合戦

大坂の陣の豊臣方で好きな武将

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1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:53:55.44 ID:Xiav8n6d0.n

木村重成
木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。知行3千石。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。

2: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:54:16.13 ID:zGYGpe9Y0.n

塙団
塙 直之(ばん なおゆき、一説には永禄10年(1567年)[1] - 元和元年4月29日(1615年5月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名で知られる。
翌年の大坂夏の陣では部将の1人に任じられ、緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。直之は浅野家臣の田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田重安の家人)らと交戦。一説には、直之は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られた。異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも言う。直之の僚友の淡輪重政は、その戦死を見て、敵中に斬り込み、討死した。この時、大将の大野治房は願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて、慌てて退却した。
3: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:54:40.18 ID:na2b7j0A0.n

織田有楽斎の撤収の上手さよ
4: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:54:42.99 ID:bwJsucfR0.n

オレンジ薄田
慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方から「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲りを受けた。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。
5: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:54:45.23 ID:x6EeCaI00.n

いないわ
徳川側ならおるけど
6: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:54:48.58 ID:KPHnSQZ+0.n

頭に銃弾くらって笑ってるやつのエピソードすき
7: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:21.55 ID:glCoU89f0.n

島左近
8: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:23.73 ID:eVoeMORL0.n

毛利勝永
9: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:46.04 ID:u+Nc7Fid0.n

全登
10: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:48.50 ID:zGYGpe9Y0.n

徳川方の二世三世ぼんぼんばっかのおもんないメンツ
11: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:51.87 ID:6TY9DR520.n

長宗我部盛親

なお小説でしか知らん模様

長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の4男。
父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大阪城に入城、大坂の陣が勃発し、激戦奮闘を繰り広げるが敗北した。

慶長19年(1614年)秋、大坂方と徳川方との間が風雲急を告げる中、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や浪人などと合流し1000人もの軍団となり、10月6日に大坂城に入った。さらにこれに応じて長宗我部家の再興を願う旧臣たちも次々に入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。

盛親は無事大坂城に帰還するが、八尾での先鋒隊壊滅、及び退却戦は長宗我部隊に少なからぬ痛手を与えたと考えられ、翌日の大坂城近郊での最終決戦には出陣せず、大坂城・京橋口の守備についていた。その後、天王寺・岡山の戦いにおいて大坂方の敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡した[23]。
だが運は盛親に味方せず、5月11日に京都八幡(京都府八幡市)近くの男山に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒された。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。

自刃もせずに捕らわれたことを徳川方の将兵が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い、「出家するから」とまで言って命乞いをしている。しかし盛親の胸中を知る徳川家康はこれを許さず、死罪に決したという。同じ逸話として秀忠の側近が「何故自害しなかった」と尋ねると「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」と答えた。
15: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:56:27.83 ID:FS11jp32x.n

>>11
司馬か?ワイもや
12: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:55:55.89 ID:ai/89TrY0.n

後藤又兵衛
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。

慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆[10]の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。
13: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:56:03.71 ID:FS11jp32x.n

長曽我部、ただ小説で読んだだけでbにしたか覚えてないンゴ
14: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:56:25.04 ID:6WTh+YNB0.n

ゲヒ殿
16: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:56:35.04 ID:FXxFlxvw0.n

明石全登
明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり/かげもり/もりしげ、生没年不明)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。
その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。
17: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:57:27.12 ID:pgQloXavp.n

上田宗箇「ちょっと抜け出して茶杓の材料の竹集めに行くか」

大阪兵「ファッ!?有名な茶人武将の上田が一人でおるやんけ…目的はなんや…罠かもしれん、逃げなきゃ(恐怖)」

古田織部「ちょっと抜け出して茶杓の材料の竹集めに行くか」

大阪兵「ファッ!?有能茶人武将の古田が一人でおるやんけ…狙撃したろ!」

39: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:50.02 ID:x6EeCaI00.n

>>17
頭WADAだったせいで光が反射して、それ見た兵に撃たれた話すこ
古田織部

大坂の陣で徳川方として従軍していた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。重然は出家していたので頭髪のないハゲ頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。弾は危うく頭上をかすめたので重然は慌てて陣中に戻ったという(『茶話真向翁』)。
18: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:57:45.62 ID:5Aiok8ap0.n

宇喜多備前中納言八郎秀家さま
27: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:59:23.79 ID:0xmVKHcE0.n

>>18
違う世界線では泳いで参戦してるのかな?
19: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:58:06.99 ID:EQePRd3i0.n

明石ダンス
20: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:58:19.79 ID:BFFofCRI0.n

毛利勝永ニキ
毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を収容。藤井寺に布陣した後、諸将と協議の上、自ら殿軍を務め、真田らの軍勢を順次退却させると、鉄砲隊を備えに残して機を見て無事撤退させた。
7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣。戦闘が始まるや本多忠朝や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せた。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。
8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で静かに腹切って自害したという。

毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ねた。嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と答えた。それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と驚き、賞賛したという。

当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は「豊臣軍には真田信繁と毛利勝永という指揮官がおり、凄まじい気迫と勇気を揮い、数度に渡って猛攻を加えたので、敵軍の大将・徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした」と以上のように報告したという。
21: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:58:21.34 ID:A8x+VlfNK.n

夏草の賦の後に戦雲の夢を読んで鬱になるンゴ
42: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:34.40 ID:f9uG2eq4E.n

>>21
夏草の賦の終盤で既に鬱入るんですがそれは
22: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:58:27.70 ID:LKtbkJkM0.n

真田を挙げてはいけないという風潮
23: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:58:53.72 ID:ItGxZS0vK.n

ここまで南条なにがしなし
南条 元忠(なんじょう もとただ)は、安土桃山時代の武将。伯耆羽衣石城主。忠成ともいう。南条元続の子。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂入城、平野橋口で3000人の兵を与えられる。東軍の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に東軍に寝返ろうとするも、渡辺糺に見破られ、城内千畳敷で切腹させられる。「裏切りの伯耆侍古畳み南条もって役にたたばや」と落首された。享年37。遺骸は小姓の佐々木吉高によって持ち帰られた。なお、従兄の宜政(よしまさ)の子孫は、600石を知行する旗本として存続した。
24: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:59:03.52 ID:sTaRqNhP0.n

後藤又兵衛
25: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:59:02.69 ID:GzN7nXsA0.n

意地でも真田と書かないお前らが好き
26: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:59:09.29 ID:xrKUaqd50.n

橙武者とかいう恵体糞打
28: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 22:59:29.06 ID:bG9k7TIpa.n

片桐
30: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:00:06.12 ID:+QBELwQQ0.n

長宗我部盛親を最悪なタイミングで継投させた元親が悪い
32: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:03.26 ID:sTaRqNhP0.n

>>30
信親を殺したやつが悪いよ
36: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:29.21 ID:zGYGpe9Y0.n

>>32
仙石死ね
37: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:40.51 ID:u+Nc7Fid0.n

>>32
や仙糞
31: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:00:56.26 ID:cOR2YnPc0.n

大阪方は無能しかおらんぞ
33: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:08.95 ID:snDyZIAZ0.n

遊女買いに行ってる間に砦を落とされたやつ
34: 風吹けば名無し@\(^o^)/(滋賀県) 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:25.08 ID:ssTKhcSK0.n

近江のやつ
35: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:25.87 ID:gmjM6X6AE.n

信繁死んでも信之は徳川に何十年もイビられ続けたからな
48: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:03:54.56 ID:5Aiok8ap0.n

>>35
そのストレスのせいで長生き出来なかったし、可哀想やね
53: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:05:06.52 ID:fdxbODEo0.n

>>48
長生き出来なかった(享年95)
56: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:06:21.15 ID:5i0RJ4Ie0.n

>>53
120は余裕でいけたからね
54: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:05:53.47 ID:x6EeCaI00.n

>>48
90まで生きてるんだよなぁ…
38: 風吹けば名無し@\(^o^)/(滋賀県) 投稿日:2015/05/20(水) 23:01:48.23 ID:ssTKhcSK0.n

大阪の陣で近江の武将いなかったの?
44: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:41.83 ID:u+Nc7Fid0.n

>>38
49: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:04:21.58 ID:xrKUaqd50.n

>>38
大谷吉継の息子
増田長盛の息子
とか
51: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:04:43.85 ID:f9uG2eq4E.n

>>38
増田長盛の息子とか近江系だっけ?大和かもしれんが
52: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:04:54.86 ID:viFRlRTE0.n

>>38
大半は敵方にいる模様
40: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:07.79 ID:Z34IqoDN0.n

後藤
41: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:12.92 ID:lqr13Otj0.n

渡辺了
43: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:37.58 ID:5NOBtpE70.n

明石ぜ…全登
45: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:44.47 ID:Gg6J+6pn0.n

真田幸村だな
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。
大坂城への籠城策が決定すると、信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えた。徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至った。
この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなる。
5月7日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。
しかし毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。[要出典]これを受けて信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」とつぶやき 、真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った。中でも信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。
ちなみに、家康の本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。
46: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:02:51.55 ID:dr614NoC0.n

織田信雄
織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。
関ヶ原の戦いでは、大坂にあって傍観的態度に終始している。一説には石田三成を支持したとも、畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる。しかし、傍観的態度を西軍に与したと判断されたためか、秀雄ともども改易されている。
戦後は豊臣家に出仕したが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身する。当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあったようである。後に家康から大名に取り立てられていることから、大坂城内での情報を流す間者であり、その働きが評価されるほどであったと推察される。
元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。領地に風雅な庭園楽山園を造る一方、養蚕など産業育成にも力を注いだ。後に四男・信良に上野小幡藩2万石を分知して、自らは京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送った。寛永5年(1628年)10月には、将軍・徳川家光より、江戸城での茶会に招待されている。
50: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 投稿日:2015/05/20(水) 23:04:30.29 ID:hJBQv0dxa.n

ここまで盛親ほぼ無し
桑名さんも泣いとる
桑名 吉成(くわな よしなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。後に藤堂氏の家臣。
盛親にも仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親が西軍に属して敗れ改易になると、家臣の中に改易を受け入れず籠城を主張する者が相次いだ。吉成は抵抗しても無意味と悟り、自らや長宗我部家に所縁のある僧侶を使者として送り説得にあたり、領地と城の接収に尽力した。長20年(1615年)5月、大坂夏の陣・八尾の戦いで藤堂軍の一員として参加し、かつての主君・長宗我部盛親の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた。主君と槍を交わすのに忍びず、自ら敵中になだれ込み、自殺したとも言う。

引用元: 大坂の陣の豊臣方で好きな武将

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