上記の布陣ですが。各部隊の戦力は豊臣方
真田信繁本隊三千五百、与力二千、計五千五百。毛利勝永六千五百。
大野治房四千六百。速水守久隷下七手組一万四千六百。
徳川方
松平忠輝九千、松平忠直1万五千、井伊直孝三千。藤堂高虎四千五百、
本多忠朝五千五百、榊原康勝五千四百、酒井家次五千三百、
前田利常以下二万。徳川家康一万五千、徳川秀忠二万三千、徳川義直一万五千。
史実に沿った戦闘経過。
天王寺口では五月七日正午毛利勝永隊と本多忠朝隊と戦闘、毛利隊は本多隊撃破、
ついで第二陣榊原康勝隊、第三陣酒井家次隊をも撃破、家康本陣に突入。
真田信繁隊は松平忠直隊と激戦の末これを突破、家康本陣に突入。
岡山口では大野治房隊と前田利常隊が戦闘、井伊直孝、
藤堂高虎両隊は家康救援のため戦線離脱。大野治房は自軍の一部を秀忠本陣に突入させた。
七手組は秀頼の参陣をまって出撃予定であったが秀頼は来ず待機のままであった。
信繁家康本陣突入時、速水守久久が自己の判断で家康本陣に突入していれば家康は
討ち取られ、その後、速水守久隊、毛利勝永隊、真田信繁隊、大野治房隊が
秀忠本陣に突入すれば、家康討ち死にで志気の低下した徳川軍は撃破可能だったろう。
その後は徳川軍は一旦退き体制の立て直しを策したろう。
豊臣恩顧の外様集は秀頼に帰参したろう。
おしまい
秀頼に武将の素質が少しでもあれば勝利の可能性高かったろう。
天下人になれなくても、近畿一帯を領有する富裕な大大名位は可能だったと思う。
じゃあ仮に秀頼がそこそこの名将で1.1倍程度の兵力差なら押し返せるとしよう
どこにどう攻めて幕府軍を追い返すのか、追い返した後どうするのかを妄想してみてくれ
論じるのは仮定を出してからだ
妥当な線で素質に関しては常真レベルと仮定しろ
歴史の教えるところは常真レベルなんだよなー。
速水守久にもう少し戦略眼と決断力があればと思う。
毛利勝永、真田信繁、長宗我部盛親、明石全登もそう思ったろうね。
側面攻撃を行うという作戦だとすると大成功に終わっている
天王寺・岡山の戦の布陣をみれば家康本陣の前面は相当分厚く、第一陣本多忠朝五千五百
第二陣榊原康勝隊五千四百、第三陣酒井家次隊五千三百。毛利隊はこの三陣を蹴散らし
家康本陣一万五千に襲い掛かっている。真田隊は松平忠直1万五千を蹴散らして
家康本陣に突入している。家康は囮にはなるだろうが、主将討ち取られれば徳川軍敗退に
なってしまう。自軍が絶望的に劣勢なら主将が囮もありえるが、自軍が優勢な時には
ありえない。
中央は戦闘正面が他と比べて広い
本来なら数を生かした戦いをしたいが、戦域が狭いのでそれも出来ない
となると、相手をのめり込ませて釣り上げるしかなくなる
幕府軍の配置は左翼は大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000、松平忠直勢15,000の合計55,000
中央は五5,000強が三手に家康本陣15,000で31,200
右翼が先鋒20,000、中備7,500、本陣23,000の5,0500
総予備が1,5000で戦闘正面が広いにも関わらず中央が一番少ない
後、総予備というのは動かないというか動けないもの
基本的に後ろにまだ兵がいるというのは重要で、それがないとあっさり
裏崩れすることが多い
それに仮に投入するにしても最後の切り札なので大抵は時期を見誤り、
失敗している
悪いけどよくある机上の空論の1つかと
「相手をのめり込ませて釣り上げる」と言ったて、家康が討ち死にしちゃえば
おしまい。現実に家康が助かったのは単に運がよかっただけ。総予備
一万五千の半数だけでも突っ込んでれば、家康の首は無く、徳川軍総崩れ。
ただでさえ豊臣軍に押されてるんだから
惜しむらくは毛利も真田もいいところまで押してるんだが予備隊が投入されなかったこと
あくまで毛利や真田は前線指揮官であって総大将の戦略眼で予備隊の投入が望まれたわけだが
大野修理とかまで前線に出たのは間違いじゃないか?
勝手バラバラに死に場所探しの旅になっちまってさ
の部隊三千残存していた。秀頼はこの内三千を率いて七手組と合流、
計一万八千の内七千を押さえとして残し、残り一万一千を率いて家康本陣に切り込む。
家康の首級は簡単に取れたろう、秀頼の救援があれば真田隊、毛利隊の消耗も少なく、
二万程度は戦闘力保持可能、家康救援にはせつけた藤堂隊は前日の戦で長宗我部勢に痛めつけられ
戦力はかなり低下、井伊勢も木村重成との激戦で戦力低下、秀頼本隊の攻勢に立ち向かえないだろう。
かくして秀忠本陣に二万の部隊が、大野治房も千五百の兵で合流秀忠本陣と決戦。
秀忠本陣前面の加藤嘉明、黒田長政は豊臣恩顧でもあり又家康討ち死にとあればあえて
秀頼に刃向かわんでしょう。秀忠本陣後方の徳川義直1万は救援に駆けつけるでしょう。
結局秀頼軍2万一千と秀忠軍三万三千の戦ですが、数的には劣勢とはいえ家康を討ち取り
意気あがる豊臣軍と、意気消沈の徳川軍では秀頼の圧勝と考えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%E7%B0%E5%A9%E5%B8%B8
又天王寺の戦いで家康劣勢となったとき、「大坂夏の陣に際しては、
城方が巻き返した折前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが
取り合わなかったという逸話が伝わる。」との説があるくらいだから徳川方は
寝返りの恐怖のため怯えて敗走の可能性も高い。
所説はあるけどホント何で出無かったんだろうなあ
本人は出る着まんまんだったらしいけどね
それにとりあえず幕府軍を追い返す手だてはどうなのかね
家康を殺す以外ないってのならかなり厳しいと思うが
この戦いで、秀忠は踏みとどまって戦おうとしましたが、家康は現に逃走しています。
それでも真田隊にもう少し余力があればしとめられたと思います。
豊臣の生き残り手段は戦場で家康仕留める以外なかったと思います。
家康が討ち死にすれば、戦場には豊臣恩顧の武将がうようよしており、
彼等の向背量りがたいので、秀忠は危なくて戦闘継続できんでしょう、
とりあえず兵をまとめて引き上げるしかなかったでしょう。
結局豊臣が滅亡してたとは思うけどあの時点で家康が討ち取られたら天王寺口は壊走だろうし京と大和方面に撤退でしょうね
まぁ豊臣側は手練れが多いので当然徹底的に追撃するでしょうけど第一線の毛利や真田も戦力的には限界ですしね
ただ家康の死で伊達とかまた馬鹿な事考えそうな気はするねぇw
「真田はあと一歩で家康を討ち取れた」というのは願望です
徳川に2度勝ってる上に三方原でも参戦してるし作戦全般取り仕切れただろうに
あっさり冬の陣で滅亡してたかもしれんがw
直接戦いたかったとか思ってたら死ぬけど
予備隊投入すれば一気に突き崩せたんじゃないかなぁ
冬の陣以降の戦いだけでも毛利や信繁が幕府軍に恐れられるような名声獲得したんだから
昌幸なら最初から幕府軍も及び腰になりそう
家康ならそれを口実に黒田とか加藤とか伊達すり潰す口実にして先鋒に使いそうだけど
豊臣方は戦線中央を正面と割り切って真田隊、毛利隊で攻め込み
徳川の陣形を完全に突き崩しています。その結果七手組から家康本陣まで
完全にがらあきになり、七手組は進撃さえすれば家康本陣攻撃可能でした。
片倉の息子が又兵衛討ち取ったぐらいしか
伊達に限らず藤堂とかも酷いねw
黒田、加藤、上杉とか一応戦国末期に生き残りも大したことないし
まー領土貰えるわけでもなく嫌々出陣してる部分もあるんだろうけどさ
一等酷いのは前田だろう、その気になれば大野治房隊など一撃で壊滅できたはず
なんとなく戦闘したふりしてただけで、治房に秀忠本陣突っ込ませても平気な顔してる。
隙があれば寝返る気満々。
http://sanadamaru.syuriken.jp/s-yukimura.html
「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。
大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(『本多家記録』)
ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と『朝野旧聞哀稿』
一応資料はあるみたい。
これらの資料は江戸時代成立だから家康に有利な脚色はしてもこのような
大敗したとする脚色はしないでしょう。事実だったと思いますよ。
http://www.samurai-journal.com/db/sengokubusyo.html
このサイトでは『朝野旧聞哀稿』は徳川家の記録となってますよ。
徳川家が家康が自害寸前だったとする作り話記録しないでしょう。
後は『耶蘇会年録』にも似たような話がある
前者は服装を白い小袖としているが『慶長見聞集』では茶色としている
実際問題、白い小袖は遠目に映えて危険なのでそのような格好をするとは思えない
また、後者も家康敵視の記述なので問題がある(家康死亡時に暗殺説を載せているし)
ちなみに『老将談話』の当該箇所には編纂者の「変更の要ありか」という注釈文がある
どちらかというと噂話のレベルかと
逆の解釈も可能と思いますが、家康が自害寸前追い込まれた、と言う
話は側近から伝わり広く知られていたが、記録に残すのは皆躊躇した。
『耶蘇会年録』は幕府に遠慮せずそのまま記録した、『老将談話』
は徳川の実戦経験豊富な武将の話、当時の歴戦の武将は苦境に追い込まれて
自害寸前にいたったとしても武将として不名誉と考えていなかった。
しかし編纂者はこの事実をそのまま記録するのはやや危険と判断した。
家康の旗印が打ち捨てられて敗走した時点で生命の危機に陥ってると
考えるのが普通だと思う。
『耶蘇会年録』はキリシタンを弾圧しているこの時期の家康についてはバイアスをかけた表記なのは事実
それに『老将談話』という題名に惑わされてはいけない、後世の軍記物がスゴそうに見えるような題名を
付けることはよくあること
それに勝敗相反すとか東軍の醜態を記した手紙を載せた「細川家記」や、勝利は家康の運とか家康の旗本を
三里に渡り追い散らしたとする「薩摩旧記」にもそのような話は無い
ちなみに「薩摩旧記」には同じ文中に家康・秀忠の旗本で逃げたものはいないとも書いている
「逃げたもの」でなく、「逃げないもの」だったわ
「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」
朝野旧聞哀稿のこの記述はかなり具体的で実際に現場に居た武将の
談話と思うよ、自害寸前の事実は広く知れ渡っていて隠しようがなかったんじゃない。
「細川家記」や「薩摩旧記」の記述者は現場に居なかったので詳細は
記述出来なかったと思うよ、それに外様だから、伝聞だけで余計な記述
しないほうが無事と思ったんじゃない。
床几に正純を置き、家康が玉造方面の谷間にいたのは戦闘前から
しかもこの組み合わせ、関ヶ原合戦でもやっていたりする
ちなみに「大日本史料」ではこの部分の記述は除かれている
東大のエライさんは載せるに値しないと判断したということ
切腹しようとするたびに家臣に止められてるけど。
三方が原以来倒れることのなかった家康の馬印が倒れるほど本陣が
混乱していたのは確かで、家康が危機に陥ってたのは確かでしょう。
ただ、あと一押しがあれば家康を討ち取れたかっていうと疑問符がつく。
ケツまくって逃げ始めたときの家康の逃げ上手さは史実が示すとおり。
家康を討ち取れなければ、大坂方はすぐにジリ貧に陥るだろうね。
仮に真田信繁が適当な白髪首を槍先に掲げて、「江戸内府討ち取ったり」
て喚き叫んで突っ込んでいったらどうなっただろう。加藤嘉明、黒田長政、
前田利常あたりは動揺して戦闘中止したんじゃないかな。そうすると
秀忠隊が戦線離脱、一時的かもしれないが幕府軍大和に撤収、になったかも知れない。
後者は慶長17年に既に亡くなっているので、この逸話は論外なのです
将軍も秀忠だし
実際天王寺口はあの状況で本陣突かれても崩壊してないんだからさ
家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも
外様の武将は徳川家に忠節心持ってるわけじゃなく、家康怖さに参陣
してるだけ。秀忠の命令に素直に従うかどうか?
真田信繁もそのあたり狙って家康付けねらったんだから。
「家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも」
古来退き戦が一等難しい、兵に退却の指令だした時、追撃されれば
総崩れが相場。
真田や大野は消耗してるし親衛隊様は動く気ないし
外様でも黒田、藤堂、池田、浅野、京極なんかは
純粋に徳川への忠誠心で動いてると思うよ
後は豊臣への積もりにつもった恨み
毛利とか島津とか伊達あたりは忠誠心なんてかけらもないと思うけど
戦国大名そんな甘い連中じゃないでしょう。
幕末の諸藩は譜代、親藩さえ新政府に忠節誓ったんだよ。
長州の恨み買った会津は抗戦しましたがね。
「純粋に徳川への忠誠心」そんな武将居る訳ないっしょう。
三百年余りたった幕府と各藩の関係と出来たばっかの頃の関係を同列に語られても困る
戦国大名は利害以外では動かない、その点は幕末よりもっと徹底してる
一歩間違えれば一族滅亡が現実に起こっていた時代。忠節心など持ち合わせてない。
それはそうだな
そうするとだ家康を討ち取ろうが秀頼が出陣しようが寝返る奴は出よう筈も無い
滅亡寸前の豊臣に付き危ない橋を渡るより家康が死んでも揺るぎそうもない強大な徳川家に尽くし政権内の地位を高めた方が安全だしな
これだけ尽くしましたよっていうスタンスを見せることが大事なの。
下手に戦わなかったりしたら幕府から咎められて改易になるかもだし
例え戦況が不利でも寝返る奴戦わない奴なんかいんのか
大阪城周辺以外全部幕府側だぞ 忠誠だの戦況以前に幕府にマイナス行為をする利益がない
秀忠家康が二人死んだら話は別だけどさぁ
この時代の戦では、戦況が不利になれば寝返る武将履いて捨てるほどいたよ。
家康が討ち死にすれば幕府が存続するか否か不透明。
秀忠は無類の戦下手、徳川譜代衆、旗本は合わせて五万くらいは居たようだが
真田隊5500、毛利隊6500、大野治房の別働隊1500に引っ掻き回され
敗退重ねる弱兵、戦国武将はその点を良く見てるよ。
別に大御所が死んだって将軍健在なら不安定にはならなくないか?
将軍あっての幕府だけど大御所は別に必要ないし
仮に頭おかしい奴が一人寝返ったらそいつの国元に周りの幕府の諸将が攻め込むでしょ
国元が落とされたら付き従う兵士は霧散するしどうすんの
仮に家康を討ててもその時点でほぼ無力化する部隊の方が多いし
ヘッド家康を失っても副ヘッド秀忠が無事で翻弄されててもまだまだ元気で数の居る徳川と疲れはて数も少ない豊臣どっちに付いたら得かなんて子供にも分かる
江戸幕府に抵抗した大名がいたか?いなかっただろ。
よって、夏の陣で家康が討ち取られようと普通に秀忠に従うわな
幕閣の政治外交手腕に対抗できる人物が豊臣家には皆無。
真珠湾で米国海軍に大打撃を与えた旧日本軍が、最後にはアメリカに
物量や政治力で押し切られたのと同じように、豊臣家が最終的に敗北する
結末が目に見えてる。
家康秀忠の二人を討ち取った後ならまだしも二人が健在な状況でそんな日本全部を敵に廻すような危険すぎる賭をやるとは思えない
結局オタクさんの言うような事は家康秀忠両方を討ち取らないと無理でしょう
例え秀忠が戦場では無能でも将軍という立場がある限り諸将はそう簡単に離反しない
「あれは誰かな?」「あれは毛利勝永だよ」とか見物してたエピソードは笑うな
こんな戦で無理に兵力失う気は全くないってのがよく出てて
傍観はしていません、しっかり戦っています
取りあえず『大日本史料』を読んでみたらいかがでしょうか
まぁ2、3日は余裕で潰れますが
黒田と加藤は秀忠隊二万三千が大野治房別働隊千四百に切りたてられたのを
みて、しょうがねーなって感じで秀忠救援に向かったんだよ。百戦錬磨の黒田長政
加藤嘉明あたりは何こいつらって思ったでしょうな。山っ気あったら秀忠ぶっ殺してたろうね。
もっとも山っ気があったろう政宗すら密かに真田の子女を匿う程度しかしなかったんだしその二人が寝返るなんてまず無いわな
徳川って1584年の小牧長久手以後30年間まともな戦闘経験無し。一方
豊臣浪人衆は朝鮮の役、関ヶ原で戦闘経験豊富、まともに戦闘やれば勝負にならない。
加藤、黒田、伊達の助勢でなんとか勝てただけ。外様がそっぽむけば逃げ回るしか
能ないポンコツ兵団。
司馬の受け売りなんだと思うが
小田原攻めでは結構活躍してるし
関ヶ原でも島津と戦っている
小田原攻めではまともな戦闘なし。関ヶ原では300名程度の島津隊
をよせばいいのに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉三隊で追っかけて、反撃
食らって井伊直政は重傷(後に死亡)、松平忠吉負傷とポンコツぶり丸出し。
秀頼が七手組率いて家康本陣に殴りこみかけてりゃ如何動いたか解らない。
この時点でも徳川、浅野、黒田の主君は秀頼、徳川を誅するのは主君の
命により逆臣を討つで正当性確保でき、なんら精神的抵抗無かっただろう。
局地戦で勝ったからと言って大局が変わるとは思えんな
家康秀忠両方が死なない限り幕府は健在で地元が不安になるから寝返るに寝返れないっての
そんぐらい家臣の身を預かる大名ならわかるだろ
二万三千もの兵力にも係らず千四百程度の部隊に追っかけまわされるポンコツ兵団
敵に回したって痛くも痒くもないって思ったんじゃない。このポンコツ
に攻められたって落城ありえない、国許の留守部隊で楽勝でしょう。
そのポンコツの集まりじゃん
何だそのおめでたい思考は 例え国元の城が小田原城より堅固でもそんな安心はできんわw
万に一つ城が落ちたら兵士の家族も皆殺しになるのにそんなお気楽な思考する奴は流石にいないと思うが
侍クラスは変わらないが、兵員は関東兵になり、弱体化した。
また本能寺以降、急激な領土拡大のため、新規召し抱えの侍が増え、
精鋭では無くなってしまった。
持久戦したら敗北街道まっしぐらの大坂より
全国の諸大名を味方にしてる徳川に味方するわ。
寝返った瞬間に留守にした城攻撃されたらたまらんし
関ヶ原の戦いも家康が秀吉の遺訓を破ったりしてたけどそんなのはっきりいってどうでもいいんだよ。
いざ戦争が始まれば強そうな方につく。家康に味方した連中は家康が勝ちそうだったから味方した。
「家康は秀吉公の遺言をやぶっておる」などいくら奇麗事いっても、立花みたいに敗軍の将となり浪人になってしまえばアホなんだよ(立花は大名に復帰できたけど)
幼稚園児でもわかる簡単な理屈だ
幕末をみれば彦根藩は率先して江戸攻めに加わってるしw
大阪城が裸城
大坂方の兵力は枯渇寸前
淀君と秀頼の体制は腐ってる
ことじゃね
淀君には外様もうんざりしてるんだろうし最後までそのわがままに付き合った加藤と福島はあんな状態だし
大阪の陣に参戦してる外様も十分な所領を経営してる訳で関ヶ原以降15年かけて築き上げた地位を投げ出すわけにはいかんでしょ
間に朝鮮出兵や関ヶ原の戦いこそあるけど、もう地方同士の争いは終結してずいぶん時間が過ぎてるわけで
「今の地位や領土を保ちたい」と安泰願う大名たちばかりになっていると思うよ
「豊臣に寝返ってあわよくば今より多くの領土を得る」なんてギャンブル思考なんておらんでしょ。そんなの考えてたのは行き場のない浪人だけだよ
実際2世大名が多いし江戸には妻子居るわけだしね
いまさら戦国時代に戻られても困るって大名も多いだろうな
特に東北の諸藩は政宗なんかが居るから幕府による統制が無くなると非常に困る
というのが第一の疑問
撤退したとしてそこから伊達だの上杉が勝手に戦線離脱出来るのか?
というのが第二の疑問
特に伊達とか上杉は幕府からは目を付けられてる訳で戦線離脱するならここぞとばかりに追撃食らうだけでしょ
もうこの段階で豊臣側について一発逆転なんて時代じゃないんだよ
「伊達とか上杉は幕府からは目を付けられてる訳で戦線離脱するならここぞとばかりに追撃食らうだけでしょ 」
以前はそう思ってたが、夏の陣調べていくうちに徳川軍にそんな能力無いと確信した。
戦国生き残りの武将はそれくらい見抜いたと思う。追撃なぞ屁とも思わないだろう。
夏の陣はギリギリだったので事態を動かせなかったが、冬の陣で真田、毛利、
後藤当たりが直接家康、秀忠の陣に攻撃加えその弱体ぶりを曝していれば手の打ち様あったと思う。
まさかここまで弱いとは想像出来なかったんだろう。
仮に徳川が倒れたところで無政府状態になるだけで豊臣政権が復活するわけではない
軍事力よりも文治力の問題の方が遥かに深刻な問題だよ
この種のスレは家康が死ねば全員が秀頼に忠誠を尽くすという間抜けな考えが基準になっているから困る
徳川が崩れた時点で自身が出陣して総攻撃を指令しなかったということは、
つまり秀頼の指揮官としての能力が低かったということの証左では。
そんな将に率いられた部隊がまともな行動を取れるとは思えないなあ。
大野治長は関ヶ原戦で福島正則隊に加わっていたくらいだから、
当然、福島に頭が上がらないだろうし、大坂陣へ出征する浅野は
福島傷心を気遣って、平野長泰に依頼して訪問してもらっているし、
秀吉の従兄弟で豊臣性だし、大坂夏の陣の二年後は従三位参議だし、
血筋実績経歴でだれも異論の付けようがなく大坂方をまとめるのに
最適な人物だった。
それだからこそ家康も厳重に警戒し、阻止したわけだから、無理といってしまえば
無理なのだが。
家康が老獪すぎるのがいけない。秀吉みたいに年相応に耄碌してもらう必要がある。。
秀頼と家康の会見時のヘタレっぷり見るととても豊臣側に付くとは思えないが
家康が加藤の死を待っていたかのように動き出したのもそういうことでしょ
秀頼、家康の会見時、正則は1万の兵を率いて伏見街道から京までを
警備し、自身は大阪城にいて変事に備えてましたが。
昌幸がいたって一浪人でしかなかっただろ。
秀吉から寵愛され大老宇喜多秀家なら指揮させてもらえるだろうけどな
引用元: ・大阪夏の陣で七手組が出撃していれば?
