秀頼「秀頼は65万石の大名で構いませぬ」淀殿「これは存外なる物言いを聞く物かな」
引用元http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1556741026
1:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:03:46.09 ID:SffqH3Xpa.net
淀殿「そなたは卑しくも太閤殿下の忘れ形見なるぞ!!家康殿は殿下の家臣では無いか、何故殿下の長子たるそなたが頭を下げねばならぬ!?」
秀頼「…母上」
淀殿「断じて頭を下げてはならぬ、豊臣は徳川の家臣では無いッ!!」ポロポロ
泣いたねワイ
秀頼「…母上」
淀殿「断じて頭を下げてはならぬ、豊臣は徳川の家臣では無いッ!!」ポロポロ
泣いたねワイ
3:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:04:37.22 ID:SffqH3Xpa.net
秀吉「………」ポロポロ
殿下もあの世で泣いてるわ
殿下もあの世で泣いてるわ
4:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:05:13.05 ID:M/R3L1j60.net
秀信くらい物分かりが良ければな
5:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:05:30.26 ID:G8MzILo/d.net
葵か
7:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:05:44.68 ID:SffqH3Xpa.net
めっちゃ助けたいんやが、家康ボコって秀頼様の天下を護りたい
8:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:06:34.15 ID:1yrTXqML0.net
とりあえず外堀は埋めとくで~^^
9:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:07:15.91 ID:zyL4VAiI0.net
国崩し「ワイに任せとけ」
11:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:08:36.80 ID:SffqH3Xpa.net
はぁ、判官贔屓やないけど秀頼とお淀が可哀想やわ
12:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:09:14.15 ID:uIryA3Y40.net
鐘にイチャモンつけたんだっけ
24:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:12:38.07 ID:QO5tYTFrd.net
>>12
あれって言いがかりじゃなくて割と豊臣側の確信犯的なもので徳川が文句付けるのも残当だ、
みたいな意見もあるんやろ?
あれって言いがかりじゃなくて割と豊臣側の確信犯的なもので徳川が文句付けるのも残当だ、
みたいな意見もあるんやろ?
36:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:15:45.64 ID:nWyr3WTn0.net
>>24
なんかそれ聞いたことあんな
中世のレスバ楽しそう
なんかそれ聞いたことあんな
中世のレスバ楽しそう
46:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:18:19.07 ID:d2gIO0y30.net
>>36
「国家安康」で家康を切ってて「君臣豊楽」で豊臣家が君主として反映することを願った呪いや!ってイチャモンやね
まぁ確信犯的なところもあると思うが
「国家安康」で家康を切ってて「君臣豊楽」で豊臣家が君主として反映することを願った呪いや!ってイチャモンやね
まぁ確信犯的なところもあると思うが

105:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:27:24.55 ID:F61L/tkdM.net
>>46
家康短気やしこういうの気にする人やからな
家康短気やしこういうの気にする人やからな
56:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:19:58.37 ID:vRJce8dU0.net
>>46
一概にイチャモンというわけでもなくて当時でも普通にアカンレベルのやらかしやったみたいやで
一概にイチャモンというわけでもなくて当時でも普通にアカンレベルのやらかしやったみたいやで
109:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:28:19.09 ID:CqIC3GAG0.net
>>46
名前途中で切られてムカつくはともかく言うほど名前逆さで羨ましいか?
名前途中で切られてムカつくはともかく言うほど名前逆さで羨ましいか?
120:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:29:44.99 ID:d2gIO0y30.net
>>109
基本的に武将ってDQNやからな
DQNの価値観や
基本的に武将ってDQNやからな
DQNの価値観や
145:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:33:29.45 ID:QO5tYTFrd.net
>>109
家康っていう字自体が諱(?)かなんかであんまり縁起が良くないものだったんやろ?
大河みたいに家康殿とかは当時は殆ど言わなかったとか聞いたわ
家康っていう字自体が諱(?)かなんかであんまり縁起が良くないものだったんやろ?
大河みたいに家康殿とかは当時は殆ど言わなかったとか聞いたわ
162:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:35:34.84 ID:vRJce8dU0.net
>>145
基本的に官職名で呼ぶよな
今でも名字+役職名で名前呼ばんし
基本的に官職名で呼ぶよな
今でも名字+役職名で名前呼ばんし
169:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:36:48.02 ID:PFg6AEz10.net
>>162
やっぱり誰からも「政宗」呼ばわりされる伊達さんってレジェンドだわ
やっぱり誰からも「政宗」呼ばわりされる伊達さんってレジェンドだわ
15:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:10:37.75 ID:M/R3L1j60.net
秀吉に関しては因果応報なんだよな
龍造寺を乗っ取った鍋島の方がひでえわ
龍造寺を乗っ取った鍋島の方がひでえわ
59:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:20:25.89 ID:wWvfnn+W0.net
>>15
化け猫が出たから許された
化け猫が出たから許された
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説[18]。史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている[18][19]。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある[20]。
314:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:57:11.72 ID:w/gmt/L20.net
>>15
主君含む重臣の大半が死に血筋の奴らもパッとしないならもう乗っ取りじゃなく自然な流れじゃん
主君含む重臣の大半が死に血筋の奴らもパッとしないならもう乗っ取りじゃなく自然な流れじゃん
17:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:11:07.62 ID:nR8Qs4Ui0.net
結局石田三成が世渡り上手で権力側の力上手く使って味方たくさんつけて徳川と渡り合えるだけの才覚があったらって
21:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:12:01.60 ID:+Ez74lTI0.net
>>17
いうても権力持ったら三成が乗っ取ったと思うで多分
いうても権力持ったら三成が乗っ取ったと思うで多分
25:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:12:57.16 ID:vRJce8dU0.net
>>17
言うても徳川みたいな中央集権体制ちゃうから結局瓦解したんちゃうか
言うても徳川みたいな中央集権体制ちゃうから結局瓦解したんちゃうか
29:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:14:02.66 ID:b9UFLdtZ0.net
>>17
三成はあの空気読めない不器用さが逆にかわいいんや
三成はあの空気読めない不器用さが逆にかわいいんや
31:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:14:59.53 ID:SSI1Hg6x0.net
武田と北条の遺臣をきっちり取り込み切った家康の手腕よ
そら相手にもならん
そら相手にもならん
32:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:15:04.05 ID:I4A8R7+X0.net
腐女子の三成人気が凄い
なんでなんだろな
なんでなんだろな
33:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:15:06.76 ID:8N7n+BMe0.net
脱糞「淀の寝所どこなん?」
片桐「は?教えられねーわ」
脱糞「大筒で狙う時そこ外すためやで(ニッコリ」
片桐「はえーこの辺ですわ」
脱糞「よっしゃそこめがけてぶち込んだれや」(ゲス顔)
片桐「は?教えられねーわ」
脱糞「大筒で狙う時そこ外すためやで(ニッコリ」
片桐「はえーこの辺ですわ」
脱糞「よっしゃそこめがけてぶち込んだれや」(ゲス顔)
45:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:18:05.87 ID:xfbaS6/Z0.net
>>33
アホと畜生
アホと畜生
34:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:15:17.12 ID:QD6gOK4K0.net
秀吉も織田っち裏切ったやん
49:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:18:55.57 ID:t2437KVqp.net
>>34
信雄も秀信も滅ぼしてないだろ
信長秀吉家康で主家滅ぼしたのは家康だけや
信雄も秀信も滅ぼしてないだろ
信長秀吉家康で主家滅ぼしたのは家康だけや
58:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:20:23.78 ID:+Ez74lTI0.net
>>49
信孝は死なせたやん
信雄は単に無能やから殺す価値ないって判断しただけやで
信孝は死なせたやん
信雄は単に無能やから殺す価値ないって判断しただけやで
37:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:15:50.64 ID:d2gIO0y30.net
毒親やんけ
秀頼生存ルートは普通にあったのに
秀頼生存ルートは普通にあったのに
39:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:16:05.91 ID:GUlojnb5a.net
秀次殺した時点で詰みや
サルが耄碌して小一郎のこと疑い出したのもアカン
サルが耄碌して小一郎のこと疑い出したのもアカン
40:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:16:22.44 ID:vRJce8dU0.net
へうげの三成の最後のエピソード好き
42:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:17:31.07 ID:PFg6AEz10.net
言うて秀吉政権も
小田原で北条倒したっていう功績だけで上にたててたけど
実質家康とのタンデム政権やろ
五大老でも家康だけ別格やし
小田原で北条倒したっていう功績だけで上にたててたけど
実質家康とのタンデム政権やろ
五大老でも家康だけ別格やし
50:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:18:58.00 ID:SSI1Hg6x0.net
豊臣政権とかいう擁護しようの無い馬鹿集団
52:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:19:11.46 ID:frtPJrST0.net
秀吉は狸処分しようとは思わんかったんか
豊臣にも悪影響大やから出来んかったんか
豊臣にも悪影響大やから出来んかったんか
61:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:20:30.13 ID:SffqH3Xpa.net
浅井三姉妹
長女
淀の方 秀吉側室&秀頼生母&炎上死
次女
常高院 名門京極家に嫁ぎ、徳川と豊臣の橋渡しに奔走、豊臣滅亡後は幕府に庇護される
三女
お江の方 秀忠正妻、旦那を尻に敷き家光を産む
姉妹でここまで差が出るとはなぁ
長女
淀の方 秀吉側室&秀頼生母&炎上死
次女
常高院 名門京極家に嫁ぎ、徳川と豊臣の橋渡しに奔走、豊臣滅亡後は幕府に庇護される
三女
お江の方 秀忠正妻、旦那を尻に敷き家光を産む
姉妹でここまで差が出るとはなぁ
78:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:23:45.64 ID:tn0I3lBX0.net
家康を関東じゃなくて
四国に移らせれば良かったんや
四国に移らせれば良かったんや
79:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:23:45.97 ID:SffqH3Xpa.net
秀吉
家康 利家
宇喜多 上杉 毛利
5奉行 武断派筆頭格
そら利家死んだら終わりやわ
家康 利家
宇喜多 上杉 毛利
5奉行 武断派筆頭格
そら利家死んだら終わりやわ
82:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:23:56.12 ID:b9UFLdtZ0.net
豊臣政権の前半有能からの後半の無能采配
どうしてああなったんや
どうしてああなったんや
87:風吹けば名無し:2019/05/02(木) 05:24:32.22 ID:nR8Qs4Ui0.net
秀吉が頑張れば家康倒せたかも知れんけど豊臣の力も疲弊して戦国時代に逆戻りやったろうな
コメント一覧
史実なんかな
程度あるだろうが、ボケなかったことの方がほぼあり得ない。秀吉に限らず、老衰で死んだ武将はボケはじめていたはず。
普段、高齢者を相手にしていると、歳をとるにつれて判断力や行動が力が落ちていくのはよくわかる。悲しくなるが、人間は衰えるものだと実感する。自分の父親や母親もいずれと考えると、泣けてくる。子供たちはその成長に驚く。
また、若くても闘病生活が続くと、最後には判断力を含め、能力はかなり落ちるよ。
秀頼「…母上」 (違うだろ…俺のおやじ本当は誰なんだよ…)
そのボケではなく晩年の老害ぶりの話だと思うよ。
たったの34人で伊賀越えするなどの作り話で家康が美化されて行くのと反比例して
秀吉があることないことで悪く書かれるようになるのは必然だったろう。
もちろん民間伝承では真逆の評価になって行くが。
あんな脆弱な体制じゃ、マトモに治められなかっただろう
血統より家名の存続の方が大事なんでしょ?
個人的な意見だが秀吉は晩年でも全くボケていないし頭が良いままだったと思っている、秀頼がどうとかなる前に五大老体制があっという間に崩れたのは運としか言いようがないし、けど死ぬ直前はそりゃボケるわ
家名を残すって意識が低い身分出身の秀吉には薄かったから晩年になって問題になったんだろな
秀吉も自分が子供出来ないのは分かってただろうし父親はあまり気にしてなかったと俺も考えてるわ落書きの件も舐められたら武士として終わりってだけの話だし。
秀吉は自分の死後に誰が天下人になってもかまわないと思っていたんじゃないかな。
それこそ関白の秀次でも良いし家康でも良い。
実力のある者が日本を治めてくれればいいと考えていたと思う。
秀長やねね、大政所らと話をしていたかもしれない。
でも淀は違った。淀は自分の血筋(織田の血)を引く者に天下を譲りたかった。
秀頼を産み強引に秀吉の子とした。
秀吉は耄碌していて本当に自分の子だと勘違いしたのかもしれない。
次第に淀の考え方に染まっていった。
ねねは秀吉を説得することを諦め家康に接近する。
そして関ヶ原へ。
諸大名の記録は愚か、秀吉嫌いの宣教師の記録にすらそんなこと書かれてない
むしろ病身なのにてきぱきと指示していた記録が残っている
意味不明な手紙送ったりするし
秀吉の場合晩年の凶行があるからね…
つまり今までキレッキレだった男がある時を境に一種狂気の沙汰としか思えん行動を取り出したわけで、これを秀吉が正気で行ったのか耄碌して判断力が無くなっていたと捉えるかの問題だと思う。
個人的にはかなりボケていたとは思う。
朝鮮出兵でも出征組の報告を聞かずにかなり突飛な計画をぶち上げて、
秀頼が産まれると豊臣政権を崩壊に導く秀次と眷属皆殺しを行なったり、
全盛期の力は無くなっていたと考えたい。
老人がボケていっても成人した後継者がいれば、隠居するので醜態を衆人に晒さずに済む。
しかし、秀吉の場合は生涯にわたり権力者なので、人前に姿をさらすし、往年の冴えがなくなれば、治世でも弊害が出る。それを修正できる立場の人間がいなかった悲劇だと思う。
きっちり戦を終わらせてから天ぷら死した家康は完璧だったな。
氏康の支持で上杉と同盟するんだけど死後氏政がすぐ撤回したとか
頭の回転が速すぎる上に、自分が一族郎党どころか天下の長になったことで視野が誰よりも広がった秀吉の思考を、他の人間が理解できようはずがない。それでも秀長をはじめ古参の側近たちが秀吉の意向をうまいこと翻訳してくれていたからあれほどの成功を収めることが出来た。ただ秀長を亡くした後、秀吉の考えを分かりやすくアウトプットしてくれる人間がどんどんいなくなっていったあたりで、いわゆるボケと呼ばれるような政策方針を強行するようになる
これは年齢の問題じゃなく人材の問題。ナポレオンですらワーテルローの頃は別人のようだった。秀長やベルティエがいなければ、彼らほどの天才も形無しよ
流石に死ぬ前は大分ガタが来てたみたいで
「最近の殿下は支離滅裂だから新しい命令は無視して以前の決まりに従おうず」
って大老奉行の連署が残ってるけどな
宣教師の記録にも同様に記録されてるね。錯乱状態と聡明な状態を繰り返している
失禁の記録も駒井に記録されていて痴呆と思われても仕方ない面はある。
実際には病気の症状っぽいけど
※5
34人ってのは記録されてる徳川家臣の数で作り話ではないよ。そこに小姓や織田家臣、道中に国衆たちの護衛が加わっていくから数は増えるけど
ま、まぁもしかすると
女に惑わされない男らしい秀頼
っていう偶像化の産物かもしれないし…
三河遠江への転封を拒否しなかったら改易もされなかったろうし。
少なくとも全国の大名に見放された冬の陣の後に目一杯尻尾を振ってれば
生き残れたんじゃね?
ただ難癖つけてでもどこかで確実に減封されるだろうからそれを呑めるかどうかがまた問題になりそう
それで寄せ集めの浪人衆に本陣突撃されて逃げ回ってるんだから家康もたいがい呆けてるだろ
家康の場合二代目がしっかりしてるから別に死んでも問題なかったまであるからな。
秀吉も二代目が普通だったらどう死んでも問題なかったけど…
寄せ集めなめんなよコラ
命捨ててるからやべえぞ
真田の突撃に関しては真田を放置して大坂城に向かった松平さんと
流言に引っかかった徳川方若手に問題がある気がする
その後継の豊臣だって宿敵に決まってる。
時勢に逆らわずに臥薪嘗胆した家康が報復に成功しただけだろ。
四国の阿波徳島から豊臣の本拠地大坂城まで
たった1日で万近い軍を動かせるんやで
ソースは三好家
豊臣政権しかり、徳川幕府しかり、当然だがそんな危険な近場に巨大な外様大名は配置してない
大坂の陣はちょっと事情が特殊だしね。
日本最後の戦争って感じが強かったから手柄を立てる最後の機会だったわけで。
だから手柄狙いで統率が取れなかった面もありそう。
言うても小さくされた時点で
明らかな力量差できて逆らいようない
やっぱり戦いますは無いだろさすがに
まあそれが嫌だからああなったんだが
戦国時代が終わった後の
力あるのに行き場ないやべえ奴ら一同
大阪に集めて在庫一掃セールした豊臣
安定した江戸時代を築いた功労者だな
正直蔵入地消滅した時点で勝負あったと思う。諸大名が豊臣家のことを何とも思ってない証拠やんけ。
とはいえど、転封を呑んだら次はどうなるか分かったものでもないのも確かなんだよなぁ…
徳川に領地の大半を放棄して、6500石か650石だけ残しての、徳川家臣からの養子を願い出たら、豊臣は存続できたはず。
豊臣はどうあっても滅びしかないんだよな…
乱世を急速に終わらせた余波は止められないわ
言う程危険か?
秀吉にとっての秀信みたいなもんやし飼い殺し出来るやろ
行動力的にはもっとやべー大大名も残ってるしな
秀頼は一応関白になれる家柄だからね…
将来何が起こるかわからんし、ある程度警戒しとくのは当然かもしれん
秀頼「このままだと関東に謀反を疑われてしまうのじゃ。牢人は早く大坂城から出て行ってたもれ」
牢人衆「あ〜〜〜〜?!聞こえませんなぁ!」
割とかわいそう
とんでもない無能になっていた可能性もあるけど
家光「危険だぞ」
忠長「…………」
江戸幕府も家康が生きてる間は豊臣政権の単なるコピーだぞ
それを後継者が盤石にしていっての260年だ
秀信はわずか3万石、しかも城もない安土の屋敷暮らしで、領地と屋敷は離れているので、戦も出来ない。その後に豊臣秀勝が病死したことで、岐阜城と13万石をようやく与えられるレベル。
秀頼の65万石は大きすぎる。秀頼の血筋や能力うんぬんより、石高が問題。
じゃあ内大臣信雄は?
改易前の打診は三河遠江だろ?
ちょっと調べたけど関ヶ原で所領0、
大坂の陣で5万だから割と普通じゃない?
北条討伐後に秀吉が元主君筋(家督代行)の信雄に三河遠江約55万石を打診してるから
全国統治者から見たら60万石程度は危険でも何でもないって話や
美濃の諸勢力は元信忠の家臣で秀信の与力だから秀信は美濃一国もってるといっていい
秀頼の場合は65万石どころではない、一応立場上全勢力の上にたっている
直轄地以外でも倉入り地が全国各地に残っているのでもっとでかい
ちなみに大きいとか小さいとかは関係ない、大阪城落城後に秀頼の子供まで殺している
秀吉の血を引いている可能性があるというだけで抹殺対象、豊国神社もぶっ壊した、大阪城も埋めてその上にたてた
秀吉や秀頼の事を語ったり描くのは江戸時代なら犯罪行為、井原西鶴など文化人がそれで弾圧されている
秀吉にとって信雄は危険ではないって話じゃね?
実際その提案断った態度のでかい信雄をどうしたか…
流石にその後信雄も反省して生き方を改めるが
信長の息子というプライドは捨てて自分の実績なかったことを実感してふるまった模様
長男の血筋である秀信に信雄より多めに与えるべきではあるな
そんな序列、豊臣秀吉にとっては今更どうでもいいが
関白様は織田家ばかりより日本全体が大事
まぁそういうことやな。
秀頼が本当に65万石の一大名だったら何の危険もない。
ところが実際には大坂の陣前まで(減ったとはいえ)蔵入地の算用していて
加藤蜂須賀みたいに上納を続けている諸大名もいるから65万石程度じゃ済まない。
朝廷との繋がりも保持していて幕府を通さずに直臣を叙任させてもいる。
オマケに黒田長政のような親徳川の大名ですら秀頼の快方祝いに献上品を進呈するほど
名実ともに徳川以外からも「上位者」として扱われ続けてる。
だから危険だったんや。
65万石ぽっちはどうでもいいねん。
家としての豊臣家も秀吉が始祖だから歴史も伝統もない
関白でもないから秀頼に権威の正当性もないし
自力で関白になる実力もなければ関白に推してくれる人望もない
秀頼と淀はどういう理由を根拠に自分たちが政治的実権を持つ正当性があると思ってたのかな
清正なんて関ヶ原が終わって徳川の世が確定してから豊臣を名乗り始めてるし。
諸大名が豊臣ファミリーを公言し続けるなら徳川を焦るわな。
※55
秀頼の高速昇進をみればわかるけど秀吉死後も摂家豊臣の当主として朝廷から遇され続けてるよ。
隠居の家康を除けば徳川現当主の秀忠は関ヶ原後も官位役職的には秀頼の後追いで
冬の陣の年にようやく逆転してる。
実はそれまでは官位的にはずっと
豊臣当主 > 徳川当主
のまま。
豊臣が官位という制度の上で権威を誇示するなら徳川も実際の実力=武力を誇示して大阪の戦いで白黒つけるしかない訳ね
秀頼はお飾りで徳川の謀略でいわゆる運命のままに戦に臨んで死んだと思ってたけど
権威や周囲の慣習を裏付けにして徳川と対立して対抗する意思持ってたんだね
それはわかる…
んだけど、それは秀吉さんの時代だからなぁ。
家康の時代からすると秀頼65万石はデカすぎるって所見は正しいのかもしれない。
秀頼は色々面倒な存在だったからどのみち滅んでいたかもしれないけど、取り敢えず有名無実化すれば…
うーん。ダメかな…
実はそこには凄い裏があるんだ。
朝廷は豊臣の事を嫌っていて、徳川と豊臣を争わせようとしていた形跡がある。
その一つが秀忠の官位なんだが、
秀忠は将軍宣下と共に秀頼と同じ正二位を与えられている(公卿補任その他)
ところが家康はこれを断ったらしい。
どういうことかというと、この時点ではまだ家康は秀頼と対決するつもりはなかった。
しかし、家康は既に秀頼より格上ではあるんだが
その息子の秀忠が秀頼と同格となると豊臣との衝突の原因になる。
それで家康はこれを断ったんだな。
だがそれで引き下がる朝廷じゃない。
あっちこっちにこの話をバラまいたんだろう。
その結果「大坂は灯りが消えたよう」っていう豊臣の消沈ぶりだった…
やるせねぇ話だが…
朝廷は豊臣を徳川への対抗馬にしたかっただけで、嫌ってはいなかったかと。武家が争っていることで、朝廷の権威が高まる。
何より大阪の陣の数年前から、徳川は朝廷を規制する法を次々と連発してきたので反発がある。トドメは豊臣滅亡後の禁中並公家諸法度。
朝廷の真意を確かめる事は不可能だけど
豊臣を抹殺しようとしていたのは間違いない。余りにも豊臣に厳しい態度を取ってるからね。
例えば秀吉の遺言を反故にしての関白復活、
徳川家康の将軍就任、
秀頼の関白就任を妨害、
そして慶長10年の秀忠正二位宣下。
ここまでやっておいて「いや自分たち豊臣さんのことホント大切に思ってますんで」とかあり得んと思う。
んなもん当時はどうでもええやろ。
太閤殿下の子として生まれて太閤殿下の子として育ってきたんやから。
でも当時から割と噂になってたっぽいんだよな。
週刊誌が書くスキャンダル的な感じで。
火の元は占い師らしいんだが、秀頼は実は秀吉の子じゃない…だとか。
影響があったとは言えないけど、無いとも言い切れん。
秀頼が秀吉の実子じゃなければ、「何処の馬の骨ともわからんやつよりも、俺の方が豊臣に相応しい…」なんて思う奴が出てくるだろうし、統率を保つのは大変そう。
御家騒動の因にはなりそうな感じがする。
方広寺の問題では朝廷は豊臣側の主張に完全同意し、徳川の要求を全面的に退けてるよ
お前は妄想と史実の区別をつけろ
父親は誰かは重要と思うが。だからこそ、養子と実子で御家騒動が起こる。親はたいてい実子が可愛いし、家臣も別れてしまう。
他に甲斐の風土病で日本住血吸虫症に感染して腹が膨れた女性が、夫に不義密通を疑われて、潔白のために腹を切り開いて中身を見せた話もあるし。
方広寺の話題は少しも出てないのに何故…?
ついでに言うと方広寺も朝廷は完全に徳川支持だぞ。
五山全てが豊臣を批判してるからね。
この中には天皇の漢詩文教育係とかもいるからね…
残念ながら、史実がどうの、妄想がどうの、っていうのは無謀だよ。
五山の返答は、
相国寺、天龍寺、建仁寺
「好ましくは無いが、避けるのが道理かは分からない(五山では避けない)」
南禅寺、東福寺
「避けるのが道理」
で、前三寺は片桐且元の弁明に追従、
更に言うと五山とも道義面の手落ちだと論じていて
林羅山(徳川)の主張する家康呪詛疑惑は五山とも否定している。
そもそも徳川は鐘銘が呪詛とは言ってないからなぁ。
ついでにいうと豊臣が滅んだのは片桐襲撃事件と牢人問題のせいですしなぁ…
羅山は呪詛だって騒いでるけど家康自身はそうは思ってなかったっぽいね。
判断に困って五山に確認してるくらいだし。
ただ、「なんで豊臣があんな無礼な行いをしたのか?」
という答えが「徳川を呪詛するため」っていう羅山の考えはそんなに間違ってないとは思う。と、いうよりそう捉えられても仕方ない愚挙。
そもそも鐘銘ってあんな長くする必要性は無いんだからもっと無難な文章に出来たろうし…
豊臣はどのみち滅びる定めだったろうけど、その第一歩を踏み出してしまったのが痛かったネェ。
林羅山が本当に呪詛といったかも不明なんじゃない?
死後に弟子が作った羅山先生文集で羅山が主張したと記録されているだけで、当時はまだ使い走りか本の整理している人。『駿府記』や書状を読んでも林道春の名前はあまり出てこない、家康側近ではないっぽいんだよね
呪詛の話は京都所司代の板倉経由で届いた情報だけどあくまで噂話として、坂上池院の日記にも噂としてあったと思う
ちゅーか、後の徳川幕府という結果を知ってるから無礼と言われても納得するけど
いくら大大名で当代随一の実力者とは言え
豊臣から見れば徳川は家臣で
肝心の家康は律儀者と評されてたし
しかも秀頼の義理の祖父でもある
戦国長しといえど、家臣にそこまで気を使う主君ていなかったと思うが
豊臣に仮に意図があったとしても、お前は家臣にすぎない程度の意思表示だったと思うが
まさかここまで過剰反応されるとは思ってなかったろうさ
そこらへんが豊臣が現実を見誤った証拠だよなぁ。
家康ってのは
従一位=秀頼よりも格上、前の将軍=秀頼が武家ならば従わなければならない相手、秀頼の義理の祖父…
ってわけだから最大限の敬意を表して然るべき。
てか「部下だから無礼な事をしてもいい」って発想自体、かなり危険だと言わざるを得ない。
そんな大将に従う奴はいない…てか史実で秀頼に誰も従わなかったのはここら辺に理由がありそうだなぁ。
どちらにせよ、既に豊臣政権が終わってる…という事を感じ取ることが出来なかったことが豊臣の不幸なのかもしれん。
信雄「」
この頃の家康は官位的には秀頼より上位者で
小牧の役前の秀吉と信雄秀信みたいな微妙な関係よ。
そういや信雄も秀吉に大坂城に年賀の礼に来いと命じられて拒絶した辺りから
急速に秀吉との仲が悪化して小牧の役に至ってたな
現代で同じことやったら完全アウトじゃん
「数百文字の一部だから」なんて釈明、通らんよ
家康から豊臣への挨拶は慶長8年まで、秀頼から家康への挨拶は慶長13年から始まってるみたい
この時期くらいからすでに逆転してる感じはする
諸大名は慶長10年までで、秀忠と家康への挨拶。公家たちも10年から京都所司代への挨拶後に秀頼へ
方広寺の開眼日時、人事はみな豊臣側の主張に同意し、家康の難癖は排除している
難癖の件も朝廷は何もいっていない、
そもそも書いた人物はその後も存命し、天皇は彼の詩を愛読しているくらいで当時の教養人なら家康が狂っているのがわかっている
※76
現代なら家康は頭のおかしい狂人か呆けてるとしか思われないぞ
いや当時でもか
江戸時代でも難癖といわれているのを理解すべき、諱を避けるなんて風習は当時はない
むしろ積極的にいれる時代、天皇の諱も鐘には盛り込まされているが当然朝廷は豊臣側を支持した
そこにたまたま国家安康の鐘が転がってたから使っただけや。
鐘が無かったら秀頼が江戸に足向けて寝てるだけでも攻撃してるわ。
だから当時人々は天下人と認めたのだ
つまり豊臣政権は秀吉個人の力に大きく依存していることがわかる。
秀頼には軍事面での実績が乏しい。政治的な駆け引きもパッとしない。
あと二十年ぐらい早く生まれていれば秀吉の監督のもとで豊臣家の大きな柱になっただろうに
実名忌避則って普通に研究もされてるが
国諱論争って向こうの王と将軍家光の諱の間で朝鮮と日本で論争も起こってるぞ
五山の東福寺の回答は
「倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、
避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨」
だから「諱を避けるなんて風習は当時はない」な訳が無い。
良いか悪いかレベルの話なら、五山全てが「好ましく無いこと」と回答している。
少なくとも諱を使用するなら本人の承諾は得るべきで
その点は完全に豊臣方の落ち度。
日本にそんな風習は皆無、天皇と将軍の諱を避けた事例をだしてみろよ。
室町幕府の通字は義だ、天皇家は仁だ、これらの文字を手紙や碑銘などから排除してさけて文章を書いたりしたと?
日本と中国勘違いしてるだろお前
江戸幕府だと家だが、中国みたいに諱さけて別の漢字つかったりしたと?
その研究した奴だれだと思ってる?江戸時代になってから生まれたおかしな慣習にすぎない
それまで日本にはそんな狂った思想はなかった
むしろ信長の諱である長の字を拝領して、秀吉は自分の領地の名前を今浜から長浜にかえている
中国だったら、字がかぶるということで長浜を今浜にかえなければならないほどだが、日本では逆なんだよ
そんな狂った風習は日本には絶対に存在しない、
その家康に集められ、幕府が正統性を誇示する文書に入れられたものにしても、
「吾朝俗家諱之説雖無之」つまり)避ける風習などないと書かれている、
よろしくないが今まで避けたかどうかはわからないと書かれている。
「但手前忘却候哉、憚至極候」
また「於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事」とも書かれており、五山においても避けた事はないと書かれている
当たり前だ、中国と違って日本では天皇の諱とかぶるので漢字を替えなさいなんて法令が出た事などない、
ましてや将軍ごときの諱を避ける事などない。
本人の承諾など当然必要ない、天皇の諱「政」「仁」ともに使われているが、朝廷は当然抗議もしていないどころか、
当時の両者の紛争において豊臣側の主張を全面的に擁護している
同じような風習も残ってないし、現代感覚では考えられんと思うが
ムリして想像するなら、総理大臣を天皇陛下が誹謗中傷したような感覚か?
でも現代ならアウトな発言してマスゴミが盛りたてても謝罪、もしくは辞職して終わりだろ
まさか皆殺しになることはない
中国と忌避の仕方が違うだけだろ、皇室の名前なんてできるだけ呼称すらされないようにしてる
各大名も官職名で呼ばれ実名では呼ばれない
古くは源氏物語だって実名が記されてるのは身分の低いものだけで高位のものは徹底的に隠されてる
長州藩の毛利重就(しげなり)と徳川家斉が将軍になると(しげたか)と改めた例がある
日本は音を気にするんだろ、だから実名を呼ばれたりしなかった。
桓武天皇の時代に編纂された正史『続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けられたってあったけどこれは?
日本でも諱は危険なものだって結論出てるし、
しかも方広寺は豊臣滅亡の直接の原因じゃないって言われてるのに。
天皇の諱も書かれているが朝廷は何もいっていない
音で判断する?
その通り、宣教師の記録だと官職名で呼ばれている人とそのまま諱で呼ばれている人双方が存在することがわかっている
信長などは有名で官職名などでは書かれていない、当時でもノブナガと呼ばれていたとされている
信長公記など当時の記録でもそのまま諱で記載されている人も多数存在する
当時において諱をさけていた事は確認されていない、信長公記には家康とそのまま書かれているし、それは多くの大名家に写本されて献上されている
毛利?江戸時代の話をなんでここでする?
桓武天皇っていつの時代の話してるんだよw
それは遣唐使などを盛んに送っていた時代であり、書いた人物などに中国の影響を強く受けた人物が紛れていた結果にすぎん
日本の風習でもなんでもない
どちらにしろ当時将軍ごときの諱を避けたなど聞いたことがない
※81
日本にそんな風習は皆無、天皇と将軍の諱を避けた事例をだしてみろよ
って言っておきながら前例出されるとその言い訳はちょっと逃げ方ヘタクソ過ぎませんかね。
君の主張は残念ながら破綻している。
日本に諱を避ける風習はない!
っていう断言が破綻した以上、君の敗北は明らか。
勉強し直すか、論理を変えた方がいい。
あちこちコメント禁止されてるみたいだがまだやってたのか
豊臣が滅んだのは牢人問題を解決できなかった事と、片桐への暗殺未遂事件が原因だもの。
ただ方広寺の鐘銘を見ると、かなり徳川に有利な、まるで用意されたもののようにすら思える。
家康の諱を割っている事もそうだけど、帝の諱まで書いて全方位に失礼な文章になってる。
これはつまり「将軍の諱を割っている」だけでは戦争にならないかもしれないから、
「帝の諱を書いた=帝への反逆」という戦争の大義名分まで用意しといたってことなんだろう。
院暴論的であるけど、当時なんらかの力が働いていたのかもなあ。
さらに言うと
①且元が家康に阿る為に、方広寺造営の進捗を逐次報告
②方広寺の造営に関わった大工が「書かれるべき俺の名前が無い」って訴え出る
③鐘銘が「やたらと長い悪文」だという話が持ち上がる。
④
①且元が家康に阿る為に、方広寺造営の進捗を逐次報告
②方広寺の造営に関わった大工が「書かれるべき俺の名前が無い」って訴え出る
③鐘銘が「やたらと長い悪文」だという話が持ち上がる。
④家康「一旦中止。写しを提出して」
⑤「国家安康」発覚
⑥銘文起草した文英清韓が「良かれと思って書いた」発言
⑦徳川が「そういう文化なん?」と五山に確認
⑧五山全てが「好ましく無いこと」と回答
⑨徳川「どーすんのこれ?」 且元「いやーハハッ」
⑩且元「(私案として)豊臣はこういう譲歩しますんで」
⑪秀頼「は?」
豊臣方の対応の悪さにあるってことだもんな…
加藤清正が生きていたら大人しく従っていたかもしれないけど。
実は片桐且元、方広寺には関わってない疑惑がある。
且元が徳川と対談した時に出した11カ条の請願の中に
「大坂だと我々は徳川の者だと思われていて何も仕事が出来ません。大仏殿再興の時も無為に時間を浪費しただけでした」
という下りがあるらしいのだが…
つまりもしかすると且元は方広寺の改修には一切タッチ出来ず、
問題解決だけ押し付けられ、
その挙句襲撃される…
というスゲー貧乏クジを引かされていた可能性もあるらしい。
だとすると凄い可哀想…
ちなみに上記の請願では「お願いだからクビにしてください」とあるとのこと。
そりゃそうよ。
当時でもノブナガと呼ばれていた←このソースは?
信長公記は「しんちょうこうき」と古くから呼ばれてるのだけどなぜ音を避けたの?
家康と呼び捨てにされてるというけど太田牛一は最後まで秀頼に仕えてるんだけどその考察は?
中国でも敵方の人間は無礼を承知で諱を呼び捨てにしてるよ?、史書がそれを引用するのも普通
絵本太閤記で武智光秀(たけち みつひで)真柴久吉(ましば ひさよし)小田春永(おだはるなが)と
三者が名前を変えられ、秀吉、信長は諱まで変えられてるのに、光秀は苗字だけって事例もあるよ
一切日本にそんな風習ないだろ、何百年も前で遣唐使などが往来していた影響の強かった時に一時的に行われた事
どうみても日本の風習ではない、1600年ごろにそんなものはないからな
毛利のケースにしてもそれはそのあとの話、難癖つけて滅ぼされたらたまらんからね。
当時そういったケースがなかったことを否定するものでもなんでもない
片桐は豊臣家臣、これをどうしようが豊臣家の勝手
石川が暗殺を恐れて逃げ出したが、これをもって徳川が攻撃されたりしなかっただろ
そして諱の使用は失礼でもなんでもなくて、書いた本人がいっているようにその人物に敬意をしめして盛り込まれたもの
当時でも誰かにあやかって同じ字を使ったり、配慮するために文に盛り込む
自分の字を勝手に使ったと発狂したのは後にも先にも家康ただ一人、
当時の人物は自分の字をつかってくれるなんて光栄な事だと思っている
外国の記録にノブナガと書かれている、役職名などではなくてそのままノブナガとね
秀吉の場合は、ヒデヨシ以外にもタイコウやデンカなどと書かれていたりするし、家康もイエヤス以外でダイフ(内府)と書かれていたりする
当時の外国人は呼ばれている音そのままを記載しているので当時の呼ばれ方がわかる
家康は豊臣家臣、太田からすると同僚や上司にすぎない、ていうか信長公記にはそのまま秀吉と書かれているところ多いぞ
絵本太閤記は名前を替えないと徳川に捕まるから、
徳川の文化弾圧は有名な話で、徳川は主君に弑逆した家臣なんだが、
だからこそ都合の悪い豊臣家の話なんて語ると書物は発禁焚書、書いたものは重罪
だから名前を変えて誤魔化して、豊臣家の話じゃないですよーとしているわけ
江戸時代に書かれた川角太閤記ほか秀吉の話をしっかり名前を変えずに羽柴筑前等の表記で書いてるけど
発禁焚書?なんで現代まで伝わってるんですかね。絵本太閤記はこれらを参考にして作ってるんだけど
発禁になってたものをどこで知ったんですかね。同時代のマテオリッチ日記で風習を破って中国人の名を字でもなく官職でもなく諱を書き残してるんだけどそれが中国で諱が避けられてなかった証明になるんですかね
せいしょこさんとか
時代が下がってケイキ様とかかな
だからそれくらいやべーよな 辞職っておおごとじゃん
後皆殺しはそれが原因じゃないやろ
方広寺については書いた人間が謝罪してるし
勝手で殺される方はたまらんな
残念ながら片桐襲撃事件と石川は事情が違う。
まず石川が襲撃されるかは不明だったが、
片桐暗殺は既に決定していた。(その計画が漏れた)
また、片桐は家康の命令によって豊臣執事としての職務を遂行していた。
つまり片桐は徳川家臣なのである。
そして一番重要なことは…
片桐は秀頼に攻撃されると徳川に救援要請をしている。
石川の件も、もし家康が攻撃して石川が秀吉に救援要請をすれば戦争になったろう。
また片桐且元は誠実に、豊臣の未来の為に働いていたのにそれを裏切られた。
徳川からすれば自分に助けを求める者を救うのは当然であり、
片桐を襲ったのは秀頼の能力の低さの現れであり
豊臣滅亡の兆しであった。
気になるのはヒデキチくんは「諱を書かれたと怒ったのは家康だけ」っていうけど
『諱を犯した詩文』
って他にあるのかな。
鐘銘は伝記や日記とは明らかに違うもので、
「伝記には諱が書いてある!」っていうのはリンゴとオレンジを比べるようなものではないか。
①鐘銘という公の目に付くもので
②漢詩文という鐘とは関係ないもので
③家康の字を(諱と知って)分けて書いた
のが方広寺鐘銘だけど、五山長老も指摘する通り確かにこんな鐘銘、他に聞いたことがない。
ヒデキチくんでも他の人でも良いのだが、
他にこんな漢詩文を見たことがありますかね?
漢詩文ってのは中国の文化で、その諱に対する扱いは厳重を極めると聞いたけど。
徳川は別に積極的に豊臣滅ぼそうとはしてなかったから(やろうと思ったら江戸に呼びつけて無視したところを攻撃出来たはずだし)
家康時代までなら牢人雇ったりせずに穏便な対応してれば生き残ってた可能性は高い。
加藤清正は江戸に屋敷を構えて秀頼はそこに住むって制度を考えてたみたいだけど…
上で言われてたことによると65万石は放棄せざるを得なかったかもね。
なお秀忠・家光時代を生き抜けたかは不明。
氏真みたく高家になれば良かったんじゃね?そこまで落ちたら家臣に殺されそうだけどね。
その上今後は松平として徳川親藩となれば血は残るやろ
手紙と鐘銘じゃ全然違うからね。
鐘銘ってのは公的なもので、しかも割と長く残るもの。縁起を伝えるものである。
神聖な物でもあるので僅かな傷も許されない。少しの手違いで呪いだとか言われることになる。
手紙や伝記とは全く違う。
しかも仮に手紙や伝記でも、相手の諱を割って書くなんてことすれば下手すりゃ戦争になる。
どちらにせよ豊臣方無礼の誹りは免れない。
豊臣と徳川にそんなものはなかった
それ秀吉だろ?信長の没後ずっと後のことじゃん
秀吉も本能寺直後の手紙では信長を上様、信忠を殿様と書いてるし
権力者になってから旧主を呼び捨てにしたのと違うんじゃ
それとも他にそんな書状ってあるの?
でも徳川もまさか鐘銘で戦争までいけるとは思ってもなかった。
だから豊臣への書状では大坂城の牢人問題を挙げている。
豊臣がミスしたのは片桐を攻撃してしまったこと。
これで無事戦争へ…
徳川挑発みたいな研究あったっけ?
豊臣の過失、手落ちみたいな論は知ってるけど
意図的な「挑発」って話は初めて聞いた
江戸時代より前の学者が国家安康は無礼って言ってるんだから仕方がない。
勿論、江戸幕府がその神話的能力で全ての記録を書き換えたっていうなら話は別だけどね。
でもそんなことを言い出したらどんな歴史も笑えなくなるぞ?良いのかなそれで。
五山長老の見解や、豊臣を弁護する声が皆無であることを考えると当時では非常に失礼な行いだったことは否定出来ん。
むしろ、戦後の反日本、反天皇的思想が国家安康についての通説を作った可能性も高い。
ほら?いるじゃん?日王ヒロヒトとか言ってる連中よ。諱の力を殺ごうとしてるんだとさ。
小牧長久手の役は信雄が秀吉取次役の家老を無断処断したことが引き金だったけどな。
三家老処断の件ってあれ秀吉の罠って聞いたけどマジなのかなぁ
罠にしても実際に開戦の口実になってる訳だしね。
小牧の役という前例がある以上、片桐の件も口実になることは否定できない
くっそうろ覚えで、間違ってたら訂正して欲しいのだが
秀吉「なんか信雄ウザいなぁ…そうだ!三家老が秀吉に内通してるって噂流したろ!」
織田家「岡田・津田・浅井の三家老は秀吉に内通してるという噂です!」
信雄「マジかよ裏切者は皆殺しにしやきゃ…」
秀吉「信雄が謀反じゃ!」
あれ?この流れどこかで見たような…
ようやく事前承諾得て作ったのに、完成した途端いちゃもんをつけられ文を考えた坊主はドロンしたという
もう完全に潰す気満々という話だった、
馬鹿かお前は、今でも天皇や皇太子から一字勝手にもらって子供につけるなんて普通にあるのに、ぬ
信雄「マジかよ裏切者は皆殺しにしやきゃ…」
秀吉「取次を無断で処刑とかこれは三法師様(を擁するワシ)への宣戦布告やなぁ」
こんな感じじゃね?
今でもって具体的に誰よ?
諱から一文字賜ることが名誉なのも諱が重要かつ神聖なものだから。
足利尊氏なんかがその例だね。
間違っても、本人の許しなく漢詩文に、しかま割って使うことは許されない。
逆に漢詩文とかに、本人の許しなく諱を書いた例ってどれほどあるんだろ?
全ての漢詩文を知ってるわけじゃ無いけど、中国だとうっかりかぶってもアウトだしなぁ。
って感じかな。
どのみち取次を殺すのは考えものだよなぁ。
だって自分への窓口を潰すってことは仲良くするつもりはない、戦争しますよって宣言に他ならないし…
大使館を閉鎖するようなもんだしな。
戦争に対して腰が重い今なら兎も角、
戦争へのハードルが低かった昔ならそれでもエラいことだし。
銘文を起草した文英清韓は大坂の陣で大坂城に立てこもって抵抗してるから
その話は創作だろうな。
そりゃまぁ思惑はあれど宥和姿勢取ってるその窓口を閉鎖されたらキレるわな…
俺は信長みたいに優しくないぞ
って書いてあるところから
昔とは言えかつての上司の諱を書くとは異例、秀吉が信長を超越したと思っていた証か。
みたいなニュースがあったなぁ
書状で上司の諱書きなら秀頼なんて基本的に諱でしか呼ばれてないけどな。
内府違いの状々だと
秀吉が「太閤様」、家康が「内府公」、利長が「羽柴肥前守」、景勝が「景勝」で、
秀頼は「秀頼様」
様つけてるからセーフなんだろ。
それですら割とヤバい気がするけど。
信長の肖像画を地味に書き直させたり意図的に織田の権威を下げようとしてるわな
色を地味にしたり刀を減らしたり…ってやつか。
秀吉の信長観が気になるなぁ…
家康と秀吉では統一の情勢全く違うしそこから個人の感情を読取るのは不可能だからなー
秀吉が嫌いな人間から見たら簒奪者として好き勝手に想像するしそうでない人間には前任者の権威が邪魔だから下げるのが普通ではとなる
まぁ天下人内定してる身だと前任者が神格化されても困るよなぁ…
そら内府に対して秀頼を黄門様(中納言)と呼ぶわけにはいかないだろうし、政務もまだ取ってない6歳の子供を上様とも呼べないだろうし秀吉と混同も起こる、大名の子息は御曹司様とか呼ばれるけど、あれは独立前の私室に住んでるからだし大坂城の主である秀頼には不適切、適切な呼び名が存在しないからじゃないか?
つけるよね?
秀頼って秀吉から生まれてすぐつけられてなかったっけ?うろ覚えだけど…
だからかなり特殊な存在なのかも…
ところが「秀頼」の書状初見は文禄5年閏7月19日の家康利家連名状。
元服の1年前には諸大名に諱が通達されてる希有な例。
右大臣就任後も基本的に「秀頼様」呼びのままだぞ。
右府呼びなんて皆無。
豊臣家家中の事、余所が口出すするのが間違い
家中でのいざこざでの出奔や刃傷沙汰なんて当時は珍しくもない、
政宗は秀吉との取次役である鬼庭綱元を強引に隠居させ、所領没収し隠居領すらろくに与えなかったことで腹をたてて出奔し、家康が雇おうとしたが、政宗から侮奉公だされたので許されて帰参するまで事実上の追放状態となった、
伊達成実が出奔したときなんか居城が襲撃され、家臣数十人が戦死し城も接取された
悪久は豊臣氏との取次役である伊隼院を暗殺し、その所領を強引に摂取しようとして攻め込み激しい抵抗をされ内乱状態にすらなっていたが、伊隼院から調停を頼まれた家康は島津家家中の事なんで関係ありませんと見捨てた
これが当時の常識
方広寺の鐘銘では秀頼と天皇政仁双方の諱も刻まれている
どちらも抗議などしていない
伝記?信長公記は大名家に収められたもの、
手紙になると大名クラスが発行しているのは公文書とかわらん
朱印状ついてるんだから、これは命令書だ、鐘銘なんぞよりはるかに重い
つか漢詩などを書くときに将軍の諱をさけたかどうか記憶にないと五山の連中すらコメントしているくらいで
んなもんいちいち避けるわけねーだろ。そんな風習日本にないんだから
当時諱が記載された程度で呪いだとかいわれたケースを占めてくださいあるんでしょ?
諱をわって書いた事で戦争になった事例をしめしてください、あるんでしょ?
当時において諱を記載するのは無礼でもなんでもない、当時文章書くときに諱が混じるなんて普通だからな
、特に信長、秀吉、家康の三人なんてよく使われる漢字つかわれてるんだから
中国の皇帝ですら常用漢字で同じ諱使うなとか意味不明な事命令せんわ、その場合は皇帝のほうが諱を替える
そもそも日本において権力者と同じ諱を使うななんて命令が出た事は一度もない
あれは家康があつめた御用学者にすぎんぞ。
無礼ではないとした妙法寺などの寺の坊主の人間のコメントは記載されなかった
そもそも幕府が自らの犯罪行為を正統化するためたにでっち上げたもの。記載されているのも幕府がつくった歴史書にすぎん
そして天皇の諱の力をそぐ?
天皇の諱である、明や徳と同じ文字を自分の子供につけた親がやまほどいるってのに?
他にも総理と同じ諱である吉田茂から茂もらったりするのは無礼な行為でもなんでもない
むしろ尊敬しているからこそ、自分の子供に同じ名前つけたり、つかったりするんだよ
それが日本の古来からの文化
そんな事例がそもそもない
※129
つーか三家老は取次でもなんでもない
もっといえば、三家老処断で秀吉が難癖をつけて攻め込んだのではなくて、
信雄が先に挙兵して秀吉に同調しそうな三家老を処断しただけ
三家老処断よりも信雄が家康に手紙をおくり援軍を頼んだほうが早い、
そもそも当時において信長は信長とよばわれていたと思われる、むしろ諱以外で呼ばれるケースのほうが稀
信長公記ですら初期のものは信長とそのまま書かれているところが多い(他にも上様、信長様などあるが)
秀吉の遺言の写しだと、大老は家康以下全員諱でかかれているが、奉行は役職名やら法名で書かれている
少し事例を取り違えてるよ。
家康と五山が無礼だと指摘したのは国家安康だからね?
鐘には縁起として家康以下発起人の名が記されてるけど、
別に家康はそこには文句つけてない。
あくまで問題は鐘銘の漢詩文なのよ。
公的な文書なら兎も角、
単なる漢詩文に諱を使うなんて聞いたことがないよ、ってこと。
だから長々と君が言った信長だの秀吉だのは的外れ。
あくまで漢詩文についてのお話だからね?
って前提で見れば、漢詩文ってのは中国の文学であって、その文字一つ一つに重要な意味がある。
帝・将軍の諱は触れることすら許されない。
そりゃ失礼よって話。
内々に援軍を依頼した事は挙兵にはならんぞ?
それとも三家老処断より早い段階で秀吉が信雄討伐を号令したって言ってるの?
なにしろ天皇の文学講師やら漢詩文博士が集まってるんだからね。
その五山長老衆の意見が一致している事は無視出来ない。
もっとも、方広寺鐘銘の作者は豊臣秀吉の贔屓で出世した五山の嫌われ者だったことも無視出来ない。
五山長老衆は、このような名誉ある役職は本来五山から人を推薦するところを豊臣はこのような打診を行わず一方的に清韓和尚を指名したこと、また清韓和尚も本来五山に漢詩文について推敲、意見を求めるべきところそれらを行わなかったことを指摘している。
この意見は家康に対して、この一件の裏には豊臣の意思が働いていると強く感じさせたことは明らかで家康がただちに豊臣に対して釈明を求めたのも致し方ないことであろう。
そりゃ秀頼が右大臣に2年しか就いてないもの、それも元は家臣筋の家康から譲られたもの
1603年、内大臣に家康の右大臣昇進による
1605年、右大臣に家康の辞任による後任の内大臣は秀忠
1607年、右大臣辞任
この官歴で秀頼を内府、右府と呼ぶわけにいかないだろ
それにくだんの方広寺の碑文のときも家康を指して右僕射(右大臣の唐名)源朝臣家康と書かれてる、1614年まで右大臣は辞した後でも右大臣は家康を指してるし
なんかそう考えるとすげー切ないな。
尊称って自分が生きてきた証でもある訳じゃん?ここまで登りつめたぞ、やり遂げたぞっていう。
秀頼にはそれが一切無かったんだな…って感じがする…
ただ太閤の息子として生まれ、太閤の息子として扱われて、太閤の息子として死んだ。
秀頼自身で築いたものは何も無し。
実際徳川と戦わないなら
秀頼公を弑逆して、織田の誰かを担ごうとしてたからね、牢人衆は。
「割る」なんて露骨なこと、普通ならだれもやろうとしなかったんじゃね?
現代で同じことやってもやべーのよ 外国のなんかに日本の総理や天皇の名前に由来するもの割って書かれたら
コケにされたと思うだろ
仲良い同士なら許されただろうがな
徳川家康は豊臣家の姻戚
余所とか一言で片づけられんよ
豊臣にそう一言で片づける力があればよかったがな
方広寺鐘銘って帝の諱も犯していて、五山長老衆に指摘されてるんだよな…
家康にその気があれば豊臣を反逆者として訴えて勅令で滅ぼすくらいは軽く出来る案件だったわけで、
豊臣家の内情が凄く気になる。
しかし家康にとって挑発疑惑のある行為、
とりあえず責め立てて損はない
藤原菊子なんてどこから出て来たんだろう
おめーは全国の安康さんを敵に回した
どっがお人よしかは犬畜生でも分るわなw
義理堅さで言えば家康の方が義理を果たしたとはおもうけど、どっちが相手にとって良かったかはわからん。
秀頼というか豊臣が暴走したのは家康が一応彼らを大家扱いしたから「本当は俺たちの方が偉いのでは?」って勘違いした節もあるわけだし。
秀吉みたいに徹底的に上下関係を実力行使で教えてやれば信雄みたいに振舞いを考えていたかもしれん。
なんて言うか思わせ振りな振る舞いはするなよ振るならはっきり振れって言ってるみたいに感じるけど…
まぁ家康は豊臣を残そうとしてたけど、
次の秀忠が豊臣を残してくれるとは思えんのよねぇ。
親族譜代にすら容赦ないし、家光忠長の確執でも
当の家光より忠長に強硬姿勢だったし。
まぁ秀忠は無理だろうなぁ。
一応義理の息子なわけだけど、無茶苦茶な要求を飲まされた挙句潰されそう…
上で出ていた通り、石高を可能な限り減らして一高家となったうえで、徳川の子を養子に貰うくらいのことは最低ラインだったろうな…
家康もあの時代、同年代が次々死んでいく状態で豊臣潰しは70歳だから本当にギリギリまで待ったんだとは思う
周囲にもバレバレで秀吉の本妻までもが、呆れて徳川につくような有様だしな。
秀吉直系の子孫が誰も居ない以上、豊臣家は無くなるべくして無くなっただけ。
この辺はちょっと調べれば文献が山ほど出てくる。
秀頼が父親が別だったという風聞があったのは事実だけどそういう噂があったというレベルのもの
だれそれにそっくりなんて事実もない、あったら大野だの石田だの素性の知れない法師だの、名古屋山左だの複数の父親説なんてでないだろうに
本郷和人も珍説に過ぎないと言ってるし
秀吉には長浜時代に複数の子供がいた形跡がある。また遺伝上の欠陥を抱えていた形跡もあるし、子ができにくかった、すぐ亡くなったというのはそう不自然なことでもない
なによりあれほど残虐性をみせた末期の秀吉がそんなバレバレの子を見て淀殿を許すはずもない
ぐう聖そのものなのに?
秀吉が聖人なら彼は天下人になれなかったと思うぞ。上に上がるってことは他人を蹴落とすことだからな。聖人なら出家して山にでもこもってる。
残虐な面を持たない方がおかしいのさ。
その子供は養子(人質)だぞ、秀勝も朝倉景鏡の子供と言われている
秀吉は種無しだろう、よっぽど相性よかったら生まれたのかもしれないが、少なくとも秀頼は計算が合わない
そして秀吉が残虐とか言っているのは自分は無知ですとか言っているようなもの
秀吉ほど人道的な戦国武将は少ない、軍規も厳しく、民草をむやみに傷つけず、敵も殺さず降伏させる度量をもつ
人身売買なども禁止し、村同士の争いから海賊行為などの紛争も禁止し日本国内に平和と秩序をもたらしている。
石松丸が朝倉景鏡の子供とか誰が言ってるの?それこそ根拠ゼロでしょ
もう一人の娘の存在も記録されてるし、娘を養子にとる意味なんてないでしょ
残虐うんぬんなんてそんなもんケースバイケースで多くの大名がやってるでしょ
秀吉は逆の残虐行為も行ってる。乱取りも根切りやってるもどう見ても秀吉は天下を取って以降自分の権力を過信して残虐に振舞ってるよ
時代の流れで人気の移り変わる人物の代表だろうな、別に秀吉の残虐性なんて天下人になる前から変わんないし死ぬ直前まではずっと頭は良かったよ
朝倉景鏡の子供ってのは「秀吉研究の最前線」に記載されてたな
娘を養子にとるのもよくあることだぞ、信雄と家康は秀吉に敗戦したときに家康は秀康を人質に差し出したが、信雄は娘を差し出した。彼女は秀吉の養女になっている。逆らった場合は信孝の娘のように見せしめとして磔にされただろうが。
そうはしなかったので秀吉の養女として嫁いでいる。
娘の場合名家の養女になり家格をあげて嫁ぐという家格ロンダリングがよく行われていた時代でもある
秀吉のように犯罪行為を規制した大名はほぼ皆無といっていい、当時の雑兵の多くは自弁であり、戦場で手柄をあげる以外では略奪や勾引などをおこなって金にしていた、大阪の陣ですらそういったものが大勢おり、酷いありさまだったが、そういったものを規制して土木作業やら戦闘に限定させてその代り給料を大目に払い、村々からは代わりに禁制をとっていたのが秀吉
当時どころか、今でもかなり綺麗な戦争をしていた
揚げ足取るようで悪いけど戦争そのものが犯罪行為だしなぁ。
それに秀吉の得意は兵糧攻めでしょ?
これもかなり非人道的行為って言われそう
分かってて煽ってるのか
兵糧攻めは人道的だろ
降伏しない奴が悪いだけで
そうそう。
焼夷弾だって直接殺さないから人道的だし、核兵器だって痛みを与えないから人道的だもんね?
兵糧攻めで敵味方の命を守り、村への焼き討ち、略奪や拉致を禁止し戦争に民間人を極力巻き込まないようにしている秀吉とどこが同じなのか詳しく
秀吉は太閤の一銭切りて有名なように軍規に厳しい
養女は婚姻ありきの適齢期の娘を家格ロンダに使うためだろ、当時の信長の一部下であった、成り上がりの秀吉がやるようなことじゃない
江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命
明らかに秀吉が生まれた娘の息災延命を祈って寄進したという記録があるのだから養女であるわけもない
規律が厳しいってなら織田信長も徳川家康も厳しかったし、武家の嚆矢たる源頼朝もめっさ厳しかった。
秀吉の人間性にはあまり関係ない事柄だと思うけどね。
兵糧攻めはされる側が愚かなだけ さっさと降伏の証(上の首をとるなど)を見せればいい
認められなかったのって 敵対しておきながらただなにもせず許してもらおうとしただけだろう
する側にすれば犠牲なしでできる
むしろ兵糧攻めできる状況であえてやらず
敵の人命を重視して
味方の人命を粗末にするようなことは
それこそ指揮官としてやってはならないことだ
それに「降伏しない相手が悪い」って論理は私も使いたくなるぐらい魅力的なものなんだが、どうだかねぇ。
要は勝者の理論ってやつで、例えば豊臣が滅んだのだって降伏しない秀頼が悪いで終わり、第二次大戦だって日本が核攻撃されて当たり前…
それを「人道的」に繋がるなら日本で一番人道的なのは徳川家康ってことになるが…
秀吉による秀次処刑と秀次親族公開処刑は失敗だと思ってるし
※192
アメリカ人の前で「日本は悪くない」って堂々といえるか?
特に戦死者が出てる人の前でだ
戦わなくても資源増産に貢献する
その点南京は問題と思わんし
兵糧攻めは人道的な攻め方だぞ
双方傷つかない、秀吉は降伏を受け入れており、伊勢長島や高天神のように兵糧攻めの後なで斬りにしたわけではない。
兵糧を味方に分配せず、指導者だけが独占し兵士を餓死させているならそれはその指導者層の問題にすぎない
戦争が犯罪行為?いつそんなルールができたのかね?
民間人を極力巻き込まず、双方の死者を極力ださない戦争を綺麗な戦争と定義してなにか問題でも?
※181※183
ならそう主張しとけよ、お前以外誰も賛同しないだろうけどなw
※185
当時の秀吉の身分を知らないのかお前は、秀吉の養女になってから天皇にも嫁いでいるってのに
どっちにしろ信雄の娘のように人質として差し出されたケースは少なくなく、
秀吉が自分の養女を可愛がったのもおかしくもない、前田家の娘も可愛がられ、病気の時はお稲荷様を脅すようなものまでしてるほど、養女だからそうしないというのは秀吉をまるでわかっていない
兵糧攻めされた側?
別所は織田家についていたのに謀反をした家
鳥取城は織田家についていた山名氏を追い出して、家臣が城を乗っ取ったケース。
秀吉はどちらも責任者の首(別所一族と山名氏を追い出した重臣と吉川)だけで許している
当時の基準でも非常に人道的といえる
信長そんなに厳しくないぞ、軍役などもゆるゆるだし、基本的に関与しない。
家康にいたっては大阪の陣でもやりたい放題だったのが有名じゃないか
秀次事件は別に残虐でもなんでもないよ。謀反人の処置としてはむしろかるいくらい
信長や家康なら鋸引きとかにしてる
※189
やってないよねつ造しない
※192
兵站が破綻し、食糧もなくなっているのに降伏しないで徹底抗戦しているのなら、
それを指示した司令官が悪いのであって、攻めている司令官は何も悪くないだろ
そして難癖つけて戦争起こしているなら難癖つけたほうが悪いに決まっている
信長も家康も規律は無茶苦茶厳しいぞ。信長は盗みイコール死罪だったし。
家康も軍令違反は重罪で規律は無茶苦茶厳しかったし。
だからといって民間人を意図的に巻き込むのは許されていい事ではないだろう
ましてや降伏したものまで処断するのはね
降伏していないものや敗残兵の掃討などは問題ではないとは思うが
兵糧攻めが人道的ってなら敵皆殺しにするのも人道的だし、奴隷にして売り飛ばすのだって人道的だわな。
かなり無理があるよそんなん。
秀吉に都合が悪いことをすぐねつ造扱いするのは君の悪い癖だなぁ。
何がそんなに気にくわないんだ?
秀吉は聖人君子じゃないでしょ。聖人君子に務まるほど天下人って気楽なもんじゃないし。
女子供まで皆殺しにしてれば残虐だよ
それ以上でもそれ以下でもない
他の大名がやっていたとしても、その大名もまた残虐だというだけ
ちゃんと誠意見せれば降伏という選択肢もあったんだし
そもそも普通に戦いで殺すのは残酷じゃないのか?
秀吉の場合民間人巻き込んだりしてるし、そもそも戦争そのものが残酷の極みですし…
いいようによっちゃ、長く苦しませるのは残酷無情って言えるんじゃない?
その点我々は苦しみなくあの世に送ってやってるからセーフ的な反論もあるし。
降伏できたろ、ってのは勝者の理屈でまぁ正しくはあるんだが、それを徹底すると最終勝利者の徳川家康が一番正しいことになる。
そういう理論はあまり使わない方がいいと思う。家康信者なら兎も角…
戦争そのものが残酷なのは上のコメで言及されてるが
にも関わらず秀吉は綺麗な戦争をしたなんて世迷言を言うから、おかしな事になるんだが
ないの?なんかあるでしょ。
貧者を助けたとかさ。
ここは色々な人がいるわけで
俺は綺麗な戦争などないという派だ
君は自分と意見の違う人間を十把一絡げでまとめる
そんなんじゃダメだ
物語に影響されすぎ、秀吉だけに限らず優秀な統治者は基本的にどの政策も目標がある
当時の時代の人間のコンプレックスなんか測れんわ秀吉アンチも構わないけどその辺区別していかないと
なにがですしなのか
なにがともかくかわからんが レッテルはやめなさい
秀吉のやり方がぐう聖だとコメントする人間に対して残酷だと言うならちゃんと比較できる内容持って来い
何の反論にもなってないけど何が言いたいの?
戦争そのものが残酷の極みである以上、そこに人道が入り込む余地はほとんどない。
あるなら例えば赤十字みたいに万人を助けてたって連中だけよ。大将になって戦争指揮してて人道的もへったくれもないもんだ。
何がレッテルなのかよくわからんが、「強者に歯向かったらアホが悪い」「降伏していれば命は助かったのに」っていう理屈は徳川家康みたいな勝者のための理屈よ。
秀吉に当てはまるのはどうかな?
大人しく家康に禅譲してりゃおたくの息子さんも片田舎の侍で生きていけたろうに、っていうオチになるだけよ。
もちろん、君が徳川信者だというなら、これ以上の理論はないけどね?
そりゃ秀吉が人道的な戦争をしたとか言ってる奴がいりゃ、そんな話になるだろ。
人道的な戦争なんて世迷い事言ってるのアメリカ人だけかと思ってたぞ。
信者レッテルつけないと語れんのか
秀吉こそ大規模な戦争の勝者じゃね
なんで家康だけに適用して秀吉を除外するん?
歴史版読まないのか…そうかなんか悪かったな
君が行くのはネット右翼左翼政治まとめだと思うぞ
>>217がレッテル貼りしてるから批判しようね
歴史の話ししろ、なんでそう思ったのか、ほかの誰と比較してどうして秀吉が非人道的なのかお前はズレた批判ばかりでろくに歴史の話しをしない
あなたとは会話してないし、そもそもあなたは右翼左翼がどうとか歴史の話してないですけどそれは
レッテル貼り批判の人どこ行ったの?
早く批判しなよ
歴史の話し出来ない奴にはそりゃ他のまとめ勧めるわ
批判まだ?
えー。歴史板ってのはそんなに低レベルな話してんのか…まぁ日本のインターネットってのはそんなもんらしいけど…
あのさ、秀吉含め戦国大名に人道的な奴なんているはずが無いだろ?
そもそも戦争ってのは単なる暴力行為でどう言い繕うが非人道の化身よ。
殺すか殺されるかしてるんだから当たり前だけどさ。
そんな中殺し方が綺麗だから秀吉は人道的、なんて世迷い事抜かしてる奴がいるんだぜ?噴飯とはこのことよ。
例えば戦術家だったとか言うならまだわかるけどさ。人道的とか笑えるわ。
どうしてほしいん
信長や家康なんて降伏してもなで斬りばっかだし
全員許したり許さなかったりだぞ
そもそも
敵対しておきながら都合が悪くなると
降伏して許されて当然って考えって虫が良すぎるんだよな
裏切ったり降伏したりしても受け入れられるかは勝者の都合っぽい。
秀吉自身、綺麗な戦争しようとか思ってないだろうし。だって民間人巻き込むのが当たり前だからね。
そのこと自体は仕方ないよ。戦国時代だもの。
捏造おつ
上で出てるのはガチっぽいぞ。
戦国の世なんだから割とありそうだけど…
無知乙
盗み=死罪をやっていたのは秀吉、太閤の一銭斬りが有名
上洛した時京都武将していたが、その時から盗みにも厳罰であたり一銭でも処罰している
家康にいたるとそういうのは全部スルー、大阪の陣でもやりたい放題だった
漫画か小説のフィクションを信じているみたいだなお前
信長公記には裏切って宇喜多側を引き入れ、不利になったので宇喜多の将上月景貞の首をもって降伏してきたとある、
上月の首は信長に送られ、あくまで上月城に立てこもる残党は掃討され、かれらが磔刑にされた。
女子供なんてどこにも書かれていない、もちろん串刺しもな
フィクションを史実と誤認してるぞ
兵糧攻めは双方が傷つかず、降伏すれば責任者以外全員助命されたので人道的といえるが、
なで斬りと奴隷として売り飛ばす事のなにが人道的なのか説明してみ?
屁理屈にもなってねーよ
秀吉アンチはほんと頭おかしいな
史料に存在しないものを主張しているのだから完全にねつ造だろw
秀吉は当時としては人道的な人物で、綺麗な戦争をしていたという事実の何が気に食わないのかね?
ちなみにこれは史学においてはすでに確立している学説
大量の禁制を発行し、略奪や拉致放火などを厳しく取り締まった軍ってのは当時では秀吉の軍くらいのもの
謀反の場合一族にも咎が及ぶ。罪には公平な罰が与えられなければならない
親族であるから、女子供であるからといって助命されたら法の公平性が保てない
浅井長政の母親や大賀などのように指から寸刻みとかじゃないんだから寛大な処置
民間人は城にそもそも逃げ込みません
城に立てこもって敵に協力している時点で利敵行為
禁制をかって安全を保障してもらう、人質を差し出して兵や兵糧などを差し出して味方になる、
寺に逃げ込む、山に逃げると色々選択肢はあります
秀吉は戦に民間人を巻き込まない綺麗な戦争をしていた人物です
身分統制令なども軍民を分離して農民を保護し、また武士を集約することで紛争を村々から避ける目的もある
戦争が残酷の極みというのなら、喧嘩停止令や総無事令で村同士や大名同士の戦争を禁止した秀吉こそ人道的な人物といえる
殺し方が綺麗じゃなくて、そもそも人を極力殺さないようにして、民間人を犠牲にしないから綺麗な戦争で人道的なんですよ。
話を必死にそらそうとしない。
間違いはきちんと認めましょう
それをみな許しているのが秀吉なんだけどね。
敵対した大名もみな降伏すれば許される
毛利も上杉も徳川も長宗我部も島津も北条も伊達もね
その結果人たらしと呼ばれたほどの圧倒的な人望をえた
民間人の件ってあれじゃない?
城下の町を焼き払って、難民化した連中を城に追い立てる→城主は民間人を見捨てる事ができない(それをすると仮に勝っても人望ガタガタで終わったも同然だから)→兵糧の減りが増える→地獄絵図
ってやつ。
秀吉は信長の下で「町を焼き払って敵をおびき出す」みたいな作戦を指導したことがあったからその経験を生かしたんだろうね。
よくある話よ。
信長もやってたし、信玄もやってたし…歴史を辿ると源頼朝もやってたな。
でも厳罰化って必ずしも民度や文明度の計りにはならないんだよな。
家康のお話で、武田を滅ぼした家康が信玄の人炒り釜を見つけて持ち帰ろうとしたら、鬼作左が「煮殺すような罪人を作るような治世で天下を収められるか!」と釜をぶっ壊して家康を諌めた…って話があるけど。
銭一枚盗って死罪、ってのは逆に言うと秀吉の部下が如何に統率が取れていなかったか、そして彼自身それを裁く事ができなかったという苦労話ってことなんだろうなぁ。
兵糧攻め→飢餓という人間が味わう最大の苦痛を与える最低の方法。しかもそれは民間人等弱者を巻き込み、それを助けようともしない外道、畜生の戦法。自分たちは傷付かず高みの見物という卑怯者の戦法。
撫で斬り→苦しまずに来世に送ってやるという人道にあった方法。しかも敵に戦うチャンスをやれる。更に自分たちも戦うことになる、男の戦法である。
奴隷化→殺すのは残酷、また苦しめることもしのびない。そこで命だけは許してやるという菩薩の法である。また奴隷も立ち上がる可能性はある。つまり未来を与えてやっているのである。
はい論破。
…ってことよ。つまりモノは言いよう。勝者が都合良く言えばそれが通るってだけSA。
でも「降伏すれば助かる」なんてどうかな?
そんな約束守られると思うか?戦国の世に?
バカにしちゃいけないよ。戦ってる時にはなんとでもいうさ。だが降伏したら助けるなんて誰が信じる?少なくとも私は信じれないな。
武器を捨てたら殺されるに決まってるもの。
それを降伏しない相手のせいにするのは…
まぁ勝者が全てだ。
秀頼が家康に首を垂れてれば良かったのに、ってのと同じロジックではあるよね。
家康は犯罪を容認する人物なので論外
※255
屁理屈にもなってない、なで斬りで苦しまずに死ねる?怪我しても痛くないとか珍妙な理論だな
民間人弱者も当然巻き込まれて死ぬ、兵糧攻めと違ってな
そして秀吉は降伏したら全員助けてるんだな、播磨では年貢永代無料と大盤振る舞い
そういう時代でも秀吉は約束を必ず守り、降伏したものを助けていた人道的な人物
秀頼?降伏したけど殺された事例じゃないか。
何がいいたいかわからん 奴隷化はそりゃ殺すよりはるかに
寛大だろ
無罪放免が一番寛大だけどな
大体 正々堂々という自己満足で味方大量に死なせる大将と
卑怯と言われようが安全に勝って生存率も高い大将
つくなら後者だわ 恨み買うとかそういうリスクもあまり変わらんぞ
※246 ※252 ※257 ソースどこです
下村文書 羽柴秀吉書状
戦争はそもそも非人道的な行為でそこに綺麗も汚いも存在しないのさ。
さもなければ皆殺しにしようが兵糧攻めにしようがその全部が綺麗な戦争ってことになる。
勝者がやるのが綺麗な戦争。敗者は全て悪い。
だから秀吉が綺麗な戦争をやった、っていうのは余りおススメしないな。
だってそれで得をするのは最終勝利者の徳川家康だからね。
秀吉が綺麗な戦争をしたなら、家康はもっと綺麗な戦争をしていたことになる。
勝者の理屈は冷酷なものよ。
汚い勝利も、綺麗な敗北も、あるから議論になってるんだろ
でもそれは勝利者の理論であって、それを主張するのは危険だよ。
少なくとも秀吉を擁護するのには危険だよ
詭弁か?
それとなんで秀吉だけ
「少なくとも」って、枕言葉つけてまで特別視して嫌うんだ?
女子供を磔、串刺しにする綺麗な戦争w
理由は書いてあるだろ?「綺麗な戦争」なんてのは勝利者の理論なんだ。
だから敗北者の秀吉を擁護するのに使うのは危険だと感じたまでさ。
確かに、秀吉は"人道的に"戦争したと言える。勝ち続けてきたからね。勝ってるから悪いのは負けた奴と言える訳だ。
ところが秀吉は敗北した。誰に?
徳川家康にさ。秀吉は家康に勝てなかった。
そして秀吉の息子は切腹、豊臣家は滅び去った。
勝利者の理論に従うなら家康が一番正しいことになる。リングに最後まで立ってたのだから。
秀吉にも悪いところはあった。それでも勝利してきた、というならこの結論は避けられるけど。
まぁ私は勝利者の理論にはそこまで異論はないけど…
だから、そんな事実は漫画だけです
信長の斡旋によって数え二つで秀吉夫婦の養子になった前田の豪姫のこと忘れてないか?
豪姫は当時数えで七つだし七五三の祝いも兼ねて息災祈願をしたんだろう
調べたけど、秀吉自身がやったって言ってるみたいだぞ。
上月城攻略についての秀吉書状
敵への見せしめとして女子供200人を集め、子供は串刺し、女は磔にした。
また、この時秀吉は相手方の降伏を受け入れず皆殺しにしたとのこと。
ちゃんと確認できるもの貼ってほしい
資料名貼られても
誰もが確認できないものじゃ
意味がない
これによると秀吉は上月城の兵士が城主の首と引き換えの和睦を約束しておきながら、いざ開城すると皆殺しにした挙句
民間人を虐殺したと書かれている。
これをもって秀吉は約束を守らない卑劣な男だとか、虐殺を好む暗君の素質があるとか言われているらしいが…
実際のところ、秀吉には実績が必要だったのだろう。成り上がりの彼からすれば、無茶苦茶やったとしても成果が必要だったのだ。
だから、そんな事実ありません、
信長公記にも城に立て籠る連中の成敗とあり、女子供なんてどこにも書かれてない
書いてある書状提示されてますが
女子供は下村文書(秀吉の書状)だが、信長公記の記述だけでかなり問題あるんじゃないの?
お前さんの理論だと「秀吉は人道的な戦争」をしていて、「お互い犠牲が出ないように」兵糧攻めしてたんだろ?
相手が城主の首を差し出して降伏しているのに、それを皆殺しにして磔にしてるって信長公記は書いてあるんだぜ?
人道的ねぇ。犬にでも食わせろって気がしてくるよ。
ちょーっと、まずかったねぇ。君より秀吉に詳しい人が居るとは。
にしても秀吉も割と外道な技をやりやがる。まぁ時代が時代だからなぁ…
兵庫県佐用町の刊行書に乗ってた気がする
検索するとなんか出たが
それも伝聞だし
韓国に思考よった人間のブログなので
中立な立場とはいいがたい
原文そのもの読める場所はないだろうか
羽柴秀吉書状を抜いたら写し出てきたぞ
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15105&bbs_id=122
渡邊大門氏の著書の要約はこうだってよ
https://ironna.jp/article/10536?p=1
秀吉自身がやったと言ってるのだから否定のしようがない。
上月城、三木城、鳥取城における秀吉の行いは割と有名なんだってね…
結局、秀吉も戦国時代では普通の武将だったのさ。
確かにこれらの事件によって、秀吉の残虐性・残忍さは証明されたという人はいる。そうなのかもしれん。
しかし、時代を考えたまえ。戦国の世において、弱者を慮るような人間性は弱点でしか無かったのだ。
とりあえず信じよう
世の中嘘つく人間はいくらでもいるからな ネットの情報は疑ってかかるのは当然のことだ
これは本物なんだな
しょーじきそんなに不思議なことじゃないでしょ。
秀吉が残虐ってか時代が時代だし。
綺麗な戦争とかあるはずもないし。
鳥取城の一件だけで割と秀吉の評価にはヒビが入ってるがな。
秀吉が兵糧攻めを得意とした理由は、やはり第1は味方の損害を抑えることができる。
第2は敵を悲惨な状況に置くことで、反抗勢力の士気を下げようとしたのだろう。
まぁそんなところさ。秀吉にとって力こそが全てだったのだ。
「これが秀吉が描いたものである」ということも証明が難しそうだが
そこまでいうともっと他の資料すべて疑わねばならんからな
線引きが難しい
豪姫について嫁入り前の情報は川角太閤記がソースだぞ
まったく当てにならんといっていい、豪姫がいつ秀吉の養女になったのかは史学的には不明
それに七五三って江戸時代から始まったものだし、豪姫は天正二年生まれだから数えで年で天正九年時は八歳だよ
数え年は生まれた年が一歳、次の正月ごとに年齢を足していく
秀吉にも暗黒下積み時代があったのだ。ってことにしておけば…
江戸幕府の支配体制を確立させたのは家康じゃないもんな。