1: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 14:55:26 ID:TIBWEcPJ
越前朝倉家に3代にわたって主君を補佐し、越前朝倉家の
繁栄を支えた朝倉宗滴公について語っていこう!
「朝倉宗滴」(あさくら・そうてき、1477~1555)とは、戦国時代に越前で活躍したチート爺である。
越前朝倉氏の7代目、朝倉孝景(英林孝景)の八男。
従兄弟の朝倉景豊が謀反を起こしたのを9代目・朝倉貞景に密告。その功績で金ヶ崎城の城主に任じられた。
そこから朝倉家の番長へとのし上がっていくわけである。
宗滴の主な伝説としては
加賀の一向一揆と戦い、数十万とも言われた一向宗を1万の軍勢で打ち破った
北近江の浅井亮政と六角氏との戦いでは六角側に味方。浅井氏の居城である小谷城付近に5ヶ月も居座った
伝説の茶器、九十九髪茄子を所持していた
など。
3: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 16:44:26 ID:KhKPP4wa
宗滴話記に出てくる信長台頭の記述は数ある写本のうち一種類にしか載ってないからあとで付け足されたって言われてるな
宗滴は織田信長の才能を見抜いていたという。臨終の直前に「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と言い残している。
4: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 17:20:32 ID:kWNHI+30
流浪の明智光秀を雇ってくれた朝倉土佐という人がこの人ですか?
5: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 17:22:23 ID:DP0delrZ
すばらしいじいさん
6: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 17:34:50 ID:KhKPP4wa
朝倉土佐は4代為景から分かれた分家の朝倉景継か、息子の景種じゃないか?
7: 凡眼では見えませぬ 投稿日:2010/09/13(月) 17:53:01 ID:kWNHI+30
そうでしたか。
何かの小説で朝倉土佐が本願寺の坪坂伯耆との戦いの指揮を取ったとか書いてあったので気になりましてな。失礼しました
8: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 20:10:20 ID:TIBWEcPJ
でもこの爺さんはやっぱただ者ではなかったよな。
9: 人間七七四年 投稿日:2010/09/13(月) 21:23:28 ID:tDlO4Jo3
朝倉宗滴が名将となったのは実母の東堂殿と2人の叔父である景冬と光玖
あっての事だよね、地味だけど。
11: 人間七七四年 投稿日:2010/09/14(火) 05:40:37 ID:bshZzfli
織田信長視点でしか語られない時点で脇役だよね
爺さん爺さんって、若い時もある人だろ
12: 人間七七四年 投稿日:2010/09/14(火) 06:09:29 ID:Jr9k5Tbw
いいよね
戦陣訓とか呼んでると当時にしてはとても現実的で合理的で凄く好みだ
16: 人間七七四年 投稿日:2010/09/18(土) 15:40:35 ID:B3T0VJXE
ほっしゅ
19: 人間七七四年 投稿日:2010/09/21(火) 23:27:07 ID:d1tBjhLq
武の方面ばかり語られるけどそれ以外にもいろいろおもしろいことやってるよね。
九十九茄子を高く売りつけたりとかへそくり?隠してたのが近年発掘されたとか
鷹を育てて細川高国と朝倉孝景に献上したり、鮭を人工養殖したとか。
鮭好きな武将はけっこういるけど自分で養殖したなんて逸話があるのは宗滴
ぐらいじゃないかな。
20: 人間七七四年 投稿日:2010/09/22(水) 13:18:08 ID:VFspJWIR
信長台頭を予言した人でしょ?
21: 人間七七四年 投稿日:2010/09/27(月) 15:08:45 ID:Fp+R2RHU
>>20
後世の書き足し
22: 人間七七四年 投稿日:2010/09/28(火) 13:02:00 ID:ECakhePp
>>21
ソースは?
23: 人間七七四年 投稿日:2010/09/28(火) 13:16:44 ID:z6E4N0wL
ソースも何もすでに史学では常識
24: 人間七七四年 投稿日:2010/09/28(火) 15:18:23 ID:WnvKEezK
いやダメだな。
歴史を修正するならちゃんと確固たる証拠と資料が必要だからな。
ただの憶測と主観だけで歴史を決め付けるんなら中国や朝鮮となんら変わらん
25: 人間七七四年 投稿日:2010/09/28(火) 17:01:40 ID:hQE6MYPq
>>24
朝倉本読めよアホが
26: 人間七七四年 投稿日:2010/09/28(火) 17:53:54 ID:DdTawuyR
>>24
キチガイ乙
頼むから少しは勉強してきてくれ。
30: 人間七七四年 投稿日:2010/10/19(火) 15:21:22 ID:pBC1Ed6i
越前・加賀一向一揆を壊滅したのは、信長で、朝倉ジジイは、何もしとらん。
だいたい、国内に一向一揆がいること自体変でしょ。
織田が朝倉を滅亡させたら、今度は、越前国内の一向一揆が蜂起して、
織田の代官を追放して、一揆持ちの国になるとか、変。
仮面ライダーが、ショッカーを倒したら、今度はデストロンが出てくるみたいで。
家康は三河一向一揆を解体した後に、一揆は蜂起していない。
信長・秀吉も同様で。
会ったこともない信長の台頭を予言するとか。
武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条早雲は、凄いと評価したとか、
かなりおかしい。
後世の偽書によって捏造された人物像が、朝倉ジジイ。実際は大したことない。
35: 人間七七四年 投稿日:2010/11/13(土) 22:58:48 ID:5b/+kkvD
武者ハ犬トモイヘ畜生トモイヘ勝ツ事ガ本ニテ候
だっけ?
36: 人間七七四年 投稿日:2010/11/13(土) 23:05:28 ID:Lf7QDCvf
『朝倉教景』のほうがカッコイイと思うのだが。。。
『朝倉宗滴』のほうがいいか?
37: 人間七七四年 投稿日:2010/11/14(日) 18:25:41 ID:GtCDS9EV
まぁね、戦国武将は号名の方がかっこいいのが多いからね
38: 人間七七四年 投稿日:2010/11/15(月) 06:40:19 ID:rS7lT3ID
教景だとどの教景かわかりづらいからじゃないか?
教景っていっぱいいるし
朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、越前朝倉氏における重要な実名(諱)であり、少なくとも5人が教景と名乗っている。
朝倉教景 - 5代当主。室町時代の武将。
朝倉家景 - 6代当主。室町時代の武将。
朝倉孝景 (7代当主) - 戦国時代の武将。英林孝景と呼ばれ、朝倉敏景とも名乗った。
朝倉教景 (宗滴の兄) - 英林孝景の五男。兄景総に殺された。法名の以千宗勝を併記して区別される。
朝倉宗滴 - 英林孝景の末子(八男)。号の宗滴で知られる戦国時代の武将。
39: 人間七七四年 投稿日:2010/11/15(月) 14:44:51 ID:j1k0/SBW
『北条幻庵』より『北条長綱』のほうが好きさ
40: 人間七七四年 投稿日:2010/11/15(月) 16:26:55 ID:wgXsSWrM
『教景』の名は畿内の大寺院によって呪いをかけられて英林は孝景に名を変えた。
そんな名前をあえて名乗る宗滴。これだけで凡人ではあるまい
41: 人間七七四年 投稿日:2010/11/15(月) 21:19:38 ID:mlkYsEn4
宗滴の同母兄の朝倉教景も忘れてもらっては困る。
宗滴と違ってかなりDQNらしいけど
42: 人間七七四年 投稿日:2010/11/21(日) 16:37:05 ID:shyY4z1U
>>41
知らんかった・・・
43: 人間七七四年 投稿日:2010/11/23(火) 01:27:04 ID:qjXN56IS
越前、加賀、能登の一揆軍30万を撃破したとかいう話しを
本気で言っている奴っているのかな?
戦国時代の日本の人口は現代1/8程度なので、
北陸の男子全員を集めてもそんなにいないのではないか?
さらに男子の中にも子供や老人もいるのでさらに少ないはず。
44: 人間七七四年 投稿日:2010/11/23(火) 01:37:08 ID:qjXN56IS
いや、1/8じゃない。1/10の1200万人程度だな。
当時の日本の人口は。
で、現代の越前と石川県の人口をあわせても160万人程度、
当時は1/10なので10で割ると16万。半分が男子として8万。
子供や老人や不参加者を集めると5万でも寛大なくらいの数字だな。
46: 人間七七四年 投稿日:2011/06/28(火) 16:00:46.84 ID:Dn/UUCb4
女だって槍を持たせれば戦える
男女平等だーーー
女も戦えぇぇェェ
48: 人間七七四年 投稿日:2011/07/11(月) 23:39:30.94 ID:qzILMOIL
驚異のじいさんは龍造寺家兼
「龍造寺家兼」(りゅうぞうじ・いえかね 1454 ~ 1546)とは、肥前国の戦国大名龍造寺氏の武将で、齢90を越えて没落した龍造寺氏復興の為に立ち上がった「信長の野望」最高齢級の爺武将。
肥前龍造寺氏十四代龍造寺康家の五男として生まれ、分家の水ヶ江龍造寺氏を興してその祖となった。
本家同様に少弐氏に仕えて大内家を破る等の活躍を見せ、衰退する龍造寺氏を少弐家筆頭にまで押し上げるも、龍造寺氏の本家が同僚の馬場頼周の謀略によって(龍造寺家兼が大内家が攻め込んできた際に動かず、少弐資元が自害した事が遠因とされている)龍造寺家兼の二人の息子龍造寺家純と龍造寺家門や孫達をことごとく暗殺されてしまい、龍造寺家兼も筑後の蒲池鑑盛の元へ逃げ出す非常事態が発生した。
その後、蒲池鑑盛の後援をうけた龍造寺家兼は90歳を越える老齢で出陣し、鍋島清房らと共に仇敵馬場頼周を討ち果たした後に病に倒れ、幾多の名医の治療の甲斐もなく
慶法師の兄中納言僧(龍造寺隆信)を時をはかり還俗させよ。
彼の人となりは大きなる器物有って、いかにも家を興すべき者なれば、必ず、老功の面々計ひ給え
と、曾孫の肥前のクマー龍造寺隆信を還俗させる旨を遺して、93歳にて大往生を遂げた。
49: 人間七七四年 投稿日:2011/10/07(金) 16:49:30.03 ID:GmMp3G4T
「30万」は、誇張でないとしたら、門徒全員総動員した数だろうね。
訓練された戦闘員は、当然、もっと少なかった筈。
それでも、戦闘員としては使えない人間であっても、輜重・飯炊きなどの後方支援には使えるので、遠征軍としては、やはり強大な陣容と言える。
51: 謙信は本当に関東管領? 投稿日:2012/02/10(金) 18:23:37.86 ID:2tuTjf8O
朝倉宗滴は、偽書。後人の捏造決定。
賀越闘諍記(朝倉始末記の一部)は、享保6年の写本が一番古いため、信憑性は低い。
原文読むと、30万騎、農工商、北斗七星、などの言葉使いから、江戸時代作成は確実。
52: 人間七七四年 投稿日:2012/02/10(金) 18:54:05.03 ID:VRj4Sup1
朝倉本家の家督継承権はあったので?
53: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 投稿日:2012/02/12(日) 17:32:43.68 ID:BBQEpp4C
そんなのどっちでもいいだろ
本人にその気はないんだから
54: 人間七七四年 投稿日:2012/02/12(日) 19:34:02.36 ID:oIXGVX3C
でも朝倉宗家との血縁が遠のくのを懸念して
貞景四男景紀を養子にして実子を嫡廃したんだよね
55: 人間七七四年 投稿日:2012/02/12(日) 20:53:56.77 ID:XQmJY4nL
>>54
それは家督と言うより、宗家を補佐する自分の家が宗家から離れすぎてはいけない、という判断なんじゃね?
61: 人間七七四年 投稿日:2013/02/10(日) 18:57:35.21 ID:JcRLTVSF
>>57
一行開けて書く癖は歴史板んときから相変わらずだな。まだ宗滴に粘着してるのかw
58: 人間七七四年 投稿日:2012/06/03(日) 20:03:31.32 ID:3n0hj2x/
最近の研究では朝倉家の軍事だけでなく政治も差配していたらしい
実質的な当主なのでは
60: 人間七七四年 投稿日:2012/09/10(月) 00:37:37.40 ID:eiqrWejI
勇者という言葉が似合うよね
各地を転戦し続けて名声を得たのがカッコイイ
64: 人間七七四年 投稿日:2013/10/15(火) 03:14:02.29 ID:1kXmXn+P
加賀さえ攻め落としてりゃあな
65: 人間七七四年 投稿日:2013/12/10(火) 01:25:41.18 ID:tNjANr51
手伝い戦ばっか
66: 人間七七四年 投稿日:2013/12/11(水) 09:18:33.07 ID:o6vELK95
>>65 それは仕方がない
宗滴晩年以外の越前や京周辺では
あくまでも一国一守護が原則の時代だろうし
自身が国を乗っ取った過去がある朝倉家からすれば
自国周辺に弱肉強食の下剋上の流れを呼び戻すのはマイナス
成り上がりの過去は封印して名門の武家として振舞っていた朝倉家が
いまさら他国を奪うような戦を仕掛けてもデメリットが大きいし
ただ手伝い戦での局地戦担当であったがために功績を上げやすく
本来の能力以上に戦上手の評判を得ている気がしないでもない
67: 人間七七四年 投稿日:2013/12/11(水) 18:04:04.63 ID:PU2OVViy
>>65
手伝いっていうか、京極こそ消えたけどその先には六角、更には三好が待ってる。
完全に手詰まりだったんじゃね?
だから加賀あたりで遊んでたと思う。
69: 人間七七四年 投稿日:2014/01/15(水) 19:06:18.82 ID:nwDuv7xl
なんでみんな一向一揆との戦いでしか軍才評価してないの?
浅井は?斎藤は?細川は?
宗滴は畿内方面に幕命で出陣してたらしいし。
朝倉氏が斯波氏の被官だった関係や、同じ越前に由来を持つ織田家に元から関心あったんじゃないかな
70: 人間七七四年 投稿日:2014/01/15(水) 20:25:51.03 ID:VPAUmUr4
確かに
74: 人間七七四年 投稿日:2014/03/25(火) 21:45:53.26 ID:4OuPNY+G
葉隠れよりこの人の武士論の方がかっけえな
「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とされる『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。これらは主に、武士としての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる「武士道」とは趣が異なる。
武士道は江戸時代には武道ともいわれたがこれはのちに武術を指すようになった。
享保元年頃(1716年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。
引用元: ・【脅威の】朝倉宗滴【爺さん】