https://president.jp/articles/-/112915?page=1
天正6年(1578年)に父の政職は織田方から離反して、織田氏に対する毛利氏方につくようになった。
籠城の末、天正8年(1580年)に御着城は落城する。それに前後して氏職は父と共に御着を離れ、英賀を経由し、毛利氏あるいは毛利氏の下にいた将軍・足利義昭を頼って備後国鞆の浦へと逃れた。
天正12年(1584年)、父・政職が没した。その際、旧臣であった黒田孝高の仲介により播磨へ戻ることが許され、飾磨津に居住した。
九州平定後、黒田長政が豊前国中津12万石を与えられると、孝高の招きによって中津へ移り、客分として遇される。
関ヶ原の戦いののち、黒田氏が筑前福岡藩に移封されるとそれに従い、その後は大宰府で余生を送った。与えられた石高は僅か200石だったという。
寛永4年(1627年)、大宰府で没した。
息子はいずれも福岡藩士となり、末裔には「職」の通字を代々称した家系(清職(きよもと)の子孫)と、後に藤田氏と改姓した家系(吉則(よしのり)の子孫)が伝わっている。現在はいずれも小寺氏を名乗っている。
なぜなら、戦国という激動の時代において、単なる情誼だけで動く者は生き残れないからだ。官兵衛のような才覚を持つ者は、目に見える武力や領土だけでなく、目に見えない「繋がり」の価値を誰よりも深く理解していた。小寺家のような旧勢力の生き残りを養うことは、表向きは恩義に見えるが、実態は情報の源泉や、いざという時のための地下組織を構築することに他ならない。一度壊れた勢力をそのままにせず、自らの傘下に組み込んで「部品」として再利用する。この冷徹な合理主義こそが、彼を単なる武将ではなく、時代の設計者たらしめている証拠なのだ。
天下を取ってたら違う日本になってたかもな
不敗すぎて晩年秀吉や家康に疎まれた感じだな
町長ぐらいの合議体なんだから
力関係が変わっただけ
没落し家康に馬鹿にされたり叱られたりしつつも
何とか高家旗本で生き残った山名豊国さんが
かつての仇敵武田高信の子孫が困窮してるのを知り
召し抱えた話のほうが好き
天正4年(1576年)5月、山名豊国によって父・高信が謀殺されると重臣・西郷因幡守によって、同国高草郡松上村の松上社神主・大畠平左衛門の屋敷に匿われる。半年間ほど潜伏した後、事情を知った伯耆国の南条元続に引き取られ、南条氏の下に滞在した。南条氏の紹介で豊臣秀吉に謁見した助信は、秀吉によって鹿野城番を命ぜられた。『因幡民談記』によればこの時、秀吉から左文字の刀が与えられたという。天正8年(1580年)には長和田・長瀬川の戦いに500余兵を率いて参戦、南条氏を支援した。しかし、同じく鹿野城番であった亀井茲矩に疎まれたため、計略を以って鹿野城より追放された。再び流浪の身となるも、まもなくして小早川秀包の下に召抱えられ、筑後国久留米に滞在した。
慶長6年(1601年)、但馬村岡藩主となった山名豊国に200石を以って仕える。豊国より仕官の誘いを受けた当初、父を謀殺した相手であることから非常に複雑な思いを抱いたものの、豊国の熱心な誘いに心を動かされ、仕官を決意したという。この時、太郎右衛門と改名、入道した後は久岳と号した。正保3年(1646年)、死去。享年86と高齢であった。
長政「左手は添えるだけ」
屈辱だろ
今川氏が滅亡すると、徳川家康に仕えるが、天正2年(1574年)の第1次高天神城の戦いにおいて籠城して武田氏と戦うも、のちに降伏した。すると、織田氏家臣で長浜城主になっていた秀吉によって、之綱は家臣として召し出されたとみられる。天正3年(1575年)の長篠の戦いの際には秀吉の前備として兵100を預けられた。
天正10年(1582年)の本能寺の変から天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いを経て、同年丹波国・河内国・伊勢国などの内に秀吉から3,000石の所領を与えられた。之綱が丹波に所領を与えられたのは、大坂城築城のための用材を淀川水系を利用して流下させたからであろうと考えられる。天正15年(1587年)3月には、秀吉の九州遠征にも前備の直属部隊として兵150を率いて従軍、秀吉が4月9日付けでその前備17名に宛てた朱印状で、「松下加兵衛事、(秀吉が)御牢人の時、忠節の仁(人)に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候」と述べ、松下加兵衛との旧縁に言及、格別の計らいを指示している。この年、従五位下・石見守に叙位・任官され、同年に丹波3,000石を加増され6,000石となった。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川家康が関東に移封されると、10月3日に遠江で1万石追加され、遠江久野(袋井市久能)1万6,000石の所領を秀吉から与えられた。この時の居城である久野城は城の規模は小さいが、瓦の格式が高く立派な作りであったことが発掘調査の結果から明らかになっている。
その子は黒田一成と名乗り、黒田の重鎮としてながーいこと活躍した
世話してくれた人は荒木の没落とかいろいろあって困窮して結局黒田の世話になる
輝元が抗議にいくと孝高は、「殺意の高い城をつくると警戒されるよ」と答え輝元は渋々納得させられた
同じエピソードが生駒の高松城にもある
一方孝高はじぶんちを実戦的に改修して殺意高い城にした
引用元: ・
https://hayabusa9.5ch.io/test/read.cgi/news/1775896854/