
【視聴率】「真田丸」第36回は視聴率16.5% 第2次上田合戦で真田兄弟が敵味方に
堺雅人さん主演のNHK大河ドラマ「真田丸」の第36回「勝負」が11日、放送され、
平均視聴率は16.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・以下同)を記録した。
「真田丸」の平均視聴率は、初回が19.9%で、第2回が「八重の桜」以来、
3年ぶり大台乗せの20.1%を記録。その後も高視聴率を記録している。
「真田丸」は、堺さんが真田幸村の名でも知られている戦国時代の人気武将・
真田信繁を演じ、戦国時代に信州の小さな領主のもとに生まれた信繁が、
家族とともに知恵と勇気と努力で乱世を生き抜く姿を描いている。三谷幸喜さんが
2004年放送の「新選組!」以来、12年ぶりに大河ドラマの脚本を手がけ、
長澤まさみさんや大泉洋さん、草刈正雄さんらが出演している。
第36回「勝負」では、第2次上田合戦が描かれ、真田信繁(堺さん)と
兄の信幸(大泉さん)が敵味方となった。「真田丸」はNHK総合で毎週日曜
午後8時ほかで放送。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160912-00000005-mantan-ent
引用元http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1473643177
非常に史実に忠実で良いと思いますッ!
関ヶ原はあれでもいいが第二次上田合戦がしょぼい上に短い
予算もっと使え
局員の年収1000万、新社屋建設数千億、受信料抜きまくって金有り余ってるくせに
テレビ番組には金をかけない糞NHK
関ヶ原の戦いをちゃんとやれ
視聴者の観たいものをやらずに自分の都合だけを押し通してたら
誰も期待しなくなるのは当たり前
あがってるし
いやべつに散々弄り回されて手垢だらけの関が原とかみたくないから
いつも16~18%くらいで堅調だよ。
今はテレビ冬の時代、昔と違って15%取れるコンテンツなんてそうそうないから。
戸石城攻めなんてコントやん
それより沼田城と戸板城のセットが使いまわしでワロタ
何言ってるんだ城セット使いまわしは歴代大河のお約束だぞ(´・ω・`)
それでもせめて同じ回で同じセットは見たくなかった
しかも似たようなシチュで
カットは当然だろ
小田原攻めのときはいるはずのないのに
でしゃばって黒田の代わりに軍師の役割をやってたよね
上田合戦の肩透かし振りもなかなかなものだった
怒ってもいいのか?
若い頃の秀忠は基本、ポンコツ
葵徳川三代の時の
西田はそうだった
葵徳川三代の秀忠大好きやわ
今回はキリちゃんの出番なかったな
きりちゃんをどうやって関ヶ原に行かせるのか、楽しみにしてたのに…
前回はガラシャの最期に立ち会ったからな
肝心の第二次上田合戦がアレじゃあなあ
もっとスカッとさせておいて急転落下の方がメリハリが効いて良かったと思う
小松姫のエピソードもコントレベルの処理だったね
そういや最近の大河でがっつり関ヶ原やってないよね
真田、黒田、江、直江
だって主人公が現場にいないんだからしょうがない
小田原攻めのときは?
どこにいたのかははっきりしていない
父についていたともいわれているがそれを事実とできるほどしっかりした資料ではない
上田と関が原に同時に存在できるのか?
いるはずのない小田原城に出没したんだから
いなかったから表現しなくていいという言い訳は苦しいよw
この時代を表現するのに関ヶ原をすかすと、視聴者は離れていく視聴率は諦めるんだな
NHK側の言い訳は虚しい
逆に他の部分がせこくても、関ヶ原、大阪の陣を素晴らしいものにすると
今後何年も語り次がれるだろう、遠い過去の大河のように
語り継がれるも何も
葵徳川あたりは将来的に使い回すつもりで予算大量に投入してるわけだが
メインは真田親子なんだから
関が原の結果に驚く演出のために省略するのはありだったと思うよ
だいたい真田親子が関が原に出ちゃったら先に動いておいて遅参した秀忠はなんなのかって話しだし
てか、大河主役で関ヶ原に参戦したのはごくわずか。
家康2回と山内一豊だけ。後は敗残兵の武蔵。
ここから真田親子の苦渋の人生が始まるんだなあ(´・ω・`)
近藤正臣の雄叫びもあったぞ
それよりもチキン食ってるのがw
あれ野兎の脚じゃね?
自害するんやっけ?
何もできず首切られるイメージだが
NHK大河ドラマ「真田丸」 関が原の戦いを藤井隆のセリフ1分で終了
真田一族ゆかりの紐と伝えられる、「真田紐」をご存知だろうか? 大河ドラマでもいよいよ天下分け目の
「関ヶ原の戦い」が近付きつつあるが、歴史上、この戦に敗れた父・真田昌幸と信繁(幸村)は和歌山の九度山に
蟄居(ちっきょ:謹慎の意味)を命じられたとされている。
ここで一族の生計を支え、さらに行商人などを通じて諸国の情勢を探る役目も果たしていたのが「真田紐」なのだとか……
(商人に扮した忍びの者が、スパイのような役割を果たしていたのでは? とも推測されている)。
真田紐は当時、葛籠(つづら)や桐箱に巻いて結ぶなどの実用のほか、戦のときは刀の下げ緒、鎧や兜などの装着にも
使われた。戦場で屍となったときにも、身に着けた真田紐でどこの家の者かを判別することができたという。
と、そんなわけで今回は戦国時代から京都で「真田紐」をつくり続けている「真田紐師 江南」15代目の和田伊三男さんに
真田紐にまつわる様々な伝説をうかがってみた。
マジで真田が見てないものは描かないってスタイルだな
秀吉にはぴったりくっついてることにしたからやたら長かったけど
官兵衛のときもそうだったもんね
伊達越前守政宗!
同じーく!
細川越中守忠興!
>>92
ヤメロw笑うじゃねーかw
お前らwww
>>92
クッソww
これはこれでいいと思う
信長も少ししか出てない
スタジオ感丸出しだし、まさか上田城戦があれだけとは思わなんだ
上田の合戦シーンは2000年台以降の大河の中じゃ割りと良いほうだけどな
シエの上田合戦の方が詳しかったと思うが
いよいよ感を出しておいてからの、
SASUKEの台詞だったからね。
引用元http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1473587251
時代考証の丸島和洋さんのTweet「超高速関ヶ原」でした。本作は最初から真田一族ときりが見ていないものは「描かない」(家康や秀吉のひとりのシーンなど一部例外あり)というスタンスで決めているとのことでしたので、私としてもそれを踏まえて考証をしています。「七将事件」までの三成や小早川秀秋の動きは、上方に信繁ときりがいますから、そちらを描く分には問題が無く(秀秋と江雪斎は密室でしたが)、「関ヶ原にいたる道程」(三成が失脚しちゃう「七将襲撃」まで)のほうに力点をおくという形をとられたようです。もうひとつ、関ヶ原の研究史がここ数年で大幅に前進してまして、考証サイドからはどのような説をご提案するのが妥当かの選択が難しいかな、という点もありました(作劇の際の判断材料として)。もちろん、私の考えはお伝えしていますが。もう少し、議論が進むのをみたいところです。まず第二次上田合戦について。実は神川の堰を切ったのが第二次、大雨で洪水が起きたのが第一次なんですが、軍記では第一次でも堰をきったことになっており、それが採用された経緯があります。その関係で、少し違った描写になりました。ただ、本多正信が提案した「刈田狼藉」は基本戦術でして、この年の上田の収穫は壊滅的状態になり、百姓が逃散して荒廃した上田領を信之が引き継ぐことになります。戦国の合戦の一シーンを象徴的に描いていただけたと思っています。平野長泰。ドラマでは作劇の都合上「秀次事件」で召し放ちという扱いになっていましたが、実際は慶長3年、つまり秀吉の死去年に従五位下遠江守に任官しております。関ヶ原では、秀忠勢の一員でした。降伏交渉の使いとなっているのはフィクションですが。秀忠の関ヶ原遅参。今回ようやく「最初から裏切り者真田討伐を命じられていて、家康の命令変更が遅れただけ」という史実を反映してもらえました。なお、作劇上カットされていますが、岐阜城攻略は福島正則と池田輝政両名の手によるものです。東海道方面の先鋒は、福島と池田両大名が統率していました。なお、三成は福島正則に対し寝返り工作を続けており、福島正則も清須帰国後も門前払いにはしていません。かなり慎重な動きをしていたようです。平岩親吉は本当は厩橋城にのこっておりました。ただお芝居の関係で、第一次上田合戦参加者に出て貰う必要からの人選となりました。大久保忠世は既に死去、鳥居元忠は伏見で討死しているためです。もっとも、厩橋在城は信幸監視のためとされていますので、秀忠指揮下にはありました。今回は矢沢三十郎頼幸の見せ場であったかと思います。本当はこれ以前から信幸つきだったのですが、ドラマでは一時的に「信幸の命で」信繁に付けられました。江戸時代は信幸の家老になりますので、ここで本来の形に戻していただいた感じです。ちょっとほろっときてしまいました。小山評定は現在あったなかったで論争中ですが、私は史料を見る限り、あった」と考えています。もっともその場での具体的な合議内容は、わかりませんが。大谷吉継が真田が「案外要かもしれんな」といっているのは、昌幸領(上田)・信幸領(沼田)を経由すれば会津へ道が通じるためです(対応する台詞を意って貰う検討もしていたんですが)。このため、昌幸は信幸の動向をひたすら隠し続けます。三成は8月頭には大垣城に入っています。岐阜落城時のマップで美濃・近江国境あたりに顔があったのはこのため(ただ地図の縮尺上、正確な位置におくのが難しいとのことでした)。昌幸への最後の書状は8/10付ですが、「浅野家文書」に伝来しており、昌幸のもとに届いたかわかりません。三成は昌幸に繰り返し「上杉と連絡を取り、江戸を攻めるよう話をしてくれ」と頼んでいますが、周辺諸大名は徳川方(木曾は石川光吉が代官なので「西軍」)ですし、肝心の信幸が徳川方なのでやりようがありません。このため、曖昧な返事をしていたようで、三成は「手紙、届いてる?」と繰り返してます。もっとも三成が「手紙届いてるか不安」というのも当然で、「西軍」の陣容すべてを記した機密文書を何度も添付したためです。これはたしかに「真田家文書」にあるんですが、1点しかないんですよね・・・。いっぽう、上杉→「西軍」への書状は、8/25のものが「真田家文書」に残っています。この判断は難しく、1)上田城まで来られたけど、そこから進めなくなっていた、2)沼田で信幸が使者を捕らえたのどちらか。いずれにせよ、8月中旬には昌幸は上方の状況不明になっていたと思われます。この書状で景勝は、「最上・伊達と戦っているので徳川領には攻め込めない」と断言し、「家康が江戸から出陣すれば、佐竹義宣と協議する」とリップサービスをしています。当時の上杉領国は、会津・出羽米沢は地続きなのですが、出羽庄内が飛び地でして、間にいる最上義光攻略が最優先課題でした。最上義光は兵力分散を避けるため、味方を拠点城郭に集中させています。さらに「降伏交渉」を開始したため、直江兼続は最上降伏は近いと判断を誤る結果になりました。いっぽうで、上杉領というのはようするに「伊達旧領」なので、伊達政宗が侵攻してきており、そちらへの応対で手一杯になります。なお「百万石のお墨付き」が家康から提示され、戦後破られたとされますが、政宗が「切り取り次第」で制圧した領域を与えたというもので、家康は嘘はついてません。毛利輝元。この人も四国や九州に攻め込んでいます。あげくに、毛利吉成(「西軍」)の小倉城にまで手を出すということまでやらかしてまして、ようは上杉も毛利も、この機会に領国を拡張し、戦後再編されるであろう豊臣政権内の地位向上を狙ったわけです。関ヶ原本戦ですが、実は戦闘開始前に小早川秀秋が寝返りを疑われ、三成が拠点として整備した松尾山城の守備隊を追い出して松尾山に籠城をしていました。これが9/14です。これに対応するため大谷吉継が関ヶ原に布陣します。そしてこれをみて、家康が諸大名を関ヶ原に動かすことになります。そうすると、大谷吉継が突出した形となりますから、大垣にいた三成たちも関ヶ原に移動するという経緯で、かなり偶発的なものでした。まあ、当時の戦争はそんなものです。一般に、関ヶ原朝8時開戦、西軍が善戦し、裏切りに逡巡していた小早川秀秋に家康がわざと鉄砲を撃ちかけたことで午後になって秀秋が寝返り、午後3時頃決着したとされますが、いずれも軍記物によるフィクションです。そもそも松尾山は結
構高所で、混戦中に鉄砲なんて撃ってもわからんような。関ヶ原の二日後に徳川方が出した書状や宣教師の書簡によると、開戦は午前10時頃。その直後に秀秋が「御味方をした」結果、「西軍」が総崩れとなり、本戦そのものも短時間で決着をしたようです。このあたりは白峰旬氏の研究に詳しいので、ご参照ください。このため、ドラマでは佐助の報告を「朝方に始まり、昼過ぎには勝敗がつきました」といった形にしてもらいました。それと、以前「実は戦場は青野ヶ原」という研究が!という報道があったのですが、これは昔からしられていたものがたまたま報道されたというケースです。同時代史料で、双方の呼称が混在しています。また『三河物語』は青野ヶ原ですね。ただ家康が、「関ヶ原」と書状で述べていたと思います。関ヶ原の結果は、豊臣方の人々をパニックに陥らせています。京の隠居屋敷(京都新城)にいた北政所は、後陽成天皇の生母勧修寺晴子の屋敷に逃げ込み、小早川秀秋が迎えにきてようやく屋敷に帰っています。淀殿も、片桐且元を通じて家康に交渉を打診しています。当時の人々も、家康の勝利が秀頼の進退に関わると考えていたのです。むろん、家康はそのようなことをせず、秀頼のもとに「謀叛を平らげた」という形で戦勝報告をするのですが。さて、9/15の関ヶ原は徳川方の大勝利でした。しかし、まだ「西軍」には毛利輝元が大坂に健在です。だから三成も、再起を期そうと試みるのですが…。本当に、一連の経緯はイレギュラーです。黒田如水が吉川広家に愚痴るのも分かる気がします。沼田城の「小松殿」(※小松殿というのは尊称で、名前ではありません)が昌幸を追い返した件、今年春まではフィクションだと思っていたのですが、『真田信繁の書状を読む』執筆時に大谷吉継書状を全文現代語訳した結果、慶長4年に帰国した可能性あり、と判断を改めました。