合戦

関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや

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1: 日本@名無史さん 2017/10/09(月) 19:27:44.75

多分これについてはよく議論されてるんやろうけど、話したくなったw

一つ一つの出来事を詳しく書いていってほしい

2: 日本@名無史さん 2017/10/09(月) 23:02:47.97

秀頼自ら関ケ原へ親征させるか
逆に天皇も大坂城に移して籠城するか

いずれにせよ家康が「これはまずいな」と感じるような土俵で戦わないといけない

4: 日本@名無史さん 2017/10/28(土) 16:33:18.91

全ては三成の人望の無さから来てるのか?秀吉の小姓時代から福島正則や加藤清正から嫌われてたからな。
6: 日本@名無史さん 2017/12/13(水) 11:29:43.54

>>4
人望がなかったらあんなに味方は集まらないと思うんだけど
7: 日本@名無史さん 2017/12/13(水) 17:09:02.98

>>6
秀吉が死んだ途端に家康が勝手に養女を次々と大名の正室にねじこみ
諸大名たちの義父となり大名から人質を取っては主従関係を結び
露骨な天下取りに動き出したことについては上杉景勝も怒っていたわけだし
西軍は豊臣秀頼を天下人にする太閤の遺命が主だったとおもう
東軍は徳川家康の天下にするためについていった大名が多かったが
西軍は石田三成の天下にするためについていったわけではない
5: 日本@名無史さん 2017/12/13(水) 10:23:23.78

東軍は何も家康の人望についていったわけではない。
お家存続、発展を考えた場合どっちに付くほうが有利かという打算が根源にある。
戦国大名にとっては普通のこと。
それを第一に考えなかった三成はやっぱり変態。
自分の業病でヤケになった大谷の自爆は、家臣達にとっちゃとんだ迷惑でしかない。
14: 日本@名無史さん 2017/12/14(木) 16:14:56.62

名前貸してるだけだろ
指揮してない
16: 日本@名無史さん 2017/12/20(水) 16:24:09.87

>>14
三成を天下人にするために上杉と毛利の大老2人が名前貸すかよw
西軍が勝ったら三成が征夷大将軍で天下を指揮し
上杉と毛利は三成の下につくつもりだったのか?
そんなわけはないw
15: 日本@名無史さん 2017/12/14(木) 21:13:30.92

大将は三成だといってみたり輝元だといってみたり
お前らバカだろ
17: 日本@名無史さん 2017/12/21(木) 06:12:47.77

家康を西軍の総大将にすれば、
必ず勝てたね。
19: 日本@名無史さん 2017/12/21(木) 14:34:12.01

結局、西軍でマジに戦ってたの、誰?
大谷とか、あと誰?
20: 日本@名無史さん 2017/12/21(木) 18:11:30.30

>>19
関ヶ原限定だと大きい所は
宇喜多石田小西大谷くらい?
292: 日本@名無史さん 2019/09/21(土) 18:43:23.47

>>19、石田三成、宇喜多秀家、小西行長など
22: 日本@名無史さん 2017/12/23(土) 07:50:29.67

西軍は関ケ原で決戦せず、主力部隊を大阪城に集結させて、持久戦に持ち込めば
よかったのではないか?
そうすれば、豊臣秀頼を擁して、毛利・宇喜多などの重臣が居並ぶ西軍が政治的に
有利になっていき、徳川方についた大名を切り崩せたのではないか?
24: 日本@名無史さん 2017/12/23(土) 15:08:03.69

でも東軍が勝たないと関東平野の開拓は数百年遅れてるし
今の東京ほどには発達してないだろ
それだと国力の点で大いに差が出るし結局東軍が勝ってよかったんだよ
25: 日本@名無史さん 2017/12/23(土) 15:52:27.46

どんな局面だろうと、三成が裏切られないわけがない
27: 日本@名無史さん 2017/12/24(日) 22:43:59.40

前田利家がまだ健在な時に前田・毛利・上杉連合で戦うしかないと思うが。
関ヶ原の戦いというか慶長五年の時点で家康相手に勝てる要素など全くないわ。
31: 日本@名無史さん 2017/12/25(月) 14:26:26.59

利家と家康の間で戦になったら利家につく... って公言してたとかいう蒲生が生きてたb
32: 日本@名無史さん 2017/12/25(月) 14:33:25.69

途中書き込みした 

蒲生が生きてた場合の利家対家康には興味がある
会津の蒲生と越後の上杉と...徳川を封じることが出来そうな気もする

33: 日本@名無史さん 2017/12/25(月) 20:55:28.12

徳川を父祖の地、三河、遠州から剥がして当時は荒れ地の武蔵野(関東)に移したのが間違いの元?

虎(大狸)を広々とした野に放ち自由気儘な新天地を与える愚を犯したも同じ。

34: 日本@名無史さん 2017/12/25(月) 21:55:28.48

蒲生氏郷が死んでその役割を担えるのは上杉景勝しかいないから会津に移転させられたんだね
しかし逆方向には徳川に近い伊達もいるし上杉一人ではどうにもならんよな
豊臣系の武将を会津に込めるとしてもその重責を担える大物は皆無なわけで
下手すりゃ清正や正則みたいに家康の味方になってしまうし
36: 35 2017/12/26(火) 12:10:50.54

一つ訂正
関ケ原時点での秀頼の年齢は数え9歳

ちなみに秀頼の遺児、国松は大坂の役の後
徳川家康の命令で8歳で六条河原で処刑されている

38: 日本@名無史さん 2017/12/26(火) 16:57:48.79

なんで家康は秀頼を連れて会津征伐へ出陣しなかったんだろうなw

三国志だと魏の実権を握った司馬昭は、重臣の諸葛誕が地方で反乱が起こすと、
皇帝と皇太后を連れて出陣して鎮圧した

39: 日本@名無史さん 2017/12/26(火) 17:19:31.34

田辺城の幽斎に人を割きすぎ。あそこは3000でいい。後の12000を大津城に向かわせ、大津城の15000を関ヶ原に投入していたら十分勝負になった。
43: 日本@名無史さん 2017/12/27(水) 16:09:50.28

対峙した時であろうが同じだよ
家康が率いるのは上杉討伐のために集められた軍で、率いる武将も豊臣の家臣
だから秀頼を攻める大義名分もないし、攻めたいなら徳川だけでどうぞ...ってことになるの
家康ってそこまで馬鹿なの?
44: 日本@名無史さん 2017/12/27(水) 18:49:51.99

>>43
家康は上杉征討軍を使って関が原で全く別の大名を攻めているので
この時点で秀頼関係ないw
しかも関ケ原の恩賞として主君豊臣秀頼の領地を削って5分の1以下にし
徳川の領地にする傍若無人ぶりw
45: 日本@名無史さん 2017/12/27(水) 22:17:45.48

豊臣秀頼が戦場に出てきた場合は全く別物だよ。
大坂城を攻撃するようになるまで十四年も必要とするほど直接戦闘に踏み切れなかった。
なお秀頼自身が出なくても毛利本隊か最低でも秀包くらいが関ヶ原に出てくれば、
吉川の日和見や小早川の西軍攻撃は阻止できた可能性はある。
46: 日本@名無史さん 2017/12/28(木) 12:02:58.09

>>45
東軍が秀頼を奪い返すという名目でますます西軍に突進し
関ケ原後は豊臣の領地を削って徳川に付け替えるだけだよ

西軍が攻撃をやめないならば秀頼を殺すと言えば
家康は勿論「どーぞ、どーぞ」だろ
家康が処刑しなくても西軍が殺してくれれば御の字
豊臣恩顧大名は余計に西軍憎しで奮闘してくれるし

大坂城にいた毛利が秀頼を連れ去ることも人質にすることもできたのに
家康はそれでいいから西軍を討ったわけだし

48: 日本@名無史さん 2017/12/28(木) 23:26:11.20

>>45
だから田辺城に人数割きすぎ。幽斎はろくな兵をつれてないから多くても5000でいい。
残りの10000を大津城に差し向け立花宗成・小早川秀包・毛利元康の3人だけでも関ヶ原に投入してたら、毛利と島津がまともに動いてた。
50: 日本@名無史さん 2017/12/29(金) 10:22:43.08

西国大名は地理的に西軍と近く、行きがかり上、西軍に取り込まれてしまう
ケースが多かった。本心では東軍に着きたかったというケースが多く、
そのため、東軍への内通、戦闘に参加せず傍観、土壇場での寝返りを生ずる
ことになった。
51: 日本@名無史さん 2017/12/29(金) 19:11:42.13

>>50
島津は率いている人数が少ないので東軍の仲間に入れてもらえなかった。
52: 日本@名無史さん 2017/12/30(土) 06:49:13.17

関ヶ原の合戦後の主な全国大名石高ランキング
※徳川・豊臣は除く

1. 前田利長(加賀/金沢) 119.5
2. 結城秀康(越前/北ノ庄)67.0
3. 伊達政宗(陸奥/仙台) 60.5
4. 蒲生秀行(陸奥/会津) 60.0
5. 最上義光(出羽/山形) 57.0
6. 島津忠恒(薩摩/大隈) 56.0
7. 黒田長政(筑前/福岡) 52.3
8. 加藤清正(肥後/熊本) 52.0
8. 池田輝政(播磨/姫路) 52.0
8. 松平忠吉(尾張/清洲) 52.0
11. 小早川秀秋(備前/岡山)51.0
12. 福島正則(安芸/広島) 49.8

【減封】
毛利輝元(周防/長門) 36.9
上杉景勝(出羽/米沢) 30.0
佐竹義宣(出羽/秋田) 20.0 ※元(常陸/水戸)は54.5であったが、上杉討伐に応えず、減封

53: 日本@名無史さん 2017/12/30(土) 09:41:34.79

>>52
立花宗成は一旦改易されたんだね。
55: 日本@名無史さん 2017/12/30(土) 14:55:50.42

家康に同行した福島、浅野、池田あたりは、家康が反秀頼なら家康に敵対して戦うだろうよ。
大坂の陣が近いころですら秀頼のために尽くしてるんだし。
そもそも家康は武将連中を秀頼への忠誠の名目で引き連れている。
東西の戦力がほぼ互角で秀頼まで擁したとなれば福島たちが寝返ることで西軍有利になるんだし。
秀頼の出陣を一番恐れていたのが家康なんだよ。
小山から引き返したあと一ヶ月も江戸で諸大名の引き留め工作に終始したんだから。
61: 日本@名無史さん 2017/12/31(日) 10:02:12.57

宇喜多騒動がなければ西軍圧勝だった
64: 日本@名無史さん 2017/12/31(日) 14:24:10.23

>>61
田辺城に15000も割いたのは愚の骨頂。
67: 日本@名無史さん 2018/01/07(日) 23:30:21.23

関ヶ原は中央政界を追放された政治家(石田)が地方軍閥(毛利宇喜多)と組んで起したクーデター
大坂城を不法占拠した挙句に公務(上杉討伐)中の筆頭大老を攻撃する=秀吉の死後の政治システムを破壊する、と公言する連中になんで豊臣家が味方せにゃいかんのだ
淀殿が家康宛書状で石田討伐を依頼する一方、西軍へは軍資金の提供・御墨付きの発給・七手組(豊臣家旗本)前線投入のすべてを拒否したのも当然といえる
89: 日本@名無史さん 2018/02/02(金) 16:50:18.96

日本の歴史では時代の変わり目において、」
少数兵力の反乱軍が中央政権側の大軍を破る事例が起こりやすい

木曽義仲が平氏政権の大軍を破って都落ちに追い込んだ倶利伽羅峠の戦い
楠木正成が鎌倉幕府の大軍を破った千早城の戦い
六角高頼が室町幕府の大軍を結果として撃退した鈎の陣
そして江戸幕府の大軍を撃破した第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦い

96: 日本@名無史さん 2018/02/03(土) 14:58:22.67

豊臣秀頼の出陣が実現できない以上、野戦に打って出るのは得策ではない。
西軍は大阪城に籠城して、「秀頼を擁して」戦うのが上策だ。
上に出ている見解に賛成する。
当時の西軍の諸将と兵力ならば、大阪の陣と比べて格段に優れている。
長期戦に持ち込めば、東軍は大阪城を落とせないのではないか?
時間が経過すれば、加藤・福島・浅野など、豊臣家功臣たちが西軍に
切り崩されて、東軍は不利になるのではないか?
100: 日本@名無史さん 2018/02/03(土) 23:46:50.00

そんな簡単なことも出来ない西軍は最低だな
101: 日本@名無史さん 2018/02/06(火) 02:00:55.42

西軍が勝つ方策を考えてもそれで豊臣政権が安泰になったかといえばなぁ...
船頭が多くなるだけで海にも山にも行けないグダグダな船になる未来しか見えない
107: 日本@名無史さん 2018/02/07(水) 21:03:45.47

大坂籠城とわかれば安心して上杉征伐に専念出来るもんな
108: 日本@名無史さん 2018/02/08(木) 07:18:11.54

三成の挙兵がもうすこし遅く家康と景勝が合戦を始めた後ならどうだったろう。
109: 日本@名無史さん 2018/02/08(木) 11:22:46.58

>>108
それは東軍にとって地獄だね
まず東部戦線は膠着戦になる
伊達も最上も様子見に入るからね
で、膠着戦になると西軍が秀頼の下で輝元を主将として大軍であることがわかると、
東軍についてる豊富恩顧の連中が必ず動揺する
そうすると、裏切るやつが出てくるからそれを潮に寝返り続出
戦国時代の再来になりそうだね
116: 日本@名無史さん 2018/02/09(金) 18:15:40.41

いろいろ考えると家康は相当幸運に恵まれていたことがわかるね
ちょっとでも史実と違った展開になっていたらどうなっていたか全くわからなかった
ただ、西軍の敗因は運が悪かったからではない
総大将がしっかりしていなかったことにつきる
やはり戦は大将次第ですな
117: 日本@名無史さん 2018/02/09(金) 18:50:56.96

>>116
毛利輝元はいつも通り二股かけてた
こういう時に二股かけるのは宝治合戦で負けてからはこの家の習性でもある
元就は大内と尼子の両方に基本的には通じていた
毛利 季光(もうり すえみつ)は、鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府の御家人。大江広元の四男[1]。
宝治元年(1247年)、北条氏執権派と対立した妻の実家三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃した[1][2]。合戦の直前、季光は将軍御所に向かおうとしたが、妻の「兄泰村を見捨てることは、武士のすることではない」との言葉で三浦陣営に付いたという。毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出る。

なお、季光の娘は宝治合戦を執権として指揮した北条時頼の正室となっていたが、戦後に離別している。時頼の子北条時宗の母である葛西殿は季光の娘とする系図が一部にあるが、複数の確かな史料では時宗の母は継室の北条重時の娘であることが認められるため、季光の娘説は否定されている[5]。

118: 日本@名無史さん 2018/02/09(金) 19:00:49.44

>>117
元就はそんな甘ちゃんじゃないぞ
尼子の方が優勢な状況であえて大内についたんよ
そして尼子の大軍を一手に引き受けて耐え抜いた
陶に対しても不利ながら策謀を用いつつ正面から戦った
どっちつかずの態度は取らんよ元就は
そして戦う時は自ら先頭に立って戦ったわ
120: 日本@名無史さん 2018/02/09(金) 20:40:38.63

史実の関ヶ原は、戦一つでケリがついたけど、
西軍が勝つとして、家康の首を取れなかったら元の戦国に戻るだけじゃないの?
121: 日本@名無史さん 2018/02/09(金) 21:08:38.14

>>120
各地方がそれぞれ国家となってそれなりに安定するかも

引用元: ・
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507544864/

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