいろあったんだが
いろいろあったんだが
42:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:53:44 ID:.net
>>40
切腹自体は、『保元物語』の内記平太、『続古事談』の藤原保輔、『平家物語』
の源頼政、『承久記』の伊賀光季などが行っています。
自殺=切腹や、その作法が定着したのは、室町時代でしょうが。
義満の時代に成立したらしい『義経記』に、切腹のやり方を尋ねる場面があり
ますが、この頃はまだ切り方はそれぞれ異なったらしい。
切腹自体は、『保元物語』の内記平太、『続古事談』の藤原保輔、『平家物語』
の源頼政、『承久記』の伊賀光季などが行っています。
自殺=切腹や、その作法が定着したのは、室町時代でしょうが。
義満の時代に成立したらしい『義経記』に、切腹のやり方を尋ねる場面があり
ますが、この頃はまだ切り方はそれぞれ異なったらしい。
47:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/19(水) 07:50:03 ID:.net
要するに、烏帽子(体面)に合わせて兜をつくるより、兜(現実)に合わせ
て頭部を改良する必要に迫られた結果、烏帽子は儀礼用にとどまったのでは
ないかということです。儀礼用には明治まで続きましたからね。
て頭部を改良する必要に迫られた結果、烏帽子は儀礼用にとどまったのでは
ないかということです。儀礼用には明治まで続きましたからね。
49:名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 16:57:09 ID:.net
室町時代は平安末期に似ていると思います。
歴史に中心に公家がいて武家がいて、
鎌倉や江戸の関東中心の単純な歴史じゃないから興味深いです。
この時期の関東は鎌倉府の鎌倉公方が古河に移り、安定していませんね。
武士の中心である関東が、どこにでもある一地方に転落した、
関東人にとっては面白くない時代かもしれません。
歴史に中心に公家がいて武家がいて、
鎌倉や江戸の関東中心の単純な歴史じゃないから興味深いです。
この時期の関東は鎌倉府の鎌倉公方が古河に移り、安定していませんね。
武士の中心である関東が、どこにでもある一地方に転落した、
関東人にとっては面白くない時代かもしれません。
52:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 02:48:27 ID:.net
戦国時代はいらない
室町時代後期で十分
戦国時代も室町将軍いるじゃん
室町時代後期で十分
戦国時代も室町将軍いるじゃん
54:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 15:20:15 ID:.net
いやむしろ室町時代は応仁の乱で終わってくれた方がすっきりした
56:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2008/01/05(土) 22:23:23 ID:.net
むしろ室町時代を戦国時代に含めるべきだと思うんだ。
58:山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2008/01/06(日) 15:41:01 ID:.net
戦国時代は応仁・文明の乱以降と言われていましたが、最近では明応の政変
以降とされていますね。
以降とされていますね。
明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。
59:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 07:14:17 ID:.net
室町幕府がどれだけ政治的主導権をもっていたかという観点で指導権をなくした時点から戦国時代という見方と
戦国大名がどれだけその立場を強めたかという観点でその台頭の度合いから考えていく場合と、両方の見方があると思われますね。
つまり、室町幕府の実質破綻をもって室町時代の事実上の終焉=戦国時代 とするか、
戦国時代の開始をどこに求めるかということでしょう。
前者なら、明応の政変
後者なら戦国大名の台頭をどこに求めるか。例えば最初の戦国大名を誰とするかとか。
朝倉氏の台頭とするか、北条早雲(伊勢宗瑞)の対応とするか、など。
戦国大名がどれだけその立場を強めたかという観点でその台頭の度合いから考えていく場合と、両方の見方があると思われますね。
つまり、室町幕府の実質破綻をもって室町時代の事実上の終焉=戦国時代 とするか、
戦国時代の開始をどこに求めるかということでしょう。
前者なら、明応の政変
後者なら戦国大名の台頭をどこに求めるか。例えば最初の戦国大名を誰とするかとか。
朝倉氏の台頭とするか、北条早雲(伊勢宗瑞)の対応とするか、など。
66:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 22:55:49 ID:.net
室町幕府がなかったら日本の歴史はどうなったかを考えてみよう。
そうすれば存在意義が明らかになる。
そうすれば存在意義が明らかになる。
67:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 00:31:43 ID:.net
「室町時代」なら、その後の庶民の生活文化の基となるものが多数生まれた時代として重要だったりするね。
精神文化の面でも鎌倉新仏教がかなり浸透しはじめたし、禅思想による芸術・芸能とか。
けど、「室町幕府」となるとなぁ・・・
あんまり思いつかんな
なんか画期的な政策とかあったっけ?
関連記事室町幕府とかいう日本中世史をつまらなくした大戦犯室町幕府の影の薄さは異常精神文化の面でも鎌倉新仏教がかなり浸透しはじめたし、禅思想による芸術・芸能とか。
けど、「室町幕府」となるとなぁ・・・
あんまり思いつかんな
なんか画期的な政策とかあったっけ?
コメント一覧
正確には戦乱期であって、時代区分ではない
誰だ戦国時代なんて言い出したヤツは
室町幕府が守護の権限を段階的に強化
武家と公家の領地(郷や保)が混ざり合ってた日本を改善
そのお陰で鎌倉時代とは比較にならないほど洗練された土地支配が可能になった
立派な大名たちを育んだのが室町幕府
初代と流れが違う平氏が政治の主導権を握ったり無茶苦茶感はある
それが室町幕府に尾を引いた感はあるな
逆に義満は天皇を超えようとした簒奪者みたいなキャラは過大評価だって言われてきてる
安定という意味じゃ京に近い方が良いんじゃとか思ってしまう
執権北条や徳川は公家と敵対して終わった感じだし
東夷ならともかく河内国で教育を受けられる層なら尊王の気持ちがあってもおかしくはない
皇国史観の逆張りで当時の人間の行動を自己利益で説明するのは薄っぺらいわ
キャラが濃い人多くて面白い 婆娑羅武将の佐々木道誉のどっち付かずの微妙な立ち居振る舞いが面白い
たしかに当時の河内は大都会だが
とは言え楠木正成はその他の血統確かな有力武将連中と違って氏素性身分すら曖昧だからな
戦は強いけど、教育が受けれるような上流階級の出身ではなさそうなのがなんとも
と言うか北畠顕家がチートすぎる
楠木正成以上の化物。なにあれ?ホントに人間?
あれで暗殺(?)されていなければ今の天皇の地位は大きく変わっていたのかと。
なんたって自分のセガレを天皇にしようとしたんだからね。
はじめから時限爆弾かかえてるようなモノなんですよ
中央集権化したいなら播磨へどうぞ
戦乱期を時代区分にして何か問題ありますかね
〇〇幕府という呼称はいいんですね?
私はどちらもかまいませんが
時代区分は考え方次第だから頭ごなしに間違ってるっていうものでもないでしょ
40代以上は、この肖像画を足利尊氏と教えられてきたが、家臣の肖像画だったとはガッカリだ。
始終グダグダなのは当然と言える
高師直自体は十分有能なんだけどな(人格はともかく)
そもそも学のない田舎者だから忠誠心もなかったという考え方に承服しかねる
むしろそういう人のほうが素朴な憧れは持ち得るんじゃないか
※10だが中世で本当に学ないことをなめてはいけない。今でいう小学校卒業程度ですらないのだから
自分の属するコミュニティ以外に世界観がないものだと思ってる
畿内はそれでも天皇の威光が届くけど、離れるにつれて民草は日本書紀のような古典に触れないと自分と天皇の関係を意識できない
それで正成は由緒ある生まれではないけど今の感覚で中小企業の社長ぐらいの力があって、それに見合った教育を受けていると思う
江戸時代初期に大坂幕府構想があった手紙が発見されたけど
ここではまだ取り上げてないね
秀忠の急死で中断されたみたいだけど
徳川も最初は京に近く千代田より堅城である大坂に政治機能を置こうとしてたみたいだ
尊皇思想を持ってたわけじゃない気がする
そういう意味では根っからの武士だった