日本史 雑談

江戸時代に関するトリビアをとにかく書いてけ

no title

1: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:21:35 ID:p3z

とにかくいっぱいだ

3: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:23:43 ID:iCp

長屋の共同便所のウンコは売られて大家の収入源となる
6: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:24:02 ID:t3v

描写されてることも多いから気付いてる人も多いかもしれないが
江戸時代の江戸には水路が結構あった
9: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:27:09 ID:MFa

江戸は埋立地が多いので井戸はない
みんな地下を通した水路から水を組み上げていた

そのため疫病が流行る時は早かった

10: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:28:08 ID:PjE

吉原で花魁と遊ぶには2回はお触り厳禁のただ酒を振る舞う大宴会を開かなければならない

というのは後世の風説らしい

13: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:29:30 ID:p3z

>>10
太夫という位が早くになくなったからな

最高位の遊女を身請けするのに必要な金額は
だいたい7000万円くらい

11: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:28:54 ID:EXD

識字率は世界トップクラス
16: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:32:25 ID:C7x

江戸の喫煙率90%越え。
大人ならほぼ必ず吸うし、妊婦も吸う。
タバコは健康を害するものではなく、むしろ健康によいとされていた。
17: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:36:52 ID:p3z

>>16
町人は武器を持てなかったので『喧嘩キセル』という
一メートルくらいあるキセルを護身用に持ってた
本気でやりあうと侍でも負けるような兵器だったとか
no title
18: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:37:31 ID:PjE

>>16
タン切れの薬だったんだっけか
21: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:40:53 ID:oJC

>>16
タバコの葉だけでタール無いだろうから、
今の紙巻タバコよりは健康によかったんじゃね?
19: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:40:33 ID:p3z

参勤交代のとき「下に、下に」という声に、人々が道を開けてひれ伏してら構図は嘘
参勤交代はあんなにゆっくり歩いてられないから全力疾走だった
「下に、下に」と言えるのは徳川親藩だけで他の藩は「下がれ、下がれ」と言ってた
しかも人々は脇道にそれるだけでよかった
22: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:42:07 ID:oJC

関所破りは割りと見逃されてた
23: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:42:18 ID:MFa

明治維新から現在までの時間より、
江戸幕府開闢から明治維新までの時間の方が遥かに長い
25: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:43:56 ID:9Bz

葛飾北斎クラスの有名絵師でも、
かなりの晩年まで裏名義のペンネームで春画描いてた
今の同人作家と同じ
26: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:44:39 ID:3ab

深川は埋め立て地だったから水は買う
かまどの灰も灰買いが買ってくれた
髪の毛を集める仕事があった
火鉢を使い始めて良い日が決まってた
砂糖は薬局で売買されてた
27: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:46:08 ID:MFa

江戸の街は蚊取り線香のように渦巻き状に巨大化していったため、
都市計画が微妙ではあったけど驚くほど早く拡大してゆくことができた
30: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:47:46 ID:p3z

「二階で小便する」というのは吉原に行って来たという隠語
当時、二階に便所があるのは吉原の遊郭くらいだったため
32: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:48:03 ID:qYj

江戸の街に住む町人は、ほぼ全てがフリーターで
その日の生活費をその日に稼ぎ、一日で大抵使いきっていた
「宵越しの銭は持たない」というのはそれを表した負け惜しみ
宵越(よいご)しの銭(ぜに)は持たない  
その日に得た収入はその日のうちに使い果たす。金銭に執着しない江戸っ子の気性をいった言葉。宵越しの銭は使わない。http://dictionary.goo.ne.jp/jn/226048/meaning/m0u/
33: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:48:55 ID:VhV

東海道中膝栗毛の喜多八は弥次郎兵衛のお気に入りの元男娼
34: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:49:49 ID:C7x

御御籤は各家庭にあるもので、今のように神社で引くものではなかった。
みな今日の運勢を自宅で占うのが普通だったのだ。
35: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:50:09 ID:qYj

裕福な人の家に尋ね、おもてなしとして羊羹を出されても、それを食べてはいけなかった
それは来客ごとに使いまわして出すためで、食べるためのものではなかったため、
そういった暗黙の了解を知らない人がうっかり食べてしまうと、無粋なヤツとして家主に睨まれた

ちなみに、一週間ほどでカピカピになるので、そしたらやっと家主の腹におさまるのであった

36: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:50:49 ID:9Bz

世界初の友人グライダー飛行は日本人だった可能性がある。
江戸時代中期に浮田幸吉という人物が飛行したという記録が残っているが、
当時は狂人扱いされた上に記録もあいまいなため謎のまま。
浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)は、日本で初めて空を飛んだとされる人物。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる。
空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。
表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。
その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。
晩年は、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。
37: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:52:48 ID:qYj

江戸時代、数の子は下衆な食べ物として安く流通していた
その理由は、食べるときに音が大きく鳴るため
江戸っ子の間では、音のならない食べ物が粋として持て囃されていた

しかし、数の子は塩っ気があるため、飯がとにかくよく進んだ
そのため、来客にはあまり出されなかったと言われる

38: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:53:04 ID:BfT

ヤバイという言葉は江戸時代にうまれた
 語源由来辞典など不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として、江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉である。
39: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:54:07 ID:hgH

下町とは、城下町のことで、現在の千代田区あたりの事だった
現在、下町と呼ばれている浅草や上野はお寺の街なので門前町
他に宿場町、港町、屋敷町などがある
40: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:55:08 ID:9Bz

「士農工商」「切り捨て御免」とはいうが、こと江戸においては
他国から来た武士の身分は現地の平民より事実上低かった。
江戸でもめ事を起こせば最悪お取り潰しにもなりかねないため、
それを承知の江戸町民がチキンレース的に他国の武士をおちょくることもままあった。
42: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:56:23 ID:3ab

>>40
裏浅葱とか田舎侍!って意味だしな…
43: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:56:38 ID:BfT

>>40
士は実は武士でなくて朱子学を学んだ人のことだとどこか聞いたことがある
41: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:56:02 ID:qYj

関所はとにかく厳しく、通行手形がないと断じて通れないと思われているが、それは間違い
特別厳しいのが箱根の関所というだけで(しかもそれも別にそんなに厳しくはない)、他の関所は
ほとんど総スルーで通れた

なので、町民のみならず子どもたちまでも伊勢参りにも行けたわけである

ちなみに取り調べを受けるときは、対象が女性だった場合はちゃんと女性の係員に取り調べさせた

44: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:58:43 ID:qYj

伊勢参りにはいろんな人々が赴いたが、其の中には子供や犬まで含まれている
丁稚奉公の子どもたちが、ある日パタッと集団でいなくなる場合がある
それは大抵伊勢参りに向かったもので、伊勢参りのために無断で行方不明になるのも
基本的に許されていた

また、犬が伊勢参りをするのも複数報告されている
伊勢参りをする犬は、首にカゴを着けている
そのカゴに道中の人々が食べ物などを差し入れるわけだ

45: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)21:59:17 ID:vkf

江戸時代の銭湯は、混浴だった
46: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:00:32 ID:VhV

無届けの伊勢参りは抜け参りと呼ばれ子供でも道々で施しを貰い旅行をしていた
勝海舟の親父で江戸最強説のある勝小吉も子供の頃に抜け参りをしている
47: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:02:34 ID:AXj

寿司は屋台。大きさはおにぎりくらい大きかった
のれんは客が帰り際に手を拭くために掛かってた
48: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:03:27 ID:9Bz

江戸時代の農民の数学知識は、場合によっては現代の大学生を軽く超えていた
必ずしも綺麗な形に作れない田畑の収穫量の計算をはじめ、
「神社への奉納」という形での自作の計算問題がたびたび公開され、
そういうのがエスカレートして、今でいうネットの掲示板上で行われるような
クッソレベルの高い数学バトルが繰り広げられていた
49: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:03:27 ID:qYj

大名行列は、別に地面に膝をついて土下座をして見送らなければならないものではない
それは将軍の行列のみで、他の大名に関してはやれ家の屋根に登って見物したり、茶屋で
お茶を飲みながら見物したりと、それぞれ好き勝手な態勢でいた

また、行列の前に身を乗り出したとしても、いきなり切り捨て御免とはならず、一番前の武士に
追い払われて終わるか、その前を走る露払いに排除されてお咎め無しであった

50: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:03:49 ID:3ab

旦那さんを送り出すときに火打ち石を打つ習慣は江戸時代にはなかった
人相書きは似顔絵じゃなくて特徴を文章で書き記しただけのものだった
江戸時代の後期まで秋刀魚は人気がない魚だった
将軍は専用の特別な赤っぽい謎の酒しか飲めなかった
51: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:06:04 ID:qYj

公魚(わかさぎ)は、徳川家康が大好物だったためにこの漢字が付いた
52: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:07:05 ID:qYj

江戸時代の侍はきゅうりを食べなかった
何故なら包丁で縦に切ると、徳川家の家紋に似た模様が現れるためである
no title
76: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:41:42 ID:PjE

>>52
へぇー
今でも博多の人は山笠の時期にキュウリは食べないらしいよ
理由は同じく、断面が串田神社の紋になるから
78: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:51:02 ID:qYj

>>76
今でもあるのかー、縁起を担ぐってヤツなのかね
53: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:08:45 ID:AXj

ペリー率いる黒船はアメリカから直接日本に来たわけでなく
当時インドにあったアメリカ海軍東インド艦隊が派遣されたもの
54: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:08:58 ID:IHm

制度としての鎖国がいつ始まったのかは定かでない
55: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:09:12 ID:VhV

江戸時代にはももんじ屋と呼ばれる肉食専門店があった
56: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:09:45 ID:qYj

侍の身分は金で売り買いが出来た
57: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:09:52 ID:p3z

侍は味噌汁には必ず菜っ葉を入れ、まずそれを箸で上げて戻し、最後に菜っ葉を食べていた
「菜を上げる(名を上げる)」、「菜を残す(名を残す)」に引っ掛けた願掛けである
58: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:11:29 ID:rHX

最下級武士(さんぴん侍)の年収は60万円くらい
59: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:12:30 ID:9Bz

参勤交代による各藩の負担は、年平均藩全体の3割にも及んでいた。
大名側でも少しでも経費削減しようと色々頑張っており、
江戸の国境までは最低限の人員でダッシュ、
そこからはエキストラを雇って何とか体裁を繕った。
なお、当然江戸から遠くなるほど旅費がかかるのだが、
逆に監視の目が届きにくくなるため薩摩などは密貿易でぼろ儲けしていたのでセーフ。
61: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:14:18 ID:p3z

>>59
薩摩藩はすげぇ貧乏だったよ
密貿易程度のはした金ではとてもまかないきれないくらい負債がでかかった
60: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:14:14 ID:rHX

焼き芋ののぼりには「○焼き(一本丸ごと)」とか「八里半(九里=クリに近い旨さ)」とか書かれてた
63: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:14:47 ID:qYj

江戸時代はフグが普通に魚屋で売っていた

片手にフグを持った友人が、一杯やろうと家を訪ねてくる
それを断れるのは、基本的に女房持ちに限定されていた
女房持ち以外の者が断ると、臆病者扱いを受けることになる
それだけは江戸っ子として、なんとか避けたかった

そして、今日もまた人死にが出るわけである

64: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:15:51 ID:p3z

赤穂浪士四十七士の処刑は全員分で一時間半で終わった
切腹が形骸化して単なる打ち首であったために素早く終わった
65: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:16:21 ID:AXj

江戸時代の国学者、本居宣長が居なければ
現代に於いて古事記は読めない。
当時、古事記は解読不能だった。それを約35年掛けて解読した
67: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:21:31 ID:9Bz

勝海舟は、坂本竜馬以外にも意外な人物に助言している。
幕末に越後の川上という家が尊王志士に肩入れしたために勝海舟と縁ができたのだが、
そこの長男が「欧米と渡り合うには日本もワインが無くてはならん」
という勝の勧めで、本格的な国産ワイン醸造を始めることになる。
多大な苦労の後、「日本ワインの父」と呼ばれるほどの功績を残し、
その事業は「岩の原葡萄園」が今日まで受け継いでいる。
73: 名無しさん@おーぷん 2015/08/21(金)22:29:39 ID:vkf

浮世絵は、その当時海外に輸出されていた漆器や陶磁器などの“包み紙”や
緩衝材として使われていた
80: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)10:10:45 ID:wVc

江戸人の大好物である蕎麦は、もともと箸で手繰って食べるもので啜るものではなかった
啜る食べ方が広まったのには落語の影響があるが、その方が蕎麦が空気に触れて美味しくなる……らしい

ちなみに蕎麦は腹いっぱい食べるのは田舎者の食べ方で、小腹が空いたら適当に食べるものだったとか

88: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)11:14:53 ID:s47

>>80 そりゃそーだ 、煙草と蕎麦は嗜好品として存在してたらしいぞ
だから蕎麦を食べる事は『一服』と言ったらしい。
96: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)12:21:18 ID:Rsy

>>80
前々からわしゃこれを言いたかった

蕎麦を音を立ててズルッズルッと啜るのが本来の食べ方だとか粋だとか言っちゃう奴
ちょっと啜る程度ならまだしも噺家のやる食べ方そのままにでかい音立てて下劣きわまりない不粋もいいとこ

81: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)10:14:35 ID:80l

軍手を発明したのは幕末の長州藩
軍手の起源は江戸時代末期の弘化・安政(1844~1860年)頃の近代武装訓練の時に鉄砲を素手でさわって錆びないように兵士に手袋をさせたことが始まりとされ、長州藩の下級武士が鉄砲隊のため内職で手袋を縫ったと言われている。1867年、徳川幕府が軍隊を創設、これにより手袋の需要が大幅に増大した。明治に入り大日本帝国陸海軍が創設され、一層軍隊での需要が高まっていった。この頃から軍手と呼ばれるようになったとされる。
82: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)10:28:48 ID:Ftq

幕府直轄地を「天領」という呼び方は江戸時代にはなかった
83: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)10:30:03 ID:7mz

江戸は未婚率が高い
84: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)11:50:02 ID:cUr

江戸時代の銭湯は湯が汚いのをごまかすために薄暗かった
85: 名無しさん@おーぷん 2015/08/22(土)12:09:39 ID:agQ

元禄時代の日本酒はクッソ甘い

幕末の日本酒はクッソ辛い

94: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)12:08:27 ID:Rsy

わしが江戸時代にいたころはのーぅ
97: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)12:26:10 ID:m1n

蕎麦は元々は蕎麦がきで、蕎麦切りっていう麺状になったのは江戸時代あたりらしいから、正式な食い方とか特になさそう
101: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)12:52:58 ID:Rsy

>>97
ないない
江戸時代に噺家が大袈裟に音立ててみせたのが大ウケして真似る奴が出始めて流行して近年、一部が蕎麦は音立てて食うものって勝手に言ってるだけ。
104: 名無しさん@おーぷん 2015/08/26(水)13:01:51 ID:dBP

蕎麦が人気あったのは蕎麦湯がタダで飲めるから
道中喉の渇きを潤す為に蕎麦が食べられた
109: 名無しさん@おーぷん 2015/08/30(日)02:29:49 ID:xmI

「畳の上で死にたい」という言葉は江戸時代に生まれたが
本来の意味は年貢の取立てや法があまりに厳しくちょっとした事ですぐ投獄されていた為獄中で亡くなる人が多かった
そのため死ぬ時くらいは自宅でゆっくり死にたいとして生まれた言葉

引用元: 江戸時代に関するトリビアをとにかく書いてけ

-日本史, 雑談