それとも東(三河方面)や西(伊勢方面)に拡張していたのでしょうか?
美濃取れたのもアホの龍興になって三人衆が寝返ったりしたおかげだし
義龍は信長の勢力拡大抑えるだけな奴だろうが長慶が長生きしてたらどうなってたんだろうな
義龍が劣勢になったらあっさり信長につくだろうな
浅井織田と敵に回してどう立ち回るかは義龍次第だろうが
どっちにせよ三好長慶も斎藤義龍も生誕年が1520年代だから
平均寿命考えても1570年代にはくたばる。信長の拡大スピードが遅くなるくらいの影響力でしかないな
義龍は親父とちがって土岐源氏の血筋だろうが
一存は死んだまま?
問題だろう。
信長は足利義昭を奉じて上洛しているわけだから、三好長慶が足利義輝を弑逆しなければ
上洛の前提事態が無い。
まだほら吹き和尚の戯言を信じているのか?だがよ
ほら吹きはお前だ織田厨。
はやく自覚出来るようになるといいな。
自覚出来ないうちは鏡に映る自分に攻撃しようとする動物ランク脳。
畿内の有力武将は次々病死した上に、六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。
足利義昭が信長の下に訪れ、六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくるとここまでお膳立てされたのが
信長の上洛
このうち斉藤や三好長慶は、単体で長生きしても信長はまず美濃方面畿内方面の拡張は無理だし
他の連中も二人以上生きてたらまず成功しないだろ。
きちんと人材統御をしていたら内乱勃発もせず
三好王国は崩壊してない。
ただでさえ阿波や讃岐の三好家を統御するのは難易度高いんだから。
斉藤の瓦解要因がなくなる。
長慶が長生きしたらもっと無理。下手すりゃ信長領国の尾張まで斉藤に侵略されてアボーン
畿内の有力武将は次々病死した上に、六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。
足利義昭が信長の下に訪れ、六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくるとここまでお膳立てされたのが
信長の上洛
このうち斉藤や三好長慶は、単体で長生きしても信長はまず美濃方面畿内方面の拡張は無理だし
他の連中も二人以上生きてたらまず成功しないだろ。
武田家の滅亡は絶対不可避です
馬上の義龍に上総介っての知ってる?とか馬鹿にされるも気づかないアホ長www
織田信長 1534年6月
斎藤義龍 1527年7月
義昭の上洛成功年 1568年
長慶 46歳
信長 34歳
義龍 41歳
当時の平均寿命で考えても生きている可能性は高い
長慶が生きている間は絶対に足利義輝は死なないから。
長慶が死んだ事により生かされていた義輝が死んだからな。
義輝は最後まで自分の権威を勘違いしていたと言える。
むしろ篠原長房の方が滅茶苦茶重要人物だよ
なんせ1570年前後は足利義昭+織田信長と毛利元就を手玉に取って相手にしてる
篠原長房は三好兄弟の流れを受け継ぐ最後の存在だったからねぇ。
もちろん兄弟のjr達がしっかりしていたら良かったんだけど。
長慶の存命中に義輝が政所抑えたりして将軍の権威を高めてたら
これは自分の傀儡には収まらないかもと危機感持って永禄の変の様な出来事が起きても不思議じゃないような
これは三好研究者の共通認識だし。
俺もそう思う。
義輝の策謀に呼応するのはもはや畿内じゃ丹波の細川残党国人くらいしかいないし。
丹波は松永久秀の弟の子が内藤氏を継いで丹波守護代になってて、
それを細川残党が潰せるほどの力さえない。
ってか義龍時代に調略はしてたし変わんねえって
変わるのは滅亡時期ぐらい、それも長くて1~2年程度
義龍は言われてるほど有能ではないし、龍興は言われてるほど無能でもない
義龍はまぁまぁ優秀なのに違いないし、龍興も凡庸なのはその通りなんだけど、戦況変えるほどの力の差はないわ
そもそも土岐氏→長龍→義龍と代替わりの度に動揺・大混乱してるしね。
義龍の代にも寝返ってた国人いたし。
斎藤が織田に勝ったのはあくまで局地戦・防衛戦であって、しつこく調略と戦を仕掛ける事によって
斎藤側の国力を擦り減らして行って最終的に瓦解に追い込んだ。
>>義龍の代にも寝返ってた国人
誰のこと???
全く根拠や具体的理由が書かれておらず、
お前の「思った」願望を駄文で書くなよ。
義龍は尾張の半分を手に入れ信長を滅亡寸前に追い詰めているんだが。
浅間山の噴火並にトンデモ説だな
だがよちゃんと答えろよ?
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは10歳そこそこの幼君でクーデターが起きるほど
国内の情勢がぐらついてたからだろ。
でも義龍が生きてたらそんな斉藤の瓦解なんて起こりようもないし
三好長慶が生きてて足利義輝が生存してたら、足利嘉昭の訪問も、上洛への大義名分も、浅井和田ら甲賀衆や六角義秀らの活躍による
お膳立てもなくなり、当然美濃攻略は無理。
上洛なんて夢のまた夢
史実で内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは10歳そこそこの幼君でクーデターが起きるほど
国内の情勢がぐらついてたからだろ。
でも義龍が生きてたらそんな斉藤の瓦解なんて起こりようもないし
三好長慶が生きてて足利義輝が生存してたら、足利嘉昭の訪問も、上洛への大義名分も、浅井和田ら甲賀衆や六角義秀らの活躍による
お膳立てもなくなり、当然美濃攻略は無理。
上洛なんて夢のまた夢
武田が織田に戦略的に勝つとか太平洋戦争で日本がアメリカに勝つとかでも1%ぐらいは確率があるから。
0%なんてのは朝鮮が日本に侵略成功するぐらいだな
事だよね。
それだか国内は不安定だったという事だろう。
でも、長生きをしていれば、信長の躍進はなかった可能性はある。
長慶は精神障害をきたしていたから、長生きしてもあまり関係ないような。
長男と弟が生きていれば、って言う条件もつけいないといけないんじゃな
いかな。
そうなってたら、織田信長なんて名前は後世に残ってない。
武田は甲斐守護としてしぶとく生き残ってる。
長尾は長尾のままで終わってるだろう。
信長の侵攻速度の低下(可否も含めて)がどれくらいになるかは、
判断分かれる所かな。
尼子とか長野とか若年で家督を継いだ所も同様に苦労してるようだし、
不意の代替わりの影響はかなり大きいとは思う。
長宗我部も比較的若年で継いだと思うけど、あそこはどうなのかな。
そもそも三好長慶が長生きするなら
斎藤義龍はそっちの相手も考える必要があるし難関さは変わらんだろう
美濃三人衆はどいつもこいつも不忠揃いで頼りにならんし
信長ではなく三好に滅ぼされる可能性も普通に考えられる
三好も三好で長慶以降は壮絶な内ゲバが始まるから、結局信長有利の状況は変わらんだろう
信長の危機だった桶狭間の段階で尾張に兵を進めない時点で、斎藤が尾張に南下することは考えられんし
想定を広げると不確定要素大きすぎる。
斎藤義龍の勢力拡張って話ではなく、
単に信長の勢力伸長速度に対する影響に限って考えると、
基本的には悪影響が大きいのでは、と思う。
…不忠で言えば、柴田、林を抱える信長も頼りにならないとか言えるしな。
三好軍はいっくら六角に対して有利な時ですら、
大津までしか進出してねーの。
だから三好と斎藤が戦うとか脳内願望妄想トンデモ話はすんなよ。
いや、松永長頼が若狭に進出しようとしていたから興味無しというわけでも無いんじゃない?
教興寺以降は六角の従属で南近江も勢力圏に入ったわけだし、若狭との連絡や防衛の為に北近江や美濃に対して何かしら行動を起こすのはあるかもしれない。
若狭は将軍任国なので、赤井や長慶と離婚して以来、敵対を開始した波多野との連携を嫌がり
若狭や丹後へ睨みを利かす程度に終始してたよ。
つか長頼の丹波支配は磐石じゃなかったから、若狭とか正直、どうでもいいのよ。
そもそも長頼は永禄4年に若狭武田氏に敗北してるし、
三好軍はあまり近江情勢に深入りしない理由は朝倉を刺激したくないから。
六角支援で朝倉軍がやってくるとやっかいになるから東進しない。
斎藤という共通の敵あるんだし
六角斎藤間の同盟はあったらしいしなあ
義の字を貰って御伴衆になってるからね。
信長は義龍の上洛戦の先鋒になって三好長慶の前に討死か。
相良が献金しまくりで義輝がついに義をあげたんだが、
大友と島津が激怒して反対したので、
公に義陽を名乗るのに13年かかったほど。
それじゃダメだ
二人とも有能だが義興と実休だけじゃ全てカバーしきれない
安宅と十河の支えがあってこそ阿波三好軍の実力が発揮される
阿波三好軍:実休・安宅・十河
畿内三好軍:義興・長逸・長頼
この六人が三好政権の中枢だ
それはどうかな。阿波、讃岐、淡路は、実休・冬康・一存死後、
ほぼ篠原長房一人でまとめきってたから、3人は不要。
そもそも実休は高屋城、一存は岸和田城の城主になってて、晩年はほとんど四国不在だった。
三好長逸は、全く畿内をまとめきれず、義継に逃げられてる始末。
松永長頼は、結論から言うと、畿内どころか丹波一国で手一杯。
松永久秀も、大和一国で手一杯、和泉・紀伊の畠山の支援でなんとか戦ってただけ。
結論を言うと、三好義興と篠原長房の二人が健在であれば、
松永兄弟、三好義継、三好長治を抑え込んで、三好政権は存続できたと思う。
篠原は児島で失敗しているし長治に攻め滅ぼされているのであまり当てにならない
真面目すぎる義興は義輝と仲が良すぎて操り人形になる可能性もある
結論を言うと誰が生きていようと三好政権は織田に攻め滅ぼされて終了
児島侵攻は2回あったんじゃないかな。
香西と四宮の侵攻と、篠原の侵攻と。
敗北したのは香西の方で、篠原の方は勝利しているように思われる。
あと男は、立場が変われば付き合いも変わる。
長慶が居なくなれば当主義興と将軍義輝の関係は間違いなく悪化する。
そして恐らく余桃の罪のように激しく憎み合う。
なんで松永をわざと外したのかがわからん
しかし他の家臣と比べたら力をつけすぎたのは事実
三好三人衆も松永久秀も三好政権の中枢にいたと思われるが
三好三人衆自体の軍事力の基盤はそれほど大きくない
対して松永久秀の軍事力の基盤は大和支配(他に摂津滝山など)にある
これに内藤宗勝が支配する丹波も合わせると三好三人衆を圧倒することになる
※この時点で三好康長は三人衆と同調してなさそうなので除外しているよ
ところが内藤宗勝が敗死したことで松永派の軍事力が後退
これを好機と捉えた三好三人衆は三好義継を拉致監禁
三好家当主の義継が松永久秀と組むと厄介だからね
この事件に三好康長が三好三人衆を支持
ここに来て三人衆派がようやく強気となる
この3条件が三人衆に転がり込んだのは幸運だった
三人衆と松永の力関係がよくわかると思う
それぞれに領有してる土地とか持ってたのかね?
槍や弓、鎧、馬にも銭がかかるしね
それに主君に仕えるのも基本は所領安堵が目的だから
結論は土地は持っていた
それぞれの所領はこれで合ってるかな?
三好長逸 飯岡城(山城)、芥川山城(摂津)
三好政康 ?
岩成友通 勝竜寺城(山城)
三好康長 岩倉城(阿波)、高屋城(河内)
康長の高屋城すら領主じゃなく在番の可能性が高い
持っていてもわずかじゃないか?
せっかくなんであれこれ考えてみた
三好三人衆
三好長逸の場合
彼は早くから活躍していたので所領は摂津の各地に点在していると考えられます
長慶の重臣という立場なら芥川城の周辺にも小さな所領はあったと考えた方が妥当でしょう
ただ各地に点在していたためまとまった所領は無いんじゃないのかな?
多分最大の所領は飯岡城の周辺か?
芥川城
三好長慶の居城だったということもありこの周囲は長慶の直臣が固めていた可能性が高い
彼らを排除してまで長逸が所領を広げるという暴挙はありえないでしょう
飯岡城
三好長逸が守将を務めた城
永禄元年以前に入城
三好政康の場合
彼の活躍は長逸より後発なのでそのぶん所領は少ないと考えられます
ただ彼の場合は不明な点も多く所領獲得の経緯や地位向上の経緯もよくわからない
彼の出自の解釈次第で見解は変わると思われます
木津城
三好政康が守将を務めた城
何故彼が木津城にいたかは不明
所領としていたと考えるには無理があると思います
※足利義輝と三好長慶が和睦した時に配したか?
石成友通の場合
彼の活躍は奉行衆から始まっているので最初所領は少なかったと考えられます
長慶治世末期に頭角を表し始めているので多少は所領加増はあったかもしれません
勝龍寺城
石成友通が守将を務めた城
何故彼が勝龍寺城にいたかは不明
ただ足利義輝を警護したこともあるからその時に獲得したのかも
山城で所領を持つ理由は政康よりあるかな?
※足利義輝と三好長慶が和睦した時に配したか?
長逸は古参の武将という経緯もあり三人衆の中では一番
政康と石成は長逸より財力が落ちると考えた方が妥当
彼は実休配下として活躍していたから所領は阿波が中心で畿内には無い
嫡男康俊が岩倉城にいたので所領の可能性が高いと思います
勿論阿波各地に小さな所領が点在していると思いますが
高屋城
この城は畠山氏から奪取した後に実休が守将を務める
実休死後に康長が守将を務める
多少のお手当(実休遺領)はあったと思いますがまとまった加増はなかったと思います
そもそも実休自体が河内に大幅な加増を受けた史料は無い様な気がします
一存死後の和泉を任された時も同様
実休も康長も242さんの仰るとおり在番と見ていいのでは?
長慶治世の初期に摂津支配の戦い(細川氏との戦い)が始まります
しかしこの時期の三好氏は摂津国衆の協力を得ないと難しい
主君細川氏に摂津国衆がまとまると阿波の三好氏に勝目は無い
細川氏の影響力の排除を第一の目的としたため所領獲得があまりできなかったと考えています
芥川氏は反抗したため遠慮なく滅ぼしたけど
丹波や大和支配の戦いの時期は三好氏も力をつけたので松永氏が強行に攻め入って切り取り放題なった
長文スマソ
これでは松永に勝てないね
四国からの援軍が必要になるわけだ
三好って本拠地がどんどん南下してるよね。
摂津越水城(長慶)→摂津芥川山城(長慶)
→河内飯盛山城(長慶)+河内高屋城(実休)+和泉岸和田城(一存)
畠山の勢力が結構強くてずーと苦戦してる感じ。
木沢長政とか遊佐長教とかになかなか勝てなかったし。
そして取り込んだ遊佐長教が死んだのが一番痛かった気がする。
紀伊の畠山傘下の湯川直春なんて、天正十三年の羽柴秀吉ですら
勝てない相手だもんね。むしろ丹波とか朽木とかを一門が押さえた方が良かっただろうに。
義輝が長慶を排除としなければ
絶対するだろうけど
何度も渡海させてたんだろうね???
現在の軍隊でも2万人本州上陸は一大作戦だと思う。
食糧とかもある程度持ち込まないといけないし。
大規模軍勢の渡海作戦成功は安宅冬康の手腕の成せる業でしょうね
彼なくして畿内の覇権確立はありえない
兵糧は四国からも少しは運ばれたかもしれないが多くは畿内で用意されたのでは?
海にしろ川にしろ船による輸送能力を押えたところに三好政権の底力を感じます
ぼく「竹中半兵衛は斎藤家にいたんですが、いつも静かなので斎藤龍興にとことんバカにされていました。
その半兵衛がとうとうブチ切れて稲葉山城を乗っ取ったというのは有名な話。
そもそも半兵衛が家督を継いだのは1562年のことでこれは義龍が死んだ一年後なんですね。義龍が長生きしてたら義龍に従って活躍する竹中半兵衛が見れたのかもしれません。」