
【視聴率】「真田丸」第34回は視聴率13.2% 哀川翔演じる後藤又兵衛が初登場 ★2
放送され、平均視聴率は13.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。
「真田丸」の平均視聴率は、初回が19.9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ・以下同)で、
第2回が「八重の桜」以来、3年ぶり大台乗せの20.1%を記録。その後も
高視聴率を記録している。
「真田丸」は、堺さんが真田幸村の名でも知られている戦国時代の人気武将・
真田信繁を演じ、戦国時代に信州の小さな領主のもとに生まれた信繁が、
家族とともに知恵と勇気と努力で乱世を生き抜く姿を描いている。
三谷幸喜さんが2004年放送の「新選組!」以来、12年ぶりに大河ドラマの脚本を
手がけ、長澤まさみさんや大泉洋さん、草刈正雄さんらが出演している。
第34回「挙兵」では、家康暗殺に失敗し、謹慎することになった石田三成
(山本耕史さん)に対し、加藤清正(新井浩文さん)ら反三成派七将が三成襲撃を
計画する……という展開だった。哀川翔さんが演じる黒田家重臣・
後藤又兵衛が初登場した。「真田丸」はNHK総合で毎週日曜午後8時ほかで放送。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160829-00000001-mantan-ent
前スレ
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1472433346/
引用元http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1472448781
眠くない!
「えいじさぁん」
ってか、唐突感半端ない
一昨年のドラマではあんなに登場場面が多かったのに
如水はおろか長政の出番すら不自然な位に少ないもんな、今年はw
逆だ逆、これからが本番みたいなものだ
うちの親父は秀吉が死んで見なくなったw
三成の義っぷりを見て
義だけが取り柄の景勝がキレちまったぜぇ
加熱具(もうやるしかない…)
家康が無断で婚姻政策をすすめていたのが五大老の合議の場で問題になった時、
景勝は小声で家康に抗議していた。
家康「いやー、うっかり取り決めの事を忘れてましたわ」
景勝「(・・・うっかりで済まされる話ではござらん・・・)」
家康「え?なに?大きい声で言ってくれるかなー?」
景勝「なんでもござらん!(`;ω;´)」
その後、三成による徳川屋敷強襲未遂事件が起きた際、
不利な状況の三成に挙兵を止めるよう説得し、
時が来れば挙兵して徳川攻めるから!マジで!とやる気を見せた。
ただ当時の上杉と徳川の国力差考えたら上杉に勝ち目ないよなあ
徳川方に付く大名もいるし120万石の大名が配下の部下のことを考えたら単独で立ち上がるか?
それこそ三成宇喜多あたりと共謀して挟み撃ちするってんなら勝算としてまだ分からなくもないが、
三成宇喜多その他の上方衆と謀議を重ねたシーンがないもんだからほぼ単独で立ち上がったようなもんだろあれ
そのやりとり見たかった。とりあえずお館様がやる気になったということか
親方様が本気になられた・・・(低音で)
山本耕史がスタジオパークで直江の物まねしてたな
景勝って気が小さいよね。言ってることと実際にやる事が違いすぎて。
人はよいんだけど。
関ヶ原後は上洛して家康にごめんなさいするしなw
丁度エンケンに向いた役じゃないか
小物界の大物に相応しい
ハマリ役やわ。
常に涙目って感じで演じてるよね
このドラマではそうだね
先代が偉大すぎたのもあるけど、激動の時代を生き残るために
能力以上の事をやろうとして何度か空回りしちゃってるね
続きが気になるってのはその辺までだった
黙れ小童
なんでもっと長くやらん。
早漏、早漏って失礼なやつだな!兼続!!
だからその朗読劇を1時間やれって言ってるんだろうが
そんなもん1時間も見てられるかクソカス死ね
家康の屋敷に飛び込んで難を逃れたことになってるけど
三谷は変えてきたな
そこ清正にやらせそうな悪寒
未登場。
ひょっとすると最上義光のように宴会シーンにモブで出てたかもしれないけど。
とありえない啖呵を切って、小大名の真田にびびるというありえない展開に皆辟易
ちがうw三成にかんしては豊臣家の内輪もめとして扱えるが、仮にも大名の他家と事を構えたら
無断で戦をしかけたと、処罰の対象になるからだよw
そりゃ勝てんわ
これで草刈正雄退場したら
高野山・九度山 10月
冬の陣 11月
夏の陣 12月
かな。昌幸の最後は10月頃かな。
大坂の陣でともに死ぬんだろうけど
こうご期待!
時代考証の丸島和洋さんのTweet今回は「前々から変えて貰いたかった描写」を三谷さんに上手く描写シテいただいた回でした。なにかというと、「七将襲撃事件」の流れです。もっとも、完全に史実通りにすると、それだけで丸々一回使う事になる上、前回とダブるので、ラスボス家康を中心にした描写にはなりましたが。最初、三成が蟄居していますが、これは創作です。「家康暗殺未遂」は、大谷吉継が家康支持を表明したことで、風聞の段階で収束したので、三成には処分はくだされていません。2月に家康と他の9人が起請文を交換して「私婚問題」関連のごたごたは終結しています。前田利家が徳川屋敷を訪ねたのは史実ですが、内容は不明です。個人的には、「自分の死後、利長を頼む」という話であったと推測していますが、それを三成謹慎解除の談判という風にアレンジしていただいた形です。「七将襲撃事件」以後の政治史は、俗説がほとんど駆逐されていません。今回が、最初の一歩になってくれればと思っています。ドラマですので、史実(研究成果)と視聴者の知っている「物語」の間のバランスを取る必要があり、さじ加減が非常に難しいのだと思います。七将襲撃ですが、狙われたの三成だけでなく、増田長盛・前田玄以も標的でした。前田玄以が入っているので、「七将」の不満を朝鮮出兵時のトラブルに求めるのはやはり無理があるでしょう。肝心なのはその後の動向で、「通説」では「追い詰められた三成は『政敵』徳川家康の屋敷に逃げ込み、窮地を脱した」とされています。しかし、これはもう2000年には否定された説です。三成が逃げ込んだのは、伏見にある徳川屋敷ではなく、伏見にある自分の屋敷でした。そして石田屋敷は、城下だけではなく、城内にも存在します。三之丸を出た脇にある曲輪「治部少輔丸」がそれで、そこに逃げ込みました。つまり、「伏見城に籠城」したわけです。真田丸のここ数回で「治部少輔丸」というテロップが出てきたのは、この事前説明でした。一方「七将」は、伏見入りしたことを家康に書状で伝え、家康から苦労をねぎらわれています。この家康の行動はとんでもないものです。豊臣政権の「政庁」伏見で争乱を起こした加藤等を、咎めていないからです。このことは、家康が「七将寄り」の立場にいたことを示唆します。それに対し、石田三成もあろう事か毛利輝元に援軍派遣を求め、輝元がそれに応じるという事態になります。すなわち、国許に援軍派遣を指示するとともに、伏見にいた手勢を集めて上屋敷に布陣します。伏見城下は、一触即発となりました。大坂の動きはどうか。大坂城中の「輿論」は片桐且元が「石田三成を支持しない」という方向で固めます。且元はこの時、石田正澄(三成の兄)・石川光吉(大谷吉継の妹婿で、信繁の上司の弟)・石川一宗とともに秀頼傅役四人衆の一人でしたが、それを制した形。実際の且元は、徳川寄りであったわけです。さて、事態に困惑した人物が2人いました。まずは一緒に伏見に籠城する羽目になった増田長盛です。増田長盛は強硬論を唱え続ける三成に反対し、毛利輝元に「三成隠居による決着」と、秀吉遺言に従い上杉・徳川間での姻戚関係構築を提案します。景勝も巻き込んで和議に持っていこうというわけです。より積極的に動いたのが大谷吉継です。吉継は毛利輝元に「国許からの援軍派遣中止」を求めるとともに、徳川家康に事態収拾に協力してくれるよう求めます。今回、大谷吉継が信繁を家康のもとに派遣させたのは、この動きを下敷きにした作劇です。彼自身、病気で上手く動けないと後で述べていますし。これにより、三成も籠城継続と毛利輝元と組んでの決戦は「不可能」と判断しました。そこで増田長盛とともに、「毛利輝元・上杉景勝の調停案であれば従う」旨を提案します。これを受け、毛利輝元は家康に徳川・毛利間に遺恨はない旨を確認。徳川・毛利間で談合がもたれます。そこで家康が出したのは、奇しくも増田長盛と同じ「石田三成に全責任を負わせ、政界から引退させる」というものでした。ところが、「七将」は増田長盛の処罰も要求していたようで、困惑した家康は、この提案が自分から出たことを伏せて欲しいと述べています。毛利の案に折れた形にしたかったようです。それで憤激したのが加藤清正であったようです。清正は今度は家康と距離を取り、前田利長と結んだとされます。「されます」というのは、根拠となる史料が外国人の手によるものなので、国内情勢をどこまで正確に認識しているか、要検討の部分があるからです。慶長4年9月9日、重陽の節句のお祝いのために大坂の秀頼を訪ねようとした家康に、前田利長(在国中)・加藤清正による暗殺計画の情報が入ります。家康は大谷吉継に石田家臣を率いさせて前田領国境を封鎖。これで前田利長が生母を人質に出すという流れになります。大谷吉継の動きもポイント。厳密には、大谷吉継の養子(弟)の吉治が、大谷・石田勢を率いて加賀国境を封鎖したようです。家康はこの一件を調査し、「知らない」と応えた「五奉行」浅野長政が「事実を伏せている」と評価されたためか、隠居に追い込まれます。浅野長政は三成と距離がありましたが、それでも疑われたようです。したがって今回の大河で、ようやく「七将襲撃事件で三成が逃げ込んだ先は伏見城治部少輔丸」「家康に調停を要請したのは大谷吉継」という政治史をドラマ化していただくことができました。毛利はここまでドラマの主軸としてでてきていないので、割愛する形です。この間、政治史上は島津家中の内紛である「庄内の乱」、宇喜多秀家の家臣が対立した「宇喜多騒動」が起きていますが、いずれも家康と吉継が調停に動いたり、動こうとしています。これは「直江状」でも同様で、増田長盛と大谷吉継が上杉景勝上洛を説得していました。なお加藤清正は、「庄内の乱」に際して反乱を起こした伊集院氏を支援しようとした形跡があり、それが露見して家康の不興をかったようです。彼は「会津征伐」に従軍していません。実は家康は一時「加藤勢の上洛阻止命令」を出しており、清正も黒田如水に家康の機嫌を損ねたと書き記しています。さて、直江状ですが、実際には越後の堀氏や旧臣藤田信吉から「謀叛の気配あり」と訴えられたことへの弁明状という要素が強いです。そのためか、近世上杉家の作成した古文書集にも採録されています。ただまあ、あれを読んだら怒るだろうという気はするのですが…。「直江状」原本は残っていません
。花押が付されているのもあるのですが、兼続のものとは形が違うので、関ヶ原時の兼続花押に置き換えてもらいました(ようするに、小道具として家康が手にした直江状は全文書いてある)。問題は追而書(追伸)で、事実上の宣戦布告なのですが、軍記物による加筆です。「直江状」は転写を繰り返されており、そのたびに誤写が生じたり、「江戸時代の人にわかる言い回し」に置き換えられたりしたようです。古態をとどめた写本をみると、豊臣期の文章として問題ありません。写本の成立もかなり早いです。むしろ幕府が、関ヶ原の正当性主張に利用したようです。なお、家康は実際に「豊臣正規軍」の総大将として会津へ出陣しています。ドラマでは片桐且元が秀頼の名前を用いることを阻止しようとしたという見せ場がありますが、彼は家康に近い立場にあり、挙兵した三成の動きに逆らえなかったとみるのが妥当です。これ以上は、次回以降に。