朝鮮出兵とかいうスーパー戦国武将大戦wwww
引用元朝鮮出兵とかいうスーパー戦国武将大戦wwwwhttp://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1461922690

てか明軍も来たんだっけ
いや優勢だったよ
むしろ圧倒していた
そして特に何も得ることなく撤退して終わり
負けだね
戦略目標は未達成に終わったからなあ
関白殿下が生きてれば南朝鮮は領土にできたはず
実際そのために拠点をいくつも構築してたんだもんね
負けというには、あまりにも明と朝鮮が哀れ。
慶長2年、6月~に戦が始まり、朝鮮水軍が大敗北し、
全羅道、忠清道が掃蕩され南原城、黄石山城を攻略され、
稷山で明軍は撃退され、日本軍に半島南部で城塞群を建築された。
12月、明朝鮮軍が蔚山城を攻撃するが落とせず、援軍が来た秀吉軍に
敗北し17000~20000名を失った。
慶長3年は秀吉軍の半数が、休養のために日本へ帰還し、
一部の軍が全羅道と慶尚道へ積極的に威力偵察にでており、
朝鮮軍は翻弄されていた。
慶長9月以降、明朝鮮軍約12万が日本軍の三ヶ所の城へ
一斉攻勢をかけるが、いずれも敗北した。
日本軍は夏に秀吉が亡くなったので、軍の引き上げ命令をだし、
次々に帰還していたが、11月に朝鮮の李舜臣が、明軍と休戦協定を結んでいた
順天の小西行長の引き上げを妨害していたので、
島津義弘軍が援護のために軍を発したところで海戦になった。
李舜臣以下10名の朝鮮将が討取られ、明水軍の副将も討取られ、
小西行長と島津義弘は釜山方面へ、引き上げていった。
慶長の役における日本軍の作戦計画はすべて遂行しており、
慶長4年には、朝鮮の首都の漢城への大攻勢の予定があった。
(ソース 立花家文書 鍋島家文書 李朝実録等)
対する朝鮮は慶長4年の国内状況は、7年間、ひとつの敵も全滅させることもできず、
人もなく食料もなく、もしあのまま日本軍に駐留されていたら、
もうお手上げだった、敵が悠々と去っていったことに憤慨しかない
と記録している。
明側も多くの将兵を失い、銀を大量に消費し、秀吉が死んだから日本軍は
引き上げたと認識していた。
(明史 李朝実録)
野球で言うとコールド勝ち確定だったけど、
試合中に監督が倒れたので中止になった。
こう見るとシックリくるだろう。
ほとんど日本VS明だったよ
戦後史観の影響で消去されかかってるけどね
明の王宮にスペイン顧問団がいた事は習わない今の授業
開戦当初は、朝鮮半島の住民から支援があって補給が必要なかった
というか、最初の手紙で「ここは宝の山だから何もいらんwwww」
って書いちゃったから、秀吉はそれを聞いて列島からの無理な補給を
辞めた。ところが、半島住民が勝手に救世主と勘違いしてただけだったから、
手のひら返されて補給なし、秀吉に補給急いで!って言っても補給できない状況。
ってなった
なんかいろいろ間抜けすぎるなぁ
どうも、朝鮮半島住民が日本側だけじゃ食いきれないほどの食料を提供して、
道案内までしてたらしいのよ。だから、俺らを助けに来たんじゃないのかよ!って
手のひら返された時には、平壌まで行っちゃってて、補給ルートもないって状況。
こればっかりは、千里眼か予知能力でもなけりゃ予測できないと思うよ
何で手のひら返しちゃったのかねぇ
李朝以外ならなんでもいい!→え?五公五民?!取り過ぎ死ね!
もうちょい緩和できなかったんかねぇ
朝鮮側の記録を読めばわかるけど、
いわゆる義兵と秀吉軍に従った朝鮮人は別物で、
文禄の役の和議がなるころまで秀吉軍によく従っていた
朝鮮人のほうが多いよ。
秀吉軍と和議が成ったあとに、敵に従っていた朝鮮人たちをどうしようかって
朝鮮政府が頭を悩まして連日にわたって会議が開かれてたくらいだから。
結局は全員を処刑するのは非現実的な話なので、
従っていた地区の責任者たちを処刑するだけにとどめた。
日本の朝鮮出兵の専門家と言われている連中が、
このことを隠蔽するもんだから、
【朝鮮人たちはじめは従っていたが、すぐに日本軍に抵抗をはじめた】
って事実と違うイメージが作られてる。
当時の日本軍の凄さが伺える
軍事力なら世界屈指だったんじゃないか?
確かに胡散臭い
ルソンから、今なら日本も参戦するって喜びの手紙が送られてる
所得税が少ないから分かりにくいけど
あの人の取り柄っていうか他より抜きん出てたのって、そこらへんの事務処理能力でしょ
補給いらない訳がなかったので板挟み
更に戦功報告で色んな大名から恨まれまくり
帰ってきたら秀次事件
この辺の三成は貧乏クジ代表状態
キッツ…
文禄2年の春には莫大な数の船舶と物資が続々と釜山周辺に送られてるよ。
従軍したキリシタン将兵から聴取したフロイスの日本史や
朝鮮側のスパイの記録に残ってる。
とくに朝鮮側が報告を受けて絶望状態に陥るくらいの数。
この辺の輸送力はさすが石田や増田と思うわ。
同時期に明と遠征軍の間で、和議が成ったから、
その意味では朝鮮にとっては運が良かったかもね。
平安道の朝鮮軍、全羅道や慶尚道の朝鮮軍や義兵も、
この時には遠征軍による討伐や飢え、寒気、逃亡で
壊滅状態になってて、
明軍43500名も朝鮮入りして2ヶ月で3割以上の損害をだして
指揮官も完全に戦意を失っていて大ピンチだったから。
もちろん送ったけど船が難破したり、場所によっては届かなかったりしてなかったっけ
特に初期は寒さなめてたし
頑張ったのに不平不満の矢面に立たされる奉行面子代表の三成ってイメージ…
それは開戦した文禄元年の冬の時だね。
フロイス書簡でも冬は航海不能とあって
夏(旧暦)になるまで望めないとある。
文禄2年初めの秀吉の朱印状にも、船や水夫の集結の指示や
さらに輸送で往復した者には特別ボーナスを支給するという旨が記されてる。
それが>>51で書いた春の輸送に当たるのだね。
ただ日本、明史、朝鮮側の文禄2年2月~3月の記録では、
ソウル付近の日本軍の兵糧状況が記されてるんだけど、
兵糧はそれなりに集積されているのが確認できるから、
冬の間でも細々とは届いていたようだ。