1: 人間七七四年 投稿日:2009/06/30(火) 21:48:55 ID:pjiAZHIT
明智光秀、仙石秀久、頑固一徹、▲長▼、▲忠政、快川和尚、、
隣国、近江の賢い面々が羨ましい~
4: 人間七七四年 投稿日:2009/07/07(火) 00:23:27 ID:SG6xENcW
斎藤妙椿もよろしく
斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代の武将・僧侶である。美濃守護代斎藤宗円の子で斎藤利永の弟で、甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。また甘露寺元長の娘を養女とし、尾張上四郡の守護代織田敏広に嫁がせている。妙椿は法名(実名は不明)で善恵寺に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家と言う。
6: 人間七七四年 投稿日:2009/07/07(火) 21:11:25 ID:BqPYLnQs
>>4
稲葉山城下に常在寺や瑞龍寺を建てた人だよね。
歌と引き換えに領地返還。風流すぎww
5: 人間七七四年 投稿日:2009/07/07(火) 00:39:11 ID:BqPYLnQs
謎の切腹「古田重然」
一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として有名。
利休七哲のひとりとされる。
関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、
大坂落城後の6月11日に内通の疑いで切腹を命じられた。
織部は一言も釈明せずに自害したといわれる。
7: 人間七七四年 投稿日:2009/07/08(水) 01:52:37 ID:/q7koiXZ
竹中半兵衛は違うの?
竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。
戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」と称された。 しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。
天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。
8: 人間七七四年 投稿日:2009/07/08(水) 03:08:46 ID:+T6IEOW+
名人久太郎は
堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。
9: 人間七七四年 投稿日:2009/07/10(金) 18:18:27 ID:Ufk/ndG2
半兵衛は変人だね。
酷い馬に乗って得意げに戦を語る人w
10: 人間七七四年 投稿日:2009/07/11(土) 00:48:47 ID:yWRYwCpE
可児才蔵を忘れるな
可児 吉長(かに よしなが)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。通称の才蔵(さいぞう)でよく知られており、以下本稿でも才蔵名で記す。天文23年(1554年)、美濃可児郡に生まれ幼少期を願興寺で過ごす。寺伝では元朝倉氏の側室の子として生まれたという伝えがある。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだとされる。
11: 人間七七四年 投稿日:2009/07/12(日) 03:59:00 ID:Eu/bFrPg
仙台名物笹可児
12: 人間七七四年 投稿日:2009/07/15(水) 01:01:06 ID:UtWow+gP
>>1 伏字にするなよw
長可は地元金山ではちゃんと良政してたんだぜ。
13: 人間七七四年 投稿日:2009/07/15(水) 18:21:59 ID:YOevIKp2
裏切りの前田玄以
三成が大坂で挙兵すると、西軍に加担して家康討伐の弾劾状に署名した。
一方で家康に三成の挙兵を知らせたりするなどの内通行為を行い、
また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残ったり、病気を理由にして
出陣しなかったりと最後まで戦場には出なかった。これらの行為により
関ヶ原の戦いの後は丹波亀山5万石の本領を安堵され、その初代藩主となった。慶長7年(1602年)5月20日に死去。享年63。
14: 人間七七四年 投稿日:2009/07/27(月) 19:55:41 ID:0S0w9sJy
あの当時どちらか決めかねていた大名は多かったし
成り行きで不本意ながら他陣営に入ったものも多い
普通の行動だろ
15: 人間七七四年 投稿日:2009/07/30(木) 20:34:26 ID:w4+qTgxC
日根野弘就
武将ながら鎧や兜の自作で有名。
84歳で自害。
17: 人間七七四年 投稿日:2009/09/14(月) 08:57:23 ID:UmPUE/pX
>>15
生涯信長に抗し続いた人ですね。
ところで私は他国(遠江)の者ですが、福光御構って
今でいうとどのあたりにあったんですかね?
20: 人間七七四年 投稿日:2009/09/14(月) 17:59:23 ID:+gDfoxPq
>>17 福光御構という言葉が初耳なので適当だけど、
稲葉城下で福光といえば、今の長良福光じゃないのかな。
昔はこの辺りを流れていた長良古川、長良古々川を昭和の初めごろに締め切ったから、
地形はずいぶん変わってしまっているかもしれないが。
と、地元出身武将が「地味なことで有名な加藤光泰」の俺が言ってみる。
21: 人間七七四年 投稿日:2009/09/15(火) 01:23:47 ID:UWdONVrM
>>20
ありがとうございます。
福光御構(おかまえ)は土岐氏の守護館です。いわば美濃の中心ですかね。
稲葉山が確か守護代の斎藤氏の居城ですよね?
よく資料などにも出てくる名でしたが、なにぶん地理に疎いので。
遺構など残っていれば見てみたいものですね。
22: 人間七七四年 投稿日:2009/09/15(火) 18:06:15 ID:QYqL6bwX
>>21
妙覚寺あたりから流れてきた長井新左衛門尉やその息子新九郎が出仕してたとこねw
23: 人間七七四年 投稿日:2009/09/16(水) 21:19:50 ID:nuGGl8nU
>>22
「彼の斎治(斎藤義龍)身上之儀、
祖父新と左衛門尉は、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村と申し、
長井弥二郎所へまかり出、濃州錯乱の折、心はしをも仕候て、
次第にひいで候て、長井同名となり、
又父左近大夫(新九郎、道三)代々なる惣領を討殺、諸職を奪取、
彼の者斎藤同名に成りあがり……」(六角承禎條書より)
25: 人間七七四年 投稿日:2009/09/17(木) 07:53:10 ID:AeYw0QcQ
>>23
父長井新左衛門尉がまさに下剋上の申し子。
息子新九郎(道三)はその親父の遺志を継いだってことだね。
16: 人間七七四年 投稿日:2009/07/31(金) 01:29:18 ID:43ffTXmZ
土岐氏スレ?
18: 人間七七四年 投稿日:2009/09/14(月) 08:59:28 ID:UmPUE/pX
19: 仙台藩百姓 投稿日:2009/09/14(月) 13:45:42 ID:xU9fuP7o
美濃は小器用な側近タイプが多いイメージだお( ^ω^)
24: 人間七七四年 投稿日:2009/09/16(水) 21:22:57 ID:nuGGl8nU
26: 人間七七四年 投稿日:2009/09/21(月) 14:57:54 ID:I3MMsRUj
拷問の竹中重義
美濃斎藤氏の武将であった竹中重光の孫
父の後を継いで豊後府内藩主となる。
寛永6年に長崎奉行に着任。
穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された。
さらに島原藩主松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始。
多くのキリシタンが殉教した。
この時、有名な絵踏み(踏絵)が、雲仙で初められたという記録が残っている。
密貿易など職務上の不正により切腹。
27: 人間七七四年 投稿日:2009/09/21(月) 15:07:47 ID:I3MMsRUj
穴吊りの図
http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/stjulian.htm
穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。
その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊し、
その際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、
頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、
などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、
地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。
雲仙地獄責めというのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、
柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、
気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。
28: 人間七七四年 投稿日:2009/09/22(火) 23:21:40 ID:4EVPhsIr
>>27
よくそんな拷問考えたよな。
29: 人間七七四年 投稿日:2009/10/11(日) 18:07:47 ID:Lh/wpbQD
猪子兵助も美濃出身だな。
30: 人間七七四年 投稿日:2009/11/12(木) 07:34:54 ID:v5PusksZ
>>1
何で▲で名前隠すんだ?
31: 人間七七四年 投稿日:2009/12/25(金) 13:38:31 ID:EGuQJSiB
>>30
隠されてるのは森長可と森忠政か?
32: 人間七七四年 投稿日:2010/06/10(木) 00:16:54 ID:1CXnS/Cc
稲葉一鉄
34: 人間七七四年 投稿日:2011/08/01(月) 19:32:00.22 ID:QNk7Gse2
竹中半兵衛は、顔に小便をひっかけられて興奮したり
息子におもらしさせて喜ぶ変質者だった。
35: 人間七七四年 投稿日:2011/08/03(水) 05:05:13.17 ID:CDdx6qi+
伊賀伊賀守って誰やねん
36: 人間七七四年 投稿日:2011/08/03(水) 09:18:58.12 ID:DWRKio2c
安藤守就
安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃北方城主。姓は安東とも表記される。文亀3年(1503年)、安藤守利(定重)の子として生まれる(生年は永正5年(1508年)ともいわれる)。美濃安藤氏は元々伊賀姓を称しており、守就も伊賀伊賀守など時に伊賀姓も名乗った。
はじめ土岐頼芸に仕えていたが、美濃国が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。
37: 人間七七四年 投稿日:2011/08/03(水) 11:11:16.13 ID:5kNOhkx7
遠山七家
岩村遠山家が有名だが、信長に潰された
苗木遠山家は地味だが、幕末まで一度も改易改封されなかった
遠山友政の時は、森長可に苗木城を攻められ
家康のところに身を寄せたけどな
引用元: ・【狂人】美濃の武将を語れ【変人】