三国志の無能といえば
1:名無しさん@おーぷん:
これは魏延
2:名無しさん@おーぷん:
馬謖
3:名無しさん@おーぷん:
おは諸葛亮
4:名無しさん@おーぷん:
郭図
5:名無しさん@おーぷん:
張飛
6:名無しさん@おーぷん:
阿会喃
9:名無しさん@おーぷん:
理由もつけて説明してくれや
10:名無しさん@おーぷん:
>>9
魏延←顔が謀反
馬謖←山頂布陣
魏延←顔が謀反
馬謖←山頂布陣
14:名無しさん@おーぷん:
呂布やろ
あれは賛否両論やが
あれは賛否両論やが
19:名無しさん@おーぷん:
>>14
>>16
この2人は何して無能なんや?
>>16
この2人は何して無能なんや?
23:名無しさん@おーぷん:
>>19
無能つーか脳筋やな
無能つーか脳筋やな
27:名無しさん@おーぷん:
>>19
現代風でいうと天皇がいるけど三種の神器手に入っただけで日本の中に自分の国作る大物政治家って感じや
現代風でいうと天皇がいるけど三種の神器手に入っただけで日本の中に自分の国作る大物政治家って感じや
25:名無しさん@おーぷん:
りゅうぜん
30:名無しさん@おーぷん:
関平
33:名無しさん@おーぷん:
袁術は戦が弱くて暴政敷いて人心離れただけだから
いいところもすこしくらいあるやろ
いいところもすこしくらいあるやろ
36:名無しさん@おーぷん:
孫策
38:名無しさん@おーぷん:
>>36
あだながかっこいいのでセーフ
あだながかっこいいのでセーフ
39:名無しさん@おーぷん:
本当の無能は名前が残らない
40:名無しさん@おーぷん:
ただ橋を焼き落したのは擁護の仕様がない
41:名無しさん@おーぷん:
汗明
151:名無しさん@おーぷん:
>>41
だれ?
だれ?
155:名無しさん@おーぷん:
>>151
戦国時代の論客
三国志ではない
戦国時代の論客
三国志ではない
43:名無しさん@おーぷん:
>>41
戦国期によくいるただの自分売り込みマン
戦国期によくいるただの自分売り込みマン
汗 明(かん めい、生没年不詳)は、中国戦国時代の遊説家。巧みな口舌でもって、楚の令尹(宰相)である春申君に取り入ろうとし、その弁論は「塩車の憾み」あるいは「驥 塩車に服す」の故事成語の起源となった。
『戦国策』「楚策」によれば、汗明は三ヶ月かかってやっと、春申君に謁見することができた。はじめ春申君はその弁舌に喜んだが、汗明が重ねて対談を望んだので、もう先生のことは理解できたといって帰らせようとした。すると、汗明は「わが君はご自分が聖王・堯に匹敵するとお思いですか」と問う。 春申君「先生よ、そのようなわけはないであろう」 汗明「では、わたくしは聖王・舜に匹敵するでしょうか」 春申君「先生こそまさに舜である」 汗明「率直に申し上げて、わが君は堯に、わたくしは舜に遠く及ぶはずもございません。さて、堯ですら舜を理解するのに、三年かかりました。わが君はわたくしをただ一度の会見で理解したと仰いますが、これではわたくしどもが堯舜に勝ることになり、矛盾になりませんか」 これには春申君もなるほどと頷き、汗明を五日に一度召し寄せるという著客の待遇で扱った。
その後、汗明はなおも春申君に向かい、自分を登用するように催促した。「かの驥(き、駿馬)は適齢に至ったのに、太行(山脈の名)の上で塩車を牽く仕事に服していました(夫驥之齒至矣、服鹽車而上太行)。それを伯楽が見出したので、驥は喜んで高らかに天に向っていななきました。いま、わたくしも巷間に窮していますが、どうか、わが君もわたくしを取り立てて、高らかにいななかせる気はございませんか」 なお、『戦国策』にはこの汗明の弁論の続きは書かれていない。
『戦国策』「楚策」によれば、汗明は三ヶ月かかってやっと、春申君に謁見することができた。はじめ春申君はその弁舌に喜んだが、汗明が重ねて対談を望んだので、もう先生のことは理解できたといって帰らせようとした。すると、汗明は「わが君はご自分が聖王・堯に匹敵するとお思いですか」と問う。 春申君「先生よ、そのようなわけはないであろう」 汗明「では、わたくしは聖王・舜に匹敵するでしょうか」 春申君「先生こそまさに舜である」 汗明「率直に申し上げて、わが君は堯に、わたくしは舜に遠く及ぶはずもございません。さて、堯ですら舜を理解するのに、三年かかりました。わが君はわたくしをただ一度の会見で理解したと仰いますが、これではわたくしどもが堯舜に勝ることになり、矛盾になりませんか」 これには春申君もなるほどと頷き、汗明を五日に一度召し寄せるという著客の待遇で扱った。
その後、汗明はなおも春申君に向かい、自分を登用するように催促した。「かの驥(き、駿馬)は適齢に至ったのに、太行(山脈の名)の上で塩車を牽く仕事に服していました(夫驥之齒至矣、服鹽車而上太行)。それを伯楽が見出したので、驥は喜んで高らかに天に向っていななきました。いま、わたくしも巷間に窮していますが、どうか、わが君もわたくしを取り立てて、高らかにいななかせる気はございませんか」 なお、『戦国策』にはこの汗明の弁論の続きは書かれていない。
42:名無しさん@おーぷん:
味方の武将を助けるとほかの武将も援護を頼みにして一生懸命戦わなくなる
↓
だから助けない
↓
だから助けない
44:名無しさん@おーぷん:
>>42
おは公孫?
無能ではないが鬼畜
おは公孫?
無能ではないが鬼畜
46:名無しさん@おーぷん:
関羽が曹操さくっとやっとけば
47:名無しさん@おーぷん:
>>46
本気で殺しにかかっても殺せなかったんやぞ
それが天命
本気で殺しにかかっても殺せなかったんやぞ
それが天命
48:名無しさん@おーぷん:
馬謖は山登る前は良い人材の推挙等で功績あるけどなにぶんミスが大きすぎるしかも命助けてもらったくせに亡命しようとして死刑になったし救い用がない
51:名無しさん@おーぷん:
諸葛亮は李厳すら殺さなかったしよっぽどのことがなければ活かす方針なんやろ
52:名無しさん@おーぷん:
蜂蜜に比べて袁紹はなんやかんや優秀やったんやなって
蜂蜜は三國にすらはいれない敗北者じゃけえ
蜂蜜は三國にすらはいれない敗北者じゃけえ
56:名無しさん@おーぷん:
>>52
調べれば評価の下方修正がすぐ上方修正される有能やぞ
調べれば評価の下方修正がすぐ上方修正される有能やぞ
53:名無しさん@おーぷん:
許攸いなきゃ勝ってたし病気がなけりゃまだまだやれたやろ
紙一重やまじで
紙一重やまじで
54:名無しさん@おーぷん:
韓玄とか韓馥とかあたりのよく分からん奴ら
コーエー的には無能扱いだけど
コーエー的には無能扱いだけど
韓 馥(かん ふく、 - 初平3年(192年)10月以降[1])は、中国後漢時代末期の武将・政治家。字は文節。豫州潁川郡(現在の河南省)の人[2]。『後漢書』・『三国志』に記述がある。後漢末期、董卓の専横に抵抗し挙兵した諸侯の1人である。一時は袁紹と共に帝の擁立を目論んだ事もあったが失敗し、最後は勢力を弱めた末に袁紹から領地を追われ没落した。
57:名無しさん@おーぷん:
>>54
韓馥は演義も正史もどうしようもない無能に書かれてる
勘違いで自殺しちゃう韓馥かわいい
韓玄は演義だけやろ
韓馥は演義も正史もどうしようもない無能に書かれてる
勘違いで自殺しちゃう韓馥かわいい
韓玄は演義だけやろ
55:名無しさん@おーぷん:
なんでそんなにハチミツを悪く言うんや! 家柄謀略勢力兵力地盤どれをとっても最高レベルやろ!
ちょっと戦争がちょっとダメダメだったからって
ちょっと戦争がちょっとダメダメだったからって
58:名無しさん@おーぷん:
劉璋
64:名無しさん@おーぷん:
袁術って曹操に先んじて献帝に接近してたんだよね
どうするつもりだったかは知らんけど
どうするつもりだったかは知らんけど
70:名無しさん@おーぷん:
孫策残ってれば実質孫策配下も配下だと思うととんでもない損失やんけ!
71:名無しさん@おーぷん:
>>70
ゲームで孫策が袁術配下のシナリオあるで
袁術でもそこそこ戦えてしまうから素晴らしい
ゲームで孫策が袁術配下のシナリオあるで
袁術でもそこそこ戦えてしまうから素晴らしい
74:名無しさん@おーぷん:
ワイ空気読まず劉禅
79:名無しさん@おーぷん:
関羽は友好国のはずの呉に喧嘩売りまくりのキチガイやろ
81:名無しさん@おーぷん:
>>79
その同盟国も喧嘩売りまくりやったからセーフ理論
その同盟国も喧嘩売りまくりやったからセーフ理論
83:名無しさん@おーぷん:
>>81
やっぱ魯粛って神やわ
やっぱ魯粛って神やわ
85:名無しさん@おーぷん:
>>83
魯粛も喧嘩売ってるぞ
あるのは武力で奪うか弁舌で奪うかの違い
魯粛も喧嘩売ってるぞ
あるのは武力で奪うか弁舌で奪うかの違い
89:名無しさん@おーぷん:
>>85
やっぱ魏の曹仁って神やわ
やっぱ魏の曹仁って神やわ
90:名無しさん@おーぷん:
>>89
一理ある
一理ある
86:名無しさん@おーぷん:
一見無能でも1800年後に語られるドラマを起こしてるんやから名前残っとるやつは有能やな
102:名無しさん@おーぷん:
ワイが三国志の登場人物やったら 真っ先に学者のふりして隠居するわ
105:名無しさん@おーぷん:
蜂蜜ってなに?
109:名無しさん@おーぷん:
>>105
そら袁術皇帝陛下の大好物よ
そら袁術皇帝陛下の大好物よ
コメント一覧
蜂蜜好きのおっさん扱いやねん
なかなかガチ無能っておらんのやないか?
何晏とか?
人柄は良かったんだろうけど味方につけた蛮族に見限られて殺される哀れっぷり。
他に何かした訳でもないしな。
諸葛亮は戦略家としてはトップクラスに有能だぞ
戦術家としても無能ではない まぁ中の上ってとこかな
働き者で、部下に甘い。
家柄とか、良いところあるから...
むしろ戦術家としてトップクラスに有能だろ。寡兵で張郃討ち取ったり王双討ち取ったりしてるし
司馬懿 も大破してる。
それにしてもまだ諸葛亮が戦べたとかまだ信じてるやついるんやね
否定されまくった陳寿の評を曲解しまくって無理やり作り出した虚像なのに
演義よりずっと創作だぞ
諸葛瞻を始めとする末期蜀の文官連中。
こういう奴が国を傾ける。
流石にトップクラスは言い過ぎじゃないかなぁ
張郃を討ち取ったとはいっても本人は伏兵に気づいていたみたいだし(しかもその時はかなりの老将)
司馬懿を撃破したのも事実だけどそこだけを見て司馬懿>諸葛亮とはならないだろうし(司馬懿はそれ以外の功績も大きいから)
戦術家としては曹操・司馬懿・周瑜・陸遜みたいな一流の将軍達には及ばないし、
荀攸・郭嘉 ・龐統・法正のような一流の参謀達にも劣るだろう
だけど寡兵でもそこそこ活躍したから戦術家としても決して無能ではないし、
何より戦略家・政治家としての活躍が凄まじいからこの時代において傑物だったことは間違いない
ああ演義しか知らん
正史読めるいいところあったら教えて
伏兵を警戒していた相手を伏兵で討ち取ることこそ戦術的傑出性の現れだし
司馬懿の公孫淵討伐とかの功績なら諸葛亮の南征だってそうだろうし征蜀でも功績を挙げてる
北伐だって圧倒的寡兵で領土を拡張し敵将を討ち取り戦果も十分に挙げてる
客観的に考えるなら司馬懿・周瑜・陸遜には戦歴でも劣ってないし歴史的に彼ら以上と評価されてる
諸葛亮は呉の史家から司馬懿を上回る。魏の史家から楽毅を上回るという評価を受けてる
陸抗も楽毅、諸葛亮と羊祜を並べて軍人として評価して唐代には三国時代で唯一武廟十哲に選ばれてる
龐統・法正に劣るっていうのも劉備に随行しなかったからなんて間抜けな理屈でしょう?
正史に同じ軍師中郎将に就いた龐統の親待は諸葛亮に次いだ
法正存命時から諸葛亮は股肱の臣として最も頼りにされていたと書かれてる
最も信頼されたから本拠の守りを託されたんであって二人に劣るから劉備に随行しなかったんじゃないぞ
劉備は諸葛亮を君の才能は曹丕の十倍はある。必ず大事を成せるだろうと最大限の評価をしてる
演義では無能オブ無能で姜維寝返りの要因やし、正史では「生まれながらに武略に欠ける」と生まれから否定。
無能ぶりは蜀でも有名で趙雲、魏延に「あのアホボン相手やったら長安強襲余裕w」って演義、正史両方でバカにされる。
どケチの守銭奴で金儲けが趣味、女癖も悪く愛人囲いまくって嫁さんに訴えられて曹叡に処刑されかける。
夏侯惇の遺伝子は一切仕事せんかったんかw
こいつが無能だったから三国志が始まったんだろ
それを言ったら三国志を終わらせた司馬炎首脳陣も無能じゃね?
こいつらが統一後浮かれまくって、異民族や皇族に何の対策も取らなかったから三国時代よりも色んな意味でヤバい五胡十六国時代がくる。
夏侯楙の無能話は全部嘘臭いエピソードに定評のある魏略出典だから魚豢個人に嫌われてただけ感がないでもない
とりあえず司馬懿がしてやられてるって論旨に対して大した反証も無く司馬懿に及ばないってどうなんですかね?
血筋や配下が有能ってだけであそこまで行けるほど甘い世界じゃないし
少なくともこいつを無能ラインに設定しちゃうと孫堅孫策あたりが軒並み無能落ちしちゃう程度には大したことやったら
史実だとクソ有能な模様。とんでもないデブらしいけど。
最期はやらかしたけど晩節を汚した=無能みたいな
極端なデジタル脳はいかんでしょ
才能を善行に役立てる事ができなければ、才能が役に立たないって盧毓さんが言ってた
だから司馬懿はそれ以外の功績が大きいからって※14に書いてあるだろ
司馬懿は公孫淵討伐以外にも電光石火の戦術で孟達を斬ったり、呉の重鎮諸葛瑾を破った事もある
諸葛亮の戦術家としての功績は
・劉備の入蜀の手助けをする(正史では非常に簡素な文章でどのように活躍したかは不明)
・そこまで強力じゃない南方の異民族を制圧
・正史ではあまり活躍してない王双を討ち取る(魏にはこの程度の人材なら腐るほどいた)
・曹操に住民を引き抜かれて放棄されていた武都と、そもそも益州である陰平を掠め取る
・恐らく70歳程の老将であった張郃を討ち取る
どれもこれも地味なものばかり しかも馬謖の人事ミスや補給を軽視して郝昭に負けるなどマイナスエピソードもあるから、
どう考えても戦術家としては一流とは言えない
戦術的には司馬懿>諸葛亮なのは明白(戦略家、政治家としての功績を含めたら逆転するだろうけど)
司馬懿は死ぬのが遅かったせいで色々言われてるからなぁ。
あれだけ魏に尽くした結果があれなら仕方ないだろうに。
?
何が言いたいんだ?
自己解決
曹操「縛り付けてでも連れてこい」
論理的に反論しなよ
俺は別に司馬懿ファンじゃないけどやたら諸葛亮を過大評価する人がいるから、
それを是正してるだけだ
もう一度言うが諸葛亮を無能とは言ってないぞ ただ戦術家としてはそこまで優秀でもない
諸葛亮の南征は史実では益州四郡に及ぶ漢人勢力の大反乱なんだけど、孟獲も漢人だよ。
三国志演義と混同してるでしょあなた。司馬懿の公孫淵、孟達より勢力比で考えりゃよっぽど大規模な反乱
諸葛亮の蜀攻略での功績は華陽国志に記録されており
亮定德陽。~璋帳下司馬蜀郡張裔距亮,敗於下。裔退還。徳陽の平定と張裔を破った功績を挙げてる
取蜀城中民金銀頒賜將士,還其穀帛。賜諸葛亮、法正、關羽、張飛金五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦段萬匹。其餘各有差。攻略後の勲功労賞でも諸葛亮が筆頭に名前を挙げられてる
>>放棄されていた武都と、そもそも益州である陰平を掠め取る
そもそもこんなの三戦板の失笑もののデマで武都は後漢時代から人口も多く、都の字が示すとおりあの辺りの中心地域で、放棄どころか同時代に韋誕が太守に任命されている。もともと荒れ果てた長安の人口が周辺に逃亡していたから周辺の人口を移住させたんであって、後の史書に姜維の戦役で荒れ果てたとかかれてていても晋書に他の郡と同程度の人口がある。陰平が益州だから功績にならない意味もわからない。曹操が漢中を奪って以来、蜀が奪えていなかった魏領なんだから。陰平は金銀を産出する重要地でもある。
張郃は当時、軍人として車騎将軍で魏の軍中でもNo2、当然大軍を率いており、それを討ち取ってるのに老将だから地味の意味がわからない。
>>補給を軽視して郝昭に負ける
補給を軽視なんてしてないし、諸葛亮は20日しか陳倉を包囲していない。軍が敗れたわけでもないのに20日で難路の城を落とせないと敗戦なんてまるで当時の常識がわかってない。数年単位で篭城してることだって珍しくないのに。孟達だって内通者がいても半月篭城を行ってる。そもそもこの戦役は直後の武都、陰平出兵のための陽動という主張がされており、諸葛亮はこの戦役で魏軍を破って王双を討つという戦果を挙げてる。
諸葛亮は魏より圧倒的寡兵を率いて、大規模な国内反乱をすばやく鎮圧し、司馬懿を破り、張郃を討ち、費耀、郭淮を破ってる。だから魏の人は数万の兵で数十万の功を挙げた。楽毅を上回り、太公望に匹敵する。呉の人は魏大将軍司馬懿、呉の大将軍諸葛瑾にも勝ってるなどと評価している。あなたは論理的どころか、三国志を読んでないのが丸わかり。三国志演義と混同して、ネットのデマを真に受けて同時代に最大限評価されてる人間をそこまで優秀じゃないなんていってるんだよ。
司馬懿は最後の一押ししただけだろ
強い弱いでいったら滅茶苦茶弱い相手だ
まあ嘘だろう。晋書の創作具合は異常だし、宣帝記は三国志と正反対の記述が多すぎる。他人の功績を司馬懿のものにしたり地理的におかしい記述もある。晋に仕えた陳寿が司馬懿の功績を隠せるわけないし、それが晋の朝廷で評価されるはずない。
※30は反論じゃ無いだろ。
読む気が失せるくらい冗長なコメントを端的に表現してくれてるんだ。
感謝して然るべきだと思うね。
一つ助言してあげるけど、明確で端的な文章を心掛けるべきだね。
コミュニケーションを取るなら読み手のことも考えてあげないと。
演技の超人評価からの反動で正史ちょっと知り出したぐらいのやつが孔明を極端に過小評価するのは割とみんな通る道だから…
数十倍の兵力で城を囲んで総力挙げて攻めたてたのに
何の成果も出せず20日で兵糧尽きて撤退したのを
そんな長文で褒めちぎるなんて素晴らしい才能だな。
ムダに知ってる知識を文章に入れ込んでいるから読みにくいし何が言いたいのかも伝わらない
自分歴史とか一切興味ないやろ。この時代の城攻めで20日未満で陥落なんて内通か士気が崩壊でもないかぎりあり得ない。ゲームじゃああるまいし特に一方の城壁にしか取りつけない陳倉のような山道の関門だと。曹操だろうが、陸抗だろうが同じように撤退してる。もちろん戦国の名将たちも。
明確なビジョンを持っていなかった劉備一行に「天下三分の計」という壮大な戦略を授け、
それを遂行した事(これは魯粛の力もあるが)が何より凄い
武廟十哲に選ばれたのもこういう理由だろうね
前漢から張良と韓信が選ばれているけど、この二人は担った役割が全く違う
諸葛亮は張良と同じく評価されたのは戦略家としてであって戦術家としてではない
つまり諸葛亮は張良(と蕭何)の要素はあったけど、韓信のような戦術家としての要素はなかった
諸葛亮を高く評価している人たちも戦略家政治家として評価しているのであって、
諸葛亮の戦術的能力はそこまで高くないよ
君、同じ事繰り返してるだけじゃん。論理的反論はどこいった?
魏が兵力に劣る諸葛亮の率いた軍を戦術的に破れたのは指示を無視したと記録される馬謖だけ
・司馬昭は、諸葛亮の軍事制度を部下に研究させた(晋書)
・諸葛亮の考案した八陣は軍の要点をすべて備えていた(三国志)、この陣を兵書李衛公問対で李靖が称えてる
・東晋の桓温は蜀に遠征した際に諸葛亮の八陣を記した石碑を見てこれを高く評価した(晋書)
・亮は勇にして能く闘う。亮の法令は明快で賞罰に巧みで兵士は命を賭して危険を顧みず能く戦う。亮が率いた数万の兵で、その功は数十万分の功をなした(魏の袁準)
・出師命將,發日引辭於廟。仍以古『名將』十人為十哲配享。(新唐書)
・諸葛亮に比されたのは羊祜や北魏の劉亮(我が孔明と呼ばれ亮の名を賜った)初め多くのすぐれた名将戦術家
戦略家政治家として評価してるなんて武廟十哲の建立文も読まずに適当なこというなよ。
あまりにも酷過ぎる。自分のイメージを押し付けるために、明らかに戦術家としても評価されてるのを捏造をするな。
つまり半年は守れて当たり前と思われてる
二十日で城を落とせなきゃ戦術上マイナス評価ってのは孫子が鼻で笑うぐらいの話
地理的におかしい記述なんてあったっけ?
凄まじいのは曹真の蜀攻め、いわゆる子午の役の記述
べん水 (漢水)を遡るとあるの長江沿いの巴東郡に出た後、長安近郊の県を攻略、その後また漢水沿いに戻るとかやっててる。勿論、三国志にはなく、資治通鑑も無視するのが宣帝記
張良は千人程度で秦から韓の領土を奪い。多勢に無勢で奪還された後もゲリラ戦を繰り返し、劉邦から借りた兵を率いて秦軍の楊熊を破って10余城を制圧し韓を復興させた戦術的な名将でもあるんだが…
どうしても諸葛亮が名将じゃないと嫌みたいだね(笑)
陳寿「奇策は得意でなかった。」
司馬懿「志は大きいが機を見る眼がない。謀は多いが決断力に欠ける。」
王徽之「応変将略は、その長ずるところにあらず。」
袁準「状況の変化に対応するのは得意ではなかった。」
こういう風に評価してる人達もいるんだけど?
中国では忠義が何より評価されるから諸葛亮の評価はバイアスがかかってるんだよ
君が挙げた人達も恐らくそういう理由で評価してるんだろう
百歩譲って諸葛亮を名将とするのであれば、
曹操や司馬懿は勿論の事、この時代の半分くらいの人が名将という扱いになるけど
それでも良いよな?
諸葛亮は戦術面は司馬懿はおろか曹操すら上回るほどの類稀な才覚の持ち主だけど、戦略においてはせいぜい中の上~上の下ってなイメージ
蜀の国力で魏討伐なんてそれこそバクチ手打たなきゃ不可能なのにバクチを打てないってのは、(本人の性格的な面もあるだろうが)諸葛亮の戦略家としての限界を端的に表してると思える
陳寿ってそんな事言ってたっけ?
戦術で曹操すら上回るは流石にあり得ないわ
勝率も諸葛亮とは比べ物にならんし、孫子を編纂したり数多くの兵法書を著したりして後世への影響力が段違い
間違いなく中華史の中で最強レベルだし、世界史全体で見てもトップ30には入るであろう名将
諸葛亮は曹操の全てにおいて曹操に劣ってるし、どうして諸葛亮>曹操になるのか意味不明
諸葛氏集目録で明言してるぞ
名将を称えたというものを捏造なんで狡いことしてまで貶めてるあんたが名将だといやなんでしょ
そもそも諸葛亮は一貫して名将として称えられてる。それが近年になって演義の逆張りで一時期評価を落としただけなのに
・張輔「奇策泉涌、智謀從橫~謀謨弘遠」と陳寿との間逆の評価が陳寿と同時代の敵方からあるんだが?
・そして陳寿の評の方が間違っているという評価を受け続け、かえって私怨の曲筆を疑われてる。兵書李衛公問対でもその評価は否定されてる。
・司馬懿のその評は上でも散々貶されてる晋書の宣帝紀だろうが。諸葛亮死後400年もたってから編纂された一次資料と間逆なことが書いてあるんだからだれもそんなもん信用してないよ。演義の評価を引用するのと変わらない。
・司馬懿の一次資料における諸葛亮評は「天下の奇才である」
・袁準のは陳寿の引用だろうが。何水増ししてるんだよ。しかも袁準は諸葛亮を名将として最大限評価し、無理をしないところが賢者の真に優れたところであるとむしろ称えてる部分の評。チェリーピッキングするなよ。
・はい、出ましたソースはWikipedia。誰がつけたんだか知らない。世説新語の誤訳を真に受けてるわけだ。
王徽之のその評価は新しく軍権を与えられた郗愔の家の前で郗愔に向けて叫んだもの。息子の郗融は親が侮辱されてると感じ怒った。ところがその兄郗超は、あの評価は陳寿が諸葛亮に付けた評価だ。他人がうちの親をあの武侯と比較してくれてるんだ。なんで反論することがあるだろうか。こう言ったというもの。むしろ諸葛亮があの時代において大きな敬意をもたれていた傍証になる逸話だよ。
最後のはもう恥ずかしすぎるだろう。あまりにも知識がないのがバレバレだから。
曹操がやったのは孫子の再編集、孫子の同内容のものはそれ以前のものが既に発見されてる
後世の影響なら諸葛亮も絶大、複数の諸葛亮集が編纂され、自身も曹操の兵書接要と同じように教書を作り、それを基にいくつもの諸葛亮の兵法と名乗る兵書が編纂された。諸葛亮の八陣は李衛公問対にも影響を与え六花陣を編み出してる。兵器の改良にも力をいれ神弩と評された連弩の改良、木牛流馬、正史宋書に記録される筒袖鎧の開発、事物紀原に記録される槍の改良と軍事的に絶大な影響を与えてる。
君は曹操を評価して陳寿の評を曲解して諸葛亮を評価してないわけだけど、陳寿の疑問文はそのまま曹操にも当てはまるんだが、ひょっとしたら連年兵を率いて志を遂げることがなかったのは応変の将略は長ずるところにあらずや?
曹操は諸葛亮より長い期間、諸葛亮より大軍を率いて勢力の劣る相手に何度も撃退されてる。戦術的な勝率なら諸葛亮は1敗しかしてないから曹操より上になるぞ?そして彼は戦略的失敗も多く家臣に何度も諌められてる。君は食糧不足の撤退も敗戦に含めるんだろうがそれをすれば曹操の勝率もぐっと下がる。この二人は間違いなくあの時代で最も評価された兵法家だが世界史的な名将と比較するのは不可能だ。実際の能力はさておき二人は世界史の名将たちと比較するには残した結果が小さすぎる。結局統一できなかったんだから。世界史トップ30なんて入るわけもない。
※61
してない。然亮才、於治戎爲長、奇謀爲短。比較系の文で諸葛亮の才は治戒の方が奇謀に比して長いという文。君が言ってるのはスポーツより勉強が得意という文をスポーツは苦手だったと訳してるようなもの
なんで半分なんだよ僕の私見であの時代の諸葛亮は半分以下の将だからってか?あの時代で唯一武廟十哲に選ばれてるのが諸葛亮なんだが。あの時代の人間はみんな節穴か?
曹操が名将であることなんて誰が否定するんだ?あの時代の優れた兵法家として常に名前が挙がるのが諸葛亮と曹操なんだから
本人が諸葛亮を天下の奇才と呼び、呉の大臣張儼は司馬懿は諸葛亮に劣ると明言し、実際に諸葛亮と軍を交えて大破されてるのに何を言ってるんだか
他の面子と比較しろ。韓信は反乱を起こし、呉起は主君の遺体で身を守ろうとし
白起は出仕を拒んで自害させられ、その下の六十四将も忠臣といいがたいものも多い
一方孔明と並び称された忠臣の鑑、王導なんかは六十四将にも入ってない
司馬一族の簒奪は割と「追い込まれて」な気はするんだよな
曹爽が先に喧嘩売ったのが問題じゃね?
一度和解しても
「この先いつこうなるか」って気が気じゃないだろう
蜀攻略の功績とか甘く見すぎじゃね。先主伝にも諸葛亮等が白帝、江州、江陽を平定したとある。
白帝は千人相手に陸抗が数万で半年囲んでも落とせなかった堅城、しかも広大な益州の攻略速度もすごく早い
だよね
ビックリしたわ
27の内容からして恐らく袁術の事だと思うけど
中華系メディア、看中国の中国名将ランキング
1位岳飛、2位楊延昭、3位韓信、4位孫武、5位李靖
6位諸葛亮~11位曹操~21位周瑜~40位司馬懿~49位鄧艾
61位陸遜~62位關羽~95位張遼~96位杜預
三国時代ではやはり諸葛亮が1位、曹操が2位という結果に
一番古い人物が紀元前500年没の孫武、近い人物が1807年没の李長庚
どうやら正式な皇帝は選外のようですが、2300年中100年満たない時代の人物が9人入ってるあたり
中国人も三国志大好きみたいです
諸葛亮のwikiにある王志堅讀史商語の彼への批判すら此皆帷諭世謂壽挾私致貶其殆不然
世の人はみんな陳寿が私情を挟んで貶めたんだと思ってるけどそうじゃない。とある
あの文章もみんなそう思ってるけど違うよって言い張ったいわゆる逆張り
陳寿の評を読んだら諸葛亮は名将じゃないという理屈は千数百年間中国で議論し尽くされてる
いまさら諸葛亮が名将じゃないなんて論で決着することはありえんよ
むしろ孔明が有能すぎたせいで国が無駄に延命してしまったとも言える
魏で仕事をしていれば歴史はどうなっていたのだろうか
>>そこまで強力じゃない南方の異民族を制圧
益州の異民族は後漢書に神兵って書かれるぐらい勇猛かつ強兵なんだよなあ