人物

尊敬できる武将あげてけ。

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1: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)01:56:37 ID:mFp

石田三成、毛利勝永、真田幸村、浅井長政、武田信繁、


2: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)01:57:39 ID:mFp

あと、大谷吉継と島左近と伊達政宗も
3: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)01:59:24 ID:ck3

佐原義連
佐原 義連(さわら よしつら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。相模国の豪族・三浦義明の子。三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦にも従軍し、その功により、陸奥国会津を与えられる。同年北条時房の元服の際、頼朝の命により烏帽子親となる。建久3年(1192年)の頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた。
4: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:00:08 ID:0uk

南部晴政
南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。陸奥の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主。
若い頃から勇猛で知られており、家督を継いでから「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築いたのは晴政の功績によるところが大きい。
外交面においては天正6年(1578年)、織田信長に使者を派遣して駿馬と鷹を献上して誼を通じるなど優れた一面を見せた。
5: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:01:29 ID:tyy

>>1
西軍好きかよ
6: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:01:56 ID:3fw

黒田官兵衛
やっぱ最後まで生き残らなきゃな
7: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:02:43 ID:kgY

三成とかねーわ
あんなキツネ野郎
8: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:04:03 ID:2db

宇喜多んちの直家くん
9: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:20:58 ID:yJ5

徳川家康
10: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:21:56 ID:qB6

ダントツで明智光秀
11: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:22:50 ID:Rpm

成田と立花
12: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:23:23 ID:mFp

一番は石田?かな。
13: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:23:44 ID:yJ5

楠木正成
14: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:24:40 ID:qB6

明智左馬助
15: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:26:32 ID:mFp

でも、毛利勝永も尊敬できる。
16: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:26:35 ID:vnx

上杉影勝
17: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:27:38 ID:mFp

>>16
そいえば上杉景勝ってせきがはらで動いてなかったよな?
18: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:28:40 ID:ck3

>>17
伊達&最上といちゃついてた
19: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:29:58 ID:qB6

何を以ってしてあった事もない人間を尊敬するのか
20: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:30:06 ID:uVc

何がどう凄いかもっと具体的にかけよバカ
21: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:36:19 ID:mFp

石田三成は五奉行の中で唯一の実力者であり、たいこーけんちとかやってとよとよみしのせいじのはってんになんとか。
そんでひでやすにみつなりなんとか?
23: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:38:37 ID:qB6

>>21
豊臣うじな
22: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:37:40 ID:mI6

山中鹿之介
あいつの忠義の心と不屈の精神は見習うべきものがある
山中 鹿介 幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎[2](じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名である。
衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。
幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた。
主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた。
23: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:38:37 ID:qB6

>>22
わかる
24: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:39:10 ID:mFp

>>22
我になんとかをとか月に言った奴?
25: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:39:56 ID:qB6

我に七難八苦を与え給えだっけ?
26: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:40:06 ID:mI6

山中鹿之介とは逆に、
黒田清正

こいつの小賢しさと処世術も見習いたい

27: ドキュン◆NpqLp96rfA 2015/05/21(木)02:40:37 ID:mFp

我に難破船を与えるうんこ?
29: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:42:31 ID:mI6

黒田清正ちゃう、加藤清正や!
31: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:43:23 ID:mI6

美濃のマムシも好き
32: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:44:09 ID:qB6

だから何を以ってしてあった事もない人間を尊敬するのか
33: 名無しさん@おーぷん 2015/05/21(木)02:46:48 ID:mI6

加藤清正は刀鍛冶の息子から一国の城主になった事
美濃のマムシも同じ
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。父が清正の幼いときに死去したため、母とともに津島に移る。母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。

引用元: 尊敬できる武将あげてけ。

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