【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋・金西寺文書に辛辣な批判記述…恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す
月岑牛雪大和尚の肖像画の前で「當寺御開山御真筆」を持つ高崎住職㊧と島田教授(豊橋市役所で)
豊橋市下条東町の金西寺に伝わる文書の「當寺御開山御真筆」に、戦国武将の織田信長を批判するような記述が見つかった。調査した専門家は、仏教を弾圧した信長に当時の仏教界が抱いた感情を理解する上で貴重な史料だとしている。
「當寺御開山御真筆」は、江戸時代を代表する高僧の月岑牛雪大和尚が1619年頃、金西寺を開く際に書いたとされる。寺宝として長く収蔵されていたが、高崎俊幸住職(60)が豊橋創造大の島田大助教授(53)=日本近世文学=に解読を依頼した。
その結果、文書の冒頭に江湖散人という僧侶の詩文が引用されていることが分かった。1582年6月の本能寺の変の翌月に書かれたとみられるその詩文では、仏教を弾圧した織田信長を「大猿」「黒鼠」と蔑(さげす)むように表現し、「苛政暴虐枚挙に堪えず」と告発している。信長の治世を公家が糾弾した例はあるが、僧侶がここまで過激に書くのは珍しいという。
江湖散人と同一人物とされる集雲守藤は、子どもの頃に信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを間近に見た可能性がある。辛辣な書きぶりから、島田教授は「信長に対する恨み、つらみが普通ではなかった」と当時の仏教界の心情を推し測る。
http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285
◇批判 本能寺の変の後か
豊橋市にある曹洞宗の金西寺(高崎俊幸住職)に伝わる古文書に、戦国武将の織田信長を批判的に評した詩文が引用されていると、調査した豊橋創造大学の島田大助・教授(53)(日本近世文学)が1日、発表した。詩文は、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年6月)の翌月に書かれたとみられ、「信長がいなくなったことで、当時の人たちが心中に秘めていた思いを表に出せるようになったのではないか」と島田教授は話している。(藤川拓生)
金西寺の寺宝であるこの古文書は、寺の開祖である月岑牛雪大和尚が書いたとされる「當寺御開山御真筆」で、江戸時代前期の1619年以降のものとみられる。引用された詩文は、この冒頭にあり、集雲守藤(別号・江湖散人)という僧の作で1582年6、7月に起きた出来事が書かれている。
島田教授によると、この中に、信長について「金を多用してぜいたくな安土城を築いた」「比叡山の焼き打ちを行った」などと解釈できる表現があり、「黒鼠」との言葉も出てくる。島田教授は「『黒鼠』は、この詩文では『害を与える者』という意味で使われ、信長を批判している」と解釈する。一方で、明智光秀については「勇士であり、(信長を)討ち取っても、誰も批判しないだろう」という内容もあった。
詩文は、寺が開かれる時に祝辞として書かれる「開山記」として引用された可能性があると言い、「仏教界と敵対した信長が亡くなり、ようやく安心できる世になるという人々の思いが表現されているのではないか。それにしても、黒鼠という強い表現で時の有力者を批判した文書は珍しい」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20170201-OYTNT50167.html
引用元http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1486072102
黙ってお勤めだけやってろ
それなw
織田信長の先進性を認めながらも、小説の下調べのため史料を調べている時に
残虐な振る舞いの多さに気づき、以降信長を嫌うようになった、と
エッセイ『信長ぎらい』で述べている。別のエッセイによれば、
この小説は明智光秀を描いた小説『逆軍の旗』のことであったという。
また、この信長観については「全集」解説を担当している向井敏が、
司馬遼太郎との差異として取り上げている。
中世以前に残虐じゃない英雄なんておるんかいなw
>中世以前に残虐じゃない英雄なんておるんかいなw
いないな。まぁ、無理やり引き出してウェールズの聖デイヴィッドとか
聖人兼英雄みたいな人ぐらいじゃね?だいぶ無理があるが
あぁ、あと残虐な話が失伝した古代の半分神話の人だとか。つか、聖デイヴィッドも半神話の人か
秀吉も家康も元就も信玄も信長と比べたら
圧倒的に穏健柔和で寛容
どっちにも良い側面もあれば悪い側面もある。
戦争で決着がついたとしてもどっちが正しいかなんてのは一概に断じられない。
それは単なる勝者の見方だよ。
既得権益なんてのはどの業界にもあった。
信長はそれを武家に集中させたかっただけ。
結果的には秀吉と家康が受け継いだけど。
どっちも正しいよ
戦争なんてそんなもんだよ
たぬきが喋った!
この時代の僧侶はヤクザみたいな感じだったらしい
信長はそのイキった僧兵をキャーン言わしただけであって、
それを仏教弾圧とかって言っちゃうのは違う気がするな
堕落してる姿を見て、最初は黙って見ていたって書いてあるぞ
まあ、皆殺しはやり過ぎだけどなw
当時は偉う宗派同士での争いでも宗徒含めて皆殺しなんて普通に起こったんだよ
坊さんどうしの争いの話しな
寺ごと焼いて皆殺しは信長がはじめたわけじゃない
>最近信長公記見たけど
>堕落してる姿を見て、最初は黙って見ていたって書いてあるぞ
信長公記は信長の祐筆が書いたんだから
悪くは絶対に書かないけどな
アレに書いてない悪行も多いぞ
書いてない悪行って、具体的には?
寺院を焼き討ちされてんだからな
恨み骨髄だよ
んで信長に攻め殺されたら文句言うってアホじゃね?
止めどもなく堕落していく仏教…
女人禁制の山に女が居たって時点で、どれだけ当時の坊主が腐りきってるかが解るわ
という認識がおかしいだろ
・妻帯してもOK
・武装してもOK
・統治してもOK
いや、焼き討ちくらったのは比叡山(天台宗)であって、それ以外にはさほど害はなかったのだが。
一向一揆で浄土真宗の門徒が沢山殺されてるよ。
信長以外の為政者にも焼き討ちされてるし
どんだけ嫌われてんだよって話
んなことぁない。
近江、伊賀、伊勢の寺院は、相当、焼き討ちされてるぞ。
信長の宿敵、顕如は浄土真宗だけどな
信長の野望で顕如を知った
俺はのぶニャがで知ったわ
比叡山が堕落してたのは事実だが、それで仏教界全体が堕落してると決めつけるはあまりに暴論だろ
そもそも寺社が武装してたのだって、そうせざるを得ない社会状況だったわけであって…
なにより信長がやった苛烈きわまりない虐殺が許される理由にはならないな
宗教家の武装はそれこそ千二百余年前の陰陽の時代からあったけど
仏教の坊さんが普通に信長包囲網に参加してたぞ
他にも敵対大名庇ったりしまくってたし
さらに一揆扇動
そこまでされたらそりゃああなるわ
武装だけじゃないよ
琵琶湖の権利を独占して金儲けし
山に篭ってるのは下っ端だけで
上の人間は山下りて女抱いて1日中遊びまわってたんだから必然
全ての仏教が堕落してた訳じゃないが、天文法華の乱とか酷かったからな。
それに、事実として信長は宗教弾圧はしてないよ。あれだけ戦った領内にある一向宗の寺でも、乱を起こさないとの誓約を出せば安堵されてた。
敵対する宗派であっても、宗派そのものを潰そうとはしなかったからな。
信長は仏教界全体を迫害してたわけじゃないだろうに。
それに寺社の武装がそうせざるを得ないのなら、
比叡山焼き討ちもそうせざるを得なかった社会状況だったわけだな。
信長が日本中の仏教施設を焼き討ちしたかのように叩くのは如何なものか(´・ω・`)
信長は敵対者に容赦なかったけど宗教そのものには寛容
宗教自体はぜんぜん弾圧してないんだよな
というか敵対勢力って観点から見ても、本願寺なんか何回も裏切ってるのに許してる
普通の大名への対応に比べたら激甘
囲いで包囲して降伏の意思を示したのに出てきたところを鉄砲で射殺。
激怒した一揆衆が逆襲に出て信長の弟と稲葉一鉄が惨殺。
激怒した信長は建物に火を付けて出てきた一揆衆を機関銃のように鉄砲で蜂の巣にして銃殺して皆殺し。
今なら国連で国際法廷かけられるはな。
どうでもいいけど一徹者はそんなとこで死んでない
これが仏教界が信長を恨んでる理由でしょ
各地での商売の市場を仕切ってたのが寺だったのに
信長の楽市楽座で徹底的に利権が破壊されたから
宗教弾圧されたから生存のために武装して抵抗した
武家勢力その他からの侵略に対抗するために武装して抵抗した
というよりは、宗派内での権力者が既得権益を守るために信者を武装化した、という感じに思えるんだよね俺も
世界史の数々の戦争紛争と同じで、やっぱ原因はお金でしょ、と
それが原因の権力者対権力者のガチ戦争
で、信長は懐柔が難しいし信者が全員兵隊たりえるから皆殺しにした
なんか原爆投下におけるアメリカの主張に近いものになってしまうがw
うんうん
中公新書の『応仁の乱』読むと、興福寺内での塔頭同士の対立、興福寺と周辺武将との連携、対立、興福寺と室町幕府との対立、妥協などがよく分かる。
大寺社は所領の運営や座の保護などの経済行為が主たる活動になっている部分が大きいから、既得権益を脅かす権力やライバルには過剰に敏感なんだよね
負けた本願寺は大阪で石山本願寺として籠ったがそこは今の大阪城になっている 宗教は自分の勢力を伸ばすために宗教同士で戦争してさらに 大名の戦にも手を出している
守護大名を追い出して本願寺国を作っていた所もある
そういう時代なんだよ
自分達が得た権利を主張し守り抜く為には力が必要
金が貯まる→盗人に襲われる→自衛のために武装する→周辺への影響力が増す
以下ループ
そう思えること自体が信長の功績。
イスラム国を例に挙げるまでもなくこの時代まで寺社勢力は武力を背景に政治介入していたし寺同士の武力闘争も普通にあった。
比叡山は信長以前に麓の三井寺とお互いに何度も焼き討ちをしあっている。
応仁の乱以降、治安悪化で宗教勢力も武力を持つ必要があった
それにより過激派仏教徒による宗教戦争が激化
大名家のような強固な組織を組んでる勢力も現れ多くの大名達はその勢力を無視できなくなり妥協の道を選んだ
そんな中で仏教勢力に対して妥協せず徹底抗戦をする織田信長が現れる
織田信長は武装した仏教勢力を徹底的に討伐した
その恨みつらみが>>1
石山本願寺の顕如なんか普通に武装して信長と争ってたぞ
なんでだろうな
想像したらジワジワ来るよなw
比叡山 焼き討ちされた
高野山 焼き討ち前に本能寺イベント
どちらが御利益が有るかは明らか
宗教的(信仰的)には高野山が強い(高いと言ったほうが適正かな?)
これは、比叡山開闢の最澄が、空海に弟子入りしている事から。
ただし、政治的(および軍事的)には比叡山が強い。
比叡山は弟子筋が優秀で、末広がりになったらしいのと、比叡山が政治参加に熱心だったせいだね。
ちなみに、日蓮も親鸞も共に比叡山系列。鎌倉期にがんがん分離独立していったとは言え、当時弟子入りすると言えば比叡山だったみたいだ。
信長の頃は僧兵を集めて、軍事拠点化してたから「強い」って言葉で言えば、軍事力を持ってた比叡山が強いだろうね。
まぁ、純粋に信仰集めてたという意味では高野山が高みにあるかな。
ちなみに、信長の家は日蓮宗系で、討たれた本能寺も日蓮宗系。
なのに、なぜか信長の墓は高野山にあったりする。
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