「エヴォラ文書」の複製品の一部が、10月4日に京都市上京区の仁風庵の講演会で初公開
される。豊臣秀吉の天下統一戦略を読み解く史料もあり、文書の修復事業に取り組んだ星槎
(せいさ)大教授のエッセイスト、伊藤玄二郎さん(71)=神奈川県=は「400年の時を超えた
発見を京都の人にもぜひ見てほしい」と話している。
同文書は、戦国時代に来日した宣教師が土産としてポルトガルに持ち帰った屏風の下張り紙に
使われていた。当時の日本の状況が記されている文書もあったが、劣化を知った伊藤さんを
中心に保存プロジェクトが始まった。京都国立博物館の文化財保存修理所で修復して、文書の
原本はポルトガルへ戻した。さらに、それらの文書を複製。その中から本能寺の変(1582年)後の
秀吉の動向を記した文書を中心に約10点を公開する。
1583年の秀吉側近の書状では、柴田勝豊に長浜城を開城させた秀吉の上洛日程をほかの
家臣に問い合わせ、急がせる内容が読み取れる。1585年の書状は、北陸で佐々成政と争う中で、
加賀松任町(現在の石川県)の町民が佐々側に売るはずの馬を秀吉方に引き渡すことを示した
内容。秀吉の調略が地域に行き渡っていたことが分かるという。
ほかに、イエズス会の巡察使ヴァリニャーノの講義録やルイス・フロイスの手紙などの複製も展示
する予定。伊藤さんは「明智光秀を討ってからの秀吉の動きを文書からみると、秀吉がいかに
戦略家であり、政治家であったかよく分かる」と話している。
伊藤さんが文書の内容について解説する講演会「仁風庵 星槎塾 はなしの玉手箱」は4日午後
2時からで事前申し込み制。(以下連絡先省略)
ソース/京都新聞社
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150930000110

下貼りなんかにせずどうして書物のまま保管されなかったのか?と訊きたいんだろう
お前そこは髪が貴重なのはお前だって突っ込まなきゃダメだろ
せっかくAA付けてんだから察してやれよ
当時のチラシの裏みたいなもんじゃね?w
日本だって浮世絵は壺を包む新聞紙扱いみたいだったわけだし。
何百年も前から一般人も読み書きができた上その書類も捨てずに材料として活用してきたおかげで日本史は未だに新発見の可能性が高いからこの点は他国の歴史よりも楽しみが大きいね
世界初のBC兵器使用かと思ったわw
地域支配と住民感情の把握に隙がないな
秀吉は信長に仕えるまで職を転々としていた
そして信長は身分・経歴問わず実力主義だった
双方が双方のやり方を学び、お互いが組み合わさって覇を唱えられた
信長の本当に偉大な所は、秀吉と前田利家の二人を同時に部下として抱えた所だと思う
多分どちらか片方が欠けても信長の本能寺までの歩みはなかったはず
そう考えると異能の秀吉と人間としてクセの強い利家の二人が支えたという事は、
信長の人望は結構高かったんじゃないだろうかと想像できる
今の日本とは全く逆
秀吉は武士より商人など民間人の力を信じた
だから経済封鎖から補給線の確保まで実力を発揮した
水攻めとか中国大返しとか
政治家でもあるでしょ
丹羽長秀、池田恒興、織田家の実力者と信長の乳兄弟を丸め込んで手駒に使い潰したのは凄いと思う
紙自体が貴重品で、不要になった使用済みの紙であっても買い取る業者がいて、
それが屏風工房に材料として再販売されたのだろうな
手紙というのは受取人が読んだ時点で不用品になるから
恩賞の約束とか権利の保証などの内容じゃない限り再利用しちゃうのが普通
ウホ役
それに加えてナポレオンとかオクタヴィアヌスみたいに仕事を並行処理できる信長にとって、
何を任せても卒なくこなせて普通に使える武将の存在って地味に大きい
微妙だな
信長戦死時点で20万石の大名と織田家中でもそれなりの地位だが
替えがきかないほど重要かと聞かれたら微妙
豊臣政権には居ないと確実に困るけど
凄まじい背信行為
信長個人への尊敬や忠誠心はあったが織田家に対してはそういう感情は無かったんだろう
先祖代々の家臣じゃ無いし。信長の天下統一事業を継げるのは俺しかいないって
自負もあったんじゃないかな
昔は大陸に日本の城が建っていた
太閤さんに対する疑問は、現代的なパワーポリティクスのセンスを発揮して天下統一しながら、朝鮮征伐では精彩を欠きまくった事。
あくまで仮説だが、商業が比較的機能していない儒教原理主義国たる李氏朝鮮相手では、御家芸の調略の発揮し様が無かったのでは無かろうか?
明朝にしたって原則朝貢貿易しか認めて無かったから、元倭寇な海賊共や琉球を後方撹乱に遣う事でもう少し面白い展開になり得たかも知れない。
戦国ドリームチームは実際は大陸で連戦連勝して明の崩壊の原因になってる
明を征服して北京に遷都するという野望が達成できなかった時点で負けなんだよ
連戦連勝したところで明を倒せず結局女真族に漁夫の利を奪われた時点で大敗北
利益がなくて損失しかなかっただろう
豊臣家もそれで自滅した
それは大陸の見方だね
大陸にとっては、撃退した=勝利。よって秀吉は敗北なんだけど
日本にとっては、秀吉体調不良での帰還。
受験に失敗したのは体調不良だったから
就職に失敗したのは体調不良だったから
いろいろ言い訳がましいやつだなw
典型的な負け犬人生
だからそれが大陸の見方なんだって
日本にとって大陸進出が意味のあるものなら秀吉死後も江戸幕府になってからも
継続されただろうけど、実際はそうではない
秀吉や大陸にとっては大陸進出は重要な事だったかもしれないが
江戸幕府や日本にとってはそうではないってこと
いや、秀吉が倒れなくても、報償もロクに貰えない闘いなんて続かないだろ。
どこで利益を出すのか。
日本程度を収めても朝鮮戦線を維持する補給は難しい
陸つなぎの中国王朝でさえ直轄支配したのは元朝(蒙古)だけだわ
秀吉の朝鮮出兵はスペインが清を攻撃して、その次に日本へ来るのを防ぐために、日本防衛&強さを誇示するのが目的。
フィリピンも既に植民地で実際ヤバかった。
家康は宣教師という尖兵と信者という兵士を殲滅した英雄。
ただ、泰国、アジアへ長政送って放置、それ以後鎖国したのは愚作だったと思う。
貿易も朱印船貿易で特定の商人にしかさせなかったし。
ちーーーがーーーうーーーーーーー。
当初はイスパニアと協力して大陸進出するつもりだったんだけれでもバテレン
追放令で決裂したから当初の予定と全く違うものになったんだよおおおお。
本当は朝鮮に出兵するつまりはまったくなくてイスパニアのガレオン船で直接
明に攻め込むつもりだった。
マジかよ、まるでコーエーの大航海時代4みたいだな、大航海時代2も
面白かったけど大航海時代3は意味不明でよくわからないゲームだったw
秀吉が信長のお気に入りだったなんて後で秀吉が広めさせただけだったと聞いた
許しすぎた
徳川
上杉
伊達
佐竹
長宗我部
毛利
前田
島津
配下の武将に与える土地がない
海外に出るしかなかった
人たらしでたらしすぎたためにしんどくなって狂っていったのかもねえ
どれも徹底抗戦されたら天下統一が最低で数年は遅れるような顔ぶれ
秀吉が天下統一して死ぬまでが7年間ぐらいだから、これで良かったということだ
実際にはそんな事実はなく彼はすぐ戦死している
文禄の役
開戦から和平が決まり遠征軍が首都ソウルから移動した時期は 1592 04~1593 05の間。
遠征軍一番隊である小西行長軍の将兵から聞き取りした宣教師フロイスの記録では、
人手不足、地形の険阻、補給部隊の往復の食料消費、
冬到来による船舶の渡航制限・陸軍の移動制限と記されていて、
春が到来したら補給が再開されて、遠征軍の橋頭保の釜山には、
莫大な物資で埋め尽くされていると記されている。
また文禄2年3月(4月)に首都ソウルから遠征軍諸将が日本本土へ発した書状には、
冬の間でも前線付近のソウルにまで食料は届いてはいるものの、
地形の困難さや人手不足とフロイスの同様の記録が残っている。
日本や宣教師の記録、そしてとうの明朝鮮側の記録にも、
義兵や朝鮮水軍のせいとは記録されていない。
マジでw?
つい最近やってたNHK教育の学生向け歴史番組でもイスンシンが海戦で勝利したため
制海権を朝鮮軍が握り日本の補給が困難になったと言ってたのだがw
まぁ朝鮮出兵を「朝鮮侵略」と命名してたりおかしな番組ではあった
やっぱりnhkの歴史観はおかしいのか
これがマジなんだわさ。
フロイスの日本史や文禄2年3月3日にソウルから発せられた書状のほかに、
秀吉自身が発した朱印状にも、遠征軍からの要請をうけたら、
冬が明けて春になれば兵糧を送るよって記録は結構でてくる。
韓国朝鮮側やサヨク学者が言うように
【李舜臣の朝鮮水軍が日本軍の補給船分断】なんていう大イベントがホントなのなら
朱印状には兵糧輸送云々の前に、朝鮮水軍の排除を考える内容の書状がないと
おかしいんだけど、そんなのはないんだよね。
てことは朝鮮出兵の歴史の真実は
補給を甘く見た日本の自滅で
日本は馬鹿ですねってことなわけか
その数百年後のインパール作戦まで日本は全く変わってないのだなあ
ま
それもあるけど
風土病もあるしとにもかくにも寒かった
それに秀吉への忠節合戦だし
仮に圧勝して領土を手に入れたとしてじゃぁそこで領主になっても
嬉しくともなんともないじゃん
目的もない戦いを強いられる方はつらいぜ
小西行長、加藤清正、黒田長政らが競って占領地を拡大し
知行地拡大に喜んだと歴史資料にはあるそうだが
貧乏な半島の土地を貰っても嬉しくないだろ、兵隊を養えない
この時代は日本に限らず、通路、軍事の形態、物流なんかは近代と
違うので日本だけの現象じゃなく珍しくない現象だよ。君の論法だと、古今東西の世界中の英雄が馬鹿だけになってしまう。
大陸の戦争だと、数年単位の当然で、十数年、数十年と争い、
何度も攻めたり退いたりの繰り返しなのだから。
現地調達しようしたけど、現地にあんまり米がなかった
(反省から、慶長の時は日本から運び城まで作った)
開戦派の加藤清正が小西や石田の言うこと聞かなかった
(兵站が伸び伸び)
明軍が大陸得意の物量作戦に手こずって膠着状態になった
(今の福建省や湖南省あたりの将軍まで参戦、西の方で謀反軍と戦ってた
将軍もいたけど)
第一次出兵と第二次出兵がごちゃ混ぜになっているようだけど、一回目の時は明軍は初めは明側は4万人しかだせなかったし、
蹄碧館の大敗の後、明軍は大量の兵士を失い兵糧も続かず壊滅的な状態に陥っていた。
第二次出兵のときも明軍は南原城、黄石城、稷山で敗退、攻め込んだ蔚山城でも大敗、 3方面からの総攻撃も負けてる。
ここでも大量の兵士と兵糧を失い明軍は停滞している。
諸反軍と言っても第一次出兵のときは寧夏の乱
第二次出兵のときは四川方面の反乱で、明軍の朝鮮派遣軍を
転用させて鎮圧に成功してる。
ちなみに日本軍に連敗し続けた明軍が、四川反乱軍は弱兵と評価した程度の反乱軍の実力。
小田原を下した刀で駿府を襲えば、終わっていたのだ
その点、家康は抜け目ないから関ヶ原で天下取ったあとも実力二位の豊臣をきっちり潰した
後付け乙
一度恭順した武将をどういう大義で殺すんだよ
豊臣の屋台骨が揺らぐだろうが
小牧長久手で秀吉が勝てなかった時点で家康は生き残りの権利を得た
関が原で勝った刀で、豊臣を滅ぼさずに、結局15年もかかった時代背景を察してください。
秀吉も、そこまで家康が長生きするとは思わなかっただろね~
ちーーーーーがーーーーうーーーーーー。
秀吉の計算違いは沼だらけの荒地だった江戸が大農園地帯になったことなんだ
世大おおおおおおおおおおおおおおおお。
家康はそのために家臣にまで土木作業をさせたんだぜ。
地盤看板鞄を持っている世襲政治家とか、試験で点を取るだけが能の官僚と比べたらいかん。
秀吉って豪農の生まれらしいよ
京都の人にも見てもらいたい…
京都の人に見てもらっても無駄だよ?
ほとんど、童話か朝鮮人なのにwww
俺は明に攻めたのは信長の意志を受け継ごうとしたためだと解釈してる
信長の血族を盛り立てるとかは放棄して思想を残そうとした
北陸を手に入れた信長は、勝家に命じて先祖の地である剣神社を手厚く保護させた。
しかし信長の没後、剣社社領を根こそぎ削った恩知らずの織田家旧臣が居た。
その男こそ秀吉である。
直接をかけたり、帝に危害をくわえたりすれば、強固に見えた政権内部か
らも離反者が続出して、当人の存命中か、遅くても次世代には、史実の様に
政権崩壊にいたったと思う。
武士政権になってからは武士も庶民もほどんど気にしてないわ
乞食レベルの天皇も居るわ
戦国時代はマジやばかったけど毛利、信長のお陰で持ち直して安泰です
やばかったんはそん時ぐらい
日本にこんな人物がいたのか、という鬼才。
長期政権は築けなかったけど、
個人の才能だけでいえば日本最高の戦術家だな。
日本に秀吉以外で彼のような智謀を感じさせる武将はいないわ。
勝ち方が独創的だし華があるからな。俺も秀吉好きだわ
信長も、史実を見ると武闘派と言うより政略の人だと思うぞ。
叩く時は徹底的に叩いたから武闘派の印象が強いけど。
そんなに黒田孝高さん誉めなくても
秀吉自身は戦略家だと思うが、ただ三木の干殺しだけはセンスないと思うわ
くだらんよ
ついに一度も当選しなかったようだが
斎藤道三が油売りから一代でというのも否定されて、
ホントに成り上がりというともう秀吉くらいしかいないからロマンがあんだろう。
成り上がりものなのに外様への粛清の鉈をふるわなかったからダメだったんだろうが、
そこもまた彼の人間性なんだろう。
明の朱元璋みたいにならなくて良かった。
文禄の役は1592年4月に遠征軍が釜山に上陸して、5月には首都ソウルを陥落させる。
その後、後続の遠征軍諸将がソウルに集結し、取り決めを決めた後、
小西行長軍は平壌へ、加藤清正軍は半島東北部へ進撃する。
1593年7月に、援軍に来た明軍が小西行長軍の
平壌へ襲来するがこれを撃退する。
こうして明側は沈遊撃なる人物が小西行長へ和平の交渉和を申し入れしてきた。
度々、交渉が続き50日間の休戦条約が結ばれたので小遠征軍は北上しなかった。
この明側の和平交渉は、運勢軍を欺くためのものであり、
明軍の朝鮮派遣の時間稼ぎであった。
沈遊撃も使者を派遣していたので、実質は50日以上の休戦期間となった。
こうして1593年1月には明軍43500人が派遣され、朝鮮軍17000人と合わて、
1万人前後の小西軍の平壌城へ襲いかかった。
占領することができず、開城勧告を行いようやく城を奪還する。
明軍の死傷者は3000人 朝鮮軍不明
明軍が得た首級は1285だが、半数は朝鮮人の首で水増しという情けないものだった。
こうして明軍は、遠征軍が統治しているソウルに向かうが、
碧蹄館で遠征軍の猛烈な反撃にあい大敗北を喫する。
朝鮮入り後、わずか3ヶ月足らずで明軍は15000人近くの兵員を失い、
厭戦気分が漂った明側が、日本に和平交渉をおこなう。
交渉の結果、明側が二人の人質を出して、日本に和を乞うという形で
纏まったので遠征軍は、莫大な物資が届けられている釜山周辺に移動したわけ。
これが文禄の役の経緯。
